LOGIN「社長室で待ってるから」柚葉は浩を追い越し、慣れた様子で社長室へと入っていった。浩は顔をしかめ、受付に内線をかける。「誰が通していいと言った?次から連絡もなしに、勝手に入れるな。凛さんを除いて、社長と面会する者には必ず事前予約と電話連絡を徹底させろ」電話を切った浩は、すぐに会議室へと向かった。智也はスノウ・セミコンダクターと打ち合わせ中で、プロジェクト開始日について相談していた。スノウ側は、この国の日取りを重んじる文化を尊重し、智也に好きな吉日を選ばせることにした。智也はそんな日取りなど待つ気はなく、何かが起きる前に、一日も早くプロジェクトを始めたかった。だから、智也は笑顔で言った。「既に日取りは決めてあります。なので、そちらの準備さえ整っているなら、明日、すぐにでも立ち上げの調印式を行いましょう」スノウ側の人間がソーレンに明日はさすがに急ぎすぎではないかと尋ねたが、ソーレンは昨日、凛と繋がった喜びで興奮しており、そのまま快諾した。智也はほっと胸をなでおろす。「では、ソーレンさん。また明日お会いしましょう」「ええ、また明日」ビデオ会議のモニターが切れた。浩が智也に近づいていき、報告する。「社長、小林さんがいらっしゃっています」智也の眉間にシワが寄り、機嫌が一気に悪くなる。「また何をしに来たんだ?」浩は首を振った。「社長室にいらっしゃいますので」智也は浩に鋭い視線を向けた。事前の確認もなく中に入れたことへの叱責だった。受付にはもう注意をした。しかし、上司からの叱責は黙って受け入れるしかない。智也がオフィスに入ると、柚葉が社長椅子に座り、写真立てを眺めていた。その写真立てに入っていたのは、写真ではなく、かつての智也と凛の婚姻届受理証明書と凛がつけていた結婚指輪だった。智也は近寄り、それを奪い取ると、浩に保管するように言った。「智也、凛さんとはもう離婚したのに、こんなのになんの意味があるっていうの?そんなことより、私とこのお腹の子を見てよ。子どもが生まれて、一番最初にパパって呼ぶ声が聞きたいと思わないの?」子どもというカードは確かに効き目があり、智也が柚葉の腹部を見る目は、少しだけ柔らかくなった。「そんなことは言われなくても分かってる。だからこそ、このことは絶対に口外するな。もしこのことでスノ
凛のことを、ずっと見誤っていたのは自分たちだった。「凛さん本人と話したいんです」日和は鼻で笑って言った。「凛さんは竹内グループの大事な取引先であり、竹内家のお客様でもあるんです。あなたなんかが簡単に会えるわけないじゃないですか。今、こんなことしている暇があるなら、さっさと帰って、お金を集める方法でも考えたらどうですか?」柚葉は反論した。「返せないなんて言ってないじゃないですか。ただ、凛さんに会わせてほしいんです。こんな大ごとにする必要はないと思いませんか?彼女だって国際的な研究者なんだから、家庭の問題を裁判まで持ち込むなんてこと、彼女自身も困るはずなんです」「それは、素晴らしい」と日和は拍手を送る。「随分とご親切なんですね。その優しさは、谷口社長にもたっぷりとむけてきたんでしょうね。でも残念です。凛さんは谷口社長じゃないから、あなたのそんな『気遣い』は、これっぽっちも通用しませんから」そして、日和の顔から一瞬にして温度が消えた。「帰ってくれます?」まったく歯が立たなかった柚葉は、渋々その場を離れた。松田家の運転手が言った。「ご本人はいらっしゃらないみたいですね。もしいらっしゃったら、出てくるはずですから」柚葉もそう考え、次は竹内グループへと向かった。しかし、柚葉が竹内グループの本社ビルに近づいた瞬間、警備員たちが走ってきて、目の前を阻んだ。一人の警備員が冷たく言う。「弊社への立ち入りは固くお断りしておりますので」敬語を使いつつも、柚葉本人を排除しにかかっているのは、明らかだった。いかにも海斗が指示しそうなことだ。柚葉にはずっと解せなかった。若くして竹内グループを継ぎ、絶大な権力を握る海斗が、どうして離婚歴のある女にここまで執着するのか。正気の沙汰ではない。何か特殊な性癖でもあるのだろうか?それほどまでに、海斗は徹底的に凛を護っていた。裁判の日が迫る中、これ以上長引かせるわけにもいかず、さらには松田家の運転手の目もあるため、柚葉は渋々「凛さんに会わせてください」と告げるしかなかった。「博士はあなたに会う時間などありません」柚葉は奥歯を噛み締めて堪える。「それなら、佐野先生を」「佐野先生も同じです」手詰まりになった柚葉は、車に座って待つことにした。竹内グループの社員たちの昼休みに合わせ、誰か
