ANMELDEN絃葉は電話を握る手に、わずかに力を込めた。受話口からは、アシスタントの寺守(てらもり)が別の番号へ電話をかける音が聞こえていた。その時、ドアの外にいるスタッフが、もう一度軽く3回ノックした。「西尾様?まだいらっしゃいますか?」ドア越しに聞こえる口調は相変わらず丁寧だったが、絃葉はそこに、かすかな焦りがにじんでいることを敏感に察した。息を潜め、そっとドアスコープをのぞき込む。スタッフはまだ外に立ち、銀色のトレーを手にしていた。トレーの上には、上品な丸いクロッシュがかぶせられている。だが、絃葉の胸をざわつかせたのは、男がわずかに首を傾け、室内の物音へ神経を集中させているように見えたことだった。やがて電話の向こうから、切迫した寺守の声が聞こえた。「西尾社長、たった今フロントへ確認しましたが、ホテルでは夜食など一切手配していません。絶対にドアを開けないでください!」絃葉の胸が大きく沈んだ。声を潜めて指示を出す。「分かった。すぐにホテルの警備へ連絡して」言い終わるより先に、ドアの外で小さな金属音がした。何かが床へ落ちたような音だった。ドアスコープから見ると、スタッフが屈んで何かを拾い上げている。その手に握られた細長い道具を目にした瞬間、絃葉の全身から血の気が引いた。ホテルスタッフが持ち歩くようなものではない。「西尾社長、どうしました?」電話の向こうから、寺守が焦った声で尋ねた。絃葉はゆっくりと後ずさりし、声を限界まで低くした。「その人はピッキング用の工具を持っている。今すぐ警備を呼んで!」外の男は何かを察したように突然顔を上げ、ドアスコープをまっすぐ見据えた。その瞬間、絃葉はホテルスタッフとは到底思えない、鋭く冷え切った目と視線が合った。彼女は大きく息をのみ、背筋を凍りつくような寒気が這い上がるのを感じた。その時、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。ほどなくして再びドアがノックされ、寺守の声が聞こえた。「西尾社長、ご無事ですか?」絃葉がドアスコープから確認すると、寺守が黒い服を着た数人の護衛を連れて立っていた。ようやく安堵し、深く息を吸ってから勢いよくドアを開ける。空になった廊下を素早く見回した。「さっきの男は?」寺守は困惑したように首を横へ振った
湿気を含んだ熱い風が吹きつけてきた。絃葉は深く息を吸い、すぐに仕事へ意識を切り替えた。私服姿の四人の護衛が、目立たないよう彼女の周囲へ散らばり、見えない防護網を築いていた。ホテルへ向かう車内では、現地の担当者が地域の文化や暮らしについて熱心に説明していた。絃葉は礼儀正しく相槌を打ちながら、車窓を流れていく街並みを注意深く観察していた。街は予想以上に栄えていたが、至るところに混沌とした雰囲気も漂っている。バイクが渋滞する車の隙間を縫うように走り、街角には落ち着きなく周囲を見回す若者たちが集まっていた。空気には、どこか不穏な気配が満ちている。ホテルへチェックインすると、絃葉は真っ先に景へ無事に到着したとメッセージを送った。ほぼ次の瞬間、ビデオ通話の着信が表示された。画面の向こうにいる景は、まだ車の中にいるようだった。背景には見慣れた街の夜景が広がっている。「着いたのか?」電波越しに聞こえる声にも、彼特有の低く響く魅力があった。「ええ。今、ホテルに着いたところ」絃葉はカメラを窓の外へ向けた。「見て、ここの夜景もなかなかきれいでしょう?」「どれほどきれいでも、君が無事でいることのほうが大切だ。いいか?少しでも危険を感じたら、すぐに視察を中止して帰国するんだよ」「分かりました、築山社長」絃葉は笑顔で答え、胸に温かなものが広がるのを感じた。景は不満そうな顔を装った。「『社長』じゃない、『あなた』だろ」絃葉は口元を押さえて笑った。「はいはい、あなた」彼女が十数回も続けて呼ぶと、画面の向こうにいる景は、思わず頬が緩みきるほど満面の笑みを浮かべた。満足して通話を終えると、ようやく笑みを引っ込め、ずっと自分を見ていた佳樹へ真面目な顔を向ける。「何を見ている?」佳樹は眉を寄せた。「......社長は、本当にあの築山社長ですか?誰かと入れ替わったようにしか見えないんですが」景は眉をひそめた。「どこが違う?」佳樹は先ほどこっそり撮影した動画を、景のスマホへ送った。「ご自分で確かめてください」送信するなり資料を手に取って背を向け、一秒たりとも長居しようとせず、その場を去った。景は動画を開いた。そこに映る自分の、締まりのない幸せそうな笑顔を見て数秒間固まったあと
