Share

第5話

Author: 歓乃
「先生、どうしてか聞かないんですか?」

凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。

杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」

凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」

「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。

「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用人扱いするなんて!」

凛は胸が締め付けられ、思わず本当の理由を話してしまった。「本当の理由は違います、先生。彼が愛しているのは私ではありません。小林柚葉という女を振り向かせるために、私と結婚したんです。でも結婚式の日に、結局、彼女は帰ってこなかっただけです」

「誰?」杏はその名前に聞き覚えがあるようだった。二度ほど繰り返してから尋ねた。「英樹さんの、海外帰りの孫?」

「はい」凛は頷いた。

「どうしてそれを?」

「聞いたんです」凛はあの日の盗み聞きの一部始終を話した。話が終わらないうちに、杏に手を引かれて外へ連れ出された。

「人を馬鹿にするにもほどがあるわ!私が国内で一番の弁護士のところに連れて行ってあげる。離婚協議書を作らせて、さっさとサインさせる!」

離婚協議書はすぐに出来上がった。

印刷されたばかりの紙はまだ温かかった。けれど、凛の手にはひどく熱く感じられた。彼女は紙の上の文字を長いこと見つめ、やがてペンをとって自分の名前をサインした。

法律事務所を出た後、凛は杏と買い物に行って服を買い、一緒に夕食も食べた。すっかり夜になってから、冷たい風の中、家路についた。

家の窓には明かりが灯っていた。

どうやら智也は家にいるようだ。

いや、智也だけじゃない。

谷口家の人たちも来ている。

胡桃の怪我は軽く、入院するほどでもなかった。彼女は病院の消毒液の匂いが嫌で、出前の料理も口に合わないと言って、兄の家に泊まり込むことに決めた。凛に身の回りの世話をさせて、療養するつもりだった。

家に着くなり智也の顔にある平手打ちの跡が目に入り、谷口家の人々は怒りを爆発させた。

「凛がやったのね?そうでしょ?」梨花は息子が黙っているのを見て、いつものように凛をかばっているのだと察した。

「あなたが言わなければ、分からないとでも思ってるの?あなたを叩くような人、凛以外にいるわけないじゃない。会社だって役員を除けばあなたが一番偉いのよ。あなたの周りにいる女性で言えば、柚葉ちゃんはあんなに優しくてできた人だから、彼女のはずがないわ」

「お兄ちゃん!なんであの女なんかに叩かれなきゃいけないの!」胡桃も兄をかばった。「あなたが養ってあげてるんでしょ。何が不満なの?よくも叩けたわね。帰ってきたら、ただじゃおかないから!」

憎しみのこもった口調だった。

胡桃はいつも悪知恵が働き、気に入らない相手、特にこの出来の悪い義理の姉に対しては、その知恵を容赦なく発揮するのだった。

健吾が厳しい声で尋ねた。「本当に凛がお前を叩いたのか?」

智也は言った。「俺も手を上げた」

梨花も言った。「当然の報いだわ!自分の夫を叩くような女、聞いたことがない」

胡桃はさらに憤慨した。「そうよ、お兄ちゃんはちょっとお灸を据えてあげただけでしょ。お兄ちゃんに出会わなかったら、彼女が私たちみたいな暮らしができるわけないのに」

「智也、凛とは離婚しろ」健吾はしばらく考えた後、そう決断した。

しかし智也は眉をひそめた。「父さん!」

ドアの外で聞いていた凛は目を伏せ、手にした離婚協議書を握りしめた。ちょうどいいじゃない。離婚しよう、と思った。

しかし耳に届いたのは、智也の拒絶の言葉だった。「ダメだ」

「どうしてダメなの?」梨花は頭が痛くなった。「あなたは凛に何か変な薬でも飲まされたんじゃないの?どうしてそんなに頑固なのよ。あなたの周りには柚葉ちゃんたいな素晴らしい女性がたくさんいるのに、どうしてあの女一人にこだわるの!」

