Share

第5話

Author: 歓乃
「先生、どうしてか聞かないんですか?」

凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。

杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」

凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」

「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。

「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用人扱いするなんて!」

凛は胸が締め付けられ、思わず本当の理由を話してしまった。「本当の理由は違います、先生。彼が愛しているのは私ではありません。小林柚葉という女を振り向かせるために、私と結婚したんです。でも結婚式の日に、結局、彼女は帰ってこなかっただけです」

「誰?」杏はその名前に聞き覚えがあるようだった。二度ほど繰り返してから尋ねた。「英樹さんの、海外帰りの孫?」

「はい」凛は頷いた。

「どうしてそれを?」

「聞いたんです」凛はあの日の盗み聞きの一部始終を話した。話が終わらないうちに、杏に手を引かれて外へ連れ出された。

「人を馬鹿にするにもほどがあるわ!私が国内で一番の弁護士のところに連れて行ってあげる。離婚協議書を作らせて、さっさとサインさせる!」

離婚協議書はすぐに出来上がった。

印刷されたばかりの紙はまだ温かかった。けれど、凛の手にはひどく熱く感じられた。彼女は紙の上の文字を長いこと見つめ、やがてペンをとって自分の名前をサインした。

法律事務所を出た後、凛は杏と買い物に行って服を買い、一緒に夕食も食べた。すっかり夜になってから、冷たい風の中、家路についた。

家の窓には明かりが灯っていた。

どうやら智也は家にいるようだ。

いや、智也だけじゃない。

谷口家の人たちも来ている。

胡桃の怪我は軽く、入院するほどでもなかった。彼女は病院の消毒液の匂いが嫌で、出前の料理も口に合わないと言って、兄の家に泊まり込むことに決めた。凛に身の回りの世話をさせて、療養するつもりだった。

家に着くなり智也の顔にある平手打ちの跡が目に入り、谷口家の人々は怒りを爆発させた。

「凛がやったのね?そうでしょ?」梨花は息子が黙っているのを見て、いつものように凛をかばっているのだと察した。

「あなたが言わなければ、分からないとでも思ってるの?あなたを叩くような人、凛以外にいるわけないじゃない。会社だって役員を除けばあなたが一番偉いのよ。あなたの周りにいる女性で言えば、柚葉ちゃんはあんなに優しくてできた人だから、彼女のはずがないわ」

「お兄ちゃん!なんであの女なんかに叩かれなきゃいけないの!」胡桃も兄をかばった。「あなたが養ってあげてるんでしょ。何が不満なの?よくも叩けたわね。帰ってきたら、ただじゃおかないから!」

憎しみのこもった口調だった。

胡桃はいつも悪知恵が働き、気に入らない相手、特にこの出来の悪い義理の姉に対しては、その知恵を容赦なく発揮するのだった。

健吾が厳しい声で尋ねた。「本当に凛がお前を叩いたのか?」

智也は言った。「俺も手を上げた」

梨花も言った。「当然の報いだわ!自分の夫を叩くような女、聞いたことがない」

胡桃はさらに憤慨した。「そうよ、お兄ちゃんはちょっとお灸を据えてあげただけでしょ。お兄ちゃんに出会わなかったら、彼女が私たちみたいな暮らしができるわけないのに」

「智也、凛とは離婚しろ」健吾はしばらく考えた後、そう決断した。

しかし智也は眉をひそめた。「父さん!」

ドアの外で聞いていた凛は目を伏せ、手にした離婚協議書を握りしめた。ちょうどいいじゃない。離婚しよう、と思った。

しかし耳に届いたのは、智也の拒絶の言葉だった。「ダメだ」

「どうしてダメなの?」梨花は頭が痛くなった。「あなたは凛に何か変な薬でも飲まされたんじゃないの?どうしてそんなに頑固なのよ。あなたの周りには柚葉ちゃんたいな素晴らしい女性がたくさんいるのに、どうしてあの女一人にこだわるの!」

