魔女の嫁入り

魔女の嫁入り

last updateLast Updated : 2026-09-20
By:  遠野例Completed
Language: Japanese
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《魔女》の娘フリス・ホーエンペルタは、幼なじみの青年シオンと結婚した。《雷光の騎士》《王権守護者》の燦然たる二つ名を戴き、立身出世も貴族の姫との結婚も思いのままだったはずの青年は、それら栄光の一切を放り投げてフリスの手を取ってくれた。 そして迎えた、由緒ある聖堂での、祝福に満ちた幸いなる婚礼の日。 「汝、新しき妻フリス――今日これより妻として夫を支え、夫を慈しみ、終生これを愛することを誓いますか」 「ひゃ……いっ! 誓いまきゅ」 《魔女》の娘は、思いっきり舌を噛んだ。 内気で引っ込み思案でおしゃべりが大の苦手で、けれど幼なじみの旦那さまが大好きな魔女のフリスと、その夫シオンとの。 相思相愛系×異世界ロマンス・ファンタジー

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Chapter 1

01.結婚しました。お相手は幼なじみの男の子です。

 わたしことフリス・ホーエンペルタの結婚は、二十二の春でした。

 お相手――旦那さまは、幼なじみの男の子です。

 本当のところ、十歳からのつきあいを――それ以来、ずっと一緒だったとはいえ――『幼なじみ』と呼んでいいのかと問われると、ちょっと返答に困ってしまうのですが。とにかくわたしと彼の間では、そういうことになっています。

 彼。

 旦那さま。

 シオンくん――シオン・ウィナザード。わたしの幼なじみで、旦那さまになるひと。わたしという『魔·女·』の運·命·。

 式を挙げたのはトスカというちいさな町の、由緒ゆいしょと歴史ある聖堂でした。

 天なる主神ライオスとその妻、地なる女神ウルリカの夫婦神を奉る、この国ではもっとも一般的な形式の聖堂。それは、この地において夫婦の婚姻を祝福するための聖堂でもありました。

 まっしろな花嫁さんのドレスを着て、すてきな礼装のシオンくんとふたりで並んで。

 祭壇の前で目を伏せ、頭を垂れて。この町トスカの、わたしにとっても顔なじみの司祭さま夫婦が唱える、祝福の祝詞に耳を澄ましていました。

「――これを以て、新しきふたりの婚姻は天と創造の主神ライオスの定めし法のもと、大地と夜明けの女神ウルリカの祝福が与えられるでしょう」

 祝詞が終わり、あとは婚礼の誓いのことば。

 聖堂の神さまの前で、愛を誓うことばを捧げるのを残すのみです。どきどきと激しく跳ねる心臓の音を体の奥に聞きながら、わたしは息を呑む心地でそのいちばん大切な瞬間を待っていました。

「汝、新しき妻フリス――今日これより妻として夫を支え、夫を慈しみ、やがてその眠りに安らかなる《死と安息の女神ネフィリール》の帳ヴェールが降るその日まで、終生これを愛することを誓いますか」

「ひゃ……いっ! 誓いまきゅ」

 …………………………。

 噛みました。

 はい。噛みました。

 噛みました! 舌を!

 あまりの痛みといたたまれなさに、両手で口を押えてぷるぷる震えるしかできないわたしでした。

 聖堂へ集まってくださった列席者のみなさまの間が戸惑いはじめたのが、背中越しにぴりぴり伝わってきます。

 あと――どなたかわたしの状況を正しく察した方がいたようで、クスっと笑いを零すのが聞こえたりもしました。消えてしまいたくなりました。

 いたまれない空気が、ざくざくと背中に刺さります。

 司祭さまは辛抱強くわたしのことばを待ってくださっていましたが、それでも突然黙ってしまったわたしに困っているのは伝わってきます。ごほんごほんとわざとらしく咳払いして、しらけて緩みはじめた聖堂の空気を窘たしなめようとなさっていたりもしました。

(ば……かっ! ばか、ばか! 何してるの、わたし……!)

