LOGIN差し迫った現実からの逃避。 その日、篠原は街で一人の青年を拾った。 食事と引き換えに一夜の快楽を提供するその青年に、心惹かれる篠原……。 ややビターな、大人の恋の物語。
View More仕事が引けた後、駅前のカフェに立ち寄ってエスプレッソマキアートを飲む。
それが、最近の篠原の日課だった。 日課……といっても、管理職でる篠原が、毎日立ち寄ることはできない。 帰宅時、店が開いていたら必ず立ち寄る──それだけだ。テラス席に腰を降ろし、道行く人々を眺めながら時を過ごす。
カップの中のコーヒーを飲み干すまでの短い時間。 なに煩わされることもなく。 なにも考えることもなく。ただ、ぼんやりと過ごす──贅沢な時間。
珍しく定刻に仕事が引けた今日は、エスプレッソをすっかり飲み干した後も、篠原はそこにとどまって街を眺めていた。
その目線が、ふと一点で止められる。
そこには、一人の青年が人待ち顔で立っている──だけなのだが。
なぜかひどく、その人物が気になった。おもむろに手元の時計に目をやって、篠原はかすかに眉を顰めた。
意識していた訳ではないが、でも確かに──彼は篠原がこの席に落ち着いた時から、既にそこにいた。もう30分以上も、彼はあの場所に立っている。
陽は暮れてしまったものの、それほど遅いという時間でもない。
約束の相手が遅れているのだろうか? それにしても、一体どういう相手との待ち合わせなのだろう?ガールフレンドとの待ち合わせだとしたら、彼の服装は、あまりにも相手に対する気遣いに欠けている──と思わざるを得ない。
洒落っ気……どころか、彼の身なりは "着のみ着のまま" に思える。 言葉を選ばなければ、みすぼらしいと言えた。態度と裏腹に、待ち人など存在していないような──そんな印象だ。
しかし、確かに彼は誰かを待っている。
駅に向けられた、彼の顔。 そこには、煌めいた表情があった。 どこかから聞こえる流行歌に合わせて、リズムを取っている爪先。 これから訪れる楽しい時間を思って浮かべられている、微笑み。そのすべてが、とても待ちぼうけを食わされている人間には見えない。
不意に……それはまるで通りがかりに突然声をかけたような感じで、その男は彼の前に現れた。
スーツにネクタイ姿の男は、どうみても彼とは別次元の身なりをしていたが──。 どうやらそれが本当に彼の待ち人だったらしく、二人は連れだって歩き出す。そうして彼の姿が人混みに消えた時、篠原は自分がずっと彼の様子を見つめていた事に気付いた。
時計に目をやると、二十分以上も経っていた。 自身に呆れてため息をつき、篠原は席を立った。§
オフィスに篠原が出勤すると、既に待機していた秘書が書類を持って現れた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」挨拶を返し、差し出された書類に目を通す。
「社長、昨日お帰りになったあと、奥様からご連絡がありました」
その何気ない一言に、篠原の手が止まった。
「……分かった」
簡潔な言葉で返し、それきり黙り込んだ篠原に、秘書はしばらく目線を当てていた。
篠原に仕える彼は、こうした時の空気の読み方も心得ている。 しばしの沈黙の後、篠原が戻してきたいくつかの書類を黙って受け取った。「午後からは会議の予定が入っております。……それから、差し出がましいようですが一度ご自分からご連絡をされた方が賢明かと思いますが……?」
それが心からの忠告だと分かっている篠原は、微かな笑みを秘書に返した。
「そのつもりは、あるんだがね」
一礼して出ていった秘書の背中を見送り、篠原は小さなため息を吐いた。