胡桃も続いた。「お兄ちゃん、凛さんと離婚して、柚葉さんと結婚したくないの?昔はあんなに仲が良かったじゃない。はっきり口にはしてなかったけど、みんな知ってたよ」

凛の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

智也は、大事な柚葉を結婚という面倒な日常に巻き込むはずがない。

「凛と離婚すると、会社での評判に響くと心配してるのか?しかし、お前は凛を会社の忘年会にすら、一度も連れて行ったことがなかったじゃないか」

健吾はもっともらしく分析する。「お前が結婚していることを知っている人間自体少ないし、相手が誰かなんて知る者はもっと少ない。評判は心配ないだろう」

柚葉の智也への態度を見て以来、谷口家の人々はもう凛を嫁として認めるつもりはなかった。ただひたすら二人の離婚を望んでいた。

だが、智也は同意しなかった。「離婚はしない。この話は、凛に聞かせるな」

彼は立ち上がって書斎に入り、家族の声をシャットアウトした。

谷口家の人々は、智也が凛をよほど愛しているのだと思った。

彼がなぜ離婚に同意しないのか、その理由を知っているのは凛だけだった。

離婚したら、こんなに都合のいい無料の使用人がどこにいるだろう?

プロの料理人には及ばないが、長年かけて智也の舌をすっかり虜にしてしまったのだ。

凛は離婚協議書をしまい込んだ。

智也が同意しようとしまいと、彼女は離婚するつもりだった。

こっそりでも、離婚してやる。

家の中の空気が少し和らぐのを待ってから、凛は暗証番号を押してドアを開けた。

玄関の物音に、谷口家の人々が一斉に視線を向けた。凛を見ても、彼らの表情は険しいままだった。

胡桃は言った。「凛さん、どうしてこんなに遅いの?みんなお腹すいてるんだから。特にお兄ちゃんは、ちゃんと時間通りに食事しないと、すぐに胃を悪くするのよ」

言い終わると、凛の足元のピンクのウサギのスリッパに目をやり、げんなりした顔を見せた。

「もうすぐ30歳になるっていうのに、まだ若い子みたいにピンクなんて履いてるの?うわ……子供っぽくて見てらんない」

凛は足を動かした。この子供っぽいスリッパは、とても可愛いと思った。

これは、他の人が彼女に示してくれた優しさだった。

養護施設で育ち、勉強ばかりしてきて人付き合いが苦手な凛にとって、人から優しくされることは滅多になかった。

だからこれはとても大切なもので、捨てるつもりはなかった。

梨花は彼女を見ようともせず、夕飯を作るよう、キッチンへ促しながら付け加えた。「薄味にしてちょうだいね。塩は控えめに」

健吾は高血圧だった。

「わかりました」凛はまっすぐキッチンへ向かうと、スマホを取り出して出前を注文した。わざわざ、【薄味、塩分控えめ】とメモも添えた。

彼らの住む場所は都心に近く、すぐそばに商店街や飲食店街があるため、出前はすぐに届いた。

インターホンが鳴り、梨花がドアを開けた。出前の配達員を見て、彼女はあっけにとられた。

凛は、何事もなかったかのように書斎のドアの前まで行き、ノックをするといつものように呼びかけた。「ご飯だよ」

ただ、そこには以前のような明るい響きはなかった。

いつもなら、料理が出来上がると嬉しそうにドアをノックして、「ご飯だよー!」と声をかけるのだ。

すると書斎のドアは、すぐに内側から開けられる。

そして智也が、「お疲れ、ありがとう」と言ってくれる。