 早くなんとかしなきゃいけない。わかってました。

 けれど舌が痛くて、口の中はうっすら血の味がしていて、頭の中は嵐に巻き込まれた小舟みたいにぐるぐるごうごうしていて。

 何をどうすればいいか考えがまとまりまらないまま、わたしの理性と思考は完全に目詰まりを起こしていました。

 早く言わなきゃ、という焦りだけははっきりしているのに。

 何を言えばいいか、その最初のことばが出てこないのです。

 ぎゅっと閉じた瞼の隙間から、涙が出てきました。痛いのと、情けないのとで。

 だって、だってわたし、よりもよってこんなたいせつな時に。こんな、みっともない失敗なんかして――

「フリス」

 ――と。短い呼びかけに続いて。

 ほっぺたに触れた手が、ぐいと私の頤おとがいを上向かせました。

 思わず目を開けて、「わ」と零したわたしの口を。

 彼の――シオンくんの唇が、塞いでいました。

 あんまりびっくりして、最初の数秒くらい、自分の目に見えているのがなんなのかよくわからないくらいでしたが。

 ほっぺたに触れた手と、重なった唇から伝わってくる体温、肌をくすぐるかすかな息遣いで、自分がどういうことになっているかが後から遅れてわかってきました。

 痛かったのも忘れて、真っ白になってしまいました。

 真っ白になった頭の中へ泡のようにぷかりと――真っ先に浮かんだのは、「神前の口づけって、ほんとは誓いのことばのあとだったよね……」という、つまらない段取りのことでした。

 やがて。

 唇が離れて。

 シオンくんの顔が見えました。

 わたしにとっては誰よりも素敵なかんばせ。

 いつもは左目を隠している長い前髪を上げていて、目の下で横一文字に走る古い傷跡が見えました――むかし強盗に襲われたときについた傷なのだと、いつだったかに教えてもらったことがありました。

 しっかり顔を上げて上を見ないと視線を合わせられないくらい背が高い彼は、聖堂を見渡して、通りのいい声で言いました。

「失礼しました。これが俺達の誓いです――なにぶん育ちが冒·険·者·なせいで、言葉よりは行動を重んじてしまう性分でして。つい気持ちが先走ってしまいました」

 冒険者。そう、彼は冒険者でした。

 冒険者で、戦士。《雷光の騎士》、あるいは《王権守護者》シオン・ウィナザード――と聞けば、きっとご存知の方も多くいらっしゃることでしょう。

 わたしも冒険者でした。

 彼や他のみんなにくらべたらちっぽけなつまらない冒険者でしたけど、それでもシオンくんやたいせつで大好きなお友達と一緒に、この《多島海アースシー》のあちこちを旅していました。

 ええと、でも――その、さすがにそれウソですよね?

 だいぶん苦しいウソですよね? ね、シオンくん。

 わたしなんかはそんな風に思ってしまうのですけれど、でもシオンくんは自分に一切恥じるところなんかないと宣言するみたいに堂々と胸を張って言い、それから綺麗な所作で深く頭を下げました。

「ご列席の皆様には、若輩者の不調法をお詫びいたします。ですが俺は、いえ、このシオン・ウィナザードは今の誓いを以もって我が愛しむべき比翼フリス・ホーエンペルタを妻とし、その夫として彼女を慈しみ、彼女を護り、やがてこの命の終わる時まで彼女を愛し続けることを誓約いたします」

 聖堂は静まり返っていました。

 呆気にとられたような顔つきが半分、若いふたりのことと思ってか穏やかに苦笑する顔が残り半分の半分、さらに残った半分の半分が、痛快とばかりに笑う顔――くらい、だった気がします。

