INICIAR SESIÓN海斗は、まだ乾いていない凛の髪に手を伸ばし、そっと撫でた。「食べられるのは、ものすごく辛い鶏肉炒めだけじゃない」「ほかにもあるの?」海斗はポケットから絆創膏を取り出した。袋を破り、凛の胸元――服の上から、ちょうど心臓のあたりにそっと貼る。それも、かなり真剣に。凛は思わず笑ってしまったけれど、同時にまた目の奥が熱くなる。だから、背伸びをして海斗の唇に口づけをした。「ありがとう、海斗」「できれば、その『ありがとう』を『好き』に変えてくれると嬉しいんだけど」海斗としては、凛に何度も礼を言われたくなくて、軽い気持ちでそう言っただけだった。二人の関係は、「試してみない?」の一言から始まったから、凛はこれまで一度も、海斗に「好き」と言ったことがない。それでも、凛が海斗を想っていることも、会えなければ寂しがることもちゃんと伝わっていた。だから、海斗はそれで十分だと思っていた。言葉より、行動のほうがずっと確かだから。凛は海斗の目をじっと見つめ、やがて、ゆっくりと唇を開く。「私、本当に海斗のことが好き……んっ」最後まで言い終わる前に、海斗は凛の唇を塞いだ。たった今さっき考えたことを、訂正したくなった。言葉だって、行動と同じくらい大きい。凛がまだ言い終えてもいないのに、身体中の血が一気に熱くなり、続きを待つことさえできなかった。凛もゆっくり目を閉じ、唇を開いてそのキスに応える。先ほど作った料理のことなどすっかり忘れ、海斗は凛を抱き上げると、そのまま寝室へ運んだ。二人でベッドに倒れ込む。今夜は、もう誰にも邪魔されない。重なるキスは次第に深くなり、海斗の手が服の裾から入り込んで、凛の柔らかな腰をつかんだ。そのまま手が上へ滑っていくと、凛の身体にぞくりと甘い痺れが走る。「海斗……」途切れ途切れに自分の名前を呼ぶ凛の声に応えるように、海斗は首筋から鎖骨へと優しい口付けを落としていった。触れ方は時に優しく、時に強く……夜は深まっていく。けれど、最後の一線を越える直前で海斗は動きを止めた。熱を帯び、汗ばんだ凛を抱きしめたまま、苦しそうに呟く。「……ない」結婚する前に、万が一にも凛を妊娠させるわけにはいかない。順番を間違えたくなかった。凛は全身を真っ赤にして、海斗の腕の中に小さく丸まっていた。耳を胸に押し当て
利明は慌てて立ち上がり、頬を押さえる彰菜へ駆け寄った。彰菜の瞳からは、とめどなく涙が溢れ出している。「母さん、まずは冷やそう」彰菜は放心したまま利明に連れられて歩き出した。だが部屋を出たところで、少し離れた場所を使用人が通りかかるのが見えた途端、慌ててショールで顔を隠す。「駄目……ここでは駄目。病院に行きましょう。誰にも気づかれないように、病院へ……」それから、何かを思い出したように利明の腕をつかんだ。「利明、美雪もまだ病院にいるの。最近、発作が多すぎるでしょう?お母さん、怖いの。もし美雪に何かあったらどうしたらいいのかしら……」利明は眉を寄せた。「大丈夫だよ」彰菜は、そのわずかな違和感さえ敏感に感じ取った。「どうして美雪のことを心配しないの?利明、あなたは昔から誰よりも美雪を大事にしてたのに」「心配していないわけじゃない。ただ……」柚葉に騙されていたと知った直後に、今度は幼いころから可愛がってきた美雪まで自分に隠し事をしていたと知ったのだ。それでも怒りをそのまま美雪にぶつけずにいられたのは、むしろよく耐えたほうだと思う。愛した女に騙された。大切にしてきた妹にも騙された。しかも、どちらも「あなたのため」という顔をして。利明が何より嫌う言葉がある。それは――あなたのため。人には誰にでも、触れられたくないところがある。なのに、美雪はあのとき、それを知らずに真正面から踏み抜いてしまった。「凛が戻ってきたから、美雪のことを妹だと思えなくなったの?」「そうじゃない……」「じゃあ、あなたもお母さんが間違ってると思ってるわけ!」ほとんど取り乱している母親を見て、利明はふと、両親が美雪を連れてG県から戻ってきたころを思い出した。「母さん……一体どうしたんだよ?」足を止め、彰菜を見つめる。「さっき父さんに、何を言わせたくなかったんだ?父さんと母さん、僕に何か隠してるのか?」彰菜は、再び口を閉ざした。胸の内がどれほど追い詰められていても、これだけは分かっている。死んでも言えない。絶対に言ってはいけない。何一つ、話してはいけないのだ。そもそも、利明が当初凛の帰還を拒絶していたのは、美雪や母親が傷つくと思ったからだったのだが、まさかここまで大きな影響が出るとは考えていなかった。母親はいつ何が引き金になるか分からない
