布団の中で、薫が静かに寝返りを打った。
かさ、と乾いた音が微かに布と空気の間をすべり、礼司の腕の内側に小さな背中が触れた。指先が、わずかに揺れた。
寝入っているはずの薫は、そのまま動きを止め、ぴたりと背中を礼司に預けたかたちになる。無言のまま、子どもの呼吸がゆるやかに繰り返されていた。礼司は、その背を見下ろすようにして少し体を起こしかけた。
だが、やめた。代わりに、そっと腕を伸ばした。誰かを抱くという行為が、こんなにも慎重なものだったかと、自分で驚いた。
腕が触れたのは、薫の肩甲骨のあたりだった。きゃしゃな骨の起伏の下に、微かな温もりと脈動があった。一度だけ、彼は弟の発熱に寄り添ったことがある。
だがそのときの感覚とは違っていた。これは慰めでも、見舞いでもない。礼司自身の意思で伸ばした手だった。そのまま、そっと引き寄せる。
薫の背が腕の内側にすっぽりと収まり、軽く抱きしめるような体勢になる。細い背骨の線をなぞるように、掌にぴったりと身体が密着する。
その感触に、礼司は自分の心臓がわずかに跳ねるのを感じた。「……あつく、ないかな」
囁いた声は返ってこなかった。
薫は眠ったままだった。肩がわずかに上がり下がりするたび、髪がふわりと揺れて、額のあたりに触れた。その髪の匂いが、思いのほか近かった。
微かに汗と、紙のような乾いた香りが混じる。それがなぜか、礼司の胸の奥で引っかかった。ほんの少しだけ、腕の位置をずらそうとしたときだった。
薫が小さく、ため息をついた。
その吐息が礼司の喉元にかかった。…それだけのことだった。
なのに、喉が鳴った。呼吸が、うまくできなかった。
体内の空気が一瞬止まり、脳に音がなくなった気がした。額に汗が滲んでいるわけでもないのに、礼司は首筋を拭いたくなった。
けれど、動けなか庭を見下ろす窓が開け放たれていた。春の終わり、すでに陽光は夏の輪郭を帯びていて、薫の邸の応接間には、刈りたての芝と微かな土の匂いが流れ込んでいた。窓際の椅子に、薫はいた。いつものように、黒のシャツを軽く羽織って足を組み、細い指を膝の上に添えている。手元に茶器が置かれているにもかかわらず、彼は一度も湯呑に触れようとはしなかった。視線は庭に落ち、風に揺れる若木の影を、まるで時間そのものの変化を見るように追っている。礼司は、その向かいに座っていた。ここに来るのは三たび目だが、空間はいつも静かすぎた。会話が多くなくとも、不思議と沈黙が気まずくならないのは、薫の性質によるのかもしれない。けれど今日の沈黙には、なぜかうっすらとした緊張が滲んでいた。やがて薫が、ぽつりと口を開いた。「礼司さん。あなたの肖像を描かせてくれませんか」彼の声はいつも通りだった。抑揚が乏しく、淡々とした響きの中に、どこか子供のような素直さがある。だがその言葉だけは、唐突で、礼司の心にわずかなひびを刻んだ。「……肖像画を?」確認のように返した礼司の声は、意図せず低くなった。薫は頷かなかった。ただ、視線だけをゆっくりと礼司に向けた。涼やかな双眸がまっすぐこちらを見つめてくる。その眼差しに、たじろぐ理由など本来あるはずもなかった。けれど、その時の礼司は、まるで胸の奥を探られるような気がして、まぶたの裏が微かに疼いた。「あなたを、描いてみたいのです」「……突然だな」言いながら、礼司は軽く喉を鳴らしてから湯呑に手を伸ばした。茶はすでに冷めかけていた。冷えた陶器が掌に吸い付き、温度を奪っていく。「肖像というのは、ああいう…格式ばったものか」「違います」薫は即座に答えた。「描くための形式ではなくて。見たいんです、礼司さんを。……ちゃんと」その言葉に含まれた“見る”という動詞が、妙に強調されていた気がして、礼司の背筋がわずかに硬くなる。視ら