 ごめんなさい。実はうろおぼえです。

 だって、わたしもこの時はシオンくんの方ばっかり見ていて、ちゃんと聖堂の方を見るなんて心の余裕はなかったのです。

 面を上げて、彼は微笑みました。

 見れたのはその横顔だけだったけれど、聖堂の奇跡をいっぱいに散りばめたみたいに輝く、すてきな微笑みでした。

「大いなる十二柱はしらの神々、その頂いただきなるライオスとウルリカの夫婦神、この世の理ことわりと愛を司る二柱ふたりよどうかご照覧あれ。

 願わくば今日この日にあなたがたの祝福を以て結ばれる比翼の絆が、遥か時の果てまで我らの手と手を結びつづけますように」

 深く頭こうべを垂れる彼へ、真っ先に拍手を贈ってくれたのは果たして誰だったのでしょうか。

 心当たりはいくつか思い当たるのですが、わたしは今もその答えを知りません。ちゃんと見て確かめられなかったのは、今でもちくりと胸を刺す後悔のひとつです。

 そして、この時は――まるで最初のひとりが呼び水になってくれたみたいに、ひとつ、またひとつと拍手の音が増えていって。

 やがて聖堂の高い天井まで埋め尽くすような万雷の拍手に変わった頃、彼はもう一度、深く一礼しました。

 わたしはそれで、ようやく我に返って――隣に立つシオンくん、これからわたしの旦那さまになるひとへ倣って深く深く頭を下げ、聖堂に満ちるいっぱいの拍手、その祝福に心から感謝していました。