胡桃も続いた。「お兄ちゃん、凛さんと離婚して、柚葉さんと結婚したくないの?昔はあんなに仲が良かったじゃない。はっきり口にはしてなかったけど、みんな知ってたよ」

凛の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

智也は、大事な柚葉を結婚という面倒な日常に巻き込むはずがない。

「凛と離婚すると、会社での評判に響くと心配してるのか?しかし、お前は凛を会社の忘年会にすら、一度も連れて行ったことがなかったじゃないか」

健吾はもっともらしく分析する。「お前が結婚していることを知っている人間自体少ないし、相手が誰かなんて知る者はもっと少ない。評判は心配ないだろう」

柚葉の智也への態度を見て以来、谷口家の人々はもう凛を嫁として認めるつもりはなかった。ただひたすら二人の離婚を望んでいた。

だが、智也は同意しなかった。「離婚はしない。この話は、凛に聞かせるな」

彼は立ち上がって書斎に入り、家族の声をシャットアウトした。

谷口家の人々は、智也が凛をよほど愛しているのだと思った。

彼がなぜ離婚に同意しないのか、その理由を知っているのは凛だけだった。

離婚したら、こんなに都合のいい無料の使用人がどこにいるだろう?

プロの料理人には及ばないが、長年かけて智也の舌をすっかり虜にしてしまったのだ。

凛は離婚協議書をしまい込んだ。

智也が同意しようとしまいと、彼女は離婚するつもりだった。

こっそりでも、離婚してやる。

家の中の空気が少し和らぐのを待ってから、凛は暗証番号を押してドアを開けた。

玄関の物音に、谷口家の人々が一斉に視線を向けた。凛を見ても、彼らの表情は険しいままだった。

胡桃は言った。「凛さん、どうしてこんなに遅いの?みんなお腹すいてるんだから。特にお兄ちゃんは、ちゃんと時間通りに食事しないと、すぐに胃を悪くするのよ」

言い終わると、凛の足元のピンクのウサギのスリッパに目をやり、げんなりした顔を見せた。

「もうすぐ30歳になるっていうのに、まだ若い子みたいにピンクなんて履いてるの?うわ……子供っぽくて見てらんない」

凛は足を動かした。この子供っぽいスリッパは、とても可愛いと思った。

これは、他の人が彼女に示してくれた優しさだった。

養護施設で育ち、勉強ばかりしてきて人付き合いが苦手な凛にとって、人から優しくされることは滅多になかった。

だからこれはとても大切なもので、捨てるつもりはなかった。

梨花は彼女を見ようともせず、夕飯を作るよう、キッチンへ促しながら付け加えた。「薄味にしてちょうだいね。塩は控えめに」

健吾は高血圧だった。

「わかりました」凛はまっすぐキッチンへ向かうと、スマホを取り出して出前を注文した。わざわざ、【薄味、塩分控えめ】とメモも添えた。

彼らの住む場所は都心に近く、すぐそばに商店街や飲食店街があるため、出前はすぐに届いた。

インターホンが鳴り、梨花がドアを開けた。出前の配達員を見て、彼女はあっけにとられた。

凛は、何事もなかったかのように書斎のドアの前まで行き、ノックをするといつものように呼びかけた。「ご飯だよ」

ただ、そこには以前のような明るい響きはなかった。

いつもなら、料理が出来上がると嬉しそうにドアをノックして、「ご飯だよー!」と声をかけるのだ。

すると書斎のドアは、すぐに内側から開けられる。

そして智也が、「お疲れ、ありがとう」と言ってくれる。