しかし今回、智也が書斎のドアを開けても、その言葉はなかった。二人は視線を交わし、どちらもまず相手の顔に残る平手打ちの跡に気づいた。

お互い、何も言わなかった。

どちらも折れる気はないようだった。

「智也、早く来て凛が頼んだ出前を食べて!」梨花は食器を並べながら、嫌味っぽく言った。

それ聞いた智也は、不満そうに言った。「なんで出前なんだ?冷蔵庫に何もなかったのか?お前が作った味噌汁が飲みたかったんだが」

「味噌汁ならあるわ」凛はくるりと背を向けた。

智也は彼女に手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。そして不機嫌そうに後を追った。

ダイニングテーブルに並べられた出前を見て、智也はすっかり食欲をなくした。朝食を抜いたのに、夕食にもありつけない。さすがに我慢ならなかった。

「凛、いつまでわがままを言うつもりだ?」

「ご飯を作らないだけよ」凛は淡々と答えた。「それがわがままと何の関係があるの?私は料理をするために生まれてきたわけじゃない」

智也は言葉に詰まった。

凛は箸を取ると自分だけ食べ始め、提案した。「出前が嫌なら、うちに使用人でも雇おうか」

胡桃が反論した。「使用人なんて雇う必要ないでしょ?だって、うちにはあなたが……」

「ええ、確かに一人いるわね」凛は彼女の言葉を遮り、ずっと非難の目で見ていた健吾と梨花に視線を移すと、口の端を少し上げた。「そんなに智也のことが心配なら、ご実家の使用人をこちらによこしてくれたらどうでしょうか」

「凛!」智也は我慢の限界だったが、振り返った彼女の少し腫れた顔を見て、怒りを抑え、少し柔らかい口調で言った。「父さんと母さんに対して礼儀正しくして」

智也は心から両親を尊敬し、妹を可愛がっている。ただ妻の自分に対してだけ、優しさも愛情も、すべてが偽りだった。

凛はもう何も言わなかった。

食事が終わると健吾と梨花は帰っていった。このまま残っても出前しか食べられないと思ったのか、胡桃も仕方なく一緒に帰ることにした。

夜。

凛は、どうやって夜の営みを避けようかと考えながら、智也に離婚協議書へサインさせる、その方法を必死で探っていた。

足音が近づいてくると、

彼女は少し緊張した。

突然、智也のスマホが鳴った。

なんて良いタイミングの電話だろう。

「電話よ」凛は智也のスマホを手に取って振り向くと、バスローブ姿の彼と向き合った。「小林さんから」

柚葉の名前を見ると、智也は部屋を出て電話に出た。一分もしないうちに戻ってきて、急用で出かけると言う。

「分かったわ」凛は唇を結んだ。

智也はしばらく彼女の顔を見つめて言った。「誤解するな。俺たちはただの友達だ。お前が俺の妻なんだ」

「分かってるわ、行ってきて」凛は適当に返事をした。

夜中、キッチンからガチャガチャと音が聞こえてきた。

凛があくびをしながらリビングへ出ると、ソファに誰かがもたれていた。

近づいて見ると、女性だった。

物音に気づいて女性が顔を上げた。唇は青白く、片手でお腹を押さえている。どうやら生理痛がひどいらしい。

「凛さん?もしかして、智也が起こしちゃった?」

凛は、その女性を呆然と見つめた。

まさか智也が、堂々と人を連れ込んでいたなんて。

「ごめん、お邪魔するつもりはなかったの。住んでるところが実家から遠くて、頼れる友達も少なくて。つい智也に連絡しちゃった。まさか智也が直接うちに連れてきてくれるなんて思わなくて。しかも、私のために温かい飲み物とか夜食とか、自分から作ってくれるなんて」