 急に頭の中に広がったいっぱいの想い出とか、堰を切ったみたいに溢れ出したぐちゃぐちゃの気持ちとか、そんなものでいっぱいで。

 それ以外のこと、それ以上のことなんて、わたしは何一つできなかったし、何をすればよかったかも考えられなくて。

 そう――それが、はじまりの日。

 みっともなくて恥ずかしくて、けれど振り返ればすべてがあまりに懐かしい。

 《魔女》のわたしが幼なじみの、大好きな彼のもとへとお嫁入りした、その――何より誰より幸福な、はじまりの日のことでした。

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01.結婚しました。お相手は幼なじみの男の子です。
 わたしことフリス・ホーエンペルタの結婚は、二十二の春でした。 お相手――旦那さまは、幼なじみの男の子です。 本当のところ、十歳からのつきあいを――それ以来、ずっと一緒だったとはいえ――『幼なじみ』と呼んでいいのかと問われると、ちょっと返答に困ってしまうのですが。とにかくわたしと彼の間では、そういうことになっています。 彼。  旦那さま。 シオンくん――シオン・ウィナザード。わたしの幼なじみで、旦那さまになるひと。わたしという『魔女』の運命。 式を挙げたのはトスカというちいさな町の、由緒と歴史ある聖堂でした。 天なる主神ライオスとその妻、地なる女神ウルリカの夫婦神を奉る、この国ではもっとも一般的な形式の聖堂。それは、この地において夫婦の婚姻を祝福するための聖堂でもありました。 まっしろな花嫁さんのドレスを着て、すてきな礼装のシオンくんとふたりで並んで。 祭壇の前で目を伏せ、頭を垂れて。この町の、わたしにとっても顔なじみの司祭さま夫婦が唱える、祝福の祝詞に耳を澄ましていました。「――これを以て、新しきふたりの婚姻は天と創造の主神ライオスの定めし法のもと、大地と夜明けの女神ウルリカの祝福が与えられるでしょう」 祝詞が終わり、あとは婚礼の誓いのことば。  聖堂の神さまの前で、愛を誓うことばを捧げるのを残すのみです。どきどきと激しく跳ねる心臓の音を体の奥に聞きながら、わたしは息を呑む心地でそのいちばん大切な瞬間を待っていました。「汝、新しき妻フリス――今日これより妻として夫を支え、夫を慈しみ、やがてその眠りに安らかなる《死と安息の女神》の帳が降るその日まで、終生これを愛することを誓いますか」「ひゃ……いっ! 誓いまきゅ」 …………………………。 噛みました。 はい。噛みました。 噛みました! 舌を! あまりの痛みといたたまれなさに、両手で口を押えてぷるぷる震えるしかできないわたしでした。 聖堂へ集まってくださった列席者のみなさまの間が戸惑いはじめたのが、背中越しにぴりぴり伝わってきます。 あと――どなたかわたしの状況を正しく察した方がいたようで、クスっと笑いを零すのが聞こえたりもしました。消えてしまいたくなりました。 いたまれない空気が、ざくざくと背中
last updateLast Updated : 2026-09-01
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02.こんにちは。もしかしたら、はじめまして。この記録を読んでくれているあなたへ(1)
 拝啓。この記録を読んでくれているあなたへ。 この記録を手に取り開いたあなたは、未来のわたしでしょうか。それともシオンくん? ランディくんやユイリィちゃん、ふたりのお友達の誰かでしょうか? それとも、もしかして――あなたは、わたしが知らない遠い未来の、知らない誰かだったりするのでしょうか。そんなふうに想像してみると、なんだか胸の奥に風が吹き抜けるみたいな、とても不思議な気持ちになってしまいますね。 こんにちは。もしかしたら、はじめまして。  この記録を読んでくれているあなた。 わたしはフリス。《魔女》です。    はい、みなさんきっとよく御存じの、あの魔女です。 裾を引きずりそうなぞろりと長い長衣に三角帽子。ぐねぐね曲がった杖を持っていて、おおきなお鍋で魔法のお薬や不思議な道具を作ったりしている――そんな感じで絵本に出てくる、あの魔女です。 絵本みたいなおばあちゃんじゃないのは、その……わたし、まだ二十二歳なので。これを書いているときには。 ――ああ、でも、もしかしたら、これが読まれているときには、わたしも絵本の魔女みたいなおばあちゃんなのかもしれませんね。もしそうなら、ふくふくしたやさしい感じのおばあちゃんになれてたらいいなぁと思います。 どうでしょうか? 未来のわたし。 すてきなおばあちゃんになれていたら、嬉しいんですけれど。  ――あらためて。この記録を読んでくれているあなたへ。 そちらは今、何年の何月でしょうか。あなたのお住まいはどちらでしょうか。 わたしの方は、大陸歴八六八年の五月。大陸の東に広がる《多島海》でいちばん大きなルクテシア島にある、トスカという町でこれを書いています。 わたしのおうち――今日からは旦那さまとふたりのおうちになる家で、これを書いています。 はい。結婚しました。わたし。奥さんです。花嫁さんです。 昨日、お式を挙げました。ぴかぴかの新婚さんです。えへへ。 そちらの常識で測ってどうであるかは、今のわたしからだとさすがに分かるはずもないのですが――女性の結婚適齢期が十代の後半からといわれる当世のこの国だと、これは特別結婚の早い方ではありません。遅いほうでもないはずなので、たぶん普通くらいです。 お相手は、幼なじみの男の子です。
last updateLast Updated : 2026-09-01
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03.こんにちは。もしかしたら、はじめまして。この記録を読んでくれているあなたへ(2)
「フリスの夫の――って、これ意外と恥ずかしいな――、シオン・ウィナザードです。フリスのやることだし、どうせ周りのことばかりで自分のことは一行も書いていないと思うので、代わりに俺が彼女に関することを書いておきたいと思います。 俺から見た、俺にとっての、彼女の話です。えーと――」 わぁ、わああ。 わわ、わたしが書いたとこ見ないで……読まない、でぇ……「フリスは、冬の空色の髪と、猫みたいな金色の目をしていて、前髪を長く伸ばして目を隠してます。 ――冬の空って、凍ったみたいに白々とした薄い青色をしてるじゃないですか。フリスの髪はああいう感じのうっすらと広がるような青です。夏の暑い時なんかに見てると、涼しげでいいですね」 …………………………。「冒険してる時はそうでもないんですが、前に何年か、俺の都合でトスカに一緒にいてもらったことがあって……その時なんかは女の子らしい靴を履いたり、町の女の子みたいなおしゃれなんかしてて、そういうとこ女の子らしいなって思ってました。 もっときちんと、めいっぱいおしゃれして、それこそ本当に町の女の子らしく着飾ったら――きっと、周りの目を引くきれいな女の子になるんだろうなって。だから、フリスがいつも髪で顔を隠してるの、ちょっとだけもったいないなぁなんて思ってたんですけど」 ひゃっ? え、え?「――ほら。こうやって前髪を上げると、綺麗な顔でしょ? 金色の瞳が太陽石みたいにきらきらしてて、顔は真っ赤になってるけど目はちゃんと俺の方を見てるんです。何か……うん、可愛いなって思います。こういうところ」 し、ししししシオンくん、シオンくん! もう、もうこれくらいで! は、恥ずかしいっ……から……!「ええ? まだいろいろ」 だめっ……! も、ももももう、おわり……っ! あ……あと! そんな、これ、顔っ……絵を残すものじゃないから、ね!? だだだから前髪、ああ上げても意味、ない……ないからね!?「あ――そうか。ああ、ほんとだ、確かにそうだな」 ……おでこ
last updateLast Updated : 2026-09-01
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04.《魔女》のお店を始めます。旦那さまとふたり、薬屋さんと魔法屋さんをはじめます(1)
 これが吟遊詩人の語る物語ならば、結婚式はハッピーエンドのエピローグ。 祝福の鐘が鳴り渡り、誰もが幸せに笑ってめでたしめでたしで幕を降ろすのかもしれません。 けれど人生はそうはいきません。幸せな婚礼の後も物語は何らの斟酌なしに続いてゆきますし、もしもめでたしめでたしで幕が下りてしまったら、むしろそれは不幸な事故か何かによる悲劇の幕引きということになってしまうでしょう。 なので、ここから先はめでたしめでたしの続き。◆ 新装開店です。 トスカの町の南のはずれ。 ラウグライン大森林が間近まで迫る、周りは人家もまばらな町はずれの街道沿いに高くそびえる大樹のふもとに建つ、二階建てのちいさな家。 そこが、わたしのお店。 わたしことフリス・ホーエンペルタ――もとい、フリス・ウィナザードの薬屋さんです。 ……好きなひととおんなじ苗字って、なんだか不思議ですね。くすぐったいな。 ユイリィちゃんなんかは「フリス・ウィナザードって、あんまり音の響きがよくないね」なんて難しい顔してましたし、自分でもちょっとくらいはおんなじこと思わなくもなかったですけど――でも、そんな些細なことはいいんです。 