分享

第4話

作者: 歓乃
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。

しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。

でも……

凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。

凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。

彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。

智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。

凛は智也に背を向けると、長い髪を片方に寄せた。すると、白く細いうなじがあらわになり、部屋にはしっとりとした甘い香りが漂った。

智也はごくりと喉を鳴らした。

その時、凛の腰が温かい手にぐっと掴まれた。

「お前はずっと子供が欲しいって言ってたよな」智也は凛の手からドライヤーを取り上げると、後ろから彼女を抱きしめた。

凛はたしかに愛する人との子供が欲しかった。でも、今この瞬間は、ただただ気持ち悪いとしか思えなかった。

「もういらないわ」彼女は静かに言った。

智也は眉間にしわを寄せた。そして、凛の顎をそっとつまむと、その柔らかな肌触りがたまらなく愛おしく感じた。

彼の体も、反応し始めていた。

凛は驚いて、わずかに目を見開いた。

「最近、仕事と家事の両立で疲れてるんじゃないか?俺たちの子供を作ろう。そうすれば、お前は安心して専業主婦になれる。どうだ?」

凛は、自分のために食事を作らなくなっただけじゃない。谷口家の用事も断るようになり、自分には理解できない考えを持つようになっていた。

このままではまずい。

自分には家事をこなしてくれる良き妻が必要だったし、谷口家にも、言うことをよく聞く嫁が必要だったのだ。

凛が子供を欲しがっているなら、一人くらい作ってやっても大したことじゃない。むしろ、これで彼女を完全に家に縛り付けておける。

たかがパートみたいな仕事の、何がそんなにいいのか。人に知られたら、自分の恥になるだけだ。

キスが凛の唇に落ちてくる寸前で、彼女はとっさに顔を背けてそれを避けた。

智也は一瞬で目を細めた。「どういうつもりだ?」

「もういらないって言ったでしょ」凛は鏡に映る男を、きっぱりと見つめ返した。

妻が自分の支配下から離れていく感覚が、ますます強くなる。普段はどんなに穏やかな智也も、今ではすっかり冷たい顔になり、凛の顎を掴む手に力がこもった。

「4年も子供が欲しいと言い続けたのはお前だろ。俺が作ってやると言ってるのに、今さらいらないだと?」智也の頭に恐ろしい考えが浮かび、目つきが鋭くなる。「お前は、外に男でもできたのか?」

