Masuk悟史は立ち止まったまま動かず、しばらくしてから振り返り、絵里に微笑みかける。「お嬢様を失望させるような真似はいたしません」悟史が立ち去ると、絵里の顔から作り笑いがすっと消え失せる。ピコン、とLINEの通知音が鳴る。慌ててスマホを手に取る。普段ならこの時間、裕也から昼は何を食べるのか尋ねるメッセージや、スケジュールの報告が送られてくるはずだった。だが、画面に表示されていたのは彼からではなく、霞からのメッセージだった。【絵里、もう大丈夫?】絵里の瞳に一瞬だけ落胆の色がよぎったが、何事もなかったかのように返信を打つ。【平気だよ。昨日はちょっと飲みすぎちゃって】【無事ならよかった。昨日、修司があなたを抱きかかえて連れて行ったから、本当にびっくりしたんだよ。何かあったんじゃないかって心配で】絵里は目を丸くし、そのメッセージを驚きの表情で凝視する。そんなこと、少しも記憶にない。今朝の離婚協議書のことを思い出し、ふと、何かがおかしいという違和感を覚える。すぐに霞へ電話をかけ、昨日の食事の後に何があったのかを問い詰める。霞も詳しい事情は知らなかったが、知っている限りのことを絵里に話してくれた。そこで初めて、絵里は修司が自ら自分を抱きかかえて連れ帰ったのだと知る。それなのに、裕也はそのことについて一言も触れなかった。触れたくないのか、それとも全く気にしていないのか。あるいは、私と修司の関係を誤解しているのだろうか。はっきりさせたくて裕也に電話をかけたが、何度かけても彼が電話に出ることはなかった。一方、病院では、洋二が両脚の自由を失ったことで、声を荒らげながら当たり散らしていた。運良く、彼は一命を取り留めたのだ。そして今日、ようやく意識を取り戻した。だが、残りの人生を車椅子で過ごすことになると知らされ、まるで人生そのものを奪われたかのような絶望に打ちひしがれていた。「本当に出来のいい息子だよ。たかが女一人のために、実の父親を撃つとはな!」洋二は怒りのあまり我を忘れ、顔を血のように真っ赤に染め上げている。裕也はベッドの傍らに冷淡な表情で立ち、彼が荒れ狂うのをただ静かに見下ろしている。病室の中は見るも無惨な有様だった。だが、洋二がどれほど物を投げつけようとも、裕也は眉一つ動かさな
絵里の心の奥底から、じわじわと恐怖が湧き上がってくる。口を開き、裕也を呼び止めようとする。だが、ここ最近の出来事が脳裏をよぎる。雪枝のこと、洋二のこと、そして自分が彼らに下した復讐のこと……結局、言葉は喉の奥につかえ、声にはならなかった。バタン、とドアが開いて閉まる音が耳に響き、絵里はようやく我に返る。慌てて玄関へ駆け寄り、ドアノブに手を伸ばしたものの、ふいにその動きが止まる。しばらくして、手は力なく下ろされる。うつむき、伏せられた睫毛の先から涙がこぼれ落ち、足元の床にポツリと染みを作る。裸足のまま立ち尽くす。床の冷たさが足の裏から全身へと伝わってくるが、少しも寒さは感じない。ただ、心臓を鷲掴みにされたような、ズキズキとした痛みが続く。死にたくなるほどの痛みだった。……会社に出社した絵里の顔色は、ひどく蒼白だった。それでも、裕也が用意してくれた味噌汁を飲んだおかげか、頭痛はすっかり治まっていた。その姿を見た丈裕は、思わず心配そうに眉をひそめる。「絵里様、ずいぶんと顔色が優れないようですが」絵里は何かを思い出し、心臓が激しく痛む。だが、表には出さず、静かに首を横に振る。丈裕は納得していない様子だったが、立場上それ以上追及するわけにもいかず、仕事の話に切り替える。「午後からの浅見美月さんの葬儀ですが、絵里様は本当に参列されるのですか?」絵里はハッとする。もうそんな時間になっていたのか。どんな理由であれ、最後のお別れには行きたかった。この数日、彼女は丈裕に指示を出し、南が美月の後始末をスムーズに進められるよう手配させていた。少しでも心の重荷を下ろしたかったのだ。美月の死には、少なからず自分にも責任があるのだから。「香典を用意して、その時間の予定は全部空けて。私も行くわ」「かしこまりました」丈裕が退室した後、ドアをノックして悟史が入ってくる。馴染みのある香水の匂いが漂い、絵里は書類の山から顔を上げる。「お嬢様はH自動車と提携の話を進めていたはずですが、どうして取りやめになったのですか?」悟史は椅子を引き、デスクの向かいに腰を下ろすと、足を組み、背もたれにゆったりと寄りかかる。絵里は冷ややかな視線を向けると同時に、不快げに眉をひそめる。「紫垣さんの担当プロジェク
