薄明のなか、礼司は静かにシャツの袖を通していた。手首のあたりで細い布が肌に吸いつき、昨夜の熱がそこから少しずつ剥がれていくのが分かる。背中越しにはまだ仮眠用ベッドの乱れたシーツが残り、薫の髪と肌の匂いが、空気の奥にしつこく漂っていた。
静かな朝だった。アトリエにはふたり分の気配がしぶとく沈殿し、油絵具や紙の匂いと混ざり合い、特別な空間をつくっている。礼司は立ち上がり、無意識にもう一度ベッドを振り返る。シーツの皺、その中に落ちている薫の黒髪の一本――それを拾い上げ、指先で転がした。
指先にはまだ、薫の肌の感触が残っていた。胸の奥がきしむ。目を閉じれば、夜の余韻がすぐに甦る。薫の熱、囁き、涙、指の震え。礼司はそのすべてを、自分の内側に閉じ込めておきたいと思った。
だが現実は、もう戻るべき場所を主張し始めていた。
床の上には、脱ぎ捨てたままの自分の上着が落ちている。丁寧に拾い、肩にかける。静かにボタンを留める音、裾を整える音。衣擦れが耳に沁みるたび、日常が忍び寄ってくる。
窓の外では鳥が声を上げ、街の空気もゆっくりと動き始めていた。アトリエの中は、そんな外のざわめきから切り離された最後の小さな聖域だった。
薫は奥の隅に立ち、椅子にかけたシャツの襟をそっと伸ばしていた。鏡の前で髪を整える薫の手つきはどこか落ち着きがなく、しかしその表情には、不思議な静けさがあった。礼司と視線が合うと、薫は小さくうなずき、唇にわずかな微笑みを浮かべる。
礼司は、それに答えて静かにうなずく。何も言わないまま、ふたりの間に言葉を交わす代わりに、音だけがしずかに重なり合う。椅子を引く音、布のすれる音、窓の外から差し込む朝の光が床にゆらぎを落とす。
もうすぐここを離れなければならない。
礼司はゆっくりとアトリエの中を見渡す。薫が描いたスケッチ、机の上に置かれた筆やパレット、絵具の管。どれもが、昨夜の熱をほんの少しだけ留めている。
靴を履こうとして、玄関の方に向き直る。薫の視線が背中に刺さるのを感じる。だが、振り返ることはしなかった。
廊下を歩くたび、足音がやけに大きく響いた。冷たい床板が、まだ眠り足りない身体に重たく伝わる。
玄関
窓を叩く雨は、なお激しさを増していた。アトリエの床には、礼司の髪や裾から滴った水が点々としみを作っていた。薫は戸口に立ち尽くし、困惑と心配の混じった顔で、棚から清潔なタオルを取り出して手渡そうとする。「すごく濡れてます……どうして、傘を――」薫の言葉の端が揺れる。礼司はそのタオルを受け取る代わりに、薫の手首をそっと掴んだ。濡れた自分の掌が、薫の細い指を包み込む。指先は冷たく、しかしその奥に血の熱さがじんと伝わってくる。薫が驚いて小さく息を呑む。その音が、礼司の胸に火を灯す。「……タオルはいい」声はひどく低かった。けれど、その震えに薫はすぐ気づいただろう。雨のせいで冷えきったはずの身体は、いまや高熱を持ったまま薫を離さなかった。礼司は薫の手首から、指先、手の甲へと、そっと触れる場所を移していく。薫はそのたびにまぶたを閉じ、唇をきゅっと引き結んだ。礼司の髪からまだ水が垂れていた。額を伝い、頬をつたう雫が、薫の掌の上に落ちた。ふたりのあいだの空気が、重く、湿って絡みつく。礼司はその指先を自分の頬に当てた。冷たさよりも、薫の体温が欲しかった。「薫」また、その名を呼ぶ。声が揺れる。薫の黒い瞳が、真っ直ぐ礼司を見つめ返す。「……どうしたんですか、本当に。こんなに」薫の声は弱い。それが礼司の渇きをますます募らせる。答えはひとつしかなかった。「会いたくて」ただ、それだけだった。理由も言い訳もなかった。雨に濡れたことも、傘を持たずにここまで来たことも、すべてはこの一言に収束する。薫の指が微かに震える。だが、手を引こうとはしなかった。むしろ、礼司の手を受け入れようと、そっと握り返す。ふたりの指が絡み合う。静かな雨音の中で、互いの肌がぬるりと滑る。その感触に、礼司の奥底から熱が立ちのぼる。礼司はもう、薫を離さなかった。濡れたシャツの袖から腕へと、薫の体温が伝わる。どちらからともなく、ふたりの距離が縮まる。「寒いですか」薫が、ふと問う。