中原邸を出たとき、東の空はまだ灰色だった。日の出には至らない、けれど夜の帳はすでに後ろへ退きはじめていて、屋敷の門前には白い霧が薄くかかっていた。礼司は背を伸ばしたまま、ふと見上げた。空気が冷たく、頬を撫でる風に草の匂いが混ざっていた。まだ朝ではなく、もう夜ではない。そんな狭間の時間が、彼の輪郭を曖昧にしていた。邸内の灯りがひとつ、廊下に残っているのが見えた。自分が出てきた部屋とは別の棟だったが、灯りは低く、まるで黙ってこちらを見送っているようだった。「……」声にはならない吐息を、彼は口元から漏らした。何もしていない。誰にも咎められていない。けれど胸の奥に、小さな棘のような感触があった。指先はまだ、薫の髪の柔らかさを覚えていた。肌に触れた瞬間の体温、あの静かな瞳がまぶたの裏に焼きついていた。夜の出来事が夢だったかのように、空が白んでいく。けれど、夢ではなかったと、礼司は足元の砂利の感触に確信する。歩き出す。街道には人影がなかった。町もまだ眠っている。けれど、鳥たちの声が高くなり、徐々に世界が目を覚ましつつあることを告げていた。なぜ、薫にあのように触れたのか。自分の手が、なぜあの瞬間、震えたのか。答えはどこにもなかった。それは欲望とも違っていた。優しさの延長線上にあるにしては、熱すぎた。理性で包み込めるような感情では、とうにない。胸の中で静かに渇きが広がっていた。水のない底の方で、音もなく亀裂が走っていくような、そんな感覚。礼司は川沿いの道へ出た。白い朝靄が、水面の上をゆるやかに流れていた。ゆるく曲がった道の先、石畳の段を降りて、礼司は土手に腰を下ろした。草に露が降りていて、袴の裾がすぐに濡れた。そのことにも気づかぬまま、彼は川を見つめていた。川は、静かだった。昨
部屋の窓には、まだ夜の帳が残っていた。障子越しに差す光はひとつもなく、外の空気すら感じさせない密やかな暗さが、室内の輪郭を溶かしていた。礼司はそこに、目を凝らしていた。布団の中、薫は静かに眠っている。熱は幾分引いたのか、額の汗も引いており、頬の紅潮もいくぶん薄れているようだった。だが呼吸は浅く、まつげの隙間からわずかに熱の名残を感じさせた。その頬の上に、礼司はそっと手を伸ばした。まだ冷たさの残る氷嚢を傍らに置き、代わりに自分の掌で薫の額を覆う。熱の有無を確かめる仕草としては自然だった。けれど、指先が頬の輪郭に沿って移動した瞬間、礼司の中に妙な引っかかりが生まれた。生え際に触れたとき、そこにあったのは熱よりも、柔らかさだった。子どもの髪の密度は細かく、絹糸のように繊細で、皮膚の上を流れる感触が微かに残った。その感触が、なぜか礼司の指先に“熱”として残った。熱とは逆の性質を持つものが、逆に火照りを伝えてくるような錯覚。指をそっと首筋に滑らせると、脈打つ動きが皮膚の下で震えた。そこに生命が在るというあまりに生々しい事実が、礼司の呼吸を浅くした。「……」声にならない音が喉の奥で渇いた。手を引けばよかった。目を逸らせばよかった。だが、引けなかった。逸らせなかった。薫の体温は、礼司の掌を通して、心臓の奥にまで染みてくるようだった。体は小さいのに、その存在は礼司の思考を圧迫するほどに大きくなっていた。少年の肩をなぞったとき、礼司の指先ははっきりと“柔らかさ”を知った。筋肉とは違う、皮膚と骨のあいだにある水分を含んだような、言葉にしがたい質感。抱きしめたときにはわからなかったものが、今は指先だけで理解できてしまう。その感触が、礼司の意識の中で輪郭を持ち始めたとき、背筋がぞっとした。手を引こうとした瞬間だった。薫が、目
布団の中で、薫が静かに寝返りを打った。かさ、と乾いた音が微かに布と空気の間をすべり、礼司の腕の内側に小さな背中が触れた。指先が、わずかに揺れた。寝入っているはずの薫は、そのまま動きを止め、ぴたりと背中を礼司に預けたかたちになる。無言のまま、子どもの呼吸がゆるやかに繰り返されていた。礼司は、その背を見下ろすようにして少し体を起こしかけた。だが、やめた。代わりに、そっと腕を伸ばした。誰かを抱くという行為が、こんなにも慎重なものだったかと、自分で驚いた。腕が触れたのは、薫の肩甲骨のあたりだった。きゃしゃな骨の起伏の下に、微かな温もりと脈動があった。一度だけ、彼は弟の発熱に寄り添ったことがある。だがそのときの感覚とは違っていた。これは慰めでも、見舞いでもない。礼司自身の意思で伸ばした手だった。そのまま、そっと引き寄せる。薫の背が腕の内側にすっぽりと収まり、軽く抱きしめるような体勢になる。細い背骨の線をなぞるように、掌にぴったりと身体が密着する。その感触に、礼司は自分の心臓がわずかに跳ねるのを感じた。「……あつく、ないかな」囁いた声は返ってこなかった。薫は眠ったままだった。肩がわずかに上がり下がりするたび、髪がふわりと揺れて、額のあたりに触れた。その髪の匂いが、思いのほか近かった。微かに汗と、紙のような乾いた香りが混じる。それがなぜか、礼司の胸の奥で引っかかった。ほんの少しだけ、腕の位置をずらそうとしたときだった。薫が小さく、ため息をついた。その吐息が礼司の喉元にかかった。…それだけのことだった。なのに、喉が鳴った。呼吸が、うまくできなかった。体内の空気が一瞬止まり、脳に音がなくなった気がした。額に汗が滲んでいるわけでもないのに、礼司は首筋を拭いたくなった。けれど、動けなか