だからこそ茂は、息子に自分がどれほど愚かなことをしたのか分かっているのかと問いかけた。利明は俯いたまま、何も答えようとしない。茂は目を閉じた。先祖を祀る部屋に灯された蝋燭の炎が揺れ、その横顔を淡く照らしている。「柚葉さんのせいで、お前の妹である凛の4年間の結婚生活が台無しになったことは分かっているのか?お前はその柚葉さんを庇って、凛を傷つけた。その結果が、こんなことになると考えたことはあったか?利明。今こうして自分からここに座っているんだ。自分がどれだけ愚かだったか、もう分かっているんだろ?」茂の口調は淡々としていた。「凛は俺を父親とは認めていないし、彰菜のことも母親とは思っていない。まして、お前を兄と呼ぶこともないだろう」利明はますます深く俯いた。しばらくして、茂がぽつりと呟く。「俺にも罪がある」ゆっくりと膝をつき、利明と同じように先祖の前に座った茂。「俺はあのとき、間違った選択をするべきじゃなかった。周りの人間のことばかり考えて、たった一人の自分の娘がどうなるのかを考えなかった……凛には、本当に申し訳ないことをしたと思ってる」利明がようやく顔を上げた。父親の横顔に浮かぶ後悔を見つめながら、怪訝そうに尋ねる。「父さん、それ……どういう意味?看護師が取り違えたことが、父さんや母さんに何の関係があるんだよ」茂は目を伏せた。「違うんだ……」「茂!」ちょうどその瞬間駆けつけた彰菜の鋭い声が響く。まるで尾を踏まれた猫のように声を張り上げ、そのまま部屋へ飛び込んできた。茂の前まで来たところで彼女の足からは力が抜け、その場に崩れるように膝をつく。両手で茂の腕を強くつかむ。大きく見開かれた目には恐怖が浮かび、唇がかすかに震えていた。「子供の前で、どうしてその話をするの?」茂は苦しげな彰菜を見つめた。その目にも、同じような痛みが滲んでいる。「母さん、どうしてここに?」利明が手を伸ばすと、彰菜は逆に息子の腕をつかみ、立たせようとした。「もういいから。こんな寒いところでいつまでも座っていたら膝を悪くするわ。さあ、早く立って一緒に家へ帰ろう」だが利明は動かなかった。「母さん、僕はまだ帰らない。少し一人で頭を冷やしたいんだ」「何かあったの?」彰菜の顔がたちまち強張った。利明の腕をつかむ指に力が入り、少し伸びた爪が食い込
母娘の視線がぶつかった瞬間、先に耐えきれなくなったのは彰菜だった。すぐに目を逸らす。二人が言葉を交わしたのは、B市で初めて顔を合わせたときだけ。「はじめまして。凛です」「人違いだったみたい」それきり、一度もまともに話していない。今日の午前中も、凛は神谷家の人々に囲まれ、先祖への挨拶では一番前に立ち、食事でも最上位の席に座っていた。一方の彰菜は、昼食が終わると体調が悪いことを理由に帰り、午後はずっと姿を見せなかった。それが夜になり、息子が罰を受けていると聞いて、慌てて戻ってきたのだ。招待客はとうに帰っているし、時間を考えれば凛ももうここにはいないはずだった。しかし、彰菜の読みは外れた。まるで逃げても逃げても追いかけてくる悪夢のようだ。対する凛は、目を逸らさない。夜の闇を凝縮したような黒い瞳で、彰菜をじっと見つめていた。悪夢だと思っている相手から見つめ返されることのほうが、よほど恐ろしい。沈黙に耐えきれず、彰菜が先に口を開いた。「帰るの?」凛一人に話しかけることさえ怖いのか、視線は海斗へ向けられている。海斗は以前から、凛を捨てたのは彰菜ではないかと疑っていた。昼間は親族や招待客が大勢いたため、竹内家を背負う立場として最低限の礼儀を守っていたが、もう夜だ。あれほど賑わっていた屋敷も静まり返り、残っているのは神谷家の人間だけ。遠慮する理由は何もない。海斗は冷酷に問い詰めた。「ここに、凛の居場所なんてあるのか?生まれたその日に捨てられたときから、一度もなかったはずだろ?」彰菜が息を詰め、ゆっくりと目を見開いた。凛も静かに口を開く。「ずっと聞きたかったことがあるんです。彰菜さん、28年前、どうして私を雪の中に捨てたんですか?」空気が凍りついた。三人の間に不気味なほどの静寂が落ちる。彰菜の瞳が揺れた。「看護師が取り違えたんでしょ?看護師が間違えたのよ。私は知らないわ。気をつけて帰ってね。私は利明を見に行かないと……そう、あそこに……利明が……」ぶつぶつと繰り返しながら、彰菜は歩き出した。凛の横を通り過ぎると、彰菜の足取りはどんどん速くなっていく。まるで、背後から何かに追われているようだった。凛は無意識に振り返ったのだが、その瞬間、海斗の腕が首の後ろから伸びてきて、凛の顔をそっと前へ戻す。「もう
