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第6話

Author: 歓乃
「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」

凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。

この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。

愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。

もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。

大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。

それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思ってもみなかった。

自分にとっては、侮辱以外の何物でもなかった。

あの日、病院で凛に会い、智也から彼の妻だと紹介されなければ、絶対に信じられなかっただろう。

智也が、自分以外の女と結婚するなんて、あり得ない。

何度も確かめた結果、智也が今も愛しているのは自分だとわかった。以前よりもっと深く、愛してくれている。

欲しいものがあれば、どんなに高価でも、智也は必ず手に入れてくれた。

少しでも体調を崩せば、智也はすぐに駆けつけてくれる。

今では温かい飲み物も作れるようになったし、夜食まで作ろうとしてくれている。

智也のお金も、愛情も、すべて自分のものだ。

凛という哀れな女は、何も持っていない。

妻という、その肩書き以外は。

それも、ほとんど誰にも知られていない肩書きだ。

今、その肩書も、自分が取り戻す。

柚葉は深く息を吸い込むと、微笑んで言った。「彼は、あなたと離婚するわ」

「それはどうも」

凛としては、一刻も早く智也に離婚協議書にサインしてほしいくらいだった。同じ家で二人のいちゃつく姿を見るなんて、息もできない。

まさかそんな反応が返ってくるとは思わず、柚葉はその場でぽかんとした。

すると、智也がキッチンから温かい飲み物の入ったお椀を手に現れた。凛の探るような視線とぶつかり、彼の心臓がどきりと跳ねた。

「凛ちゃん、起きたのか……」

智也のその呼び方を聞いて、柚葉の胸に嫉妬の念がこみ上げた。

「柚葉の具合が悪くて、でも病院には行きたくないって言うから、家に連れてきたんだ」

智也は言い訳に夢中で、手に持った温かい飲み物を置こうともしない。

彼の指が熱さで少し赤くなっているのが、凛には見えた。

料理をしたことがない男は、熱いコップをミトンで持つことも知らないらしい。

まあ、いいか。火傷すればいい、自業自得だ。

ところが、智也はその熱いコップを、なんと凛に渡そうとした。

「まだ夜食を作らないといけないから、これを柚葉のところに持って行ってくれ」言うが早いか、熱いコップが有無を言わさず彼女の手に渡された。

あまりの熱さに、凛は思わず手を離しそうになった。

ソファに座っていた柚葉は、唇の端を上げて言った。「ありがとう、凛さん」

凛は飲み物を差し出した。

柚葉が手を伸ばして受け取ろうとする。

その時だった。

「きゃっ!」

悲鳴と同時に、熱い飲み物がこぼれた。

中身はすべて柚葉の白い腕にかかり、見る見るうちに大きな水ぶくれができていく。

慌てて出てきた智也は、その痛々しい様子に息をのみ、凛に向き直って詰問した。「どういうことだ?」

そんなの、凛の方が聞きたいくらいだった。

「私は……」

「凛さんのせいじゃないの。私がちゃんと受け取れなかったのよ。智也、彼女を責めないで」

柚葉は本当に痛そうで、目に涙をいっぱい溜めている。

それを見た智也は、たまらず凛に怒鳴りつけた。「なんでこんな熱いものを直接渡したんだ?テーブルに置けばいいだろ!」

「あなただって、私に直接……」

「柚葉の身に何かあったらどれだけ大変か分かってるのか?柚葉女がやってるプロジェクトは、彼女なしでは進まないんだぞ!」智也は冷たく凛を睨みつけた。「先生に何ともないと言ってもらえるよう祈るんだな。彼女の仕事に支障が出ないようにな」