まだ早い時間だったので、運転手は柚葉を連れ、まずは南山ヒルズへと向かった。以前、胡桃に連れられて登録済みだったため、11号棟の谷口家へ行くと言えば、すんなり入れた。しかし、彼女が南山ヒルズの敷地内に入った瞬間、海斗の元に通知が飛んだ。海斗はすぐさま美穂子に電話し、柚葉の動きを監視するよう命じる。折よく早起きしていた日和は、朝食中に外で物音がするのに気づき、外に出てみると、そこに柚葉の姿を見つけた。ダイトとコマキが両側から柚葉のロングブーツに噛みついている。そして真っ青になった柚葉が、「助けて!犬をどうにかして!早く!」と悲鳴を上げていたのだった。柚葉を送ってきた運転手が棒を持って飛び出そうとしたが、凛のボディーガードに凄まれ、そのまま追い払われてしまった。「どこの鶏ですか?もうとっくに夜は明けたっていうのに、今頃鳴き出すなんて」と言いながら、雪を踏みしめて近づく日和。「ほんと、使えない鶏ですね」皮肉だと気づいた柚葉だったが、今の状況では言い返す余裕もない。犬の牙は既にブーツを貫通し、足首まであと数センチに迫っていた。ここで噛まれたら、本当に大怪我をする。「この犬をどうにかしてください!お願いします。今日は凛さんに、大切な話があって来たんです」「大丈夫ですよ」日和は至って無関心だった。「だってそのままでも話せますよね?まだ出血もしてないことですし」柚葉は血の気の引いた顔で叫んだ。「客人に対してそんな態度を取るんですか?!」「客人?あなたが客人?」幼い頃から、日和は「善意には善意で、悪意には悪意で返せ」と教育されてきた。だから好きな相手にはとことん甘えられるし、嫌いな相手には一歩も引かない。「無断で敷地に入ってきた鶏を、番犬が捕まえただけですから。勝手に自分が客人だなんて、思わないでください」まさか鶏を使って相手を形容するとは思わなかった美穂子は、感心したように頷いた。強硬な態度の日和に対し、柚葉は最終手段に出た。「これ以上私を刺激して、犬に襲わせて……万が一お腹の子に何かあったら、責任は取ってくれるんですよね?」凛は裁判を起こすつもりだし、既に智也との離婚も成立している。今さら妊娠を隠す意味なんてない。ただ、祖父の運転手に聞かれるのはまずいので、少し声を落とす。日和は驚いた。「なんて人なんですか?
運転手はすぐに背筋を伸ばし、謝罪の言葉を口にする。「申し訳ありません。以後気をつけます」「ああ」海斗はそのまま続けた。「これ以上、凛を騙すようなことはするな。あいつは散々、嘘に振り回されてきたんだ」「森田にも伝えておけ」「かしこまりました」凛に傘を届けさせたのが、拓海と自分の共謀だと竹内社長には見抜かれていたらしい。運転手は背筋が凍る思いだった。……凛はベッドに横になり、部屋の灯りを消した。窓の外は、一面の雪。積もった雪が夜の光をやわらかく照り返し、白い明かりが静かに部屋へ差し込んでいる。それでも、眠気は少しも訪れなかった。康平はどこにいるのだろう、どうすれば見つけられるのか……そのことを考えていたはずなのに、気づけば脳裏に浮かぶのは海斗の姿ばかり。凛は身につけていた真鍮のペンダントを、細い指でそっと撫でた。これをもらった時、彼女は海斗には言わなかったけれど、この鍵の形をしたペンダントがとても気に入っていたのだ。たとえこの鍵が、物理的なドアを何一つ開けられないものだとしても、凛にとっての「家」の概念は、すべて鍵から始まっていた。小学校の頃、同級生が家の鍵の話をするのを聞いていた凛。ランドセルに入れている子もいれば、首からぶら下げている子もいた。あるいは邪魔だと言って、植木の底や窓枠の上、椅子に乗らないと届かないような場所に隠しているという子の話を聞いたりもした。自分の家の鍵は自分の家の玄関しか開けられない。スペアの鍵を無くしたら、玄関のドアごと取り替えなければいけない。新しい玄関になれば、また新たな鍵を持って出かける。彼らのそんな話を聞きながら、凛は自分の知らない「家」というものを、少しずつ思い描いていった。高校時代から大学時代、寮の鍵はいつも首から提げていて、卒業後も大切に保管していた。でも最近は科学技術が進歩し、玄関のほとんどがスマートロックになり、暗証番号や指紋で開けるのが当たり前だ。智也と入籍した時、凛はほんの少しだけ残念に思ったものだ。ようやく自分の家を持てたというのに、もうそこには鍵という実体がなく、ただ数字が並ぶだけだったから。雪明かりに包まれた部屋で、凛はゆっくりと眠りに落ちていく。みんなが家の鍵の話で盛り上がっていた、小学生のあの日の夢を見た。幼い自分は教科書の隅に、鍵のつ
