LOGIN昼過ぎ、秘書から翌週の予定について確認が入った。「木曜日の夕食ですが、東京へ戻られるのであれば——」「戻りません」玲は即答した。相手が僅かに言葉を止める。「承知しました。では、オンラインへ変更します」電話を切り、予定表を眺めた。この町に滞在し続ける合理的な理由は、少なくなっていた。財団の出資も決まり、フェスティバルの準備も順調に進んでいる。ほとんどの仕事は東京からでもできる。それでも、帰るという選択肢は一度も頭に浮かばなかった。エマがいる。それだけで十分だった。少し前なら、こんな自分を非合理だと判断しただろう。一人の人間に、これほど時間を使う理由などない。けれど今は、その非効率ささえ悪くないと思っている。玲は、窓の外に広がる海を見た。エレナがいなくなってから、仕事以外の時間はあまりにも均質だった。良いホテルに泊まり、良い食事を取り、世界中の人間と会う。誘われれば食事に出かけることもあったし、誰かと親しくなることもあった。けれど、翌日になればほとんど何も残っていない。昨日と今日を、区別する必要がなかった。それを退屈だとすら思わなかった。人生とは、そういうものなのだと受け入れていたから。今は違う。今日はエマから写真が届いた。昨日は、いつもより少し長く話せた。その前の日は、カフェで彼女の敬語が一瞬だけ崩れた。たったそれだけのことが、日々をまったく違うものにしていた。「……随分、簡単だったんですね」誰もいない部屋で、小さく呟く。自分の人生を、退屈ではなくすることは。午後のフェスティバルの打ち合わせでは、子どもの展示スペースについて確認が行われた。「こちらは朝倉さんからも意見をいただいています」その名前だけで、玲の視線が資料へ向いた。「どこですか」担当者が該当箇所を示す。子どもの作品を、大人の目線に合わせて並べすぎないこと。作品を見るために、大人が少し屈む高さも残すこと。子ども自身が、自分の作品を大人と同じ高さから見る必要はない。短い提案だった。玲は何度か読み直した。「これで進めてください」「承知しました」「本人にも、最終確認をお願いします」担当者が頷く。「朝倉さんへお送りします」「僕にも共有してください」言ってから、少しやりすぎかと思った。けれど、撤回しなかった。自分が出資
***午前六時半。ニューヨークとの会議を終えた玲は、眼鏡を外して机に置いた。ノートパソコンには、投資先の財務資料と契約条件が並んでいる。夜明け前から続いた会議のせいで、目の奥に鈍い疲れが残っていた。窓の向こうでは、朝日を受けた海が白く輝いている。港町に滞在するようになってから、この景色にも随分慣れた。最初は、仕事の拠点としては不便だと思っていた。東京ならもっと条件のいい場所はいくらでもある。それでも、この町を選んだ理由は一つしかない。玲は、机に伏せていたスマートフォンへ視線を落とした。秘書からの連絡、財団の資料、フェスティバル関係者からの確認事項。その中に、探している名前はなかった。自分でも少し呆れながら、画面を伏せる。その直後、短く振動した。反射的に手に取ったものの、表示されていたのはニューヨークの弁護士だった。「……まったく」思わず笑ってしまった。仕事の連絡を待っていた頃は、こんなことはなかった。今は通知が鳴るたびに、たった一人の名前を探している。朝食を取りながら、届いたメッセージを確認した。その中に、昨夜ジャンから送られてきた連絡がある。『明日、少し時間が取れるようになった。美術館の件で話しておきたいことがあるから、直接会えないかな。帰国は一日延ばすことにしたよ』玲は、もう一度読み返した。珍しい。ジャンは一度決めた予定を、滅多に変えない。まして、ヨーロッパでの仕事を後ろへずらしてまで、この町に残るとは。何か気になる作品でも見つけたのだろうか。そう考えたところで、玲は小さく笑った。ジャンなら十分あり得る。彼は気に入った作品のためなら、飛行機の便を変えることくらい平気でする男だった。『分かりました。午後なら時間を取れます』返信を送り、予定表へ目を戻す。美術館の件であれば、直接話す方が早いこともある。それ以上、気に留めなかった。八時を過ぎる頃には、日本側の秘書との打ち合わせが始まった。国内案件、財団、フェスティバルの進捗確認。夕方からは欧州との会議も入っている。東京にいた頃より、むしろ予定は詰まっていた。移動がない分、会議と会議の間に次の仕事を入れられる。ニューヨークが終われば日本、日本が終わる頃にはヨーロッパが動き出す。気づけば一日中、誰かと話していた。