しかし今回、智也が書斎のドアを開けても、その言葉はなかった。二人は視線を交わし、どちらもまず相手の顔に残る平手打ちの跡に気づいた。

お互い、何も言わなかった。

どちらも折れる気はないようだった。

「智也、早く来て凛が頼んだ出前を食べて!」梨花は食器を並べながら、嫌味っぽく言った。

それ聞いた智也は、不満そうに言った。「なんで出前なんだ?冷蔵庫に何もなかったのか?お前が作った味噌汁が飲みたかったんだが」

「味噌汁ならあるわ」凛はくるりと背を向けた。

智也は彼女に手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。そして不機嫌そうに後を追った。

ダイニングテーブルに並べられた出前を見て、智也はすっかり食欲をなくした。朝食を抜いたのに、夕食にもありつけない。さすがに我慢ならなかった。

「凛、いつまでわがままを言うつもりだ?」

「ご飯を作らないだけよ」凛は淡々と答えた。「それがわがままと何の関係があるの?私は料理をするために生まれてきたわけじゃない」

智也は言葉に詰まった。

凛は箸を取ると自分だけ食べ始め、提案した。「出前が嫌なら、うちに使用人でも雇おうか」

胡桃が反論した。「使用人なんて雇う必要ないでしょ?だって、うちにはあなたが……」

「ええ、確かに一人いるわね」凛は彼女の言葉を遮り、ずっと非難の目で見ていた健吾と梨花に視線を移すと、口の端を少し上げた。「そんなに智也のことが心配なら、ご実家の使用人をこちらによこしてくれたらどうでしょうか」

「凛!」智也は我慢の限界だったが、振り返った彼女の少し腫れた顔を見て、怒りを抑え、少し柔らかい口調で言った。「父さんと母さんに対して礼儀正しくして」

智也は心から両親を尊敬し、妹を可愛がっている。ただ妻の自分に対してだけ、優しさも愛情も、すべてが偽りだった。

凛はもう何も言わなかった。

食事が終わると健吾と梨花は帰っていった。このまま残っても出前しか食べられないと思ったのか、胡桃も仕方なく一緒に帰ることにした。

夜。

凛は、どうやって夜の営みを避けようかと考えながら、智也に離婚協議書へサインさせる、その方法を必死で探っていた。

足音が近づいてくると、

彼女は少し緊張した。

突然、智也のスマホが鳴った。

なんて良いタイミングの電話だろう。

「電話よ」凛は智也のスマホを手に取って振り向くと、バスローブ姿の彼と向き合った。「小林さんから」

柚葉の名前を見ると、智也は部屋を出て電話に出た。一分もしないうちに戻ってきて、急用で出かけると言う。

「分かったわ」凛は唇を結んだ。

智也はしばらく彼女の顔を見つめて言った。「誤解するな。俺たちはただの友達だ。お前が俺の妻なんだ」

「分かってるわ、行ってきて」凛は適当に返事をした。

夜中、キッチンからガチャガチャと音が聞こえてきた。

凛があくびをしながらリビングへ出ると、ソファに誰かがもたれていた。

近づいて見ると、女性だった。

物音に気づいて女性が顔を上げた。唇は青白く、片手でお腹を押さえている。どうやら生理痛がひどいらしい。

「凛さん?もしかして、智也が起こしちゃった?」

凛は、その女性を呆然と見つめた。

まさか智也が、堂々と人を連れ込んでいたなんて。

「ごめん、お邪魔するつもりはなかったの。住んでるところが実家から遠くて、頼れる友達も少なくて。つい智也に連絡しちゃった。まさか智也が直接うちに連れてきてくれるなんて思わなくて。しかも、私のために温かい飲み物とか夜食とか、自分から作ってくれるなんて」