わたしの仕事は薬師です。 薬をよろず扱い、大きな街みたいにお医者さまがいらっしゃらない郊外の町村では、医者の代行として医療の一切を担うおしごとでもあります。 そうした理由から、わかりやすいようにと薬屋の看板を出していますが。もちろんわたしは《魔女》なので、薬以外のものも作ります。 たとえば、手間いらずで簡単に火がつく火口とか。 夜眠るときに暖かい毛布とか。 食べ物が腐らないように冷やしておく冷蔵箱とか。 日々の暮らしに役立つ、魔術効果を施した道具――総じて、一般に附術工芸品と呼ばれる道具たちです。 経緯を話しだすと長くなるので要約しますが、わたしは一頃に故あって、このトスカの町で四年ほどこの
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05.《魔女》のお店を始めます。旦那さまとふたり、薬屋さんと魔法屋さんをはじめます(2)
 むかしから、人の多いところがだめでした。 知らない人ばかりの街にいるのが、だめでした。 冒険者だった頃はシオンくんが、そうでないときにはビアンカさん達――あ、いっしょに冒険していたお友達です――の誰かがそばにいてくれたから、へいきだったんですけど。でも、いつまでもそんな風にばかりなんてしていられませんものね。 トスカに戻って、昔やっていた薬屋さんのお仕事を再開したのは――この町なら少しは馴染みがあって、顔を知っているひとがたくさんいたから。 新しい環境で、新しい生活を始めるのに尻込みしそうなへなちょこのわたしでも、ここでなら踏んばれる、がんばれると思ったから。「……………………」 長く溜息をついたきり、ぴくりとも動かないわたしを心配してでしょうか。 石造りの臼に手足を生やしたみたいな、わたしの腰くらいまでの大きさの自動人形――パペットくんが、わんこが首をかしげるみたいに体を傾けてわたしを見上げてきていました。 動力源としてはめこんだ、まるい紅玉の契法晶が、くりっとした一つ目みたいでなかなか愛嬌のある子だと思います。かわいくないですか?「わたしはだいじょうぶだよ、パペットくん」 その頭を、よしよしと撫でてあげます。 パペットくんとだったら、こうして普通におしゃべりできるんですけどね。人とおしゃべりするのは、どうしても上手にできません。「フリス?」「わっ」 わたしはどれくらいぼんやりしていたのでしょう。 いつの間にか帰ってきていたシオンくんが、気づかわしげにわたしの顔を覗き込んでいました。「あ、ごめ……シオンく、ごめ、なさい。ぼーっとしてて」「そろそろ昼飯にするか? 時間もいい頃合いだし、俺もう腹が減ってきてて」「うん、わたしも……なら、何かわたし、たべるもの」
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06.新装開店、その日のできごと(1)/最初のお客さんを迎えたこと
 新装開店した《魔女》の薬屋さん。 シオンくんお手製のお昼をいただいて――ベーコンや卵なんかがいっぱい入った、ホットサンドでした――午後いちばんの開店です。 表の札を『開店』に変えて少ししたくらいに、からんからんと軽やかにドアベルを鳴らす音と共に扉を開けて、最初のお客さんが来てくれました。「こんにちは、フリスちゃん! お久しぶりねぇ」「あ、マテルおばあちゃん……っ」 みっつお隣のご近所さん。マテルおばあちゃんです。 と言っても、このあたりは一軒一軒の間がだいぶん空いているので、みっつお隣だけどそれなりに歩く距離になります。「あらためて、ご結婚おめでとう! 新婚生活はどう? 素敵な旦那さまなのは知ってるけれど、ちゃんとうまくやれてるかしら?」「ぁ、はい。な……ん、とか。なんとか、してますっ」 ああ、ごめんなさいマテルおばあちゃん。わたし見栄を張りました。 ほんとは結婚から二日目にして、お嫁さんスキルの差に打ちのめされています。「え、と……おばあちゃんは、処方箋。処方箋、ですよね。こちら、あります」「いつもありがとう。フリスちゃんがいなかった間も、ちゃあんと言いつけどおり毎日飲んでましたからね」「あ。ありがと……ござ、ます。マテルおばあちゃん」 薬師として信用してもらえてるみたいで、ちょっと嬉しかったです。 マテルおばあちゃんは長年腰を悪くしていて、痛み止めと施療のお薬を処方していました。 診察――《解析》系統の魔術を使いました――したときに、血管があまり強くない方だというのがわかってしまって、そのせいで身体を賦活するにもあまり強い薬が使えず、長い時間をかけての治療をしないといけませんでした。「ところで、どう? シオンくんは。ちゃんと優しくしてもらえてる?」「ふへぇっ?」 えっ。そこ、戻るんですか!? ああ、変な声出ちゃった……ええと、いえ、べつにどうとういうことじゃないのですけれど。「優しい、です。よ? いつも。シオン