裕也は全身を強張らせ、その場に立ち尽くす。燃え盛っていた怒りが、徐々に鎮まっていく。やがて、彼はふっと乾いた笑い声を漏らす。気が狂いそうだった。笑い終えると、血走った目のまま踵を返し、再び部屋へと戻る。自らのスーツのジャケットを脱ぎ、黒のネグリジェ一枚の絵里の身体に掛ける。そして彼女を抱き上げ、大股で部屋を後にする。修司が横から腕を伸ばし、彼の行く手を遮る。「そういう真似は、感心しないな」裕也は充血した陰鬱な瞳を向ける。その奥には、どす黒い殺気が渦巻いている。「どけ」修司は彼の視線を真っ向から受け止め、殴られて赤く腫れた口角を歪めると、身を引いて道を空ける。裕也は絵里を抱いたまま、足早に立ち去っていく。その背中を見送る修司の暗い瞳が鋭く光り、口元の笑みがすっと消え失せる。面白いのはこれからだ。裕也が絵里を抱き抱えて出てきたのを見て、健は思わず息を呑む。心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。帰りの車を運転している間、息を潜めるようにして一言も発することができなかった。後部座席から漂う裕也の気配はひどく重く、車内には凍りつくような空気が張り詰めていた。一体何があったのか、誰にも分からない。だが、絵里のその姿は、嫌でもあらぬ想像を掻き立てた……翌朝、酒から覚めた絵里は酷い頭痛と全身の倦怠感に襲われていた。だが、それ以外に体の不調はない。目を覚ますと自宅のベッドにいたが、どうやって帰ってきたのか全く思い出せなかった。覚えているのは、昨日、霞と飲みすぎたことだけだ。その後の記憶はすっぽりと抜け落ちている。身支度を整えてリビングに出ると、裕也がダイニングテーブルについている。テーブルの上には味噌汁と、一通の書類が置かれている。彼の姿を見た絵里は、ふと息を詰まらせる。言葉にできない重苦しい空気が漂っている。「昨日、すごく酔っちゃって……あなたが送ってくれたの?」絵里は歩み寄り、穏やかな声で尋ねる。ふと書類に視線を落とした瞬間、そこに記された大きな文字が目に飛び込み、彼女の顔から一気に血の気が引く。「これ、何……?」絵里は驚愕の眼差しで裕也を見つめる。それは、離婚協議書だった。やはり自分を受け入れられず、ついに決断を下したというのか。「昨日はかなり飲んでたから、味
隆は裕也に電話をかけるなり、開口一番に言い放つ。「裕也、お前また独り身に戻りたいのか?」何のことかさっぱり分からない裕也は、苛立たしげに眉をひそめる。「また何を言い出すんだ?」これ以上どうすれば、絵里に対して積極的で、大切にしていると言えるのだろうか。隆は彼の不機嫌な声色など気にも留めず、腹立たしげに言う。「どうせ離婚したいんだろ。だったらちょうどいい、修司の思い通りにさせてやれよ」鼻を鳴らす。「さっきあいつ、絵里を抱きかかえてどこかへ連れ去りやがった。そうそう、絵里はひどく酔っ払ってたぞ……」言葉を言い終わる前に、電話の向こうでプツッと通話が切れた。裕也は全身から殺気を漂わせ、大股で病院を後にすると、太い声で健に命じる。「絵里の居場所を調べろ」その険しい表情に、健は密かに息を呑む。また何か起きたのか?五分も経たないうちに、健はすでに車を走らせていた。調査結果の知らせを受け取ると、ルームミラー越しに裕也を窺う。「社長、分かりました」「どこだ?」健は急に口ごもり、ためらいを見せる。「言え!」裕也の纏う空気がひどく重く、今にも爆発しそうなほど張り詰めている。健は言わざるを得なくなり、覚悟を決めて報告する。「我が社が所有する、高級ホテルです」いいだろう!上等だ。裕也の顔色は底知れず沈み込んでいる。「さっさと向かえ」健は一瞬の躊躇も許されず、力強くアクセルを踏み込む。この仕事も、ますます割に合わなくなってきた。裕也が足早にホテルの客室前に到着すると、健はルームキーを差し出し、それ以上は動こうとしなかった。「開けろ」裕也は険しい表情のまま、鋭い眼光で固く閉ざされた扉を睨みつけている。健は無意識に生唾を飲み込んだが、逆らうことなどできるはずもなく、素早くカードをかざして鍵を開ける。ピッ、と電子音が鳴る。扉が内側に向かって、わずかに隙間を開ける。裕也は容赦なく扉を蹴り開け、大股で踏み込みながら命じる。「外で待っていろ」健はすぐさま手を伸ばし、扉を引き寄せる。これで、社長と奥様は恐らく……本当に終わりかもしれない。そこは豪華なスイートルームで、足を踏み入れると広大なリビングが広がっている。贅を尽くした内装が施され、至る所に高