凛には、それが自慢話に聞こえた。

それ以上に彼女を驚かせたのは、智也がキッチンに立っていることだった。

キッチンでは鍋から甘いココアの香りが漂っている。

男はエプロンをつけ、片手にフライ返し、もう片方の手に卵を持ち、どうしていいか分からず戸惑っているようだった。

「この目玉焼き、どうしていつも焦げちゃうんだ?」と呟いている。

智也が人を愛するとこうなるのか。いつもみたいに落ち着き払っているわけじゃなく、まるで青二才のようだった。

自分の嫌いなことだって、するんだ。

智也は料理が嫌いで、キッチンに近づくことさえ嫌がっていた。油の匂いが耐えられない、と。

だからリフォームの時も、凛が希望したオープンキッチンの提案を却下したのだ。

だからいつも、彼女が一人でキッチンにこもって料理を作り、テーブルに並べていた。

「まだ分からない?凛さん」

柚葉が凛のそばに来た。まるで勝ち誇った犬のようだ。もし尻尾があれば、得意げに振り回していただろう。

「智也が愛してるのは、私だけ。あなたは、私がいない間に彼が退屈しのぎに手を出しただけの……

つまみ食いみたいなものよ」
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第100話

    そのとき、食事を終えた凛たちが談笑しながらこちらへ歩いてきて、谷口家の面々も食べ終えたらしく合流してきた。梨花は凛の姿を見ると露骨に顔をしかめた。「凛、会っても挨拶すらしないなんて。なんて礼儀知らずなのかしら」この人は、どうやら難癖をつけないと気が済まないらしい、と凛は思った。「家族でのお食事を邪魔したくはなかったので」「凛、何だその言い方は」智也が不機嫌そうに言う。「さっきのことはまあ後で説明するから」柚葉が勝手に家族を呼んで食事をセッティングしたこと、それに柚葉がいたことなど知らなかったと、智也は弁解したかった。しかし、ここでは柚葉の面子を潰してはならない。なぜなら、このレストランには名だたる人ばかりだったから。「それと、父さんと母さんにそんな態度はとるな」と智也が凛をたしなめた。凛が言葉を返す前に、横から梨花がすかさず瑶子に告げ口をする。「竹内夫人、凛は礼儀なってなくて。家にいても、全く気が使えず、ましてやうちの娘の世話すらロクにできないんです。前なんか、わざとうちの娘に怪我を負わせたのに、入院中の世話をしないどころか、お金すら出さなかったんですから。本当に、嫌になっちゃいますよ」梨花は良い服を着ているからといって、凛がまともな人間だと思わないでほしい、と瑶子に訴えたいのだ。智也から見捨てられれば、凛はもう二度と良い生活ができないと確信しているのだ。「失礼ですが……」と瑶子が微笑む。「事情は分かりませんが一つだけ言わせていただきます。我が家では嫁に何かをさせるということはありませんし、家事もすべて家政婦がやっておりますので。娘さんの世話に関しても、それは親、あるいは本人が負うべき責任だと思いますわ。それに、凛さんのこと守財奴とおっしゃいましたよね?それは、素晴らしいことではありませんか?自分の財産を守り抜く能力は大切なことですから。あと、呼び方についてですが。私は個人の主体性を大切にしたいので、竹内夫人といった呼び方はあまり好まないんです」言い返された梨花は恥ずかしさと怒りで、顔を真っ赤にした。エリーがそばでクスクスと笑った。「谷口社長、自分の妻が両親や妹に侮辱されているのを見ても何も言わないのね。そのうち本当に失ってしまっても、後悔したってもう遅いわよ」智也の指先がかすかに震えた。