長い時間が過ぎてから、景はようやく名残惜しそうに腕を緩めた。絃葉は思わず笑った。「もう、たった3日だけだよ。そんな顔をしてたら、まるで私が3年も留守にするみたいじゃない」しかし景は笑えなかった。その瞳には、拭いきれない寂しさが満ちていた。「君に一日会えないだけでもつらいんだ。俺、今では京城へ行く時も必ず日帰りしているんだ。君と離れていたくないから」恋は本当に、成熟した大人を子どものように変え、不安にさせるものらしい。絃葉は両腕を彼の首に回し、指先で鼻筋をそっと撫でた。「あなたにはあなたの仕事があって、私にも追いかけたいものがあるの。心配しないで。ちゃんと自分のことは自分で守るから」しかし今の景には、どんな理屈も耳に入らなかった。頭では十分に理解している。それでも、あふれるほどの愛おしさを前にすれば、理性的な言葉などあまりにも無力だった。ただ絃葉と離れたくない。たった一秒離れることさえ、耐え難く感じていた。以前の彼は、恋愛ドラマで互いに離れられず、恋のために死ぬほど苦しむ男女を見るたび、くだらないと思っていた。だが絃葉と出会って、初めて分かった。離れがたくなるのは、ドラマチックに見せるための演出などではない。心の底から、相手と離れたくないと願うからなのだ。誰かを深く愛すると、知らず知らずのうちにすべての警戒心を解き、わがままな子どもへ戻ってしまう。ただ永遠に、その人を腕の中へ抱いていたくなる。景がこれほど深く誰かを必要としたのは、生まれて初めてだった。彼は完全に恋へ溺れ、真心のすべてを、何一つ隠すことなく絃葉へ差し出していた。景が何も言わないため、絃葉が声をかけようとすると、伏せられたまつげの下がうっすら赤くなっていることに気づいた。彼女はわずかに目を見開く。「景......?」「ああ」「泣いてるの?」景はすぐに顔を背けた。「泣いていない。男が泣くわけないだろう」絃葉はわざと回り込み、その顔をのぞき込んだ。「やっぱり泣いてる」彼女は両腕を広げて景を抱き締め、背中を優しく叩いた。「本当に大丈夫だよ。必ず無事に帰ってくるって約束するから」景は深く息を吸い、すぐに気持ちを整えた。いつもの落ち着いた姿に戻る。「......ああ。行こう。空港ま
優奈は皮肉を込めた口調で言った。「西尾社長は、西尾グループの内部事情について、部外者である私よりも疎いようね。それなら確かに、もう話すことはないわね」立ち去るふりをすると、健二が慌てて引き止めた。「待て!どんな計画なのか、ひとまず聞かせてくれ」彼の内にある欲望と野心は、完全に火をつけられていた。鼻筋を強く揉みながら呟く。「お前の言うとおりだ。あれこれ恐れていては、大きなことなど成し遂げられない......そろそろ思い切った手段を使うべきかもしれないな」優奈の目が輝き、そこに計算高い光がよぎった。「調べたところ、西尾絃葉は月末にTN国へ出張するそうよ。向こうに工場を建設する計画らしい。この数年、TN国の情勢がどれだけ不安定かは、あなたも私もよく知っているでしょう?」健二の目が動いた。「つまり......?」優奈は彼の肩を軽く叩いた。「手を汚したくないのなら、何もする必要はないわ。何かあれば責任はすべて私が負うから、手を組まない?その代わり、6億円をもらうけど......よく考えてね」健二は驚いて眉を跳ね上げた。「6億円だと?いくら何でもこんな大金......!」優奈は目を細めた。「あなたにとって最大の障害を、私が排除した暁には、数百億......場合によっては千億円を超える財産があなたの手に入るのよ。