その後は特に会話もないまま、二人はマンションに戻ってきた。 風呂を済ませ、スウェット姿でリクが部屋に入ったとき、篠原は窓辺に立って外を眺めていた。「なぁ、やっぱりアンタってホントはハイソな人間で、こんなトコに住んでいるようなヤツじゃないんだろう?」 隣に立って夜景を見下ろしながら、リクが問いかける。「別に、それほど何って訳でもない。ただの……体裁を繕って生きているつまらん男さ」 自嘲気味の声音で答え、篠原は窓辺を離れてベッドの縁に腰を降ろした。「電話口で、奥さん泣いてたぞ。……俺、ちょっと意外だったな、アンタがオンナ泣かすなんてさ」「いつだって、自己中心的だよ」「その割には、電話口でずっと謝ってたぜ? 俺には関係ないけどさ、なんかあんまり気分がイイ感じの展開じゃねェよな」 篠原の隣に腰を降ろしたリクは、顔を窓に向けたままで言った。「彼女とは離婚の争議中でね。……どっちが悪い訳でもない、私は仕事にかまけていた。寂しかった彼女は他に愛情を求めてしまった。……それだけの事だ」 不意に手を伸ばして、リクは篠原の身体を仰向けに押し倒す。 そしてそのまま篠原の身体に馬乗りになると、鼻が触れ合うほど顔を寄せた。「なんか、嘘くせェ……」 眉をひそめて不審な顔のリクは、ジッと睨み付けるようにして篠原の瞳をのぞき込んでくる。「何も嘘など吐いていないがな」「……なんか、嘘くせェよ。……だって、奥さんが浮気してただ離婚するなら、何でアンタそんなに優柔不断なんだよ? すっぱり別れちまえばいいぢゃんか? こんなマンション借りて、わざわざ別居してさ。アンタが奥さんから逃げる理由が、全然無いってのに」 見透かされた事に動揺して、思わず篠原は視線を逸らせてしまう。「俺さぁ、泣いてた奥さんの声聞いて思ったんだけど、あのヒトきっとアンタのコ
「こんなモン注文したのかよ! ホントに臆面もねェな」「キミの分だからね」 答えた篠原の前を見ると、カップに入ったアイスクリームの他にコーヒーのカップがあるきりだった。「ガキ扱いするなって、言ってンのに……」「子供だと思っていたら、ラムレーズンだのブランデーチェリーだのは頼まないよ」 不審な顔のままスプーンを手に取ったリクだったが、一口食した後は、目を輝かせて食べ始めた。 その様子に、篠原はまたしても笑いをかみ殺す。「……お気に召していただけたかな?」 問いかけに、リクがハッとなってこちらをみる。 頬が見る間に紅く染まる様に、篠原はもう笑いを堪える事が出来なかった。「ちぇっ、そんなに笑う事ねェだろ。確かに美味いよ、ココのアイスは……」「どのフレーバーが一番気に入ったんだい?」「……この、チョコみたいのが混ぜてあるヤツ。でもチョコじゃねェよなコレ」「クッキー&クリームとは、定番を選ぶね。コンビニに行けば、売ってるはずだ」「へえ、覚えとこう」 長いスプーンで掬い上げアイスクリームを口に運んでいるリクは、もう店内の雰囲気と自分達との違和感の事などコロリと忘れている。「俺、いままで一人のヤツとこんなに長く過ごしたコト無かったけど、こういうのも結構面白いな」「まぁ、人生の参考にしてもらえればそれに越した事はないがね」 穏やかに笑いかけながら、この時を一番楽しんでいるのは他ならぬ自分自身なのだろうと篠原は思った。「でさぁ、俺、ココで別れた方が都合良い?」 甘味を口に運ぶ手を休めもせず、目線もグラスに注いだままで、リクは突然そう口を切る。「……えっ?」 さすがに驚きを隠せずに、篠原は顔を上げた。「だってそうだろう? 俺はアンタのところに服を弁償して貰うまでいるつもりだったし、今日ここらで買い物したからそれで目的も
