夜の回廊には、濡れたような静けさが満ちていた。
庭から吹き込む風が、竹の葉をかすかに揺らす音だけが障子の向こうで細く響き、早川家の重厚な邸内を包む沈黙を際立たせていた。礼司は回廊の柱に背を預け、手には小さな煙草の銀製ケースを持ったまま、蓋を開けもせず、ただ立ち尽くしていた。
吐く息は白くない。空気はすでに夏の湿り気を帯び、けれど体の奥に溜まるものは冷えていた。
数刻前の夕餉の光景が脳裏に蘇る。食卓に座る薫の姿、ナイフとフォークを扱うその手の滑らかさ、まっすぐ差し向けられた視線の、何かを試すような熱。
それは明確な挑発ではなかった。だが、視線の底には、明らかに意図があった。礼司はそれに気づきながら、終始気づかないふりをして食事を続けていた。少しでも目を合わそうものなら、何かが壊れる気がした。
「壊れる…?」
自嘲のように唇がわずかに歪む。何が、何の関係が、と問えば、答えはなかった。ただ、壊れ得る何かが自分の中にあることだけが、妙に確かだった。
そのとき、不意に背筋がぴんと伸びた。
何かに見られている。
ただの気配ではなかった。明確な、射抜かれるような視線の感覚が、肩口に触れた。
ぎり、と煙草ケースの蓋を閉じる音が、やけに大きく響いた。
礼司はゆっくりと振り向いた。
回廊の先、客間の障子越し。少しだけ開かれた硝子窓の奥、薄く灯りの落ちる部屋の中には誰の姿もない。しかし、あの視線の残滓が、まだ皮膚の上に残っている。
「…気のせいか」
声に出してみても、その響きは空虚だった。
いや、気のせいではない。そう思わせるのに十分すぎる強度で、あの視線は確かに自身を貫いていた。
薫だったのか。
そう思った瞬間、礼司は無意識に目を伏せた。顔の内側がじんわりと熱を帯び、心臓の奥が、まるで水に沈んだ石のように鈍く疼いた。
まさか。
あの少年が、男として…?
否定しようとしたが、記憶が早すぎた。
薫の黒髪がわずかに揺れた瞬間。涼やかな目元。光の下で白く浮かぶ首筋。
ふいに香った石鹸の香りが、喉の奥に残っている。思い出すまいとするほど、その輪郭が鮮明になる。
息が苦しい。
こんな反応をするのは初めてだった。女に対して感じたことのないこの身体の動きが、礼司自身を追い詰めていた。
彼は客間に近づき、障子の前に立った。中には誰もいない。だが、硝子の内側に小さく曇った指の跡が、そこに誰かが寄っていた痕跡を静かに物語っていた。
「…やはり、おまえだったのか」
低く呟いた声が、夜の静けさに溶けていった。
見られていた。確かに、自分の何かを。
礼司はその「何か」がわからず、喉を詰まらせるように黙り込んだ。だが、感覚は嘘をつかない。あの視線は、男が女を観察するそれではなかった。もっと、深く…ずっと近くにあった。
礼司の中に、これまで一度も持ったことのない思考が生まれた。
もしも、薫の視線に欲があったのだとしたら。もし、それを受け取っていたのが、己だけだったのだとしたら。
脳裏に焼きついた薫の眼差しが、身体の奥を静かに濡らす。
そしてその視線を思い出すたびに、礼司の内側で、何かが泡立つように疼く。
それは焦燥でも、恐怖でもなかった。
…欲望。
それが、男に対して向けられていると認めたとき、礼司は言葉を失った。
吐き出された息がかすかに震えた。
これまで、自分は何かを「感じない」人間だと思っていた。女の肌に、艶やかな頬に、美鈴の白い手にすら――決して「欲」を覚えたことはなかった。
だが、今――
あの黒髪の青年の視線に、背中が反応している。 鼓膜の奥で名前を呼ばれる幻聴がする。「礼司さん」
名を呼ばれた記憶はない。
だが、確かにそう聞こえた。礼司はそっと硝子窓に手を触れた。冷たい感触が指先に沁みる。
その奥に、薫が立っていたかもしれない。
誰にも聞かれず、誰にも知られず、ただ黙って彼を見ていたのかもしれない。月明かりが、濃く伸びた自分の影を地面に映していた。
礼司はその影の隣に、もうひとつ重なるものを想像してしまった。
冷たい風が、回廊を抜けていく。
「どうして…」
問いかけの続きは、誰にも届かなかった。
