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第5話

Author: 歓乃
「先生、どうしてか聞かないんですか?」

凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。

杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」

凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」

「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。

「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用人扱いするなんて!」

凛は胸が締め付けられ、思わず本当の理由を話してしまった。「本当の理由は違います、先生。彼が愛しているのは私ではありません。小林柚葉という女を振り向かせるために、私と結婚したんです。でも結婚式の日に、結局、彼女は帰ってこなかっただけです」

「誰?」杏はその名前に聞き覚えがあるようだった。二度ほど繰り返してから尋ねた。「英樹さんの、海外帰りの孫?」

「はい」凛は頷いた。

「どうしてそれを?」

「聞いたんです」凛はあの日の盗み聞きの一部始終を話した。話が終わらないうちに、杏に手を引かれて外へ連れ出された。

「人を馬鹿にするにもほどがあるわ!私が国内で一番の弁護士のところに連れて行ってあげる。離婚協議書を作らせて、さっさとサインさせる!」

離婚協議書はすぐに出来上がった。

印刷されたばかりの紙はまだ温かかった。けれど、凛の手にはひどく熱く感じられた。彼女は紙の上の文字を長いこと見つめ、やがてペンをとって自分の名前をサインした。

法律事務所を出た後、凛は杏と買い物に行って服を買い、一緒に夕食も食べた。すっかり夜になってから、冷たい風の中、家路についた。

家の窓には明かりが灯っていた。

どうやら智也は家にいるようだ。

いや、智也だけじゃない。

谷口家の人たちも来ている。

胡桃の怪我は軽く、入院するほどでもなかった。彼女は病院の消毒液の匂いが嫌で、出前の料理も口に合わないと言って、兄の家に泊まり込むことに決めた。凛に身の回りの世話をさせて、療養するつもりだった。

家に着くなり智也の顔にある平手打ちの跡が目に入り、谷口家の人々は怒りを爆発させた。

「凛がやったのね?そうでしょ?」梨花は息子が黙っているのを見て、いつものように凛をかばっているのだと察した。

「あなたが言わなければ、分からないとでも思ってるの?あなたを叩くような人、凛以外にいるわけないじゃない。会社だって役員を除けばあなたが一番偉いのよ。あなたの周りにいる女性で言えば、柚葉ちゃんはあんなに優しくてできた人だから、彼女のはずがないわ」

「お兄ちゃん!なんであの女なんかに叩かれなきゃいけないの!」胡桃も兄をかばった。「あなたが養ってあげてるんでしょ。何が不満なの?よくも叩けたわね。帰ってきたら、ただじゃおかないから!」

憎しみのこもった口調だった。

胡桃はいつも悪知恵が働き、気に入らない相手、特にこの出来の悪い義理の姉に対しては、その知恵を容赦なく発揮するのだった。

健吾が厳しい声で尋ねた。「本当に凛がお前を叩いたのか?」

智也は言った。「俺も手を上げた」

梨花も言った。「当然の報いだわ!自分の夫を叩くような女、聞いたことがない」

胡桃はさらに憤慨した。「そうよ、お兄ちゃんはちょっとお灸を据えてあげただけでしょ。お兄ちゃんに出会わなかったら、彼女が私たちみたいな暮らしができるわけないのに」

「智也、凛とは離婚しろ」健吾はしばらく考えた後、そう決断した。

しかし智也は眉をひそめた。「父さん!」

ドアの外で聞いていた凛は目を伏せ、手にした離婚協議書を握りしめた。ちょうどいいじゃない。離婚しよう、と思った。

しかし耳に届いたのは、智也の拒絶の言葉だった。「ダメだ」

「どうしてダメなの?」梨花は頭が痛くなった。「あなたは凛に何か変な薬でも飲まされたんじゃないの?どうしてそんなに頑固なのよ。あなたの周りには柚葉ちゃんたいな素晴らしい女性がたくさんいるのに、どうしてあの女一人にこだわるの!」