智也は屈んで柚葉を抱き上げると、病院へ向かおうとした。

凛は、床に散らばった破片とべたつく液体、そして赤くなった自分の指を見つめ、言いかけた言葉を飲み込んだ。

智也は、凛がわざと柚葉に熱い飲み物をかけたと信じきっていて、その後、病院から柚葉を連れて帰ってきた。

ゲストルームには胡桃ではなく、柚葉が居座ることになった。

そして、その世話を凛に押し付けたのだ。

智也を前に何を言っても無駄だと悟った凛は、もう抵抗するのをやめた。そして、もう時間だから、仕事に行くと言った。

最近は研究所で彼女が出る幕はあまりなかったが、怪しまれないように、いつも通り家を出ることにした。

智也はリビングに出てきて、凛に言った。「仕事を休め。お前の仕事なんて研究所にとってはどうでもいいものだ。いっそ辞めて、家で大人しく俺の妻をやってろ」

月数万円のお小遣いしかもらえない妻をやれって?

「ありえないわ」凛は言い放った。

智也は、「お前っ!」と声を荒げた。

二人の言い争う声が大きかったのだろう。ゲストルームで横になっていた柚葉がそれを聞きつけ、すぐに割って入った。「智也、私のせいで喧嘩しないで。本当に、私が受け取れなかっただけなの」

その言葉を聞いて、智也はそれ以上は何も言わなかった。だが、凛に休暇を取るようにと、なおも主張した。

「今すぐ辞めなくてもいい。でも、柚葉の怪我が治るまで、ここ数日は絶対に休め。お前が怪我をさせたんだから、責任を取るのは当然だ」

「何度も言ったでしょ。私には関係ないって。私が渡した時、彼女はしっかり持ってたわ。どうしてこぼれたかなんて、彼女に聞くべきでしょ?私じゃなくて」

凛は眉間にしわを寄せ、反論した。

しかし、返ってきたのは智也のさらなる詰問だった。

「じゃあ、柚葉がわざと熱湯を自分にかけたとでも言うのか?彼女には今、大事な研究の仕事があるんだぞ!仕事熱心で、真っすぐな人だ。そんなことするはずがない」

凛は呆れて言葉を失った。

大事な研究?マイクロチップ開発プロジェクトでは、柚葉は名前が載ってるだけで、中心的なデータには全くアクセスできないのに。

真っすぐな人だって?

女の涙は、男を酔わせる一番の武器ってことね。

凛は、長年自分の見る目がなかったことを悔やみながら、大股で玄関へ向かった。

智也がすぐさま追いかけてきて、彼女の腕を掴んだ。「休めと言っただろ。さもなければ辞めろ」

智也が、柚葉の世話をさせるために自分を休ませたいのか、それとも本心では仕事を辞めさせて専業主婦にしたいのか、凛にはもう分からなかった。

きっと、その両方なのだろう。

「私だって、無理だと言ったわ」

「この仕事を失うのが惜しいと言うなら、埋め合わせはしてやる」

「埋め合わせ?」じゃあ、自分の4年間はどう埋め合わせてくれるの?

「ああ。仕事を辞めて家にいてくれるなら、お前が望むものは何でもくれてやる」

今の凛は、まるで棘のあるバラのようだった。もはや智也の思い通りにはならない。

彼は、そのコントロールできない感覚を本能的に拒絶していた。

柚葉にしろ、凛にしろ、思い通りにならない。

「いいわ。じゃあ、このマンションが欲しい」

凛は、ふと智也に離婚協議書へサインさせる方法を思いついた。そして、彼女はすっと顔を上げた。

「このマンションを私に譲ってちょうだい。譲渡契約書にサインしてくれたら、竹内グループを辞めるわ」

智也は、この3LDKの小さなマンションには大して執着していなかった。柚葉の研究費の心配もなくなった今、近いうちにでもっと広い部屋を買うつもりだったからだ。

そのため、彼はためらうことなく承諾した。

「誰かに譲渡契約書を作らせる」

「できたら、一度私に見せて」

腕を掴む力が少し緩んだ。凛は自分の手を引き抜き、軽く揉んだ。

「分かった」智也は頷いた。

彼はその場で秘書の浩に電話をかけ、手配を指示した。

凛も仕事に行くとは言わず、智也と一緒に会社へ向かった。

智也は彼女に車で待っているよう言った。

ほどなくして、浩が譲渡契約書を持ってきた。凛は一ページずつ丁寧に目を通すと、顔を上げて言った。「智也がサインするところを直接見たいの。私は上に行かないから、彼を下に呼んできて」