胸の奥、湿った暗がりに、熱を持った何かが、確かに息をしていた。
午后の陽が傾きかけた頃、礼司は中原家の離れ、薫のアトリエへと向かっていた。車を降りた瞬間、湿った土の匂いと、石畳の隙間から立ち上る初夏の熱気が鼻腔をくすぐった。舗道脇に整えられた生垣の中に、咲きかけの薔薇がちらほらと混じっている。門をくぐった瞬間、その甘やかな香りがふいに胸の奥へ忍び込んだ。アトリエの建物は、母屋と同じく瓦葺きの和洋折衷の造りだった。だが、こちらは外壁の塗りがやや粗く、無骨な木枠の窓がいくつも取り付けられている。窓のいくつかは開け放たれており、風が吹き抜けるたびに薄いカーテンが波のように揺れていた。庭先に踏み出した礼司は、木漏れ日を浴びる石段の下で足を止めた。アトリエの扉は半開きになっており、そこから男が一人、ちょうど出てくるところだった。男は若く、背の高い体躯に黒いコートを羽織っていた。開かれた襟元からは、白いシャツの肌着がのぞいており、まだ乾ききっていない絵具の匂いを纏っていた。手には細い布の包みと、丸められたスケッチらしき紙の筒。礼司が立ち止まったことに気づいたのか、男はこちらを一瞥し、すぐに視線を逸らすと、無言のまま石段を降りてきた。薫の声がした。アトリエの奥、扉の内側から。「また近いうちに…」男は軽く肩越しに手を振っただけで、返事らしいものはしなかった。ただ、頬にかすかな笑みが浮かんでいた。満ち足りたような、あるいは、どこか余韻を含んだ表情だった。すれ違う瞬間、男の身体から微かに香水のような香りがした。甘く、そしてどこか汗に近い体温の残滓が混じっていた。礼司は鼻先をくすぐるその匂いに、ほんの一瞬だけ足を止めた。だがすぐに表情を整え、男の背中が庭の出口へと消えていくのを目で追った。背広の後ろ姿は細身で、首筋の髪がやや長めに揺れていた。薫とは違う。まったく異なる輪郭の男。その背が視界から消えた瞬間、礼司はようやく静かに息を吐いた。誰だ、今のは。問いかけは声にならなかった。だが胸の内側で、低く響いていた。薫の声は、確かに男に向けたものだった。誰かと話す声だった。仕事かもしれない。モデルかもしれない。…それ以上の関係かもしれな
中原邸の応接間には、昼の光がしっとりと広がっていた。磨かれた窓硝子から差し込む陽射しは、どこか鈍く、絹張りのカーテンに吸い込まれるように滲んでいる。天井に吊られたシャンデリアの影が、床の大理石に静かに揺れていた。応接間の奥、低いテーブルを挟んで向かい合って座る二人の男。早川礼司と、中原薫。銀器の縁に薄く紅茶の香りが残っていた。午後三時を少し過ぎたばかり。屋敷の中は静まり返っており、庭に面した窓の向こうでは、剪定を終えたバラの枝が風に揺れている。礼司は、薄く砂糖を溶かした紅茶を口に含んだ。薫は、すでにカップを置き、両手の指先を軽く組み合わせていた。その手の甲の色は、外で焼けたのか、わずかに褐色がかっている。指は細く、しかし節は強く、絵を描く者の手だとすぐにわかる。礼司は無意識に視線をそこに留め、すぐに紅茶の残りに目を戻した。「礼司さん。来週、少し時間をもらえますか」柔らかくも芯のある声だった。礼司は顔を上げた。薫の眼差しがまっすぐに自分を見ていた。「時間……?」「アトリエを見に来てほしいんです。ちょうど、整理も終わりましたから」薫の瞳には曇りがなかった。その真っ直ぐさが、かえって礼司の中に小さなざらつきを生んだ。視線の奥に揺れも影もない。何の打算もないままに、ただ『見に来てほしい』と言う。「それは…私に、ですか」礼司の声は自然と低くなった。薫は頷いた。「はい。礼司さんに」庭の風が窓を揺らし、カーテンが一瞬だけ膨らんだ。薫の後ろに光の線が差し込み、黒髪の輪郭を細く縁取る。「…考えておこう」カップをテーブルに戻しながら、礼司はそう答えた。断る理由はなかった。だが、即座に頷けなかった。アトリエ。薫が何を描いているのか、どんな場所で絵を生んでいるのか。見たいという衝動と、それを見てしまったあとの自分を想像する恐れとが、喉の奥で交差していた。薫はそれ以上、何も言わなかった。ただ、軽く頷いたのみだった。そしてその数分後、用件を終えた礼司は屋敷を辞した。