空は朝から重い雨雲に覆われていた。街路樹の葉の上を滑り落ちる滴、屋根を叩く水音、石畳を濡らしていく途切れのない波紋。窓の向こうで雨が景色を霞ませる中、礼司は静かに玄関を出た。傘を持たず、ただコートの襟を立てる。湿った空気が皮膚に吸いつき、足もとから靴の中へじわりと冷たさが滲みる。だがその冷たささえ、今日は感覚の輪郭を鋭くしてくれる。礼司は一度も後ろを振り返らなかった。家の奥で美鈴が朝食の後片付けをしているはずだった。彼女の気配を感じれば、足は鈍り、心は揺れただろう。しかし、今日はただ、薫のことしか考えられなかった。石畳の上を歩くたび、雨粒が足音を際立たせる。普段なら気になる濡れた裾も、白いシャツが肌にはりつく不快感も、今はすべてが薫の元へ向かう高まりの一部に思えた。頭の奥で、幾度も昨夜の薫の顔がよみがえる。あの熱、あの声、唇が震え、瞳が泣きそうに細められていた夜。罪悪感はあるはずだった。それでも、今朝の雨は、昨日の自分ごとすべてを洗い流してしまう。痛みも、迷いも、どろどろと濁った後悔も、透明な滴となって足もとへ流れていく。礼司はただ、薫の姿を求めていた。胸の奥に、焦がれるような渇きが満ちていた。雨のなかで自分が歩いていることさえ、まるで夢の続きのようだと思った。指先も、唇も、まぶたも、すべてが薫を欲しがっていた。中原邸の門前に立つ。雨粒が髪からつたって襟元を濡らす。白い石垣の上を流れ落ちる水滴の音が、呼吸と重なる。門を押し開けた瞬間、湿った空気とともに薫の家の気配が胸に満ちた。庭の青葉も、地面のぬかるみも、今は無関係だった。屋根を伝って落ちる雨音を背に、礼司はそのまままっすぐアトリエに向かう。どの扉も音を立てずに通り抜ける。誰にも出会わない。すべてが薫のいる場所へ通じているように思えた。アトリエのドアを押すと、内側にはいつもより濃く油絵具の香りが漂っていた。湿った髪から雨がぽたぽたと床に落ちる。薫は窓際でイーゼルの前に座っていた。描きかけの画布と、光の差さぬ青白い窓。振り向いた薫の瞳が、大きく揺れる。「……礼司さん」薫の声は、雨に溶けるように低く、静かだった。その声が、礼司の胸の奥を激しく突
家々の瓦が朝日にきらめきはじめ、礼司はゆっくりと歩みを進めた。川沿いの冷たい空気を抜け、街路を曲がるごとに、足は自ずと馴染みのある道をたどる。昨夜、薫と過ごした熱と甘さは、身体の奥底にしぶとく残りながら、吐く息のたびに薄れていく。しかしその余韻は消えず、歩を進めれば進めるほど、現実と非現実のあいだで自分の心が二つに裂かれるのを感じていた。住宅街の角を曲がると、朝の静寂をまとった早川家の門が視界に現れる。門柱には朝露が光り、塀越しに見える庭木の影が石畳の上に淡く伸びていた。礼司は門の前で立ち止まり、深く息を吐く。冷たい空気が喉を刺し、肺の奥にまで染み渡る。その感触のなかに、ふと昨夜の薫の匂いと体温が、奇妙なほど鮮やかに甦る。扉を押し開ければ、そこには“日常”が待っている。美鈴のいる家、整った廊下、磨かれた木の香りと、朝ごとに同じように繰り返される静かな生活。そのすべてが、これまで当たり前に積み重ねてきた現実であり、帰るべき「場所」だった。しかし今、礼司の胸の奥には、それと同じくらい強く薫の記憶が居座っている。