その言葉は、凛の心を鋭く突き刺した。彼女は冷たい目で智也を凝視する。外に相手がいるのは、一体どっちかしら、と、その目は語っていた。

凛は智也の手を振りほどくと部屋に戻り、ピシャリとドアを閉めた。

智也が、凛にこんな風に扱われたことなど、今まで一度もなかった。

出会ってから結婚するまで、凛はいつも彼の言うことを聞き、何でも彼の好きにさせてくれたのに。

崖から突き落とされたかのような態度の変化に、智也はまったく我慢がならなかった。

智也は大股で凛を追いかけ、力ずくで彼女の手を掴んで寝室に引きずり込み、ベッドの上に突き飛ばした。

「智也!何をするの!」

「子供を作るんだ。俺が作ると言ったら作るんだ。凛、お前は俺に逆らったことなんてないだろう。いい子だから、言うことを聞け」

凛が驚きと疑いの目で見つめる中、智也は彼女に覆いかぶさった。そして、まるで雨のように、その白い首筋や鎖骨にキスを降らせた。

力強い大きな手が凛の腰を掴み、もう片方の手は服の中に忍び込んだ。

この瞬間の智也は、まるで飢えた獣のように恐ろしかった。

凛は慌てふためいて彼を押しのけようとした。「いらないって言ってるでしょ!やめて、智也、やめてってば!」

「子供を作るかどうかは、お前が決めることじゃない」智也はキスをやめると、彼女の両手を掴み、頭の上までぐいっと押し上げた。

凛は身動きが取れなくなり、目じりには涙がにじんだ。

4年間、自分に優しかった男が、今、自分を力ずくで押さえつけようとしている。

キスは再び、凛の唇や首筋に、隙間なく、そして激しく落とされた。

足を無理やりこじ開けられた瞬間、凛は我慢の限界に達し、膝で智也の股間を思い切り蹴り上げた。智也は痛みでのけぞり、彼女の手を離した。

凛はすぐさま身を起こすと、その勢いのまま、智也の頬に平手打ちを食らわせた。

パシン――

「この女!よくも俺を殴ったな!」

智也は逆上して手を振り上げ、その重い平手打ちが凛の頬に叩きつけられた。

凛の顔は一瞬で赤く腫れ上がり、大粒の涙がその頬を伝ってこぼれ落ちた。

智也の手は、わなわなと震えていた。

彼が凛の涙を見るのは、これが初めてだった。

凛はただ、声を殺して泣いていた。

部屋は、重い静寂に包まれた。

「凛ちゃん……」智也は指を丸め、怯えた子鹿のように震える、彼女の目を見ることができなかった。

凛は毛布にくるまると寝室を飛び出し、ソファの上にあったスマホを掴むと、そのまま家を出ていった。

玄関のドアを開けた瞬間、彼女の頭の中に「離婚」という二文字がはっきりと浮かんだ。

……

凛は赤く腫れた顔で、道端に立ち尽くした。まず、自分が育った施設に帰ろうと思ったが、年老いた施設長がこの姿を見たら、きっと心を痛めるだろう。杏は郊外で静養中だし、もっと行けるはずがない。結局、凛は近くにあったホテルに駆け込んだ。

ちょうどその時、ホテルの前に一台の控えめなマイバッハが停まった。スーツ姿の男が車から降りてくる。その表情は少し険しかった。

車の窓から女の子がひょっこり顔を出した。「お兄ちゃん、本当に家に泊まらないの?お父さんもお母さんも、口うるさく言ってるだけだってば」

男は何も言わず、一人でホテルの中へ入っていった。

女の子は首を振ってため息をついた。「はあ、竹内グループの社長でさえ、結婚を急かされちゃうのね、あはははは……」

そして、マイバッハは静かに走り去った。

男がロビーを通りがかると、フロントのスタッフが、誰かに恐る恐る尋ねる声が数回聞こえた。

「お客様、本当に、何かお手伝いできることはございませんか?

もし何かございましたら、いつでもフロントまでご連絡くださいませ」

「ありがとうございます」か細い声がそう返した。

ここは竹内グループ傘下のホテルだ。自分がここにいる以上、どんなトラブルも起きてほしくない。竹内海斗(たけうち かいと)は、声のした方に視線を上げた。

そこには、裸足のまま毛布にくるまった女性がいた。乱れた髪が顔の半分を覆っている。彼女が近づくにつれて、頬に残る赤い平手打ちの跡が見え隠れしていた。

海斗とその女性は、相次いで同じエレベーターに乗り込んだ。

女性はまるで抜け殻のようにぼうっとしていた。手に持ったカードキーをなかなかかざそうとせず、階数ボタンも押さない。その横顔からは、涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちているのが見えた。

しばらく間を置いてから、海斗は声をかけた。「何階ですか」

女性ははっと我に返った。そして、蒼白く力ない指でカードキーをピッとかざし、階数ボタンを押す。それから顔の涙を拭うと、滝のような髪を耳にかけた。ようやく、彼女の顔全体があらわになった。

目元と鼻の先が赤くなっており、どこか冷たく、そして儚げな印象だった。

自分の惨めな姿を見られたくないという意地からか、女性は海斗に、「ありがとうございます」と礼儀正しく言った。

声は、ひどくかすれていた。

海斗は彼女の顔の赤い跡をしばらく見つめたが、それ以上は何も聞かなかった。

チーン――

凛の降りる階に着いた。彼女は再び海斗に会釈して、エレベーターを降りていった。

海斗は凛の頼りない後ろ姿を、エレベーターのドアが閉まるまで見つめていた。そして、スマホを取り出して短いメッセージを送った。

凛が部屋のソファに座ると同時に、ドアのチャイムが鳴った。

ドアを開けると、そこにはホテルの支配人が立っていた。

「お客様、失礼いたします。腫れを和らげる軟膏と、より快適にお過ごしいただけるよう、柔らかなスリッパをお持ちいたしました」

支配人は微笑んでいたが、よく見るとその目には心配の色が浮かんでいた、支配人は思わず言葉を続けた。

「どうぞご安心くださいませ。決して他意はございません。お客様のご快適さを第一に考えてのことでございます。当ホテルにご宿泊のすべてのお客様に、心からおくつろぎいただくことが、私どものサービスのモットーですので。どうぞ、ごゆっくりお休みくださいませ」

