LOGIN絵里はくるりと身を翻し、足早に主寝室へ逃げ込む。その慌てた後ろ姿を見送りながら、裕也の唇から低い笑い声が漏れる。漆黒の瞳には、甘やかすような優しい光が宿っていた。その夜、絵里はベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、時計のことを考え続ける。だが、彼を問い詰める気にはなれない。今、一番重要なのはじいちゃんの治療だ。それに、田中さんの怪我に関わるボイスレコーダーも探し出さなければならない。これらの問題が片付くまでは、恋愛に心を奪われている余裕などない。しかも、やるべきことは山ほどある。新エネルギーシステムの開発に加え、次世代システムチップのリリースも控えている。その上、会社が抱える潜在的な危機にも対処しなければならない。裕也はコンペの席で、水原グループとの提携を解消しないと明言してくれた。だが、恋愛であれ仕事であれ、自分自身が強くなってこそ、選択する権利も、自信も手に入れられるのだ。翌朝。絵里が目を覚ますと、驚いたことに裕也はまだ帰っていない。それどころか、朝食まで用意してくれている。鍋からは湯気が立ち上り、食欲を誘う香りが部屋いっぱいに漂っていた。絵里は白いジャケットに黒のロングスカートを合わせ、豊かな巻き髪を揺らしている。その姿は息を呑むほど美しい。だが今、その瞳には戸惑いが浮かんでいた。「どうしてまだいるの?」「妻の家にいるんだ。そんなに急いで帰る理由があるか?俺たちは不倫してるわけじゃないんだぞ」「……」裕也に毒舌を返されると、絵里はいつも言葉を失ってしまう。裕也は白いシャツの袖を肘までまくり、黒いスラックス姿で立っている。引き締まった体躯にエプロンをつけた姿はどこか家庭的で、穏やかな夫そのものだった。絵里をダイニングテーブルへ導き、椅子を引いて肩を軽く押し、座らせる。「朝食を食べてから会社へ行きなさい。そのほうが胃にも優しい」その言葉に、絵里の胸へぽっと温かなものが灯る。誰かに大切にされるこの感覚は、両親に愛されていた頃を思い出させた。絵里はコンロの前に立つ裕也を見つめる。彼はミトンをはめ、鍋で蒸していた料理を一品ずつ取り出し、丁寧に食卓へ並べていく。「お前の好きなものばかりだ。牛乳が苦手なら、豆乳でもいい」そう言ってエプロンを外す仕草まで、どこまでも優しく、
裕也の深みを帯びた瞳が絵里をじっと見つめている。その眼差しは、どこか拗ねたようでもあった。「結婚して数ヶ月で別居する夫婦なんて聞いたことがない。当然、自分の『妻』を迎えに来たんだ」絵里は唇をきゅっと結び、後ろめたさに目を伏せる。反論の言葉すら出てこない。裕也は遠慮する様子もなく、彼女の手から荷物を受け取ると、先に部屋へと入っていく。「どこに置けばいい?」「ソファにお願い」裕也は大股で歩き、あっという間に荷物をソファへ置く。荷物を見下ろす彼の表情からは、先ほどまでの沈んだ空気がすっかり消え、どこか密かに喜んでいるようにも見えた。「今日の買い物は楽しかったか?今度は俺も付き合うよ」絵里は目を細め、優しげでどこか浮き立った様子の彼を見つめながら、あの星空の腕時計のことを思い出す。無言のまま主寝室へ向かう。ほどなくして戻ってくると、上品な箱を彼へ差し出した。「これは?」裕也が視線を上げる。その目がわずかに見開かれ、瞳の奥にぱっと光が宿る。絵里は少し目を伏せて口を開く。「これ、前に用意していたあなたへの誕生日プレゼント。気に入るかどうか分からないけど」入籍した日から、裕也の腕にはいつもあの星空の腕時計があった。クローゼットのアクセサリーケースには、あらゆるブランドやデザインの時計が揃っているというのに、彼はなぜかその一本だけを愛用していた。あの頃の絵里は、それが誰か大切な人から贈られたものなのだと思い込んでいた。だからこそ、彼の誕生日にはあえて別の腕時計を選んだのだ。本音を言えば、妻である自分が贈ったものを身につけてほしいという想いがあった。「すごくいい」裕也は待ちきれない様子で箱を開ける。中には、黒い文字盤に黒いベルトを合わせた機械式腕時計が収められている。照明を受けた文字盤が美しく輝き、落ち着いたシックなデザインからも、一目で最高級品だと分かる。彼がそっと風防を撫でると、深い瞳に複雑な色がよぎり、喉仏が小さく上下する。しかし俯いたままなので、絵里には彼がどれほど喜んでいるのか分からない。「もし気に入らないなら、別のものを贈るわ」「気に入った」裕也は着けていた腕時計を外し、顔を上げて彼女へ穏やかな笑みを向ける。「絵里がくれたものなら、何だって嬉しい。お
