ログイン玄関を開けたとき、夕焼けに染まった空気がほんの少しだけ礼司の肩に残っていた。
まだ完全に夜になりきらぬその薄闇のなかで、美鈴は音もなく立ち上がり、襖の向こうに立つ夫の気配を迎えた。
礼司の外套の裾がわずかに揺れ、靴の音が板の間に沈む。ごく自然な帰宅の仕草だったが、美鈴の目にはそのすべてが異質に映った。
「おかえりなさいませ」
そう告げた美鈴の声に、礼司はわずかに顔を向ける。
「ただいま」
その返事はいつもよりも穏やかで、妙に柔らかかった。それなのに──美鈴の胸の奥では、氷のような予感が音もなくひび割れを起こしていた。
礼司の顔には疲れの色が浮かんでいる。だがそれは単なる肉体の疲労ではない。まなざしが澄みすぎていた。夕暮れの空を通り越した先の、もっと遠いところを見て帰ってきたような目だった。
上着を脱いで壁の掛けにかける礼司の手つきも、やけに丁寧だった。指の関節が慎重に布をつまみ、決して乱さないようにして引っかける。美鈴はその後ろ姿を見つめながら、台所へと歩いた。
やかんの湯がちょうど音を立て始めている。火を弱めて、二人分の湯呑みに茶葉を落とした。
「今夜は冷えますね」
そう言いながら、美鈴は湯を注ぐ。だが背後から返ってくる返事はない。代わりに、障子越しに紙の擦れる微かな音が聞こえた。
礼司は書斎へ向かっていた。
美鈴は膳に湯呑みを置いたまま、自分の手の指先に目を落とす。動かそうとしたが、なぜか動かなかった。
そこに、夫の持ち帰ったものの“重さ”が残っていた。
彼は最近、夕方になると中原邸から戻ってくる。その事実自体は、特に不自然ではない。中原のご子息──薫という青年に絵のモデルを頼まれている、と礼司自身の口から聞いたこともある。礼司の理知的な性格と、社交辞令を上手にかわす物腰を知っていれば、断る方が難しいと美鈴にも理解はあった。
だが──それは「話として」納得しているだけのことだった。
机に向かっている礼司の背を、美鈴は廊下の影からそっと見つめた。
薄い灯りの下、礼司の指先が静かに紙をめく
春の光が教室の大きな窓から惜しみなく差し込んでいた。淡いカーテン越しに柔らかく拡散した陽射しが、白い机や磨き上げられた床、そして生徒たちの制服の肩に降り注いでいる。窓辺のプランターには小さな花々が咲き始め、淡い風が外から入り込み、ページをめくる紙の匂いに混じって土や花の甘い香りを運んでくる。美鈴は教壇に立ち、一冊の本を両手に持っていた。声は静かでありながらよく通り、教室の隅々まで言葉が届いていた。二十人あまりの少女たちが、美鈴の語る物語に耳を傾けている。時折、窓の外で鳥のさえずりが響き、それに交じって誰かの小さな笑い声が広がる。美鈴は、ひとりひとりの顔をゆっくりと見渡した。その眼差しの奥に、かつて自分が味わった哀しみや、希望や、再出発の日々が、静かな光となって宿っていた。物語がひと区切りついたところで、美鈴は本を閉じた。薄い革表紙が小さな音を立てる。「ここまでにしましょう」柔らかな声で言うと、生徒たちはほっと息をつき、それぞれの机の上にノートや筆箱を片づけ始める。数人が「先生」と呼んで近寄り、読んだ本についての質問や、家で書いた詩を見てほしいと小さな紙片を差し出してくる。美鈴は一つ一つの声に丁寧に応えた。誰かの詩を読むときは、必ず黙って目を通し、ゆっくり言葉を返す。「言葉を大切にすると、心も大切にできます」自分がどれだけそういう言葉に救われてきたかを知っているからこそ、誰に対しても同じように静かに微笑むことができた。生徒の一人が、ふいに言った。「先生は、どうしてそんなに優しいの」美鈴は少しだけ驚き、微笑んで首を振る。「優しいなんてことはありません。ただ、みなさんと同じように、色んなことを経験してきただけです」少女はじっと美鈴を見上げていたが、やがて「わたしも先生みたいになりたい」と呟いた。その無垢な瞳に、胸が温かくなり、遠い日の自分がそこに重なるような錯覚を覚える。かつて、美鈴も誰かにそう言ったことがあった。その時の気持ちと今の気持ちは、少し