今夜、4年間連れ添った夫に殴られたというのに、見知らぬ人からは、こんなにも温かい心遣いを受けた。

凛は軟膏とスリッパを受け取り、心から感謝を伝えた。

最初こそにこやかだった支配人も、彼女の左手薬指にはめられた指輪を見るなり、唖然とした。

いや、これって……え……

支配人は衝撃に打ちのめされた様子で、その場を去っていった。

凛はドアを閉め、足を拭いてスリッパに履き替えると、手を洗って顔に薬を塗った。その傍らで、スマホがブーブーと震え、「智くん」からのメッセージが次々と画面に表示される。

この登録名は、智也が自分で勝手に変えたものだった。

【どこにいる】

【帰ってこい、凛。わがままを言うな】

【子供が欲しいと言ったのはお前だろう。俺が同意したんだぞ。明日、竹内グループを辞めて、家で妊活の準備をしろ】

智也のあまりに高圧的な態度に、凛は、彼が変わってしまったのか、それともこれが彼の本性だったのか、一瞬分からなくなった。

凛はスマホの画面を消した。初めて智也のメッセージにすぐに返信せず、それどころか、結局一晩中返事をしなかった。

朝、智也から電話があったが、彼女はそれにも出なかった。

すると、トーク画面に、また新しいメッセージが一件表示された。

【凛ちゃんが作った朝飯がないと、胃が痛むんだ】

凛はスマホを握る手にぐっと力を込めた。こういう時だけ、都合よく妻である自分のことを思い出すのだ。

乾いた笑いが、唇の端に浮かんだ。

それでも、彼女は返信しなかった。

智也はソファで待ち続けた。だが、スマホは静かなままだった。

この手も、もう通じないのか?彼は驚きの表情を浮かべた。

その時、スマホが鳴った。

手に取って見ると、柚葉からの電話だった。

智也の目に一瞬だけ失望の色がよぎったが、電話に出るとすぐに優しい笑顔を浮かべた。「柚葉、どうした?」

電話の向こうで、一瞬の間があった。

「智也、もうマンションの前にいるんだけど、今どこ?」

智也ははっとした。毎日、柚葉を車で送り迎えする約束だったのを、すっかり忘れていた。

自分はこんなにも長い間、ソファで凛からの連絡を待っていたのか。

凛が、自分をこんなに放っておくなんて。

まあいい。ただのちょっとした気まぐれだ。

凛は自分を愛している。自分から離れられるはずがない。

車で迎えに行くと、柚葉が助手席に乗り込んできて、すぐに智也の赤く腫れた顔に気づいた。

昨夜の凛は本気だった。平手打ちの跡は、今もくっきりと残っていた。

「智也、どうしたの、その顔!」柚葉はシートベルトを外し、身を乗り出して智也の顔を両手で包み込んだ。心配のあまり、目には涙が浮かんでいる。「誰にやられたの!」

智也は彼女に泣かれるのが一番苦手だった。慌てて、「痛くないから、心配するな。朝ごはん、もう食べたか?何か食べに行こう」と言った。

柚葉は智也が何かを隠していると察し、おずおずと尋ねた。「智也、凛さんと喧嘩でもしたの?もしかして、私のせい……ごめんね、智也」

「お前のせいじゃない。あいつがどうかしてるだけだ」智也は身をかがめて柚葉のシートベルトを締め、朝食をとるために車を出した。

柚葉は彼の様子をうかがっていた。自分と一緒にいても上の空なことに気づくと、あることを思いついた。

「智也、茶碗蒸しが熱いから、ふーふーしてくれない?」

「ああ、いいよ」

智也は柚葉の前にあった茶碗蒸しを受け取り、スプーンでそっとかき混ぜた。だが、ふと何かを思い出すと手を止め、スマホを取り出してメッセージを送った。