手のひらに残る感触、唇に残る温度、ひと晩を共にしたという取り返しのつかない幸福。それを抱いたまま家へ戻ることが、どこか不自然で、どこか当然のようにも思えた。玄関に近づく。踏み石の上に一歩ずつ足を置くたび、衣擦れの音と、ポケットの中で指先が無意識に蠢く。鞄の取っ手を握る手が、微かに震えている。玄関扉の前で立ち止まり、もう一度だけ振り返る。門越しに見える外の道、その向こうにはもう薫のいるアトリエも、夜の熱もない。ただ、朝の光だけが静かに降りていた。礼司は扉の前でゆっくりと手を伸ばす。その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。罪悪感が、幸福の残り香と同時に込み上げてくる。誰にも知られたくない、誰にも告げることのない秘密――それをこの扉の向こうに持ち込むことが、許されるのかどうか分からなかった。けれど、戻るしかないのだと自分に言い聞かせる。そっと扉を押し開ける。木の軋みとともに、家の空気が流れ込む。静けさのなかに、台所から茶器の鳴る音、どこかで布団を畳む気配、そして美鈴のかすかな足音が重なる。朝の光は玄関にもやわらかく差し込み、礼司
路地を抜け、礼司はゆっくりと朝の空気に身を晒した。アトリエの重い扉を閉めてから、しばらくその場に立ち尽くしていたせいか、肌に触れる風がひどく冷たく感じられる。白んだ空にはまだ陽が昇りきらず、町並みの屋根や街路樹に淡い光がひとすじずつ落ちていた。歩き出すたび、衣擦れの音とともに、昨夜の残り香が身体の奥で揺れる。シャツの内側には薫の体温がまだ残っている気がして、胸元の鼓動がやけに意識に上った。吐く息も、指先の感覚も、どこか昨夜から変わってしまったような気がしてならなかった。歩みを進めるごとに、罪悪感が足元から這い上がってくる。アトリエで過ごした夜、薫の熱を受け入れ、肌を重ね、言葉では到底語れない何かを手に入れた幸福。だがその幸福が、礼司の胸の奥で痛みと入り混じり、心臓の奥で苦く疼いていた。住宅街を抜け、川沿いの道へ出る。朝の川面は、まだ冷たい風を受けて波打ち、陽光を細かく反射している。石畳に靴音が響き、白い息がふわりと空に溶けた。川の流れを見ていると、どこか遠い場所へ連れて行かれるような錯覚が生まれる。礼司は足を止め、手すり越しに川面を見下ろした。水の上に、薄い朝日がきらきらと反射している。昨夜の記憶が、波紋のように意識の表層に浮かんでは沈み、何度も自分を揺さぶる。薫の指の感触、唇の熱、涙まじりの声、あのベッドで感じた幸福――すべてが鮮やかで、否応なく身体の奥からこみ上げてきた。しかし同時に、その幸福の影で、強烈な罪悪感が心を締め付けている。美鈴の顔が、幾度となく脳裏に浮かぶ。彼女の静かな眼差し、朝ごとの何気ない挨拶、控えめな微笑み。今まで無意識に受け止めてきた「日常」という名の温もりが、礼司の中で形を変えて迫ってくる。自分は、何を手に入れ、何を失ったのか――。川面に映る朝日が、まぶしいほどにきらめいている。その光のまぶしさが、礼司の眼に痛い。まるで、自分のなかに隠してきた感情や欲望までも、すべて暴かれてしまうかのようだった。ふいに、風が川面を渡り、礼司の頬を撫でた。冷たい風のなかに、どこか薫の体温が紛れ込んでいるような錯覚が残る。礼司は、深く息を吸い込む。肺の奥まで冷たさが染み入り、昨夜の