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第99話

    「ありがとうございます、瑶子さん」凛は心からの笑顔を瑶子に向けた。席に戻った智也には、もう笑顔などなかった。時折背後を振り返る。そこにはグリーンの服の背中があるだけで、横顔すら見えなかった。柚葉の表情もさらに険しくなる。「お兄ちゃん、柚葉さん、どうしたの?挨拶に行っただけなのに、そんな顔して戻ってくるなんて」胡桃は兄の視線を追いかけ、言葉を続けた。「あと、あの女は誰?さっきどうして引き留めたの?私が柚葉さんなら、絶対に許さないけど」柚葉は無理やり口角を持ち上げた。「あれは凛だ」と智也が言う。「嘘でしょ!」胡桃は信じられないといった様子で声を荒らげた。すぐに給仕がやってきて、周囲の客の迷惑になるからと声を控えるよう注意をする。胡桃は気まずそうな顔をした。「凛さん?なんであの女が竹内夫人と一緒に食事を?」そんなことありえない。竹内夫人にとって、凛は単なる一般人のはずなのに。あの女は、どうやって竹内家の令嬢と親しくなり、しかも竹内夫人と一緒に食事なんかをしているのだ?梨花は眉をひそめ、ぼそりとつぶやいた。「またそうやって、権力のあるところに擦り寄って」夫の健吾も声を潜めて言う。「そんなもの長続きしない。バツイチの女を迎え入れるボンボンなんて、そうそういないからな」「バツイチってどういうことだ?」智也が突然、両親に食って掛かった。しかし、二人はただ首を振っただけだった。「なんでもないわ。凛の話なんてやめよう。今日はあなたを祝う席なんだから。それに、柚葉ちゃんのおかげで、こんな素敵な場所で食事ができているんだから感謝しないとね」梨花はにこやかに柚葉を見た。「柚葉ちゃん、あなたみたいないい子は、智也にもったいないくらいだわ」「そんな」智也の両親に認められたことで、柚葉は自分が立場を取り戻したと感じ、やっと笑顔を取り戻した。食事が進む中、健吾が切り出す。「これもまだ始まったばかりだ。実際に落札できるかは分からない。柚葉、智也と付き合いも長いんだ、力になってくれるか?」「父さん」智也が眉間にしわを寄せる。「柚葉を困らせないでくれ。俺なりに考えはあるんだから」自分を庇ってくれたことに喜びを感じた柚葉は、さらに声を弾ませた。「智也、私は大丈夫だから。健吾さんの言う通り、あなたの今後のために、私にもできることはあるはずだ

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第98話

    凛は少し顔を上げ、穏やかな口調で言った。「友人と、友人のお母様と一緒に食事してるの」日和も小さく頷いた。竹内家の令嬢と親しくし、さらに竹内夫人と食事をする間柄であることに、智也と柚葉は驚きを隠せなかった。智也の視線が凛の顔に釘付けになる。相変わらず飾らない顔立ちだが、身につけた上質な服と高級感のある店の雰囲気が、彼女の麗しさを引き立てていた。その様子を見た柚葉は、唇を強く結んだ。「智也」と呼びかけ、瑶子こそが大切だと合図を送る。智也は改めて瑶子に視線を移した。「竹内夫人、お会いできて光栄です。ホシゾラ・テクノロジーの谷口智也です」「谷口社長ですね」と瑶子は微笑んだ。柚葉も続く。「はじめまして、小林柚葉です。松田英樹の孫です」瑶子は少し予想外のことそうに言った。「あなたが松田さんのお孫さんでしたか。ただ、松田さんから、お孫さんが結婚されているというお話は伺っていませんし、お相手が谷口社長だというのも初めて知りましたわ」その言葉に、智也は焦ってチラリと凛の方を見た。「竹内夫人、それは誤解ですから」「ええ、そうなんです。勘違いなさらないでください」柚葉も遮るように説明した。「私と彼はそういう関係ではありませんし、私は谷口家の嫁でもないんです。竹内夫人の正面にいらっしゃる方こそが、谷口家のお嫁さんです」瑶子は目を丸くして凛を見た。智也は手を伸ばして凛の腕を掴んだ。「彼女こそが、私の妻なんです」柚葉は驚いた表情の瑶子を見つつ、首をかしげて凛を責めた。「凛さん、なぜちゃんと伝えておかなかったんですか?」凛が強く握られている腕を、解こうにも解けていない様子を見て、瑶子は眉をひそめた。「谷口社長、凛さんが痛がっていますけど」凛は驚いた。まさか、目の前の瑶子がそう言ってくれるなんて……智也は自分が力んでいたことに気づき、ぱっと手を離した。凛は瑶子に感謝の視線を送ると、柚葉を振り返った。「むやみやたらに家柄をひけらかす習慣なんて、私にはないの」常に「松田家の孫」であることを武器にしてきた柚葉は言葉に詰まり、口をへの字に曲げた。日和は思わず吹き出す。瑶子は「いいのよ。日和の友達ってだけで、どこの家の子かなんて関係ないんだから」と言った。「そういうことだから!」と日和は胸を張って言い、凛の手