「智也、誰にメッセージ送ってるの?」柚葉の目に、警戒の色が浮かんだ。

智也はスマホを伏せた。「年上の知り合いだよ」

メッセージの相手は、凛の恩師の妻である、杏だった。

夫が一番気にかけている愛弟子と連絡が取れないと知り、杏は自ら凛に電話をかけた。そして、ホテルの場所を聞き出すと、すぐにそこへ駆け付けたのだ。

白髪混じりの杏の姿を見て、凛は一瞬呆然とし、とっさに手で自分の顔を隠した。

「何を隠しているの。見えているわよ」杏は険しい顔で部屋に入ってきた。「智也にやられたの?」

「はい……」凛は頷き、俯いた瞬間にまた涙がこぼれ落ちた。

「何で泣くの。あなたを殴った男は、もっと酷いことだってするわよ」杏は、凛が谷口家の世話をさせられていることにずっと不満だった。詳しい経緯は聞かず、ただ一言、尋ねた。「あなたはどうするつもり?」

「離婚します」凛はきっぱりと顔を上げた。

杏の目に痛ましげな色が浮かんだが、すぐに冷静な声で言った。

「弁護士は、私が見つけてあげるわ」

在 APP 繼續免費閱讀本書
掃碼下載 APP

最新章節

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第428話

    案1、お金を送る。案2、自分を送る。案3、お金も自分も両方送る】途中、メッセージを取り消した形跡もある。海斗は【今日は凛さんの誕生日】という文字を見つめながら、隣にいた恵に言った。「今日は凛の誕生日なんだ。あと1時間46分しかない」恵は即座に海斗の要求を理解する。限られた時間の中で、凛にサプライズとプレゼントを用意しろ、という上司の要望だ。「社長の財力なら、凛さんにどんなサプライズでもできると思います。ですが……そんな急な動きをしてしまっては、かえって凛さんを怖がらせてしまうのではないでしょうか?」海斗は歩みを緩め、恵をチラリと見た。「続けろ」「具体的になにを渡すか……それは、社長ご自身で考えるからこそ意味があるのです」そこで、恵は少し考えてから続けた。「そうですね、谷口社長のやり方は、まさに反面教師として参考にできると思いますよ」瑶子と同じことを言っている。海斗が小さく頷いた。なにか考えがあるようだ。VIP専用通路を出ると、拓海が既に待機していた。ドアが開き、後部座席に海斗、助手席に恵が座る。海斗が言わずとも、拓海は行き先が南山ヒルズ9号棟だと知っていた。海斗は窓の外で舞う雪を眺めながら、今夜の会食の詳細について、拓海に問いかける。拓海はその場にいなかったため、具体的なことはわからなかったが、空港への道中、理央と電話をして事の経緯は確認済みだった。それに、海斗が必ず聞くだろうということも分かっていた。拓海は説明を始める。智也が凛に腕を組むように言ったら、彼女に普通にして、と返されていたこと。凛がソーレン氏に自己紹介をする際、誰かの妻ではなく凛個人として接して欲しいと言ったこと。凛が智也を「谷口社長」と呼んだことに対して智也が苦言を呈したら、「元旦那」と呼び替えたこと。智也が凛にダンスを強要したら、彼女に「汚い」と拒絶されたこと。智也が周囲を巻き込んで凛に近づこうとした際、彼女が23億6000万円の研究費を求めたこと。智也がまた康平の名を出して引き留めようとしたが、凛があっさりとその場を去ったこと……車の中で一部始終を聞いていた海斗は、何度も表情を変えていた。時に眉をひそめ、時にふっと力を抜く。けれど、安堵した表情のほうがずっと多かった。凛はもう黙って耐えるだけの人ではないよ