凛には、それが自慢話に聞こえた。

それ以上に彼女を驚かせたのは、智也がキッチンに立っていることだった。

キッチンでは鍋から甘いココアの香りが漂っている。

男はエプロンをつけ、片手にフライ返し、もう片方の手に卵を持ち、どうしていいか分からず戸惑っているようだった。

「この目玉焼き、どうしていつも焦げちゃうんだ?」と呟いている。

智也が人を愛するとこうなるのか。いつもみたいに落ち着き払っているわけじゃなく、まるで青二才のようだった。

自分の嫌いなことだって、するんだ。

智也は料理が嫌いで、キッチンに近づくことさえ嫌がっていた。油の匂いが耐えられない、と。

だからリフォームの時も、凛が希望したオープンキッチンの提案を却下したのだ。

だからいつも、彼女が一人でキッチンにこもって料理を作り、テーブルに並べていた。

「まだ分からない?凛さん」

柚葉が凛のそばに来た。まるで勝ち誇った犬のようだ。もし尻尾があれば、得意げに振り回していただろう。

「智也が愛してるのは、私だけ。あなたは、私がいない間に彼が退屈しのぎに手を出しただけの……

つまみ食いみたいなものよ」

Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App

Pinakabagong kabanata

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第442話

    28年前のこと。K市に、その冬初めての大雪が降った。身を切るような風が吹き荒れ、吐く息は白く凍りつく。当時はまだ身体的な障害のある子どもを受け入れているのではなく、身寄りのない子どもを保護している施設だった。建物は隙間風だらけの古い平屋。灯油を買う余裕などもなく、暖を取るには山で拾った薪をくべるしかなかった。柑奈は当時の院長の娘だった。母と山へ薪を拾いに行き、その帰り道、道端の草むらで激しく泣き叫ぶ子どもを見つけた。23歳だった柑奈は小走りで駆け寄るなり、吐き捨てるように言った。「まったく、どこの人でなしがまた子どもを捨てたのよ!」「待って」と、母が柑奈を止めた。「ひょっとしたら、何かの間違いで置いていかれちゃったのかも。見てごらん、その子を包んでいるおくるみ、淡いブルーでしょ?ピンクじゃないし、その飛行機の柄は今流行っているメーカーのもので、結構な値段がするはずだから」柑奈は驚いて声を上げた。「え?だとしても、こんなところに置き去りにするなんて。それに、雪も降っているし、あの子の口にまで入っちゃってる。とりあえず抱き上げて防がないと」母の同意を得て子どもを抱き上げた柑奈だったが、どう見ても男の子の顔には見えず、そっと手を伸ばして確認した。「お母さん!この子、男の子じゃない。女の子!」駆け寄ってきた母が覗き込むと、確かにそれは女の子だった。「お母さん、やっぱり捨てられたんだよ。みんな女の子なんていらないんだ。そんなことばかりしてたら、そのうちお嫁さんがいなくなっちゃうのに」「そんなこと言ってないで、もっとしっかり抱いてあげて。明日、警察へ行って事情を聞いてみよう」「分かった」その子どもを抱きしめながら、柑奈はボヤいた。「ねえ、もしかして、男の子が生まれると思い込んで、おくるみまで用意してたのに、生まれたのは女の子だったから……なんてこと、あるのかな?」「いい加減な推測はやめなさい」と母はたしなめた。「そうとも言い切れないよ。だって、お母さんだって、私が女の子だったから、おじいちゃんたちに家を追い出されたんでしょ?」母の顔色が険しくなるのを見て、柑奈は慌てて口を噤み、すぐに謝る。すると母親は怒ることなく、優しく娘の頭を撫でた。「将来このことを思い出したら、自分の名前の由来を思い出してごらんなさい」「柑