「いいのよ。どうせ裕也のカードを切ったんだし」絵里は軽く笑う。篠は勢いよく頷く。「その通り。あいつの金はどんどん使うべきよ。こっちは海外で三ヶ月のバカンスを満喫するはずだったのに、あいつの電話一本で呼び戻されて、こき使われてるんだから」藤原グループの子会社は、表向きこそ問題なく見えたものの、実際は帳簿もプロジェクトも滅茶苦茶だった。篠が引き継いだ最初の一か月は目が回るほど忙しく、立て直すだけでも相当な苦労を強いられたらしい。少しだけ開いた車の窓から夜風が忍び込み、かすかな冷気を伴って頬を撫でていく。絵里はその心地よさに身を委ね、シートの背もたれへ頭を預ける。その時、不意にLINEの通知音が鳴る。裕也からだった。【買い物は終わって帰った?今日は楽しかった?】【まあ、楽しかったと思うよ。自分が夫のいる身だってことを忘れそうになるくらいにはね】絵里は思わず吹き出しそうになり、口元を緩める。【まだ仮採用の夫だからね。本採用まではもう少し頑張って】裕也からの返信はすぐに届く。文面からは怒っている気配など微塵も感じられない。【分かった。早く正式な絵里の夫になれるよう頑張るよ】絵里はその返信を見て、くすりと笑う。他人の目には、冷静沈着で冷酷な男に映る裕也。だが、自分の前ではまるで違う。最初こそ少し毒舌だったものの、今では大人の余裕と優しさにあふれ、呆れるほど甘やかしてくれる。まだ結婚して数か月しか経っていないというのに、裕也の態度はいつも、まるで長い年月を経て結ばれた恋人同士のような錯覚を抱かせる。とりわけ、何度でも迷うことなく自分を選んでくれるその揺るぎない姿勢は、胸の奥に火を灯すように静かに、しかし力強く燃え広がり、たまらないほどの温もりを与えてくれる。そんなことを考えながら、絵里は返信こそしないものの、手元でそっとスマホを握り締める。篠はハンドルを握りながら、小さく鼻歌を口ずさんでいる。どこか切なく、それでいて叙情的なメロディーで、思わず聴き入ってしまう。彼女は仕事のできるキャリアウーマンそのものといった雰囲気なので、絵里はてっきりジャズのような音楽を好むのだと思っていた。ふと、篠は絵里が甘い笑みを浮かべていることに気づき、眉を上げて横目でちらりと見る。「メッセージ一つでそん
裕也の表情は依然として暗く沈み、喜んでいるのか怒っているのか、その感情は読み取れない。「確かに妙だな。どうやら母は、随分と多くの秘密を抱え込んでいるらしい」長い睫毛を伏せ、瞳の奥で渦巻く感情を隠すように、それ以上は何も口にしない。章と隆は顔を見合わせ、そのまま沈黙する。二人は常に一線をわきまえていた。踏み込みすぎず、引くべきところでは引く。それが彼らの流儀であり、何より裕也は昔から聡明な男だった。現在、藤原家を巡る報道は後を絶たず、雪枝の件はすでに世間を大きく騒がせている。もはや揉み消すことなど不可能であり、無理に火消しを図れば、ネット上で陰謀論が飛び交い、かえって事態を悪化させるだけだろう。ただ、長年の付き合いである彼らは裕也の事情をよく知っている。両親から愛情を注がれずに育った彼を思うと、どうしても不憫でならなかった。一方その頃。サウナ室でたっぷりと汗を流した絵里は、至福の吐息を漏らす。透き通るような白い肌は上気して淡く赤みを帯び、その瑞々しく艶やかな姿に、篠は思わず何度も見惚れてしまう。「人と比べても仕方ないとは言うけど、本当に肌が綺麗すぎるわ。やっぱり、どれだけ努力しても生まれ持ったものには敵わないのね」篠は感嘆の声を上げる。その胸にあるのは、純粋な羨望と称賛だけだ。実際のところ、篠も色白ではある。だが、絵里と並ぶとどうしても霞んでしまう。絵里は可笑しそうに彼女を横目で見て、タオルでしなやかな首筋を拭う。「他の人が言うなら信じるけど、あなたが言うと、お世辞にしか聞こえないわ」「なんでよ。私の言葉ってそんなに信用ない?」「だって、あなた自身がすごく優秀だから。美人で仕事もできるあなたにそんなことを言われると、なんだか恐縮しちゃうのよ」サウナで頬を上気させた篠は、吹き出すように笑う。「なるほど、お互い褒め殺しってわけね」絵里は肩をすくめる。「本音を言っただけよ」篠はますます楽しそうに笑い声を上げた。絵里と過ごす時間が長くなるにつれ、篠は彼女のことをますます好きになっていた。裏表がなく、気取らず、誰に対しても誠実なのだ。「よし、褒め合いはこのくらいにして、お腹も空いたし、ご飯に行きましょ」「ええ、そうね」絵里は汗を拭き、篠と共にサウナ室を出る。身支度を整え、そのまま