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第427話

    柚葉は心臓が口から出そうになった。英樹が言った。「何が私たちなんだ?わしら松田家はあの男を頼らないといけないと言うのか?」雇われ社長にすぎない男が、この松田家に口を出せるとでも思っているのか?柚葉はほっと安堵のため息をついた。よかった。お爺様はまだ、自分が妊娠していることに気づいていない。英樹は、内容証明書を手に取り、返済期限を指で叩く。「あと2日だ。2日以内にこの金を支払わなければ、裁判になるんだ!23億6000万円もの大金を、どうやって用意するっていうんだ!言ってみろ!」英樹に怒鳴られて柚葉の体が強張った。そして、次の瞬間には、柚葉の目から大粒の涙があふれ出す。「お爺様、今まで私に怒鳴ったことなんてなかったのに……」声は震え、涙をポロポロと流した。「泣いてどうにかなるのか?」今回は本気で怒らせてしまったようで、慰める言葉は一切かけてくれない。「凛さんは私だけじゃなくて、智也にも内容証明書を送ってるの。でも、二人はすでに離婚しているから、返済するにしても、智也と一緒に返すことになるから」「だから返さなくていいとでも言うつもりか?」英樹は冷たく言い返した。その柚葉を見る目には、失望と歯がゆさが滲んでいる。「返済期日が過ぎれば、凛側の弁護士がすぐさま裁判に持ち込むだろう。柚葉、お前はこの葛城という男がどんな人物か、分かっているのか?ここ数年、離婚裁判で名を上げた男だ。財産分与の請求なんて、まさに得意分野。お前たちは、とんでもない相手を敵に回したんだ!」まさか凛が謙介を雇うとは、英樹は想像もしていなかった。他の弁護士なら裏から手を回して握り潰すこともできるが、この謙介という男は金になる案件が好きで、なおかつ注目も浴びたがる。難しい裁判であるほど、相手が強敵であるほど……むしろ闘志を燃やすのだ。そして、勝訴の実績を、自分の勲章のように集めている。こういう人間は、厄介極まりない。凛は、一体どこからこんなやつらばかり見つけてくるんだ?海斗に、この謙介……考えるだけでも頭が痛くなる。「今すぐ智也と一緒に、凛のもとへ行って示談の交渉をしてこい」柚葉は口ごもった。交渉以前に、自分には20億など払えないのだ。たとえ、半分の10億だとしても、柚葉には到底払えなかった。何とか、自分だけ払わずに済む方法

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第426話

    「お爺様……」柚葉はごくりと唾を飲み込むと、すぐさま謝った。「ごめんなさい。でも私、以前は本当に知らなかったの。帰国してから智也が結婚しているって知って……それに、毎月の6000万円は智也が私への投資だと言って渡してくれたお金で、個人的な投資だから、私が返す必要なんてないでしょ?」「知らなかったと言うが……前にお前は、あの男が凛と結婚したのは、自分を国へ呼び戻すためだった、と言っていなかったか?」柚葉の表情が固まる。「それは、帰国してから知ったことなの。お爺様、これは凛さんがわざとやってることなの。凛さんは私が気に入らないし、お爺様のことも気に入らないから、こんなやり方で私たちを困らせようとしてるのよ」「柚葉!」英樹が怒鳴った。「お前はいったい、どれだけのことを隠し事にしてきたんだ!そこに書かれた金額をしっかり見ろ。一体何にいくら使ったんだ?」高級車に高級マンション、それにブランド品に宝石……他にも数えきれないほどあるじゃないか!あの男がお前に金を貢いでいたことは知っていたが……どうしてこんなにも……」「私が欲しいって言ったわけじゃないわ」「だったら、なぜ断らなかった」「あの時は彼が結婚しているなんて知らなかったし、智也はずっと、私の事が好きって言っていたし……」実際、凛のことなど智也の眼中にさえなかったのだ。「お前の事が好きだと言いながら、なぜお前とはずっと結婚してくれなかったんだ?」英樹の一言が、完全に柚葉を黙らせる。それ以上の言い訳が見つからない柚葉は、悔しさで胸がいっぱいになった。「それは彼の問題だから。私に言われたって、どうすることもできないよ」今にも泣きそうな柚葉を見ても、英樹はもう慰めようとはせずに、そのまま話を続ける。「あの男とこれ以上関わるな、利明くんと親しくしておけと前にも言ったはずだよな?なのに、なぜわしの忠告を無視する?お前は本当に、この先も研究者としてやっていく気があるのか?」英樹ほど、この世界の現実を知る者はいなかった。才能は、研究者として門を叩くための資格に過ぎず、それだけでは、生き残れないのだ。学術の世界で生き残っていくのに必要なのは、人を見る目、機会をつかむ力、そして時には、勝負に出るしたたかさ。だからこそ、英樹はこれほど完璧なまでのレールを柚葉に敷いた。その通りに進めばこの世