夜の回廊には、濡れたような静けさが満ちていた。庭から吹き込む風が、竹の葉をかすかに揺らす音だけが障子の向こうで細く響き、早川家の重厚な邸内を包む沈黙を際立たせていた。礼司は回廊の柱に背を預け、手には小さな煙草の銀製ケースを持ったまま、蓋を開けもせず、ただ立ち尽くしていた。吐く息は白くない。空気はすでに夏の湿り気を帯び、けれど体の奥に溜まるものは冷えていた。数刻前の夕餉の光景が脳裏に蘇る。食卓に座る薫の姿、ナイフとフォークを扱うその手の滑らかさ、まっすぐ差し向けられた視線の、何かを試すような熱。それは明確な挑発ではなかった。だが、視線の底には、明らかに意図があった。礼司はそれに気づきながら、終始気づかないふりをして食事を続けていた。少しでも目を合わそうものなら、何かが壊れる気がした。「壊れる…?」自嘲のように唇がわずかに歪む。何が、何の関係が、と問えば、答えはなかった。ただ、壊れ得る何かが自分の中にあることだけが、妙に確かだった。そのとき、不意に背筋がぴんと伸びた。何かに見られている。ただの気配ではなかった。明確な、射抜かれるような視線の感覚が、肩口に触れた。ぎり、と煙草ケースの蓋を閉じる音が、やけに大きく響いた。礼司はゆっくりと振り向いた。回廊の先、客間の障子越し。少しだけ開かれた硝子窓の奥、薄く灯りの落ちる部屋の中には誰の姿もない。しかし、あの視線の残滓が、まだ皮膚の上に残っている。「…気のせいか」声に出してみても、その響きは空虚だった。いや、気のせいではない。そう思わせるのに十分すぎる強度で、あの視線は確かに自身を貫いていた。薫だったのか。そう思った瞬間、礼司は無意識に目を伏せた。顔の内側がじんわりと熱を帯び、心臓の奥が、まるで水に沈んだ石のように鈍く疼いた。まさか。あの少年が、男として…?否定しようとしたが、記憶が早すぎた。薫の黒髪がわずかに揺れた瞬間。涼やかな目元。光の下で白く浮か
夕陽が窓枠を朱色に染め、食堂には夕刻の柔らかな光が差し込んでいた。重厚な木のテーブルに並べられた銀器が光を反射し、食卓はまるで静かな舞台のように整えられていた。薫は控えめに着席し、膝の上にナプキンをたたんで置いた。香り立つスープの湯気と、煮込みの香りが混じり合う空気を、ゆるやかに吸い込んだ。目の前には、美鈴が丁寧に整えた皿が並び、小声で「召し上がってください」と言いながら、礼儀正しい微笑みを浮かべた。礼司は背筋を伸ばし、ナプキンを広げて丁寧に膝に置いた。その動きはまるで儀式的で、所作の一つ一つに無駄がなかった。薫はその様子をまっすぐ見つめた。外観上、食事は穏やかに進んでいた。料理の説明、美鈴の彩り豊かな献立の声、客としての薫への配慮――すべてが完璧に履行されていた。しかし、その完璧に揃った空間の中で、明らかなずれもそこかしこにあった。まず、視線が交わらない。美鈴が目を上げて礼司に微笑んでも、礼司はそっと頷くだけで目をそらす。視線の代わりに微かな気遣いが交わされ、彼女の頬に浮かぶ笑みはすでに儀礼の域を出ない。その冷たい静けさを薫は感じ取っていた。次に、身体の距離。椅子が向かい合わせという配置にもかかわらず、礼司と美鈴の間には明確なすき間があるように感じられた。肘をつく距離、カップを持ち上げる時の肩の角度、すべてが慎重に計算された配置に見えた。薫はフォークを軽く持ち、口に運ぶ動作を止めて目線だけを礼司へ向けた。彼の横顔は整っていた。けれどその横顔には、燃えるような温度はなかった。スープを一口飲む時の喉の動きすら、薫には演技のように思えた。「薫さん、お味はいかがでしょうか?」美鈴が穏やかに尋ねた。礼儀正しい問いかけに、薫は小さく笑って答えた。「とても美味しいです。こんなに落ち着いた夕食は久しぶりです」礼儀を尽くした言葉だったが、心の奥では、ある確信が広がっていた。——この二人には、感情の火がない礼司はその言葉に軽く微笑んだが、再び目を伏せた。薫の中で、静かな動揺が芽吹き始めていた。それは単な