薄明のなか、礼司は静かにシャツの袖を通していた。手首のあたりで細い布が肌に吸いつき、昨夜の熱がそこから少しずつ剥がれていくのが分かる。背中越しにはまだ仮眠用ベッドの乱れたシーツが残り、薫の髪と肌の匂いが、空気の奥にしつこく漂っていた。静かな朝だった。アトリエにはふたり分の気配がしぶとく沈殿し、油絵具や紙の匂いと混ざり合い、特別な空間をつくっている。礼司は立ち上がり、無意識にもう一度ベッドを振り返る。シーツの皺、その中に落ちている薫の黒髪の一本――それを拾い上げ、指先で転がした。指先にはまだ、薫の肌の感触が残っていた。胸の奥がきしむ。目を閉じれば、夜の余韻がすぐに甦る。薫の熱、囁き、涙、指の震え。礼司はそのすべてを、自分の内側に閉じ込めておきたいと思った。だが現実は、もう戻るべき場所を主張し始めていた。床の上には、脱ぎ捨てたままの自分の上着が落ちている。丁寧に拾い、肩にかける。静かにボタンを留める音、裾を整える音。衣擦れが耳に沁みるたび、日常が忍び寄ってくる。窓の外では鳥が声を上げ、街の空気もゆっくりと動き始めていた。アトリエの中は、そんな外のざわめきから切り離された最後の小さな聖域だった。薫は奥の隅に立ち、椅子にかけたシャツの襟をそっと伸ばしていた。鏡の前で髪を整える薫の手つきはどこか落ち着きがなく、しかしその表情には、不思議な静けさがあった。礼司と視線が合うと、薫は小さくうなずき、唇にわずかな微笑みを浮かべる。礼司は、それに答えて静かにうなずく。何も言わないまま、ふたりの間に言葉を交わす代わりに、音だけがしずかに重なり合う。椅子を引く音、布のすれる音、窓の外から差し込む朝の光が床にゆらぎを落とす。もうすぐここを離れなければならない。礼司はゆっくりとアトリエの中を見渡す。薫が描いたスケッチ、机の上に置かれた筆やパレット、絵具の管。どれもが、昨夜の熱をほんの少しだけ留めている。靴を履こうとして、玄関の方に向き直る。薫の視線が背中に刺さるのを感じる。だが、振り返ることはしなかった。廊下を歩くたび、足音がやけに大きく響いた。冷たい床板が、まだ眠り足りない身体に重たく伝わる。玄関
障子の向こうに淡い朝の光が射しはじめる。仮眠用ベッドの周囲はまだ夜の湿度を残しつつ、ゆっくりと透明な気配へと変わっていた。静寂と肌の温もりのあいだを、鳥のさえずりが遠くでわずかに揺れる。礼司は、薫の額に髪がかかっているのを指先でやさしく払った。寝息は整い、まぶたの奥でまだ微かな夢がつづいている。薫の肌には昨夜の名残りがほんのり残り、ふたりの間に流れる空気は、濃密な甘さを帯びていた。礼司はゆっくりとベッドに肘をつき、横顔をじっと見つめる。薫の唇の端が、無意識のうちにほのかに笑んでいる。その幸福そうな顔を前に、礼司は胸の奥に小さな安堵が湧きあがるのを感じていた。薫の睫毛が微かに震えた。やがて、ゆっくりと瞼が開き、寝起きの黒い瞳が礼司を映し出す。「……おはようございます」薫が小さく囁く。礼司は静かに微笑み、額を寄せたまま答える。「おはよう。よく眠れたか」薫はわずかに首を振る。寝ぼけ眼で天井を見つめ、そしてまた礼司の顔に視線を戻す。「眠っていたような、起きていたような……ずっと夢の中みたいでした」その声は低く、微熱を帯びていた。礼司は薫の髪をやさしく撫でる。手のひらに柔らかい感触が残り、薫はそれを受け入れるように目を閉じた。ふたりの間にしばらく言葉がなかった。薫は仰向けのまま、呼吸を静かに整えていく。礼司はその胸の起伏をじっと見守った。やがて薫が、そっと礼司の手に自分の手を重ねた。指先はやや冷えていたが、その奥には昨夜から残る熱がじんわりと感じられる。「こうしていると……不思議です。まだ現実じゃないみたいで」「現実だよ」礼司は、薫の指を軽く握る。「僕も、信じられないくらいだ」薫は短く笑った。その微笑みには安心と照れが入り混じり、昨夜の不安がほんの少しだけ和らいでいる。「……夢なら、もう少し見ていたいな」薫の呟きは、空気に溶けるように消えていった。礼司は言葉を返