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第441話

    【日給1万6000円】その返信に、凛はふっと笑みをこぼした。これでこそ海斗だ。【分かった】凛は続けて現在地を送り、こう付け加える。【あとで、分かりやすい地図を描いて送るね】【手描き?】最初は携帯のアプリで描こうと思っていた凛だったが、その一言を見て少しだけ考え、【手描き】と答えた。1分も経たないうちに、海斗から航空券の情報が送られてきた。凛は顔を上げ、柑奈に言った。「院長先生、友達を呼びましたので」柑奈が安心したように尋ねる。「信頼できる人?」凛は頷いた。「はい」自分が薬を盛られて意識を失いかけたときでさえ、冷静に自分を縛って安全を確保し、そのまま千石鍼灸院まで連れて行ったくらいだ。あそこまで誠実で節度のある人は、そうはいない。「部屋は片付けてあるから、荷物を運んじゃおう」柑奈はハーブティーのカップを置いて立ち上がり、凛を部屋まで案内した。部屋は他と同じく二段ベッドがある質素な造りで、隅にはまだ片づけ途中の段ボールが積まれていたが、それ以外はきれいに掃除されている。凛が何気なく箱の上に置かれたフォトフレームを手に取ってみると、それは去年、子どもたちと一緒に撮った集合写真だった。さらに箱の中を見ていくと、幼い頃の写真や、支援団体の訪問時に撮影した古い記念写真などが出てきた。どの写真にも、自分が写っている。「私の写真、どうして全部ここにしまってあるんですか?」凛は何気なく尋ねた。柑奈が写真を見つめながら答える。「美雪さんが施設を紹介する映像を撮りたいって言ってね。そのとき、ここを巣立った子たちのこともいろいろ聞かれたの。で、その中でもやっぱり有名なのはあなたでしょ?でも前にあなたは、自分のことはあまり外で話さないでほしいって言ってたから、ここに写真を隠しておいたの。聞かれても困るし、写真に撮られてもいけないと思って」その話を聞いて、凛は一瞬だけ引っかかった。美雪は自分のことを探っているのか?いや、自分の考えすぎだろう。施設を紹介する映像なら、建物だけでなく人の話を聞くのも不自然ではない。それでも気になって、凛は尋ねた。「美雪さんは、ここに来てからずっと何をしているんですか?」柑奈は答えた。「ほとんどは施設の子たちとお喋りしているよ。宣伝用の映像というより、ドキュメンタリーを作っているみた

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第440話

    凛はそれをすぐに携帯で撮ると、手書きメモをそっと引き出しに戻した。「康平に何かあったの?」柑奈はハーブティーをふたつ用意してから、じっと凛を見つめた。凛は席に座ると、淹れたてのハーブティーにふーっと息を吹きかけ、一口飲んでから静かに答える。「康平が智也に隠されちゃったんです。どこにいるのかは、私にも分からなくて」「隠されたって、どういうこと?」柑奈が思わず声を強める。「あなたと智也さんの間に何があったの?」「そのことなんですが……私たち、離婚したんです」凛はあえて詳しい理由は伏せた。「でも、智也が離婚したことに納得していないみたいで、康平と彼の親戚を無理やり引っ越しさせてしまいました」「離婚したの?」柑奈はしばらく言葉も出ないくらい驚いていた。「納得できないからって、そんなことを?子どもを隠すなんて、とんでもない。それ、犯罪じゃないの?」「法に触れていたのならまだ良かったのですが……智也は康平の叔父さん一家を別の場所へ引っ越しさせて、康平をどこかの学校へ入学させた、つまり居場所が分からないようにしただけなんです。しかも、それで私を思いどおりに動かそうとしてて」「離婚をやめさせるために?」「いいえ」凛は首を横に振った。「もう離婚は成立したんです。でも、彼は私の名前を使ってあるプロジェクトの契約をとったみたいで、対外的には夫婦のままでいてほしいと。私は、それを受け入れるつもりはありませんが」本当は、どうして離婚したのか聞きたかった柑奈だが、結局は何も尋ねなかった。なぜなら、凛は幼い頃から、人に痛みを見せない子だったから。山で転んで膝を擦りむいた時も、泣きもせず、ただ靴下を汚してしまったことを後悔していた。そんな子がこれほどの決断を下したのだから、尋常ならざる事情があるはずだ。深入りするのはやめよう。理由を尋ねることは、傷口をもう一度えぐるようなもの。「智也さんは物腰柔らかな人だと思っていたけれど、まさかこんな人だったなんてね」柑奈は痛ましそうな視線を凛へと向けた。「どうして何も相談してくれなかったの?それに、もう離婚から1ヶ月も経ってるし、この間に私たち連絡もとっていたのに」「心配させたくなかったんです」「じゃあ、今はよくなったの?」「さっき、院長先生が私に顔色が良くなったって言ってくれましたよね?