それでも、不思議と以前ほど疲れ
「逃げる場所も、移動する方法も、君がエマとして暮らせる環境も、全部僕が用意する」ジャンは、迷いなく言った。エマは、作業台の向こうに立つ彼を見つめた。八年前なら、その言葉を聞いても信じられなかったかもしれない。けれど、今は違う。ジャンが一度決めたことを、どれほど執念深く実行する人間なのか知っている。「……どうして、そこまでしてくれるの?」ジャンは少しだけ困ったように笑った。「八年ぶりに会えた人に、もう一度死なれたくないから」胸の奥が強く締まった。「それと、僕にも下心はある」「……何?」「安心して。玲が嫌がるような意味だけじゃない」「だけじゃない、って何」「そこは今いい」「良くない」ジャンは笑い、背後のキャンバスへ視線を向けた。その瞬間、表情が変わった。昨夜、初めてこの絵を見たときと同じ、コレクターの目だった。「君の今の絵を、もっと見たい」エマは黙った。「エレナじゃない。朝倉エマが、この先何を描くのか」ジャンの目には、昔から変わらない強い好奇心があった。「僕が君を完全に隠す。その代わり、隠れた先でも描いてほしい」「……それが条件?」「一つはね」「まだあるの?」「あるよ」当然のように言い、ジャンは海の絵を指した。「これも欲しい」「駄目」即答だった。ジャンの眉が上がる。「早いね」「これは駄目」「玲が描いてあるから?」エマは黙った。その沈黙に、ジャンの口元が僅かに歪む。「……本当に面白くないな」「何が?」「何でもない」それでも、無理に交渉を続けようとはしなかった。「この町で描く最後の一枚になるかもしれないからね。君が決めていい」エマは、少し驚いた。「欲しいけど、君の意思を無視してまで手に入れたいわけじゃない」ジャンは、もう一度絵を見る。「これからの君の作品を、一番近くで見られるなら、それくらいは譲るよ」「……すごい自信」「あるよ」「玲に知られたら怒られるよ」「玲には言わないんだろう?」その言葉で、現実に引き戻された。そうだった。玲には言えない。自分がエレナであることも、最後の一枚が危険な場所で動いていることも。そして、この町を離れるかもしれないことも。エマは、長くキャンバスを見つめた。絵の中の玲は、何も知らない。自分がまた、いなくなろうとしていることも。「…
翌朝。ジャンは、約束していた時刻より少し早く倉庫へやって来た。薄いニットにジャケットを羽織り、手には紙袋を提げている。「朝ごはん。まだ食べてないだろうと思って」「……よく分かったね」「昔から、考え事をすると食べなくなるから」エマは苦笑しながら紙袋を受け取った。中には焼きたてのパンと、温かいコーヒーが入っていた。昨夜の電話を切ってから、ほとんど眠れなかった。それでも、こうして目の前にジャンがいると、不思議と少しだけ安心する。「……昨日の話だけど」エマが切り出すと、ジャンは頷いた。「フェスティバルの件だね」作業台に資料を広げる。出資が決まってから、企画規模は大きくなった。開催期間も延び、海外から招く美術関係者も増えている。「この中に、仲介役として利用されている人間がいる可能性がある」ジャンは、欧州からの招待者一覧を指した。「展示そのものとは関係ない。世界中の美術関係者が集まれば、誰と会っていても不自然じゃないからね」「……ここで取引するの?」「分からない。ただ、買い手を探すだけなら十分あり得る」エマは、資料に並んだ名前を見つめた。自分たちが町のために大きくしようとしている催し。その中へ、八年前の事件に繋がる人間が入り込むかもしれない。「……玲は?」ジャンが顔を上げた。「やっぱり最初にそれなんだ」「ジャン」「分かってる」彼は小さく息を吐いた。「玲は今も、最後の一枚を追ってる」胸が強く鳴った。「どこまで?」「かなり近い。買い手として、話がまとまれば彼に渡る可能性がある」「駄目」考えるより先に声が出た。「絶対に駄目。玲には買わせないで」「僕もそのつもりだよ」「だったら——」「だから困ってる」ジャンの声が重なった。「玲は、エレナの作品のことになると異常なくらい執念深い」知っている。最後の一枚以外、公式に認められた作品をすべて手元へ集めた人。八年間、それでも最後の一枚だけを諦めなかった。「それに、今は君がいる」「……私?」「玲が君に夢中なのは、本人以外もみんな分かってるよ」エマは黙った。最近の玲は、以前よりずっと素直に気持ちを伝えてくる。会いたい。知りたい。近くにいたい。拒まれれば引くけれど、諦めたわけではないと分かる距離に、いつもいる。「もし最後の一枚と、エマと、エレナ