その中から6億円を求めるくらい、少しも高くないでしょう?」――瞬く間に月末を迎えた。間もなく4月に入ろうとする頃、菜種梅雨の季節がひっそりと訪れ、空からは時折、細い雨が降り続いていた。当初の予定どおり、絃葉はまもなくTN国へ視察に向かうことになっていた。YRの発売を目前に控え、細谷全体がこれまでにない忙しさに包まれている。蒼生は当初、絃葉に同行するつもりだった。しかし会社には指揮を執る者が必要なため、絃葉は自ら視察団を率いて出発し、蒼生を海城に残すことに決めた。二人が結婚して以来、絃葉が遠方へ出かけるのはこれが初めてだった。TN国はK国からそれほど遠くないものの、最近は現地の情勢が不安定で、景も関連するニュースを欠かさず確認していた。絃葉が荷造りをしている間、彼はウォークインクローゼットの入口にもたれ、彼女がスーツを一着ずつ丁寧にキャリーケースへ収める姿を見つめていた。
景は長い間、絃葉の顔を見つめていた。その瞳には言葉にできないほどの感動と、思いがけないことに対する驚きが入り交じっていた。彼はとうの昔に、冷え切った家族関係に慣れていた。「家」という言葉は、彼の心の中ではいつも氷山のように冷たいものだった。しかし今、絃葉のおかげで初めて、本当のぬくもりに触れることができた。景は無意識に彼女を強く抱き締め、低い声で尋ねた。「彼女はあれほどひどい態度を取り、君を傷つける言葉も散々浴びせた。それでも恨まないだけでなく、どうしてわざわざ気づかせようとしたんだ?」絃葉はそっと笑い、彼の温かな胸に顔を埋めた。「だって静代さんは景のお母様でしょう?どんなことがあっても、こんなに完璧な夫を産んでくれたことには感謝しなきゃ」顔を上げた彼女の瞳には、いたずらっぽい光が宿っていた。「それに、結婚した途端に母親を忘れた薄情な息子だなんて、あなたが思われるのも嫌だから」景はようやく彼女に笑わされ、口元を緩めた。張り詰めていた表情も、次第に柔らかくなっていく。「俺のために、ここまでしてくれてありがとう......君を選んだことは間違いではなかったと、ますます確信したよ」その夜、絃葉は二人の心がまた一段と近づいたように感じた。景は、日中ずっと歩いて脚が疲れている彼女を気遣い、一度だけ優しく愛し合うと、そのまま休ませた。絃葉も本当に疲れていたため、ほどなくして彼の腕の中で眠りに落ちた。――多磨城にある、人目につかないカフェ。優奈は落ち着かない様子で窓辺を行ったり来たりしながら、遅れて現れた健二をようやく迎えた。顔を合わせるなり、健二は苛立ちをあらわにした。「また呼び出して何の用だ?この前はお前が余計なことをしたせいで、親父にこっぴどく叱られたんだぞ!」優奈は彼に座るよう促した。「景が昨日、絃葉との関係を正式に公表したわ。それが何を意味するのか、分からないはずはないでしょう?」健二は苛立たしげにネクタイを緩めた。「絃葉には今、築山景という後ろ盾がいる。それだけだ。だから何だ。嫁に出た娘は別の家の人間だ。父が西尾家の財産を築山家へただでくれてやるとは思えない」優奈は意味ありげに微笑んだ。「そう言い切れるかしら。あなたが正式な婚姻関係のもとに生まれた息子なら、もち
しかし、先ほどの絃葉の言葉によって、静代はこれまで直視しようとしなかった現実に気づかされた。自分と景の立場は、とうの昔に逆転していたのだ。そう思った瞬間、足元から頭のてっぺんまで冷気が駆け上がった。静代は、長男が優秀であることを否定したことなど一度もない。三人の息子のうち、本当に立派に育ったのは景だけであり、残る二人は自分が甘やかしたせいで、すっかり駄目になってしまったことも分かっていた。だが、いつか自分が彼を見下ろす側から、見上げる側へ変わるなど、考えたこともなかった。静代は景の寝室に長い間、一人で立ち尽くしていた。やがて鉛を詰められたように重い足を引きずりながら、ゆっくりと部屋を出る。「洸、彰、帰るわよ」先ほどまでの勢いを失っていた。静代は低い声で二人を呼ぶと、呆然とした表情のまま玄関へ向かう。