胡桃も続いた。「お兄ちゃん、凛さんと離婚して、柚葉さんと結婚したくないの?昔はあんなに仲が良かったじゃない。はっきり口にはしてなかったけど、みんな知ってたよ」

凛の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

智也は、大事な柚葉を結婚という面倒な日常に巻き込むはずがない。

「凛と離婚すると、会社での評判に響くと心配してるのか?しかし、お前は凛を会社の忘年会にすら、一度も連れて行ったことがなかったじゃないか」

健吾はもっともらしく分析する。「お前が結婚していることを知っている人間自体少ないし、相手が誰かなんて知る者はもっと少ない。評判は心配ないだろう」

柚葉の智也への態度を見て以来、谷口家の人々はもう凛を嫁として認めるつもりはなかった。ただひたすら二人の離婚を望んでいた。

だが、智也は同意しなかった。「離婚はしない。この話は、凛に聞かせるな」

彼は立ち上がって書斎に入り、家族の声をシャットアウトした。

谷口家の人々は、智也が凛をよほど愛しているのだと思った。

彼がなぜ離婚に同意しないのか、その理由を知っているのは凛だけだった。

離婚したら、こんなに都合のいい無料の使用人がどこにいるだろう?

プロの料理人には及ばないが、長年かけて智也の舌をすっかり虜にしてしまったのだ。

凛は離婚協議書をしまい込んだ。

智也が同意しようとしまいと、彼女は離婚するつもりだった。

こっそりでも、離婚してやる。

家の中の空気が少し和らぐのを待ってから、凛は暗証番号を押してドアを開けた。

玄関の物音に、谷口家の人々が一斉に視線を向けた。凛を見ても、彼らの表情は険しいままだった。

胡桃は言った。「凛さん、どうしてこんなに遅いの?みんなお腹すいてるんだから。特にお兄ちゃんは、ちゃんと時間通りに食事しないと、すぐに胃を悪くするのよ」

言い終わると、凛の足元のピンクのウサギのスリッパに目をやり、げんなりした顔を見せた。

「もうすぐ30歳になるっていうのに、まだ若い子みたいにピンクなんて履いてるの?うわ……子供っぽくて見てらんない」

凛は足を動かした。この子供っぽいスリッパは、とても可愛いと思った。

これは、他の人が彼女に示してくれた優しさだった。

養護施設で育ち、勉強ばかりしてきて人付き合いが苦手な凛にとって、人から優しくされることは滅多になかった。

だからこれはとても大切なもので、捨てるつもりはなかった。

梨花は彼女を見ようともせず、夕飯を作るよう、キッチンへ促しながら付け加えた。「薄味にしてちょうだいね。塩は控えめに」

健吾は高血圧だった。

「わかりました」凛はまっすぐキッチンへ向かうと、スマホを取り出して出前を注文した。わざわざ、【薄味、塩分控えめ】とメモも添えた。

彼らの住む場所は都心に近く、すぐそばに商店街や飲食店街があるため、出前はすぐに届いた。

インターホンが鳴り、梨花がドアを開けた。出前の配達員を見て、彼女はあっけにとられた。

凛は、何事もなかったかのように書斎のドアの前まで行き、ノックをするといつものように呼びかけた。「ご飯だよ」

ただ、そこには以前のような明るい響きはなかった。

いつもなら、料理が出来上がると嬉しそうにドアをノックして、「ご飯だよー!」と声をかけるのだ。

すると書斎のドアは、すぐに内側から開けられる。

そして智也が、「お疲れ、ありがとう」と言ってくれる。

しかし今回、智也が書斎のドアを開けても、その言葉はなかった。二人は視線を交わし、どちらもまず相手の顔に残る平手打ちの跡に気づいた。

お互い、何も言わなかった。

どちらも折れる気はないようだった。

「智也、早く来て凛が頼んだ出前を食べて!」梨花は食器を並べながら、嫌味っぽく言った。

それ聞いた智也は、不満そうに言った。「なんで出前なんだ?冷蔵庫に何もなかったのか?お前が作った味噌汁が飲みたかったんだが」

「味噌汁ならあるわ」凛はくるりと背を向けた。

智也は彼女に手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。そして不機嫌そうに後を追った。

