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第138話:もう、嘘をつかなくていい

Auteur: Sunny
last update Date de publication: 2026-10-14 22:45:13

「玲には言わないよ」

ジャンは迷わず答えた。

「君が最初にそれを言った時点で、何か事情があるのは分かった。それに、今の状況で君が生きていることを誰かに話すべきじゃない可能性くらい、僕にも想像できる」

半分ほど開いたシャッターの向こうで、白い波が砕けていた。

潮を含んだ風が倉庫に入り込み、床に落ちた薄い布を揺らす。

ジャンは作業台の横に立ち、エマが言葉を返すのを待っていた。

「……本当に、誰にも言わない?」

「言わない」

「玲にも?」

「玲にも」

「絶対に?」

ジャンの眉が僅かに寄った。

「エレナ」

その名前に、エマの呼吸が止まった。

八年ぶりだった。

誰かが、自分に向かってその名前を呼ぶのは。

ジャンも、口にしてから暫く黙っていた。

「……僕が、君の生死に関わることで約束を破ると思う?」

低い声には、微かな痛みが滲んでいた。

エマは首を振った。

疑っているわけではなかった。

ただ、八年間、名前も過去も、絵を描いていたことさえ隠してきた。

玲にエレナの話をされても、他人の思い出を聞くように振る舞った。

秘密を守ることが、いつの間にか生きることそのものになっていた。

「……ごめん。言わな
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    昼過ぎ、秘書から翌週の予定について確認が入った。「木曜日の夕食ですが、東京へ戻られるのであれば——」「戻りません」玲は即答した。相手が僅かに言葉を止める。「承知しました。では、オンラインへ変更します」電話を切り、予定表を眺めた。この町に滞在し続ける合理的な理由は、少なくなっていた。財団の出資も決まり、フェスティバルの準備も順調に進んでいる。ほとんどの仕事は東京からでもできる。それでも、帰るという選択肢は一度も頭に浮かばなかった。エマがいる。それだけで十分だった。少し前なら、こんな自分を非合理だと判断しただろう。一人の人間に、これほど時間を使う理由などない。けれど今は、その非効率ささえ悪くないと思っている。玲は、窓の外に広がる海を見た。エレナがいなくなってから、仕事以外の時間はあまりにも均質だった。良いホテルに泊まり、良い食事を取り、世界中の人間と会う。誘われれば食事に出かけることもあったし、誰かと親しくなることもあった。けれど、翌日になればほとんど何も残っていない。昨日と今日を、区別する必要がなかった。それを退屈だとすら思わなかった。人生とは、そういうものなのだと受け入れていたから。今は違う。今日はエマから写真が届いた。昨日は、いつもより少し長く話せた。その前の日は、カフェで彼女の敬語が一瞬だけ崩れた。たったそれだけのことが、日々をまったく違うものにしていた。「……随分、簡単だったんですね」誰もいない部屋で、小さく呟く。自分の人生を、退屈ではなくすることは。午後のフェスティバルの打ち合わせでは、子どもの展示スペースについて確認が行われた。「こちらは朝倉さんからも意見をいただいています」その名前だけで、玲の視線が資料へ向いた。「どこですか」担当者が該当箇所を示す。子どもの作品を、大人の目線に合わせて並べすぎないこと。作品を見るために、大人が少し屈む高さも残すこと。子ども自身が、自分の作品を大人と同じ高さから見る必要はない。短い提案だった。玲は何度か読み直した。「これで進めてください」「承知しました」「本人にも、最終確認をお願いします」担当者が頷く。「朝倉さんへお送りします」「僕にも共有してください」言ってから、少しやりすぎかと思った。けれど、撤回しなかった。自分が出資

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    「逃げる場所も、移動する方法も、君がエマとして暮らせる環境も、全部僕が用意する」ジャンは、迷いなく言った。エマは、作業台の向こうに立つ彼を見つめた。八年前なら、その言葉を聞いても信じられなかったかもしれない。けれど、今は違う。ジャンが一度決めたことを、どれほど執念深く実行する人間なのか知っている。「……どうして、そこまでしてくれるの?」ジャンは少しだけ困ったように笑った。「八年ぶりに会えた人に、もう一度死なれたくないから」胸の奥が強く締まった。「それと、僕にも下心はある」「……何?」「安心して。玲が嫌がるような意味だけじゃない」「だけじゃない、って何」「そこは今いい」「良くない」ジャンは笑い、背後のキャンバスへ視線を向けた。その瞬間、表情が変わった。昨夜、初めてこの絵を見たときと同じ、コレクターの目だった。「君の今の絵を、もっと見たい」エマは黙った。「エレナじゃない。朝倉エマが、この先何を描くのか」ジャンの目には、昔から変わらない強い好奇心があった。「僕が君を完全に隠す。その代わり、隠れた先でも描いてほしい」「……それが条件?」「一つはね」「まだあるの?」「あるよ」当然のように言い、ジャンは海の絵を指した。「これも欲しい」「駄目」即答だった。ジャンの眉が上がる。「早いね」「これは駄目」「玲が描いてあるから?」エマは黙った。その沈黙に、ジャンの口元が僅かに歪む。「……本当に面白くないな」「何が?」「何でもない」それでも、無理に交渉を続けようとはしなかった。「この町で描く最後の一枚になるかもしれないからね。君が決めていい」エマは、少し驚いた。「欲しいけど、君の意思を無視してまで手に入れたいわけじゃない」ジャンは、もう一度絵を見る。「これからの君の作品を、一番近くで見られるなら、それくらいは譲るよ」「……すごい自信」「あるよ」「玲に知られたら怒られるよ」「玲には言わないんだろう?」その言葉で、現実に引き戻された。そうだった。玲には言えない。自分がエレナであることも、最後の一枚が危険な場所で動いていることも。そして、この町を離れるかもしれないことも。エマは、長くキャンバスを見つめた。絵の中の玲は、何も知らない。自分がまた、いなくなろうとしていることも。「…