しかし、先頭を走る者ほど、まともに向かい風を受ける。誰にも分けられない重圧を背負いながら、自分で道を作らなければならない。だが、その言葉を聞いた凛の声は冷え切っていた。「埋め合わせ?」将希をまっすぐ見据える。「私に何かを与えて埋め合わせをしたつもりになるくらいなら、神谷家を仕切っている人たちに一度ちゃんと周りを見させたらどうですか?この世界にいるのは男だけじゃありません。女もいます。私一人じゃなく、神谷家で生きてきた女性たちに目を向けたほうがいい。神谷家の男だって、全員、女から生まれてきたんじゃないんですか?」将希の目が一気に冷えた。長年、人の上に立ってきた者の威圧感が、無言のまま凛へ向けられる。一瞬だけ、凛の身体が強張った。そのとき、海斗の言葉が頭に浮かんだ――主導権は凛にある。自分は真相を知るためにここへ来ただけで、それ以外のものなど、最初から求めていない。将希が「年長者に対する態度がなっていない」と言うのなら、その瞬間に帰ればいいだけだ。そう思えば、恐怖はすっと引いていった。凛は再び落ち着きを取り戻し、将希の冷たい視線を正面から受け止める。将希も分かっている。姓を変えていない凛は、神谷家で暮らすつもりもなく、今日はただ親族に顔を見せただけ。明日にでも「もう神谷家とは関わらない」と言われれば、このかろうじて結ばれた縁など簡単に切れてしまう。将希は結局、声を抑えた。「母親を庇っているのか?君を捨てたのは彰菜さんだぞ」「私を捨てたのは、神谷家です」将希は怒りで奥歯を噛み締める。「凛。何と言おうと、わしは君の祖父なんだぞ」凛は淡々と返した。「罪を知りながら見過ごしたなら、同じことです」知りたいことは分かった。もうここには用はない。「ゆっくりお休みになってください」凛はくるりと背を向けた。使用人が止めようと一歩出る。その背後から、将希の声が飛んだ。「行かせろ」外へ出ると、冬の冷たい風が襟元から入り込み、火照っていた頭が少しずつ冴えていく。生まれたばかりの自分を、母親が捨てた。しかも、その場面を人に見られていた。だから、父親は、周囲を取り繕うために別の女の子を娘として迎えた。そして、神谷家はこの事情を知ったあとも、茂の将来と一族の体面を守るため、真実を伏せた。そして、そのまま28年……結局
将希の胸がひやりとした。眉間に皺が寄る。凛はその変化を見逃さず、静かに問い返した。「本当に私を捜したのなら、どうして院長先生が私を保護してから半月もの間、何度も警察に届け出ていたのに、誰も名乗り出なかったんですか?私は、行方不明になった子供を捜す親のニュースをたくさん見てきました。普通の親なら、どんな小さな手掛かりでも追います。自分の子かもしれないと聞けば、そのたびに確かめに行く。違っていた、また違っていた……何度そうやって落胆しても、それでも捜すのをやめません。今ほど情報が広まらなかった時代でも、町中に貼られた尋ね人の紙や、子供の写真を掲げて捜し続ける親はいました。今なら、SNSで何度も拡散される捜索情報や動画もあります。私も、そういうものを何度も見ました。でも、その中に私を捜しているものは一つもなかった。G県、K市、28年前のあの時期、雪の日……そのうちいくつかでも一致していれば、もしかしたら私を捜している人がいるのかもしれないと思えたはずです。でも、何もありませんでした」将希は凛の黒い瞳を見つめていたが、やがてわずかに視線を逸らした。「茂は本当に君を捜した。昼も夜も関係なく、必死に捜したんだ」その言葉のどこまでが真実なのか、凛には分からなかったが、ここまで話を聞けば一つだけはっきり分かったことがあった。それは、将希は意図的に細部を伏せ、都合のいい輪郭だけを語っているということ。そして茂を庇う一方で、彰菜に責任を負わせようとしている。「では、どうして警察に届けなかったんですか?」凛は間髪を入れずに続ける。「28年前のK市なんて、今ほど大きくなかったはずですから、警察署や交番だって、数え切れないほどあったわけじゃないと思います。それに、どうして新聞に載せて捜さなかったんですか?どうして尋ね人の紙を貼らなかったんですか?」将希は答えられなかった。その沈黙を見て、凛はふっと笑った。冷たい嘲りが、わずかに混じる。「あの年、子供の遺棄に関する法律が厳しくなったばかりだったからですよね。しかも当時、秀明さんは公職での昇進を控え、身辺を厳しく見られる時期だった。そこで親族が生まれたばかりの子供を捨てたと公になれば、本人の将来にも神谷家にも傷がつく。だから警察には届けなかった。新聞にも載せなかった。尋ね人の紙も貼らなかった
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も