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第425話

    1時間前。松田家。夕食を終えた英樹は、ゆっくりとリビングを歩きながら、外の雪を見つめていた。窓際でしばらく立ち止まり、今年のA市の初雪は例年より少し早いな、などと考えていたその時、後ろを通り過ぎる使用人たちの話し声が耳に入ってきた。「柚葉様の郵便物、もう届いて1週間も経つのに、まだ取りに来ないのかな」「前は頻繁にきてたのに、最近はずっときてないもんね」英樹もまた、柚葉からの連絡が減っていることに気づいていた。孫たちの中でも、柚葉が一番自分のことを気にかけてくれていたというのに。「何が届いているんだ?」英樹は後ろを向き、尋ねた。使用人が答える。「何かの書類みたいです。中身までは分かりませんが」「書類?」英樹は書類という言葉に敏感だったため、それを持ってくるように指示を出した。手渡された茶封筒を、英樹はすぐに開封した。中身は、何の記載もない無地の白い封筒。英樹が眉をひそめて、その白い封筒も開けてみると、三つ折りにされた書類が入っていた。そして開いてみると、それはなんと弁護士から送られてきた内容証明書だったのだ。よく内容を確認してみれば、それは凛の弁護士から送られてきたもので、智也との婚姻中の共有財産を全額返還するよう求めるものだった。しかも、その金額は20億円以上……英樹の体がふらりと揺れた。倒れかけたところを、近くにいた使用人が慌てて支えたのだが、その拍子に、使用人の目にも書類の内容が飛び込んできた。その瞬間、使用人の顔色が一気に青ざめる。こ、これは……使用人は急いで英樹をソファへ座らせると、医師を呼ぶために急いで電話をかけようとした。今の英樹の体は、もう大きな衝撃に耐えられる状態ではない。前回、柚葉が既婚者との不倫を理由にプロジェクトを外されたと知ったとき、英樹はショックで倒れ、そのまま入院してしまった。この年齢で、こんなことが何度も続けば……命に関わりかねない。英樹はソファにもたれながら、震える手で書類を握りしめていた。そして、使用人が医師を呼ぶのを制止し、険しい表情で言い放った。「運転手を呼んで、今すぐ柚葉をここに連れてこさせろ!今すぐにだ!」怒り心頭の英樹を見て、息子夫婦も何事かと近づいてきて、どうしたのかと尋ねる。しかし、英樹は素早く書類を握り隠し、苛立ちを露わにしたまま書斎へ入