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第142話:もう一度、消える場所

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  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第141話:終わりが近いという知らせ

    ジャンが倉庫を出てから、三十分ほど経っていた。エマは、作業台に置かれた二つのグラスを見つめていた。片方には、まだ白ワインが残っている。八年ぶりの再会。誰にも明かせなかった秘密を、ようやく一人に打ち明けられた夜だった。『おかえり』ジャンの声が、まだ耳の奥に残っている。けれど、胸の内は不思議なほど落ち着かなかった。そのとき、スマホが震えた。ジャンからだった。『ホテルに戻って、もう一度情報を確認した。明日まで待つつもりだったけど、これは君に早く話さないといけない』続けて、着信が入る。「……もしもし」『エマ。まだ倉庫?』「うん」『今から戻るよ。直接話したい』その声に、いつもの軽さはなかった。「……何があったの?」電話の向こうで、ジャンが短く息を吐く。『組織の検挙が近いという情報が入ってる』エマは、言葉を失った。八年間、ずっと待っていた知らせだった。いつか終わる。名前を隠さず、過去を恐れず、誰かを巻き込む心配をせずに生きられる日が来る。そのために、エレナを死なせた。「……本当に?」『検挙に向けて動いているのは確からしい。ただ、時期までは分からない』「いつ頃なの?」『数週間かもしれないし、もう少しかかるかもしれない。僕が持っているのは捜査情報そのものじゃない。美術市場で起きている異変と、別のルートから聞いた話を合わせたものだから』エマは、ゆっくり息を吐いた。期待してはいけない。そう言い聞かせてきた八年間だった。あと少し。もうすぐ終わる。そんな言葉を信じて、何度も時間だけが過ぎていった。それでも、指先が震えていた。「……それなら、終わるの?」ジャンはすぐには答えなかった。『主要な人間が捕まれば、状況は大きく変わると思う』「……うん」『でも、組織が一日で消えるわけじゃない。資金も、外にいる協力者も残る。君の存在が知られれば、どうなるか』「分かってる」思ったより強い声が出た。電話の向こうが静かになる。「……ごめん。でも、分かってるから」八年前、嫌というほど説明された。危険がなくなったように見えるときほど、自分で安全を判断しないこと。エレナ・カワサキが生きているという事実は、最後まで慎重に扱うこと。「……ただ」エマは、中央に置かれたキャンバスを見た。「もう少しだったのに」『何が?』答

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第140話:まだ終わっていない

    ワインの栓が抜けると、倉庫に微かな果実の香りが広がった。ジャンは紙コップへ少しだけ注ぎ、自分のグラスにも同じ量を入れる。「……乾杯」「何に?」エマが聞くと、ジャンは少し考えた。「君が生きていたことに」その答えに、胸が温かくなった。「……うん」二人は静かにグラスを合わせた。薄い白ワインは冷たく、柔らかな酸味が舌に残った。ジャンは一口飲むと、キャンバスの方へ視線を向ける。「それにしても、本当にいい絵だね」「またその話?」「だって、まだ欲しいと思ってるから」「売らないよ」「分かってる。今夜は交渉しない」「今夜は?」「明日以降は分からない」エマは呆れたように笑った。昔から、この人はそうだった。欲しい作品があれば、何年でも待つ。画家が納得するまで、無理に手放させようとはしない。けれど、諦めることもしない。「……変わらないね」エマが言うと、ジャンは少しだけ目を細めた。「君にそう言われるのは、悪くないな」二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。外では波が寄せ、遠くで船のエンジン音が低く響いている。ジャンはワインをもう一口飲み、グラスを作業台へ置いた。「……ただ、一つ話しておきたいことがある」声色が変わった。エマが顔を上げる。「何?」「最後の一枚について」その言葉に、指先が止まった。八年前。エレナが最後に描いた作品。自分の人生を変えることになった、あの一枚。「……まだ追ってるの?」「うん。ずっとね」ジャンは静かに答えた。「作品の所在も、当時の流通経路も。全部が分かったわけじゃないけど、最近になって動きがあった」「……どんな?」「八年前、君の死について調べていたときの情報と、最近追っていた作品の流通経路が繋がったんだ」エマは、グラスを置いた。ジャンは続ける。「当時、作品を動かしていた人間の一部が、別の名前で今も取引に関わっている可能性がある」「……誰?」「まだ確証はない。だから名前は出せない」ジャンの表情には、先ほどまでの柔らかさがなかった。作品の来歴を追い、関係者の証言を精査するときの、鋭い眼差しだった。「でも、それだけじゃない」エマは黙って続きを待った。「その経路を調べているうちに、君の死亡記録について、もう一度疑問を持つようになった」「……どうして?」「作品の動きが、君の死

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