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第97話

    その言葉が終わるや否や、谷口家が到着した。彼らが凛の左後ろの席に案内されると、すぐさま胡桃の驚いた声が響いた。「わあ、柚葉さん!どうしてこんなお店を知ってたんですか?」このレストラン「パラダイス」はオープン時も派手なキャンペーンなどは一切行わず、広告も出していなかった。富裕層を相手にしているので、そもそも広告など必要なかったのだ。この店に辿り着ける時点で、それなりの身分や立場がある人たちということになる。柚葉は微笑んで答えた。「今後、交友関係を広げていけば自然と縁が繋がるわ」「さすが柚葉さん!」胡桃は彼女の隣に座ったかと思えば、すぐに別の席に移った。「柚葉さんの隣はお兄ちゃんの席だもんね。奪ったりしないから」梨花が目を細めた。「分かってるじゃないの」「私はいつだって分かってるもん」胡桃は少し唇を尖らせた。「お兄ちゃんはもう来る?」柚葉が答えた。「さっき連絡がきたよ。エレベーターに乗ったって」「もう、どうしてお兄ちゃんは柚葉さんにだけ連絡するんだろうね。私たちには教えてくれないくせに」胡桃はからかうように笑った。柚葉が顔を少し赤くする。「ちょっと、胡桃ちゃんったら」そんなことを話していると、背後からウェイターの声が聞こえてきた。「谷口社長、こちらでございます」「ああ」智也が上着を脱いで腕に掛け、ネクタイを緩めながら近付く。視線を向けると、そこにいたのは柚葉だけでなく、両親と妹の姿まであった。智也の足がふと止まった。この光景に、なんとなく居心地の悪さを感じたのだ。家族全員が揃っているのに、凛の姿だけがない。「智也、こっち」柚葉が彼を見上げ、軽く手を振った。智也が再び歩みを進め、テーブルのそばへ行くと、右斜め前の席にいる女性の背中に、思わず目が吸い寄せられた。茶色の長い髪を下ろし、横顔がほんの少しだけ垣間見える。見覚えがなかった。それでも視線が離せない。違和感を感じた柚葉が、そちらを振り返った。エリーが小声で瑶子に言う。「あれがホシゾラ・テクノロジーの谷口社長?なんでこんなにこっちをジロジロ見てるの?」凛の背筋が少しこわばる。自分を見てるのか?でも、この前会社に行った時は、自分には気づかなかったのに。自分に気づいたわけではないだろう。智也は瑶子に気付くと、上着を置き、家族に