絃葉は静かにリビングに立ち、その隣では景が、黙って彼女の手を強く握っていた。「景、もう遅いから、早く休みなさい。明日はお父さんと一緒に、お昼を届けに来るわ」玄関まで来た静代は、ゆっくりと振り返って景を見た。複雑に揺れるその瞳には、これまで一度も見せたことのない後ろめたさが、かすかに浮かんでいた。その言葉を残し、洸と彰を連れて黙って立ち去った。突然母親から気遣う言葉をかけられ、景はわずかに目を見開いた。静代が去ると、すぐに絃葉へ尋ねる。「母さんに何を言ったんだ?」絃葉は口元をわずかに上げた。「何を言ったと思う?」景は首を横に振った。「分かるなら、わざわざ聞かない」その場に立ったまま、絃葉の手を握る指に、わずかに力を込める。母親が去っていった方向を見つめる景の目には、さまざまな感情が入り交じっていた。静代は二人の息子とともにエレベーターへ乗り込んだ。狭い空間は、重苦しい沈黙に包まれていた。洸と彰は顔を見合わせたが、どちらも声をかける勇気がなかった。エレベーターがゆっくりと下降する。静代は冷たい金属の壁にもたれ、絃葉の言葉を頭の中で何度も繰り返していた。鋭い金槌で頭を強く叩き割られたように、割れるほどの痛みを感じた。「母さん、大丈夫?」洸が恐る恐る声をかけた。静代はゆっくりと顔を上げ、自分が甘やかしてきた息子を見た。もう二十代だというのに、まだ
悠は状況が飲み込めず、絃葉を見つめたまま首をかしげる。なぜそんなことをしようとするのか、まったく理解できなかった。絃葉が説明しようとしたその時――カフェのドアが押し開けられた。入ってきたのは、凪杜と野々花。そして千晶。しかも凪杜は、当然のように野々花の肩を抱いている。その手と、彼女のふくらんだ腹に視線を奪われ、悠は息を呑み、声を潜めた。「つまり......あのクズ男、浮気してるってこと?」絃葉は目の前のコーヒーを手に取り、一気に飲み干す。「ええ。私もつい最近知ったの。あの二人、もうずっと前から――」「ねえ、ダーリン。足がだるいの」「いいよ、揉んであげる」
凪杜は深く息を吸い、胸の中の重苦しさを押し殺してから、絃葉の隣に横になった。「会社がどんどん大きくなって、俺もますます忙しくなった。君に構う時間すら取れなくなって......」声は低く、どこか作られたような優しさを帯びている。「絃葉、何か欲しいものはあるか?何でもいい。何か罪滅ぼしをさせてくれ」家、車、宝石、バッグ――普通の女性が欲しがるものは、だいたいそのあたりだろう。けれど、それらは絃葉にとって生まれた時から当たり前にあるものだった。何一つ、欲しいとは思わない。彼女が欲しかったのは、ただ一つ――彼の心。なのに、その心はとっくに別の誰かに与えられていた。
凪杜は彼女の視線を避け、再び口調を和らげた。「子どもが何をわかる。いちいち気にするな」その言葉に滲む無意識の肩入れは、まるで強烈な平手打ちのように絃葉の頬を打った。これまで何度、その偏りに気づかないふりをしてきたのだろう。――今になって、自分の鈍さが情けない。彼女はため息のように、かすかな声で言った。「......正直に答えて、凪杜。あなた、まだ私を愛しているの?」その瞬間、凪杜の胸が大きく揺れた。彼は彼女を強く抱き寄せ、顎を彼女の髪に押し当てる。「もちろんだよ!」声は即座に返ってきた。「また変なこと考えてるのか?俺が絃葉のことを、ずっと愛してるに決
家の寝室に戻ると――絃葉は、全身の骨の隙間にまで冷気が染み込むような感覚に襲われ、立っているのもやっとだった。残されたわずかな力を振り絞り、震える手で長らく封じていた引き出しの鍵を回す。引き出しが開いた瞬間、中に詰め込まれていた「記憶」が一気に溢れ出した。ハート型の小石。色あせたポストカード。古いレコード。凪杜が不器用に磨いた銀のチェーン――そして、リボンで束ねられた手紙の束。かつて彼が彼女に書いた「ラブレター」だった。どれも、かつては宝物のように大切にしていたもの。だが、数日前に自分の目で見たすべてが、それらの思い出を虚しく、安っぽいものへと変えて