ダイニングテーブルに並べられた出前を見て、智也はすっかり食欲をなくした。朝食を抜いたのに、夕食にもありつけない。さすがに我慢ならなかった。

「凛、いつまでわがままを言うつもりだ?」

「ご飯を作らないだけよ」凛は淡々と答えた。「それがわがままと何の関係があるの?私は料理をするために生まれてきたわけじゃない」

智也は言葉に詰まった。

凛は箸を取ると自分だけ食べ始め、提案した。「出前が嫌なら、うちに使用人でも雇おうか」

胡桃が反論した。「使用人なんて雇う必要ないでしょ?だって、うちにはあなたが……」

「ええ、確かに一人いるわね」凛は彼女の言葉を遮り、ずっと非難の目で見ていた健吾と梨花に視線を移すと、口の端を少し上げた。「そんなに智也のことが心配なら、ご実家の使用人をこちらによこしてくれたらどうでしょうか」

「凛!」智也は我慢の限界だったが、振り返った彼女の少し腫れた顔を見て、怒りを抑え、少し柔らかい口調で言った。「父さんと母さんに対して礼儀正しくして」

智也は心から両親を尊敬し、妹を可愛がっている。ただ妻の自分に対してだけ、優しさも愛情も、すべてが偽りだった。

凛はもう何も言わなかった。

食事が終わると健吾と梨花は帰っていった。このまま残っても出前しか食べられないと思ったのか、胡桃も仕方なく一緒に帰ることにした。

夜。

凛は、どうやって夜の営みを避けようかと考えながら、智也に離婚協議書へサインさせる、その方法を必死で探っていた。

足音が近づいてくると、

彼女は少し緊張した。

突然、智也のスマホが鳴った。

なんて良いタイミングの電話だろう。

「電話よ」凛は智也のスマホを手に取って振り向くと、バスローブ姿の彼と向き合った。「小林さんから」

柚葉の名前を見ると、智也は部屋を出て電話に出た。一分もしないうちに戻ってきて、急用で出かけると言う。

「分かったわ」凛は唇を結んだ。

智也はしばらく彼女の顔を見つめて言った。「誤解するな。俺たちはただの友達だ。お前が俺の妻なんだ」

「分かってるわ、行ってきて」凛は適当に返事をした。

夜中、キッチンからガチャガチャと音が聞こえてきた。

凛があくびをしながらリビングへ出ると、ソファに誰かがもたれていた。

近づいて見ると、女性だった。

物音に気づいて女性が顔を上げた。唇は青白く、片手でお腹を押さえている。どうやら生理痛がひどいらしい。

「凛さん?もしかして、智也が起こしちゃった?」

凛は、その女性を呆然と見つめた。

まさか智也が、堂々と人を連れ込んでいたなんて。

「ごめん、お邪魔するつもりはなかったの。住んでるところが実家から遠くて、頼れる友達も少なくて。つい智也に連絡しちゃった。まさか智也が直接うちに連れてきてくれるなんて思わなくて。しかも、私のために温かい飲み物とか夜食とか、自分から作ってくれるなんて」

凛には、それが自慢話に聞こえた。

それ以上に彼女を驚かせたのは、智也がキッチンに立っていることだった。

キッチンでは鍋から甘いココアの香りが漂っている。

男はエプロンをつけ、片手にフライ返し、もう片方の手に卵を持ち、どうしていいか分からず戸惑っているようだった。

「この目玉焼き、どうしていつも焦げちゃうんだ?」と呟いている。

智也が人を愛するとこうなるのか。いつもみたいに落ち着き払っているわけじゃなく、まるで青二才のようだった。

自分の嫌いなことだって、するんだ。

智也は料理が嫌いで、キッチンに近づくことさえ嫌がっていた。油の匂いが耐えられない、と。

だからリフォームの時も、凛が希望したオープンキッチンの提案を却下したのだ。

だからいつも、彼女が一人でキッチンにこもって料理を作り、テーブルに並べていた。

「まだ分からない?凛さん」

柚葉が凛のそばに来た。まるで勝ち誇った犬のようだ。もし尻尾があれば、得意げに振り回していただろう。

「智也が愛してるのは、私だけ。あなたは、私がいない間に彼が退屈しのぎに手を出しただけの……

つまみ食いみたいなものよ」

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