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第96話

    「いいわね」瑶子は娘の頬を優しく撫でた。「そんなに凛さんのことが好きなの?」「お母さん、知らないの?凛さん、すごく頭がいいんだから」「論文の不備を指摘してくれたから?」「うん。修正し直して、大学に戻ったら、教授が目を丸くしてたの。私は徹夜で、もう一度実験をやり直さないとダメだろうって思ってたみたい」車内で母と並んで座りながら、日和はこう続けた。「それだけじゃないんだよ。凛さんは、たった一人で孤児院から出てきて、あてもなくこの大きなA市で頑張ってきた。友達も家族もいなくて、恩師の先生だけが頼りだったみたい。きっとすごく苦労したはず。それに、今の仕事は全然専門と関係ないのに、お兄ちゃんがあんな強引に秘書として連れてきちゃってるけど……それでも凛さんは、本当に凄いと思うの。お母さん、私ったら今まで一度もお母さんたちやお兄ちゃんと離れたことなんてないし、旅行で家を出たことすらない。でも、凛さんは、ずっとひとりで一生懸命頑張ってる。本当、すごいよね」日和は笑った。「まあ、懸命に生きる人はみんな凄いんだけど!」瑶子は穏やかな笑みを浮かべた。「本当は凛さんが義理のお姉ちゃんになってくれたら嬉しいんだけど、お兄ちゃんの口の悪さったら、本当に嫌になる。このままじゃ一生結婚なんてできないよ」瑶子はふっと笑った。「それなら日和がもっと凛さんと仲良くなって、自分と家族になれるから、とかなんとか言って、お兄ちゃんと一緒になってくれるようにお願いしてみたら?」母と娘は顔を見合わせて笑う。彼女たちと竹内グループの本社ビルで合流した凛は、呆気に取られていた「瑶子さん?」凛は日和だけかと思っていたので、食事の誘いを受けたのだった。「凛さん、車に乗って」瑶子は温かく微笑んだ。凛は少し遠慮がちに「はい、ありがとうございます」と答える。瑶子の車は一見シンプルなデザインだが、目の利く者ならすぐにわかる――高級車の中でも最上級クラスの一台だった。竹内グループ本社の警備員も即座にそれに気づき、拓海へと報告を入れた。「竹内社長、奥様と日和様がお見えです」と拓海が海斗に伝える。海斗は一瞬何事かと思った。母親がいきなり来るなんて……海斗が椅子から立ち上がりかけたその時だった。「あ、奥様と日和様が谷口さんを乗せて、出発されました」と、拓海が

  • 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚   第95話

    ……智也は入札の招待状を受け取ると、満面の笑みを浮かべた。すぐさま会議を開いて自らプロジェクトチームを率いることを宣言し、今後の重要課題を定めると同時に、以前から温めていた企画書と入札資料を取り出した。誰もが智也の先見の明を称賛する。景山グループの会長は特に智也を高く評価しており、席を立つ際、わざわざ大勢の幹部の前で彼の肩を叩いた。「当初の君に対する私の目は間違いじゃなかったな。谷口君、今回もし入札を勝ち取れば、ホシゾラ・テクノロジーの株式だけでなく、景山グループの株式も一部、君に分け与えることにするよ」智也の瞳がわずかに震えた。途方もない喜びが押し寄せ、彼は呼吸を忘れるほどだった。「会長。全力を尽くします」「期待しているよ」景山会長が退席すると、幹部たちが続々と祝辞を述べに来た。智也は彬々とした微笑を浮かべていたが、心中では必ず勝ち取ると決めていた。会議室から人がいなくなると、智也は嬉しさのあまり誰かに伝えたくなった。脳裏に一瞬、凛の顔が浮かんだが、すぐに首を振る。凛にはわからないだろうし、教えたところで「すごいね」の一言で済まされるのが関の山だ。智也は柚葉に電話をかけた。電話の向こうの柚葉が嬉しそうに言った。「智也、あなたならできると思ってたよ。私で役に立てるなら何でも手伝うから」「柚葉、お前にはあまり無理はさせたくないんだ。あとは俺に任せてくれればいいから」「うん」柚葉は智也に聞いた。「このこと、家族には伝えたの?おめでたい話だし、もし今回の入札で成功すれば、あなたにはもっと大きな未来が待っているんだから、早く伝えてあげないと」「柚葉には一番に伝えたかったんだ。この後、みんなにも伝えるつもりだよ」「それなら健吾さんたちには私が伝えておくよ。あなたは仕事に集中して。今回の入札、期限がかなり短いよね?」柚葉は守秘義務があるため、あまり具体的なことには触れられなかった。智也は微笑んだ。「そうだな、急がないと。じゃあ、また後でな」「うん」柚葉は電話を切り、そのまま谷口家へ連絡を入れ、この朗報を伝えた。「智也は今とても忙しいみたいなので、代わりに私から伝えさせていただきました。もしよろしければ、今夜、智也のお祝いってことで、食事会でもしませんか?レストランは私が予約しておきますので」智也の両

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status