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第439話

    凛は、まさかこんなところで美雪に出会うとは思わなかった。凛の視線に気づいた美雪は、顔を上げて微笑むと、再び手際よく子どもたちに食事を配り始めた。それは、凛の抱くお嬢様のイメージとは少し違っていた。政治家を多く輩出する神谷家では、幼い頃から「民衆の中に身を置くこと」や「国民が国を支える基盤である」という考えが深く叩き込まれており、彼らは皆、誰に対しても分け隔てなく接するのが当たり前だったのだ。そのため美雪にとって、施設で給食配膳を手伝うことなど、日常の延長でしかなかったし、むしろそれを動画サイトで公開すれば自身のイメージアップにも繋がると考えていた。凛は目を逸らし、柑奈に尋ねた。「手続きはお済みですか?」「ええ、私も書類はすべて確認したし、身元もしっかり調べてあるわ」と柑奈は答えた。数年前、寄付金をだまし取る配信者が話題になったことがあり、凛がそのことを心配しているのだと、柑奈も察した。「それに、ここ数日は子どもたちともすっかり馴染んでるわよ」柑奈は凛の様子を見て言った。「知り合いなの?」「2回会ったことがあります」一度はカフェで。もう一度は竹内家。その後、会うことがなかった美雪だが、なぜG県に来ているのか?それも自分が育った施設にピンポイントで現れたのか?美雪は常に丁寧な態度を崩さず、いつも笑みを浮かべているけれど、どうしても奇妙な感覚が拭えない。時に、背後から視線を送られているような寒気を感じることもある。柑奈は続けた。「今夜寝る前に、ちょうど子どもたちに冬服を配る予定だったから、あなたが配ってちょうだい。元々、あなたが贈ってくれたものだし」「いえ、一緒に配りましょう。子どもたちの寝る時間が遅くなっちゃいますから」凛がそう言い終えるや否や、美雪がマスクと帽子を外しながら、歩いてきた。「凛博士、またお会いしましたね」その呼び方を聞いた瞬間、凛は美雪が自分のことを調べていることを悟った。「美雪さん、お久しぶりです。博士なんて、堅苦しい呼び方じゃなくて大丈夫ですよ」二人は軽く挨拶を交わし、朝食を共にすることにした。美雪が口を開く。「ここが凛さんの育った場所だったとは驚きです。こんな偶然があるんですね」凛も頷く。「ええ、本当に。美雪さんは動画の撮影か何かで?」「ええ、でもまだそんなに撮ってはな