ジャンが倉庫を出てから、三十分ほど経っていた。エマは、作業台に置かれた二つのグラスを見つめていた。片方には、まだ白ワインが残っている。八年ぶりの再会。誰にも明かせなかった秘密を、ようやく一人に打ち明けられた夜だった。『おかえり』ジャンの声が、まだ耳の奥に残っている。けれど、胸の内は不思議なほど落ち着かなかった。そのとき、スマホが震えた。ジャンからだった。『ホテルに戻って、もう一度情報を確認した。明日まで待つつもりだったけど、これは君に早く話さないといけない』続けて、着信が入る。「……もしもし」『エマ。まだ倉庫?』「うん」『今から戻るよ。直接話したい』その声に、いつもの軽さはなかった。「……何があったの?」電話の向こうで、ジャンが短く息を吐く。『組織の検挙が近いという情報が入ってる』エマは、言葉を失った。八年間、ずっと待っていた知らせだった。いつか終わる。名前を隠さず、過去を恐れず、誰かを巻き込む心配をせずに生きられる日が来る。そのために、エレナを死なせた。「……本当に?」『検挙に向けて動いているのは確からしい。ただ、時期までは分からない』「いつ頃なの?」『数週間かもしれないし、もう少しかかるかもしれない。僕が持っているのは捜査情報そのものじゃない。美術市場で起きている異変と、別のルートから聞いた話を合わせたものだから』エマは、ゆっくり息を吐いた。期待してはいけない。そう言い聞かせてきた八年間だった。あと少し。もうすぐ終わる。そんな言葉を信じて、何度も時間だけが過ぎていった。それでも、指先が震えていた。「……それなら、終わるの?」ジャンはすぐには答えなかった。『主要な人間が捕まれば、状況は大きく変わると思う』「……うん」『でも、組織が一日で消えるわけじゃない。資金も、外にいる協力者も残る。君の存在が知られれば、どうなるか』「分かってる」思ったより強い声が出た。電話の向こうが静かになる。「……ごめん。でも、分かってるから」八年前、嫌というほど説明された。危険がなくなったように見えるときほど、自分で安全を判断しないこと。エレナ・カワサキが生きているという事実は、最後まで慎重に扱うこと。「……ただ」エマは、中央に置かれたキャンバスを見た。「もう少しだったのに」『何が?』答
ワインの栓が抜けると、倉庫に微かな果実の香りが広がった。ジャンは紙コップへ少しだけ注ぎ、自分のグラスにも同じ量を入れる。「……乾杯」「何に?」エマが聞くと、ジャンは少し考えた。「君が生きていたことに」その答えに、胸が温かくなった。「……うん」二人は静かにグラスを合わせた。薄い白ワインは冷たく、柔らかな酸味が舌に残った。ジャンは一口飲むと、キャンバスの方へ視線を向ける。「それにしても、本当にいい絵だね」「またその話?」「だって、まだ欲しいと思ってるから」「売らないよ」「分かってる。今夜は交渉しない」「今夜は?」「明日以降は分からない」エマは呆れたように笑った。昔から、この人はそうだった。欲しい作品があれば、何年でも待つ。画家が納得するまで、無理に手放させようとはしない。けれど、諦めることもしない。「……変わらないね」エマが言うと、ジャンは少しだけ目を細めた。「君にそう言われるのは、悪くないな」二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。外では波が寄せ、遠くで船のエンジン音が低く響いている。ジャンはワインをもう一口飲み、グラスを作業台へ置いた。「……ただ、一つ話しておきたいことがある」声色が変わった。エマが顔を上げる。「何?」「最後の一枚について」その言葉に、指先が止まった。八年前。エレナが最後に描いた作品。自分の人生を変えることになった、あの一枚。「……まだ追ってるの?」「うん。ずっとね」ジャンは静かに答えた。「作品の所在も、当時の流通経路も。全部が分かったわけじゃないけど、最近になって動きがあった」「……どんな?」「八年前、君の死について調べていたときの情報と、最近追っていた作品の流通経路が繋がったんだ」エマは、グラスを置いた。ジャンは続ける。「当時、作品を動かしていた人間の一部が、別の名前で今も取引に関わっている可能性がある」「……誰?」「まだ確証はない。だから名前は出せない」ジャンの表情には、先ほどまでの柔らかさがなかった。作品の来歴を追い、関係者の証言を精査するときの、鋭い眼差しだった。「でも、それだけじゃない」エマは黙って続きを待った。「その経路を調べているうちに、君の死亡記録について、もう一度疑問を持つようになった」「……どうして?」「作品の動きが、君の死