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第424話

    理央の家はここから近かったため、凛は先に彼女を送り届けてもらい、そのあと自分を南山ヒルズまで送ってもらうことにした。9時まで続く予定だった会食が8時半過ぎに終わり、拓海が凛を南山ヒルズまで送り終えてもまだ9時を回ったところだった。そこで拓海は、「社長が10時には到着するので、このまま空港まで迎えに行きますね」と凛に言った。しばらく拓海を見つめ、何か言いたげに口を少し動かした凛だったが、結局、口にしたのは短い一言だけだった。「お気をつけて」拓海は微笑み、車を発進させた。車を見送ってから、凛は空を見上げた。雪が激しく舞い、地上にはすでにうっすらと白く積もり始めている。そのままボディーガードに指示して、ジャーマンシェパードと共に、中に入るように促した。智也はまだ会食だろうし、他の谷口家の人間が厚かましく来ることもない。凛の手にするケーキを見た美穂子は驚いた。「凛さん、今日がお誕生日だったんですか!ちょっと待ってくださいね。何品か料理を追加しますから!」「美穂子さん、そんなに作っても食べきれなくて無駄になっちゃいますよ」「大丈夫です。海斗様がいらっしゃいますから」「それなら、彼のために最初から取り分けておいてください」毎回、残り物ばかり食べさせるわけにはいかないだろう。厨房へ急ぎ足で入っていった美穂子だったが、再び包丁を持ったまま外に出てきた。「凛さん、日和様を呼んでもいいですか?お誕生日は、やっぱり賑やかでないと!」凛は頷く。「じゃあ、私が連絡しておきますね」「凛さんはそんなことしなくて大丈夫ですよ。まずは休んでいてください。私がもうかけていますから」通話はすぐに繋がった。受話器の向こうから、日和の気力のない声が聞こえてきた。「美穂子さん、こんな夜に何の電話?教授が私に実験しろって。勉強のためだなんて聞こえはいいけど、単に自分が面倒くさいだけなんだから。もう疲れて死にそうなの」「どのくらいで終わりそうですか?」「もうすぐ。あと10分くらいかな」「終わったら南山ヒルズへ来てくださいね。今日は凛さんのお誕生日ですから」「えっ!」日和の大きな声がスピーカー越しに響いた。「行く行く!こんな実験、やりたい人がやればいいのよ。私が犠牲になる必要なんかないもんね!それに、論文はもう良いって言われてるし!」その会

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第423話

    「話したくない」そう言った凛は再び歩き出し、もう二度と智也を振り返ることはなかった。決して、そうしたくないわけではない。そうしたくても、できないのだ。もし康平が智也の携帯越しに自分の声を聞いてしまえば、自分と連絡を取るには、智也を頼るしかない、そう思わせてしまう。さらに、智也への信頼度も上がってしまうのだ。理央もすぐ後ろをついていき、余計なことを聞くこともなく、そっと尋ねる。「このまま南山ヒルズに帰る?」凛は微笑んで答えた。「先にケーキを取りに行かなくっちゃ。毒は入ってない、生クリームだけのやつね」理央の顔がぱっと明るくなる。ホテルの回転ドアから二人が出ると、拓海がすでに黒い傘をさして待ってくれており、入り口からすぐのところに、車が停まっていた。黒い大きな傘の上には、ひらひらと雪が舞い落ちている。車に乗り込んだ凛は、窓から外に手を伸ばして雪を受け止めた。雪の結晶が、彼女の掌でゆっくりと溶けていく。本当に雪だ。雪はどんどん降り積もっていった。しかし、車内は暖房が効いていて、少しも寒くない。凛が窓を閉めると、隣にいた理央が聞いてきた。「本当に今日が誕生日なの?」理央は智也の「今日は妻の誕生日なんです」という発言が、突然すぎると思っていたのだ。「戸籍上の誕生日は今日じゃないんだけど、毎年、初雪の日を自分の誕生日にしてるの」と凛が答え終わるや否や、仁から電話がかかってきた。しかし、電話から聞こえてきたのは杏の声。「凛、明日は空いてるかい?もう随分と一緒にご飯を食べてないじゃない。最近は結構忙しくしてるらしいね」「空いてますよ」確かに最近の凛は忙しかった。海斗にいろいろと助けてもらっている分、トライドメインで成果を出そうと必死だったし、そのうえ智也と柚葉の件も、決着をつけなければいけないと、さまざまな手続きに追われていた。なのに、ようやく裁判に持ち込めると思った矢先、智也が康平を見つけ出し、肝心なところでまた先手を打たれたのだった。凛の胸の奥が重く痛む。「杏さん、明日のお昼はどうですか?私、午後は急ぎの用があって……すみません」凛はそっと目を伏せた。明日はG県に戻らなければならないのだ。凛がケーキ店の名前をグループチャットに送ると、拓海がナビを設定し、車が滑るように走り出した。凛の声か

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第2話

    梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第1話

    「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第8話

    凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第7話

    「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」

更多章節
探索並免費閱讀 優質小說
GoodNovel APP 免費暢讀海量優秀小說,下載喜歡的書籍,隨時隨地閱讀。
在 APP 免費閱讀書籍
掃碼在 APP 閱讀
DMCA.com Protection Status