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第438話

    凛は、子どもの頃たまに柑奈と同じ布団で寝たことを思い出した。少しでも寒さをしのぐために、互いに逆の向きで寝て、足の指先を柑奈の脇の下に入れて温めてもらっていた。「私は寒くありませんから。先に中に入りましょう」凛は片手で柑奈の手をひき、もう片方の手でキャリーケースを転がした。今は施設の環境も良くなり、全員が二段ベッドで寝ている。柑奈も例外ではなく、個室を与えられていた。「今夜は、私の二段ベッドの上に寝てちょうだい。明日には掃除して空き部屋を一室空けておくから」「ありがとうございます」「お腹は空いてない?ご飯は食べた?まだなら何か温かいものでも作ってあげる」「大丈夫です。機内で食べてきたので、今日はもう休むことにします」「そう、わかったわ。確かに、今日はもう疲れたわよね」二段ベッドの上段に横たわり、携帯を確認する。着いたことを一人一人に連絡し、杏と仁には位置情報も送った。少し考えた末、日和にも位置情報を送ることにした。情報を手に入れた日和は、さっそく海斗の前で自慢げに話す。自慢げに言うと言っても、凛の承諾なしにその住所を海斗に教えることはしない。日和の中で、海斗の順位はもうすでに凛よりも下だったのだ。凛に、海斗からのメッセージが届く。【着いたか?】【着いた】【早めに休め。何か必要な情報があれば、グループで森田に聞けばいい。もし、法律関係で助けが必要なら、すぐ葛城に連絡しろ。君だってお金を払っているんだ。それがあいつらの仕事だからな】【森田さんには払ってない】海斗はこう打った……俺が金を出しているしかし、すぐに削除した。【提携先の要求に応えるのもあいつの業務だ】一見まともな言い分だが、よく考えるとどこか強引だ。しかし、凛はそれ以上何かを言うこともなく、【おやすみ】とだけ打った。翌朝。朝早くに目を覚ました凛だったが、すでに柑奈の姿はなかった。おそらく、子どもたちを連れて朝食を食べに行ったのだろう。身支度を済ませて、凛も食堂に向かった。子どもたちは年齢順にきちんと列を作って、朝食を受け取るのを待っている。そして、今日は平日なので、学齢期の子たちはすでに学校へ行っていた。すると、少し年齢の大きい子が凛を見つけて大声で呼んだ。「凛姉ちゃん!」その声で皆が一斉

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第437話

    「あなたが裏でそんなふうに言ってるって、あなたのお兄ちゃんは知ってるの?」日和が悪戯っぽく笑う。「知ってますよ」「そろそろ行かないと。飛行機に乗り遅れちゃう」「いってらっしゃい、凛さん」日和は玄関のそばに立って、凛へと手を振る。まるで留守番させられた子供のように、しょんぼりしていた。美穂子はそんな日和を見て微笑んだ。「日和様、今の日和様を瑶子様や隆様がご覧になったら、胸を痛めてしまわれますよ」「あの二人がそんなこと思うわけないよ。うちのお父さんなんて、お母さんと二人で過ごすことしか考えてないんだから」しかし、日和には正直、理解できないところがあった。「美穂子さんは竹内家にずっといるでしょ?うちの両親、結婚してこんなに経つのに、どうしてまだこんなに仲良しなの?」「隆様と瑶子様は、恋愛結婚ではありませんからね」「じゃあ何?」「政略結婚でした。でも、お二人は結婚してから本当の意味で惹かれ合ったんです。それに、色々あって……お子さんを授かったのに、離れ離れになってしまったこともあったんですから」「ええーっ?!」日和はあんぐりと口を開けた。日和が物心ついた頃から、両親はとても仲が良かったのに。美穂子が頷く。「その時授かった子どもというのが、海斗様なんです」「なんかドラマみたい!」日和はまだ聞きたそうだったが、美穂子は慌てて手を振った。「私には何も聞かないでくださいね」雇い主のことを、そう簡単に言うことはできない。それでも食い下がる日和。「じゃあ、お兄ちゃんのことだけでも教えて!お兄ちゃんは、何歳の時にお父さんのところに戻ってきたの?」美穂子は少し考えてから答えた。「隆様は行動力のあるお方でしたから、海斗様は1歳になる前には戻ってきたと思いますよ。だから、海斗様本人には当時の記憶は残ってないと思いますよ」笑い転げる日和は、即座に海斗の連絡先を「訳あり赤ちゃん」という名前に変更した。……空港。特にチケットも見ずに、通常のチェックインカウンターへ向かう凛だったが、スタッフにファーストクラスの優先カウンターへと案内された。ファーストクラス?スタッフに案内され、VIP専用のセキュリティチェック、ラウンジを通って誰よりも先に機内へと乗り込んだ。広々とした座席に、選び放題の機内食。凛はメニュー表を見

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第1話

    「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第8話

    凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第7話

    「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第6話

    「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思って

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status