ちょうど絵里も霞と久しぶりに会うところだったため、その誘いを快諾する。二人は食事をしながら、他愛のない話をする。普段は自ら進んで酒を飲むことなど滅多にない絵里だが、今日はひどく気が立っていたこともあり、霞と一緒にビールを少しあおった。霞は彼女が明らかに落ち込んでいるのを感じ取っていた。それに、絵里と裕也の件についても少し耳に入っていた。恐る恐る口を開く。「絵里、藤原社長と喧嘩でもしたの?」喧嘩?もし喧嘩をして問題が解決するなら、むしろその方がよっぽどマシだ。絵里は少し飲みすぎて、頭がくらくらしていた。透き通るように白い肌が、酒でほんのりと赤く染まり、その姿はたまらなく艶っぽく、愛らしい。「してないよ」絵里は喉の奥に何かがつかえたような息苦しさを覚え、抗いようのない巨大な無力感に包み込まれていた。鼻の奥がツンとし、瞬時に目頭が熱くなる。胸が締め付けられ、今にも泣き出してしまいそうだった。だが、泣きたくはなかった。込み上げてくる涙をぐっとこらえ、再びグラスを煽る。霞は昔から知っていた。絵里が、心の中にすべてを溜め込んでしまうタイプだということを。そうでなければ、絵里と和也が付き合っていたことなど、あんなに後になってから知るはずがなかった。ましてや、絵里と裕也が結婚していたことなど、ごく最近になるまで知らなかったのだから。しかも、極秘結婚だなんて……絵里はすっかり酔い潰れてしまった。霞が絵里を支えながら個室を出たところで、ふと、彼女の今の住所を知らないことに気がつく。スマホを取り出し、隆に電話をかけようとする。だが絵里は足元がおぼつかず、全身の体重を彼女に預けてくる。霞は絵里よりも背が低く、しかも華奢だ。絵里自身も軽いとはいえ、しっかりと支えきれるものではない。二人はあわや一緒に転びそうになったが、霞がなんとか踏ん張り、再び彼女を立たせる。その時、別の個室の扉が開く。中から修司が姿を現し、その後ろには数人の企業トップたちが続いている。「ほら、ちゃんと立ってて。先に電話かけちゃうからね」霞は何度も自分に寄りかかってくる絵里をなだめたが、電話をかける手すら空けられない。絵里の顔は真っ赤に染まり、すっかり酔っ払っている。霞に重くのしかかりながら、自分の頬を霞の頬にすり寄せ
突然、絵里の心に渦巻いていたすべての不安が、ひどく滑稽なものに思えてくる。こんな血なまぐさい憎しみの中で、自分たちの結婚生活のバランスを保とうだなんて、あまりにも無理な話だ。絵里は言葉に詰まり、胸の奥が激しく締め付けられる。もう、何も話したくなかった。ちょうどその時、章と隆がやって来る。絵里は彼らの姿を認めると、これを機にその場を離れることにする。彼女は二人に軽く頷き、挨拶を交わす。そして、裕也に向かって言った。「用事があるから、先に行くわ」裕也は暗い目を微かに細め、唇を固く結んだまま、彼女を引き留めようとはしなかった。「絵里、もう帰るのか?」隆が驚いたように声を上げる。だが絵里は答えず、彼らの横をすり抜け、足早に廊下から姿を消す。隆は戸惑いながら尋ねた。「なんだか機嫌が悪そうだったけど、お前、何か怒らせるようなことでもしたのか?」「今のこの状況で、喜べるようなことがあるとでも思うか?」裕也は彼を横目で睨みつけ、沈んだ声で吐き捨てる。章が隆の肩をポンと叩く。隆はハッとして、口をつぐむ。「お父さん、まだ目を覚まさないのか?」章が病室の中を覗き込む。裕也は唇を噛み締め、首を横に振る。その表情は冷たく、そして重苦しい。「傷が深すぎる」「きっと目を覚ますさ」隆が慰めるように言った。裕也は眉を寄せ、明らかに言葉を発する気力を失っていた。章と隆は顔を見合わせ、暗黙の了解で沈黙を守る。彼らが帰る時も、裕也はまだ病院に残っていた。その後、二人は篠と酒を飲む約束をしていた。この件について話が及んだ時、隆の不用意な一言が、篠の逆鱗に触れる。「絵里も絵里だよな。なんでまた、自分から洋二さんを追い詰めるような真似を……」ドンッ!篠は眉を吊り上げ、テーブルを拳で叩きつける。「この件と絵里に何の関係があるって言うの?百歩譲って誰かが悪いとしても、それは絵里じゃないわ。洋二さんよ」そんなことは、誰もがわかっている。だが、洋二は紛れもなく裕也の実の父親なのだ。よりによって裕也自身が引き金を引き、実の父親を撃ち傷つけ、今や生死の境を彷徨っている。誰の立場であれ、そう簡単に割り切れるものではない。「そりゃそうだけどさ。でも今、洋二さんは命を落としかけてるんだぜ