午後の光がゆるやかに傾き始めていた。礼司の事務所は、昼の名残を硝子窓に残しながら、やがて夕暮れに向かう準備をはじめている。外の通りには、下校途中の生徒たちの影が長く伸び、声のかけ合いが遠くからほのかに届く。薫は窓辺に席を移し、鉛筆を指に転がしながら、硝子越しに庭の花々を眺めていた。季節はすっかり春。陽だまりに紫のすみれが咲き、野生の白いタンポポがそよ風に揺れている。礼司は事務机に向かい、帳簿を繰りながらも、時折ペンを止めては視線を薫に投げていた。静かな午後の沈黙は、何も語らずとも互いの存在を感じさせる。薫は鉛筆を置き、両手を窓辺に投げ出した。ふと、窓の外を通り過ぎる母親と幼い子の姿に目をとめる。母親の手を引かれ、跳ねるように歩く子供は、時折振り返って陽射しに目を細めている。薫はそれを、ぼんやりと眺めながら、幼い頃の自分を重ねていた。あのころは、窓の外の世界がどこまでも広がっていた。今は、世界がこの小さな部屋と、この硝子窓の向こうに穏やかに収まっているように感じる。礼司が静かに声をかけた。「君は…どうしてそんなに描き続けるんだろう」薫は顔を上げた。問いは優しい響きを持ち、どこか微笑みを含んでいる。薫は少しだけ考えてから、窓の外に目を戻した。「…描くことが、生きることだからです」薫はゆっくりと言葉を紡ぐ。「絵を描いていると、ここがどこでもなくなる。何もかもが、紙と鉛筆の中に還っていく」「昔は、世界から何かを隠すために描いていた気がする。でも今は…ただ、あなたと同じ時間にいること、その証のように思えて」礼司は頷く。午後の光が、薫の髪に淡い金色を落としている。「君が描いているかぎり、僕も隣で生きていられる気がする」それは、長い年月をかけて築かれてきた言葉だった。礼司の手はペンを離れ、机の上で静かに組まれる。その仕草に、薫は目を細める。「私が絵
午後の光は、硝子窓を通して静かに部屋へ降り注いでいた。礼司の事務所は、書棚と古い机があるだけの質素な空間だったが、窓辺に置かれた観葉植物の葉が光を受けて透け、どこか柔らかな明るさを生んでいた。外からは遠くに電車の汽笛が聞こえ、時折、通りを歩く人の足音が微かに重なる。けれど室内は静謐で、世界の雑音はすべて窓硝子の向こうに留め置かれているようだった。礼司は大きな木製の机に向かい、積み重なった書類に目を落としていた。時折ペンを走らせ、インク壺に小さく音を立ててペン先を浸す。けれどその手はふいに止まり、ふと視線を上げる。斜向かいの席には薫が座っていた。薫は机の端に肘をつき、広げたスケッチブックに何かを描いている。真新しい鉛筆が、白い紙の上で静かに動いていた。春の光が、彼の頬と指先をやわらかく包んでいた。その表情は穏やかで、どこか夢の続きを追いかけている子供のようにも見える。礼司は小さく息をつき、また書類に向き直った。ペン先の音と、鉛筆が紙をこする微かな音が、部屋のなかに静かに響き合う。どちらも互いの気配を意識しながらも、相手の仕事や時間を邪魔しようとはしなかった。しばらくして、薫がスケッチブックをそっと閉じた。そして机の上にそのまま置き、静かに礼司のほうを振り向く。礼司はその視線に気づき、口元にやわらかな笑みを浮かべる。「まだ描くのか」礼司は冗談めかして、少しだけ眉を上げた。薫は頬をわずかに紅潮させ、ゆっくりとうなずく。「ええ。一生」ごく短い会話だった。けれど、その一言だけで、部屋の空気がいっそう温かくなる。薫は再びスケッチブックを開き、今度は少しだけ身を乗り出して、新しいページに鉛筆を滑らせた。礼司はもう一度書類に目を戻す。けれど、何行か文字を綴るうちに、ふと机の端の小さな花瓶に目がとまる。そこには、薫が散歩の途中で摘んできた野花が無造作に生けてあった。白い小さな花びらが、窓から射し込む光を受けて
夜の帳が静かに降りて、アトリエはしんとした闇に包まれていた。外では風が木の葉を揺らし、時おり窓を軽く叩く音がする。部屋の中央には、薄い布をかけたイーゼルと、先日梱包から戻ったばかりの作品たちが寄り添うように並んでいる。灯りはひとつ、窓辺のランプだけだった。淡い光が壁や天井に滲み、夜の気配と溶け合って、部屋全体を静謐な世界に変えていた。薫は窓際の椅子に腰を下ろしていた。ガラス越しの闇をぼんやりと眺めながら、新しいスケッチブックを膝の上に置いていた。紙の白さが、夜の中でいっそう際立つ。まだ何も描かれていないまっさらなページ。その余白の広さに、かすかな戸惑いと期待が同時に混じっていた。礼司がカップに熱いミルクを注いで運んでくる。湯気が二人の間でふわりと舞い、ミルクの香りがやさしく漂う。礼司は薫の隣に座り、黙って外の闇を見つめる。しばらくふたりは、何も話さなかった。窓の外をすべる風の音と、時折遠くで響く車輪のきしみ、街灯の淡い光――どれもがこの夜を守る静かな伴奏だった。薫はそっとスケッチブックの表紙を撫でる。そこには昨日までの作品の重みも、これまでの苦しみや迷いも、何ひとつ残っていない。