「一度痛い目を見れば、誰だって慎重になるもんだからな」海斗は静かに顔を横へ向けた。瞳にはひやりとした光が宿り、わずかに伏せた眉の下から智也を見据える。その眼差しは、まるで高みから見下ろすような余裕に満ちていた。口元には、相手を値踏みするような薄い笑みが浮かんでいる。「谷口社長、俺に凛を届けてくれて感謝してるよ」その一言で、智也は息を詰まらせた。拳に食い込むほど爪を立てたが、それでも何とか顔を上げ、海斗をじっと見据える。「竹内社長、あなたの言うことが本当だとしたら、こんな外には出てこないはずじゃないですか?」海斗はふっと笑った。「俺は谷口社長と違って、結婚もしていない相手と関係を持つ趣味はないからな」智也は即座に反論する。「俺だって、凛とは結婚前にそんなことはしてませんから!」海斗は穏やかに問い返した。「俺がいつ谷口社長と凛のことだって言った?」海斗が言っているのは、智也と柚葉のこと。「凛と離婚したにもかかわらず、小林と入籍しようとしない。このまま子供が生まれれば、今度は子どもまで見捨てた男になるぞ」智也の瞳がわずかに震えた。彼らは柚葉の妊娠を知っている。海斗は言った。「小林が妊娠していることを知らなければ、こっちが弁護士を通して内容証明など出すはずがないだろ?お前と柚葉、どっちも逃がさないからな」智也の胸を不安が駆け抜ける。それでも最後の意地だけは捨てなかった。「竹内社長が何を言っているのか、ちょっと分かりません」海斗は軽蔑を隠そうともしない。これ以上ここで言葉を交わしても勝てないと悟った智也は、その場を去ろうとした。ちょうどその時、ドアが開いた。黒い傘を手に持った凛が駆け寄ってきて、海斗の前で言う。「傘」その直後、凛は壁際にまだ智也が立っていることに気づいた。凛の顔が一瞬で険しくなる。海斗が傘を受け取り、広げた。凛と海斗の二人は大きな黒い傘にすっぽりと包み込まれる。ただ一人、智也だけが雪にさらされていた。肩に落ちた雪が溶け、街灯の下では彼の服が濡れているのがはっきりと分かった。「凛」智也は優しく凛の名前を呼んだ。しかし、凛は無反応だった。ここにスノウ社の人間はいない。夫婦を演じる理由など、凛にはないのだ。凛は海斗を見つめて言った。「森田さんが車を持ってっちゃった
海斗はほんの数言で、必要なことをすべて整理してしまった。引き止めることもなく、余計なことも言わない。先回りして考え、問題を片づけることに長けた人なのだと、凛は改めて思う。その直後、海斗がまた尋ねた。「いつ出発するんだ?」凛ははっと我に返った。「午後か夜。午前中は杏さんのところで食事をするから」海斗は「ああ」とだけ言い、それ以上は聞いてこなかった。二人とも口数は少なく、傍から見ればどこか淡々としている。それなのに、日和には、二人の空気がぴたりと噛み合っているように見えた。ほかの誰かが入り込む隙がないほど自然で、ときには二人が言葉もなく何を伝え合っているのか、見ている側にはさっぱり分からない。考えても分からないものは、考えないに限る。最近は後輩たちを連れて実験ばかりしていて、ただでさえ頭が爆発しそうなのだ。今は食べよう。何があっても、まずは食事だ。会食を終えて戻ってきた智也が目にしたのは、4人がダイニングテーブルを囲む、あまりにも穏やかな光景だった。外では雪が静かに降り続いている。その雪景色を背にしたダイニングでは、凛が海斗の隣に座り、小さな茶碗を両手で持って、ゆっくりと食事をしていた。凛に自然に料理を取り分ける者がいれば、さりげなくティッシュを差し出す者もいる。なにも、海斗だけではなかった。彼の妹である日和、それに海斗が凛のために手配した使用人。日和が何か話しかけては、凛を笑わせている。このような光景を、智也は見た事がなかった。もしあそこに座っているのが自分だったら、海斗みたいに無表情ではいられない。もし胡桃が凛の対面に座っていたとしたら、胡桃は……凛をあんなふうに笑わせることはできないだろう。もし両親もそこにいたら……いや、そもそも両親は、最初からこの食卓には現れない。この3年間、凛の誕生日には自分しかいなかった。花束とケーキを用意して、一緒に祝った。しかし、4回目の誕生日を一緒に迎えることはできなかった。ガラス窓越しに目にした光景に、智也は目の奥が熱くなるのを感じた。車を降り、雪を被りながら、彼は邸宅の外で長い時間立ち続けた。今夜は雪が降っているため、ボディーガードとジャーマン・シェパードも屋内にいた。だからこそ、ほんの少しだけ近づくことができた。ただ、窓越しに見つめ続
「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」
「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思って
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?