灯りは落とされていた。スタンドの光だけがベッド脇でぼんやりと揺れ、薫の寝顔を柔らかく浮かび上がらせている。室内は深く静まり、空気に溶けるほどの温度で時間が流れていた。礼司は窓辺の椅子から立ち上がり、そっと水差しと氷嚢を手に取った。閉じきったカーテンの内側には、夜の匂いがかすかに漂っていた。濡れた葉の香り、ひやりとした布団の冷たさ。すべてが、遠い記憶をなぞるように繊細だった。氷嚢の中の氷はすでに半分ほど融けており、表面がしっとりと濡れている。布の端を持ち替え、そっと薫の額からそれを外した。熱を帯びた額が、ひどく柔らかく思えた。触れた指先にじわりと伝わる熱の輪郭に、礼司の胸がわずかにざわめく。新しい氷嚢を水にくぐらせてから布で包み、また静かに額の上に置く。その動作の間も、薫は目を開けなかった。睫毛は濃く、頬に落ちるその影はまるで絹の糸のように微細だった。布団からのぞく細い首筋、胸元にあたるシャツの第一ボタンは、眠っている間に緩んでいた。小さな喉仏が上下し、微かな寝息が漏れるたび、礼司は不思議なほど自分の呼吸を意識した。額に手を当てたのは、ほとんど無意識だった。氷嚢の下から外側へ、熱がきちんと下がっているか確かめるためだったはずなのに、指先は自然と薫の額をなぞっていた。薫の肌はひどく白い。病に伏しているせいなのか、それとももとからこうだったのか。皮膚の下で血の通う気配を感じるほどの近さに、礼司の意識は吸い寄せられた。そのとき、不意に睫毛が震えた。「……れいじ…くん……?」声はかすれていた。けれど、それが確かに自分を呼ぶ声だとわかった瞬間、礼司の胸の奥がきゅっと縮んだ。「……起こしてしまったか?」思わずそう問いかけながら、指を額から離そうとした。だが薫の目が、まっすぐに礼司を見つめていた。眠気を含んだ光がその瞳の奥に揺れていて、まるで水の底からこちらを覗いているようだった。
中原邸の門を抜けたとき、礼司の頬に冷たい風が触れた。秋の始まりの空気は昼間の名残をわずかに纏いながらも、肌を撫でる感触には確かな夜の気配が混じっていた。沈みかけた夕日が庭の植え込みを斜めに照らし、蔦の絡む塀に長い影を落としている。十四になった礼司の背丈は、大人の上衣を借りても違和感のないほどに伸びていた。肩幅はまだ線が細いが、姿勢はまっすぐで、どこか触れることをためらわせるような静けさを纏っている。まだ声変わりの途上で、言葉には柔らかさが残っていたが、目元の陰影は同年の子供たちとは違っていた。玄関にいた女中に案内を告げられる前に、礼司は軽く頭を下げて「自分で行きます」と答えた。昔から中原家は彼にとって馴染みのある場所だった。けれど今日の邸内は妙に広く、音が吸い込まれていくように静かだった。廊下をひとりで進む。壁に沿ったランプの灯りがぽつりぽつりと等間隔に点いており、その明るさが逆に、奥へと伸びる影を濃くしていた。絨毯の上を歩く礼司の靴音はほとんど聞こえず、衣擦れの音と、廊下の先にある小窓から吹き込む風が、時折木の葉の音を運ぶのみだった。薫の部屋は、廊下の最奥にある。幼い頃は一緒に押し入れに入ったり、庭で鬼ごっこをしたりもした。だが、あの頃と比べると薫は変わった。いや、変わったのはどちらなのだろう。礼司は扉の前に立ち、軽く息を吐いた。この夜の訪問は、礼司の父が中原家からの申し出に応じたものだった。薫が風邪を引いて寝込んでいると聞き、兄のように懐いている礼司を見舞いに行かせれば励みになるだろう、という。それ以上の意味は、きっと誰も込めていない。だが、扉の前に立ったままの礼司の中には、説明しようのない感情が渦巻いていた。ノックをしようとした指が、一度止まった。しなくてもいいような気がした。音を立てることが、この夜の空気を壊してしまいそうだった。結局、礼司は無言のまま、そっと取っ手を回した。