last updateLast Updated : 2026-09-06
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07.新装開店、その日のできごと(2)/最初のお客さんを迎えたあとのこと
「うちの旦那もむかしは頼もしかったのよ? まあ……今は脚を悪くしてだらだら楽隠居だから、差し引きで帳尻が合っちゃうくらいなんだけど。こればっかりはねぇ」「え――そうなんですか? オルジーさんの脚、よくないんですか」 表情を厳しくして、シオンくんが訊きます。 それは、わたしがお薬屋さんだった頃には聞いたことのなかった話でした。 マテルおばあちゃんの旦那さんは健康がとりえみたいなひとです。おばあちゃんの腰が悪くて歩くのが辛い時は代わりに処方箋を取りに来たりされていて、とても健脚そうな足取りをしていたのを覚えています。「前の冬に無茶して足の骨を折っちゃって。骨はもうくっついたんだけど、それ以来なんだか痛むことがあるみたいなの。困った話よねぇ」 頬に手を当てて、マテルさんは溜息をつく。「でも、こればっかりは歳のこともあるし……治りが悪いのは仕方ないわよねぇって」「あのっ」 がたん、と椅子を蹴って。  わたしは身を乗り出していました。「今度っ、うう伺います。その……診察、にっ!」「あら、いいの? でも、そんな大げさにするようなことじゃ」「診察っ! したい……マテルおばあちゃんのも、ですし。腰、よくなってたら、やめていいです。かも、です。お薬」 マテルおばあちゃんはなおも頬に手を当てて考え込んでいましたが。 程なく笑って、頷いてくれました。「そうねえ……フリスちゃんがいいのなら、お願いしちゃおうかしら」「っ、はい! うかがい、ますっ」 さっそく診察の日取りを取り決め、手帳にスケジュールを書き込みます。 お店は診察に使えるお部屋がないので、わたしの診察は基本的に往診です。 どことなく一仕事を終えたすっきりしたような顔をして、マテルおばあちゃんは帰ってゆきました。  その姿が見えなくなると――急にどっと疲れがきて、わたしはくたくたとカウンターに突っ伏してしまいました。「お疲れさま」「ぅん……」「マテルさん、
last updateLast Updated : 2026-09-06
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08.新装開店、その日のできごと(3)/恋のおまじないにまつわること
 旦那さまの頼もしさをあらためて知る機会は、すぐに訪れました――困ったことに。 学校帰りの女の子たちが、連れ立ってわたしのお店へやってきたのです。 初等学校の……高学年でしょうか。 若木の枝みたいな手足が伸びかけの、十代前半くらいの女の子たちでした。 細い手足には元気がいっぱいに詰まっているみたいで、おしゃべりにさんざめききゃあきゃあとはしゃぐ声も華やかです。「――今は遠き古の時代。人里を渡り歩き《魔女術》をなりわいとした魔女たちは、祭りの近い村や里を訪っては切なる思いを抱いた少女達をその天幕へと呼び集め、胸に秘めた甘やかなる恋を叶えるためのまじないを、ひそかに伝えていたのだそうです」 その女の子達を相手にいにしえの伝承を諳んじるのは、シオンくんです。 ああいう語り部みたいなことって、わたしにはちょっとできません――いえ、魔法のお話とかだったらいくらでもできるんですけど。その、むしろ喋りすぎて迷惑かけちゃうくらいなんですけれど。「少女達の間にのみ秘めやかに伝えられたる魔女の秘儀、現代にまで失われることなく残り伝えられたるそのひとつが、この香袋であるということです」 伸びやかに語る声は澄んだ風みたいに心地よくて、カウンターからぼんやり聞いているだけのわたしでも聞き入ってしまいそうになります。 傍で語りかけられる女の子達はなおさらのことでしょう。ぽぉっと夢見るような顔をしながら、彼の手に載ったちいさな香り袋に見入っています。シオンくんの顔に見入っている子もいます……ちょっぴりもやもやします。 ――女の子向けの、恋のおまじない。そのための道具。 以前は取り扱ったことのなかったものですが、今回の新装開店にあたっていろいろ話しあった末、附術工芸品のひとつとしてお店に置こうと決まったもののひとつです。 女の子同士の間でしか話してはいけない、恋のおまじない。 実は知り合いの女の子を通して、こっそり噂を広めてもらったりもしていました。 ……と言っても、その知り