ただ「これから」を描くための余白だけがある。「…この白さを見ると、少し怖い」薫はぽつりと呟いた。「これから描くものは、まだ誰にも見せたことのない、自分自身なんだと思う」礼司はしばし黙っていたが、やがて窓越しの夜空に視線を投げてから、柔らかく応じた。「なら、その扉を君と一緒に開けていきたい」薫は礼司を見つめ、微笑んだ。灯りが二人の間にやさしく広がる。窓の外では夜風がわずかに強くなり、ガラスがかすかに震える。スケッチブックの最初のページを、薫はそっとめくった。白い紙面が静かに現れる。その広さに、まだ何も描かれていないことが、希望にも不安にも感じられる。「…描いて
雨上がりの午後、アトリエの窓にはまだ雫の跡が残っていた。遠くで電車の音が微かに聞こえ、街路樹の葉が濡れたまま風に揺れている。薫は机の上に積まれた手紙の束を前に、静かに椅子に腰を下ろした。分厚い封筒や、薄紙の便箋、刷り込みの葉書。どれも展示会が終わってから届いたもので、送り主の名前も年齢も、色も香りもさまざまだった。礼司が紅茶を淹れ、そっと机に運んでくる。薫は小さく礼を言い、一番上の封を手に取った。淡い水色の封筒には、丸みを帯びた小さな文字が躍っていた。「先生の個展を拝見しました。あんなに堂々と男性を描いた絵を、初めて見ました。怖かったけれど、私も自分の心を描いてみたいと思いました」少女の筆跡に似ている。薫は頬が温かくなるのを感じながら、手紙をそっと机の上に戻した。次に手にしたのは、墨色の濃い封筒だった。差出人は地方の画学校に勤める教師。「生徒たちにとって、先生の展示は新しい道しるべとなりました。美しいもの、愛しいものに対して、どうして正面から向き合ってはいけないのか。改めて自分にも問いかけました」最後に「私も昔は、あなたのように絵を描きたかった」と、揺れるような筆跡で結ばれていた。礼司が手紙をのぞき込み、穏やかな声で言った。「本当に、たくさんの人が見てくれていたんだな」薫は微笑む。「こんなに、届くとは思っていなかった」礼司が隣の椅子に腰を下ろし、二人で手紙の束に目を通していく。中には熱烈な称賛や感謝の言葉だけでなく、批判も混じっていた。「公然と男を描くことが、時代に合うのか」「家庭の平和を乱すつもりか」どれも、かつて薫が一人で受け止めてきた言葉だった。しかし今は、礼司がそばにいる。重さも、痛みも、確かに分け合うことができた。夕方になると、窓の外には西日が差し始め、雲の切れ間から光が斜めに差し込む。薫はすべての手紙を読み終えたあと、深く息を吐いた。身体の奥にまだ興奮の余韻が残り、同時に、不思議な静けさが満ちて
朝の光が、アトリエの窓辺から静かに差し込んでいた。外では雀がひときわ高く鳴き、昨夜の雨が残した雫が木の葉の先にきらめいている。部屋の中はまだ柔らかい静寂に包まれ、礼司がパンを焼く香ばしい匂いがゆるやかに漂っていた。コーヒーの湯気とともに、新聞紙のインクの香りがテーブルに満ちている。薫は窓際の椅子に座り、指先でカップを持ち上げる。目の前には、昨夜のうちに箱から出した小品たちがいくつか並べられていた。どの絵も少しだけ埃をかぶり、どこか安堵したような表情を浮かべている。「熱いうちに、どうぞ」礼司がトーストを皿に盛り、そっと薫の前に置く。トーストの表面には、薫が好きな杏のジャムが透き通るように塗られていた。「ありがとう」薫は微笑み、礼司の向かいに腰を下ろす。いつもの、静かな朝のはじまりだった。だが今日は、何かが違う。夜のうちに礼司が玄関に挟まれた新聞を拾い上げ、まだ開いていないまま、机の上に置いていた。それがふたりの間で、妙な重さを持って存在していた。礼司が新聞を手に取り、文化欄をゆっくりとめくる。わずかな沈黙。薫の胸の奥で、小さな波が立つ。「…あった」礼司が低くつぶやく。薫は顔を上げ、礼司の視線の先を見つめる。紙面の中央、文化欄の大きな枠に、見覚えのある自分の名と、個展のタイトルが印刷されていた。その下に、批評家の名前。礼司は記事を指でなぞりながら、そっと声に出した。「『男性美へのまなざしが、いよいよ日本の美術界に新風を吹き込んだ』」薫は息をのんだ。新聞紙を礼司の手から受け取り、記事を細部まで読み込む。「型にとらわれぬ大胆な構図」「肉体の向こうにある精神の静けさ」「真実の愛を描き切る誠実さ」称賛の言葉が、余白も惜しまず並んでいた。「時代の新たな美の形」「真実のまなざし」どれも、これまで誰にも見てもらえなかった自分の絵に向けられた言葉だった。