午後の陽光が応接間に柔らかく差し込み、障子越しの光と洋窓からの直射が淡いコントラストを生んでいた。絨毯の模様がほのかに浮かび、家具の木目が温かく輝いている。香ばしいお茶の湯気が、小さく揺れながらカップの縁に絡む音がした。客間の中央に置かれた大理石のテーブルに、薫と美鈴が向かい合って座っている。薫は礼儀正しく背筋を伸ばし、白磁のカップを指先で静かに回していた。美鈴は、上品な着物の裾を整えながら慎ましく頭を下げる。柔らかな会話が、春の午後の穏やかな調べとなって広がっている。「パリではどのようなご様子でしたか」美鈴の声は静謐で、瑞々しい響きを帯びていた。薫は軽く笑って、口を開いた。「街の空気も美術館もすべてが刺激的でした。特にエコール・デ・ボザール(美術学校)では、観ることと触れることの境界が薄れて…」その言葉が柔らかい振動となって響く間に、薫の瞳はふいに窓の外へと泳いだ。クッションに寄りかかったまま、まるで無意識に視線だけが移動していく様子だった。美鈴もその変化に気づいて視線をそっと向けたが、薫はすぐに再び会話に戻った。だが、窓の外にあった視線の先には、確かに礼司がいた。庭をゆっくりと歩きながら、何かを考えているような姿が見え隠れしていた。太い木枠に収まる硝子越しの光景は、ひとつの絵のようだった。庭の苔の緑と礼司の背広の黒が淡いコントラストを描き、礼司は歩を緩めたり止めたりしながら、空茅の揺れや落ちる陽光をただ受け取っていた。薫の視線はそのまま動かず、彼の存在を確認した瞬間、礼司がふいに頭を上げた。まるで薫の視線を知覚したかのようだった。その目がこちらを探そうとしているのを、薫は硝子越しに捉えていた。ただし、すぐに薫は視線を逸らした。窓の外には、庭の風情と礼司の背中だけが残されていた。沈黙はその場の空気を少しだけ変えた。湯気がカップからゆらりと立ち上る、その香りも、木漏れ日も、まるでそれが何かの前触れであるかのように深く薫の感覚の奥に沈んでいった。時間が止まったような感覚。会話の余韻を引きずるように、ふたりの沈黙が間延びしながら広間に広がる。そしてその静けさは、やがて薄いざわめ
白漆喰の壁に朝の光が淡く滲み、障子越しの書斎は墨のように静けさを湛えていた。礼司は文机の前に座り、新聞を手にしていたが、目の動きは緩慢で、行間を追っているというよりは、文字の海にただ身を預けているようだった。襖の向こうから、そっと足音が近づいてくる。衣擦れの音と、陶器のわずかな音。それだけで、誰が来たか分かる。襖がゆるりと開き、美鈴が茶盆を抱えて入ってきた。「……お茶をお持ちしました」「ありがとう」礼司は新聞を脇に寄せ、両手を膝の上に置いたまま、そのまま視線を床に落とす。美鈴は几帳面に盆を置き、湯呑を礼司の手前に差し出した。香ばしい焙じ茶の香りが、静かな空間にわずかに広がる。礼司は湯呑に手を伸ばしたが、すぐには口をつけなかった。「冷めないうちにどうぞ」「……ああ」言葉のやりとりは、それで終わった。書斎の障子の向こうでは、木立が朝の風にざわめいている。鳥の声すら、この部屋には届かない。美鈴は黙って礼司の前に座り、手を膝に揃えて置いた。その仕草は、あまりに淑やかで、完璧で、だからこそ礼司の胸に静かな圧を与える。結婚して三年。美鈴の手料理を口にし、美鈴の笑顔を受け取り、美鈴の隣に並んで人前に出ることは、もはや日常の一部だった。それでも、いや、だからこそなのか——そのすべてが、どこか遠い。「お加減は、いかがですか」「問題ないよ。君こそ、昨夜はよく眠れたかい」「はい。お陰さまで」礼司は湯呑を口に運び、ひと口だけ含んでから、再び机に戻した。温かさの感触も、喉を通るときの香りも、すべてが表面で留まっている気がする。美鈴は礼司の横顔を見ていた。その顔は、結婚前から変わらず整っていて、優しげで、冷静で、礼儀正しい。けれどその奥に何があるのか、彼女はまだ、一度も触れたことがなかった。触れようとしたことはある。たとえば結婚初夜。「…&helli