last updateLast Updated : 2026-09-07
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09.新装開店、その日のできごと(4)/あるいは、恋のおまじないにまつわること
 それぞれお目当ての『おまじない』を買った女の子達が、弾むように軽やかな足どりでお店の前から走り去っていく足音が遠ざかると――お店は急に静かになってしまいました。 シオンくんも一仕事終えて、「何かあったら呼んで」とだけ言い置いて、表での薪割りに行ってしまいました。 パペットくんも奥のお部屋のお掃除中で、お店の中はわたし一人。静かです。  カウンターからちらと商品棚の方を見遣れば、最前の女の子達が買い求めていった香り袋が目に留まります。「……………………ふぅ」 ――実際のところ。 あの香袋のおまじないにどれくらいの効果があるものなのか、当のわたしにもよくわかっていません。 さっきはシオンくんが上手に――わたしがすごく恥ずかしかったのを別にすればですけど。今も思い出しそうになると頭の中にぼわっと火がついたみたいにじたばた悶えてしまうのですけれど――あの場をおさめてくれましたが。 実感が持てずにいるのは、わたし自身がああした『おまじない』を試したことが、今まで一度もなかったせいかもしれません。 母がわたしへその血を通して伝承した、言い換えれば、いにしえの時代から脈々と魔女の血脈に受け継がれてきた《魔女術》。あのおまじないがそのひとつであることは、もちろん疑いのないことなのでしょうけれど。 でも、あの香り袋は子供のおこづかいでも買えるようなしろものです。 母や姉が自分の天幕でお手軽に商っていたのを見たこともある、そんな――ささやかなおまじないです。(いいのかなぁ……これで) ちゃんと、効果はあるんだろうか。あの子達をがっかりさせやしないだろうか。 今更ながらに後ろめたさを覚えて、頬杖をつきながら溜息を零してしまいます。 と――そんな風にしていたわたしがふと目を開けると、戸口のところに立つ女のひとがいました。「ぁっ……い、ぃいいらっしゃい、ませ……!」 いつからそこにいたのでしょう。入り口のベルが鳴る音にも気づかなかったなんて、恥ずかしいです。 そ
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10.夜に想う/あのとき、わたしが見つけたひとは(1)
「女の客がいた?」「うん……」 ようやく考えがまとまって。彼に話せると確信を持てるに至ったのは、その日の夕食も終わった夜のことでした。 食卓を置いてある広めの一部屋です。 自分がひとりで使う用に置いていた――ほんとうのところ、ひとりだった頃はあんまりきちんと使っていませんでした――方形のちいさな食卓は、ふたりぶんの食事を並べるとぎゅうぎゅうでした。 無心になる時間欲しさで作るのを引き受けたお夕飯のお皿が、ぜんぶ綺麗に空になった頃。 ようやく心を決めて、昼間にあったことを切り出せたわたしの説明をひととおり聞いてもらったところで、最前のやり取りへと至ります。 ちいさな食卓は、シオンくんが少し身を乗り出しただけでもすぐに額と額がくっついてしまいそうで。自然と頬に昇ってしまう熱を意識しながら、ちょっぴり体を引いてしまいそうになります。「入り口……お店の入り口、から」 ドアベルの音はしませんでしたが、状況からしてあの女性は、そちらからお店へ入っていたのではないかと思えました。 シオンくんは口元に手を宛がいながら、厳しい面持ちで考え込んでしまいます。「……フリスが言う女の客が来た時、俺は表で薪割りをしてた」「うん」 薪屋さんから買った薪を置く薪置き場と、使うぶんを割るための薪割り場は、お店の表側にあります。 そして、道を挟んだ反対側はラウグライン大森林の周縁がせり出すみたいになっていますが、お店がある側は平坦に開けた、遠くの畑まで見晴るかせる見通しのいい土地です。 つまり、あの女性が正面の扉からお店に入ってきたのなら、その姿はシオンくんからも見えていておかしくなかったはずなのです。「けど、フリスが言うその女の姿は見なかった――もちろん、確証を持って言えることじゃないけれど」「ううん」 そんなことない。 ふるふると、首を横に振って否定します。 シオンくんは冒険者です。
last updateLast Updated : 2026-09-08
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