週末になって、篠原はリクを連れて都心に出かけた。 ブランド店の並ぶ銀座の通りを歩きながらショーウィンドウを眺めている篠原に対し、リクは少し俯き加減で落ち着き無く後からついてくる。「どうした? 希望を言わないと、買えないぞ」「……確かに弁償しろとは言ったけどさぁ……」 言葉を濁した後、リクは篠原の側にそっと近づいてきた。「ここらの服って、俺の服よか高くねェ?」「さぁ? キミの服がいくらだったか、私は全く知らないからな」 うそぶいて、篠原は穏やかに笑う。「私が選んでは意味もないだろう? どれにするんだい?」「量販店ので良かったのに……」 ブツブツと文句を言いながらも、篠原がどうにも態度を変えない様子を見て取って、リクは開き直ったらしい。 顔を上げると、ショーウィンドウを一通り見て回り、己の好みにあった服を選び始めた。§ いくつかの店舗を回り、提げる紙袋の数が複数になったあたりで、篠原は足を止める。「一服、しようか?」「なんだよ、疲れたのか? だらしねェなぁ」 開き直った後のリクは、すっかり買い物そのものが面白くなってしまったらしく、はしゃいだ様子で次の店を物色し始めていた。「言ったろう、キミみたいに若いワケじゃないんだ」 ニッと笑って、篠原は先に立って歩き出す。「一服って、そこらの店に入るんじゃないの?」 後からついてくるリクは、さすがに銀座の土地勘など無い。 答えを返さずに篠原が入っていったのは、黄色と小豆色で縁取られた看板の掛かった可愛らしい店構えのアイスクリーム専門店だった。「なに、ココ?」「好きなんだ。ここのアイスクリームが格別ね。……さて、どれにする?」 自分達の様子と店舗の雰囲気とを比較して、リクは少しだけ眉を顰めて見せたけれど。 篠原が全く臆した様
「アンタと最初に会った時だったらさぁ、全然フツーに秘書がいるのかって思えたんだけど。でもアンタってこんなトコ住んでたりして、全然ハイソじゃないじゃんか」「一応これでも、社長なんだがね」「……うぇ?」 篠原の自己紹介に、リクは本当に子供のように床に倒れ込むと手足をジタバタと動かして見せる。「やっぱ、ワケわかんねー! アンタって全然わかんねェよ!」 ガバッと飛び起きた時には、またしても上着は半ば脱げ掛けていた。 両手を床に付き、ペタペタと四つんばいのまま戻ってきたリクは、しげしげと篠原の顔を眺める。 そうして側に寄られると、リクの身体から立ち上る微かな体温と甘やかな体臭に篠原は妙に落ち着かない気分にさせられた。「なぁ、アンタなんだってこんなトコに住んでんの? 俺、フツーは相手の生活なんて全然気になんないけど、アンタはナゾ過ぎてスッゲ気になるぜ?」「別に謎なんて何一つ無い。ただ、少しばかり怠け者で通勤時間を短縮したいだけさ」「なんか、スッゲェ嘘くせェよ、それ」 不信感丸出しの顔で、リクは篠原の顔を間近に眺め続けている。 はだけた肩と、それに続くスウェットに包まれた腰から足にかけてのラインが、ひどく艶めかしい。 己の身体が醸す色香になにも気付いていないらしいリクは、なおも顔を寄せて篠原の「ウソ」を見破る事の方に夢中だった。「近くで見たからって、嘘か本当か判るのか?」「え、だって、こうやってジッと見られると嘘吐いているヤツってソワソワするじゃん」 素直な答えに、篠原は思わず苦笑する。 例え嘘を吐いていようがいまいが、これではソワソワしない人間の方が少ないだろう。 篠原は手を伸ばすと、リクの腕を取って強く引き寄せた。「うわっ!」 四つんばいになって腕で身体を支えていたリクは、不意にバランスを崩されてあっけなく篠原の腕の中に倒れ込む。「キミはどうも、自分というものが分かっていないらしいな」「なんの事だよ?」 強引にひっくり返された事