篠は適当に笑ってごまかす。「裕也の恋心なんて、そこまで知るわけないじゃない。でも、これだけは断言できるわ。裕也は間違いなくいい男よ。彼と一緒にいれば、きっと幸せになれる」絵里はもともと分別のある性格だったため、それ以上追及することはなかった。ショッピングモールの上階には、背中のマッサージやサウナなどを備えたスパ施設が入っている。このエリアは高級店が多く、利用には完全予約制が採用されていた。二人はフルコースの施術を堪能し、フェイシャルケアまで終えた後、サウナ室へ向かう。普段あまり運動をしない彼女たちにとって、こうした時間は良いリフレッシュにもなる。一方、その頃。裕也が退院し、章も珍しく休みを取れたことを知った隆は、久しぶりに三人で顔を合わせようと二人を誘った。三人が訪れているのは、G市で最も高いビルにあるカフェ。窓際の席からは、どこまでも広がる海を一望できる。「裕也、一つ気になっていたことがあるんだ」隆が先に口を開く。「十年前、お前が絵里を助けた後、お母さんにH市のプロジェクトを任されて飛ばされたよな。数ヶ月後に戻ってきた時には、絵里と和也の距離が妙に近くなっていた。これって、お母さんがお前をわざと遠ざけて、その間に何か仕組んでいた可能性はないのか?」章がここまで真剣に議論へ加わるのは珍しい。「隆の言うことにも一理ある。この件については、お前自身が一番詳しい。ただ、隆の推測通りだと思うか?」裕也は足を組み、気だるげにソファへ深く腰を沈めている。その目には、底知れぬ暗い影が宿っていた。黙り込んだ時の彼は、ひどく深い雰囲気を纏い、何を考えているのか誰にも読み取れない。「確かに、絵里が和也と親しくなったのはあの頃だ。ただ、当時はまだ子供だった。和也によく懐いていたとはいえ、それが恋愛感情だったわけじゃない」当時を思い返すにつれ、裕也の纏う空気はさらに重くなる。だが、その記憶は鮮明に残っていた。「俺がH市のプロジェクトを任されたのも、突然の異動だった。母の性格を考えれば、意図的に仕組んだ可能性は十分にある」「つまり、お前自身も以前からおかしいと思っていたんだな?」隆が膝を叩く。「実は俺もずっと引っかかっていたんだ。いくらグループ会社で経験を積ませるためとはいえ、当時の俺たちはまだ十八歳
裕也は絵里の選択を尊重する。ちょうど今日は週末だった。そんな時、篠から絵里へ、会おうという電話がかかってくる。絵里は無意識に隣にいる裕也へ視線を向けた。「裕也が退院したばかりだから、時間が取れるか分からないわ」「退院したってことは、もう怪我は大丈夫なんでしょ。早く来てよ。たまには思いっきり羽を伸ばそう」篠は引き下がる様子もなく、何度も誘ってくる。その勢いに押され、絵里は渋々了承した。電話を切ると、健に指定された場所へ向かうよう伝える。ちょうど車は近くを走っていたため、健はすぐにハンドルを切った。裕也は苦笑し、薄い唇にからかうような笑みを浮かべる。「どうやら、俺からお前を奪おうとするのは男だけじゃないみたいだね」「それは、あなたの見る目が確かだったってことよ。あなたが選んだ私は、それだけ多くの人に大切にされる人間なんだから」絵里は彼の冗談に合わせて言い返す。ほんの軽口のつもりだった。だが、裕也は思いがけず真剣な表情で頷く。「絵里の言う通りだ。お前に見捨てられないように、俺はもっといい男にならないとな」「随分と危機感を持っているのね」「当然だよ。うちの絵里は、こんなにも優秀なんだから」裕也の瞳には熱が宿っている。その言葉に、ご機嫌取りや慰めなどは一切ない。ただ純粋な本心だった。彼にとって絵里は、それほどまでに輝いている存在なのだ。かつて脚本家として見せた才能も、今の経営者としての姿も、そしてエンジニアとして秘めている力も。今では市長でさえ、彼女がこれから開発するシステムに大きな期待を寄せている。ひとたび成功すれば、新エネルギー市場は国内だけでなく、世界規模で大きな変革をもたらすかもしれない。そんな絵里を前にすると、自分の存在すら小さく感じてしまうほどだった。絵里は彼の眼差しから、その言葉が偽りではないことを感じ取る。認めてもらえるということは、何よりも心の支えになる。それは彼女に、さらなる自信を与えてくれる。裕也を見つめていると、どれほど言葉を尽くしても、彼への想いを表しきれないような気がした。絵里はふいに裕也の両頬を包み込み、深く口づけをする。だが裕也は遠慮することなく、彼女の後頭部へ手を回し、その甘い吐息を貪るように受け止めた。コンコン、と車の窓ガラスが叩かれる。二人