浩は承知した。

「待って。ホチキスも持ってきてもらえる?バラバラになると困るから」

浩はまた頷いた。

浩が立ち去り、車内に一人になると、凛はバッグから離婚協議書の署名ページを取り出し、譲渡契約書のそれとこっそり差し替えた。

智也が駐車場にやって来た。手にはホチキスを持ち、スーツのポケットには金色の万年筆が挿してある。

その万年筆は、凛が智也に贈った初めてのプレゼントだった。

4年間、彼はそれをずっと使い続けていた。

凛は智也のポケットの万年筆をぼんやりと見つめていた。

「ホチキスだ」智也は車のドアを開けて乗り込んできた。

薄暗い地下駐車場で、凛は俯きながら、丁寧に書類をホチキスで留めた。そして、署名すべきページを開いて彼に差し出した。

契約書は浩が作成したもので、智也もすでに目を通していた。何の疑いもなく、彼はそこに名前と日付を書き込んだ。

サインは、してもらえた。

かつて、智也は凛が贈ったこのペンで婚姻届にサインをした。そして今日、同じペンで離婚協議書にサインをしたのだ。これも、一つの始まりと終わりと言えるのかもしれない。

この瞬間、離婚協議書は成立した。

1か月後、役所に提出すれば、彼らは夫婦ではなくなる。

手の中の離婚協議書を握りしめても、凛は泣かなかった。

もう二度と、智也のためにも、この結婚のためにも、涙を流すものか。

薄暗がりの中で、智也は安堵したような凛の表情に気づかなかった。ただ、仕事を辞めるよう念を押した。

「約束は果たした。田中に竹内グループまで送らせるから、すぐに辞めてこい」

「ええ」凛は頷いた。

どちらにせよ、彼女は本当に竹内グループで働いているわけではない。竹内グループの本社ビルまで行って、戻ってくればいいだけだ。

人事部長に顔認証を登録してもらった記憶はあるが、彼女の権限はそこまでだ。

智也の車は数千万円のベントレーだが、凛が乗ったことは数えるほどしかない。浩に送らせるなんて、これが初めてだった。

道端の楓が燃えるように赤く、風が吹くと、カサカサと音を立てて一面に散っていく。

凛は窓の外に目を向けたが、その視線はどこか虚ろだった。

彼女の膝の上には、離婚協議書が置かれていた。

運転していた助手は、何度かバックミラーで凛の様子を窺った。今日の凛は、どこか不自然なほど落ち着いている。特に、何度も薬指に手をやり、指輪を外そうとしているように見えた。

「奥様、着きました」

「ええ」凛は協議書をバッグにしまい、「あなたはもう戻っていいわ」と言った。

「かしこまりました、奥様。用事が済みましたら、社長にご一報ください」

「わかってるわ」

凛は浩に見送られながら、顔認証で竹内グループの本社ビルに入った。杏の計らいでここに籍を置かせてもらった時、対応してくれたのは人事部の部長・中村理恵(なかむら りえ)だった。「辞職」するなら、当然、理恵に話を通さなければならない。

受付で尋ねるまでもなく、片手にコーヒーを持った理恵の姿が目に入った。

理恵も凛に気づき、少し驚いた様子を見せた後、満面の笑みでまっすぐ歩み寄ってきた。「あら、凛さん、こんにちは!」

「中村さん」

「まあ、何かあったんですか?オフィスで話しましょう!」

なんといっても凛は、社長の叔母直々にご紹介のあった人物なのだ。ぞんざいには扱えない。

話している間に、凛は遠くから視線を感じた。そちらに目を向けると、すらりとした男性の後ろ姿が見えただけだった。

少し、見覚えがあるような気がした。

でも、どこで会ったのかは思い出せなかった。
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