「冬真君、藤宮さんとの関係修復は、まだうまくいっていないのかな?」先ほどの大奧様の夕月への当たり方、そして夕月の冬真への態度を、株主たちは全て目撃していた。すでに何人かの株主は、大奧様に直接説得を試みていた。「永川理事長も夏目博士も直々に出迎えに来られたというのに、あんな態度を取るなんて何を考えているんですか!」株主たちには大奧様の行動が理解できず、先ほどは自分が代わりに夕月の義母になってやりたいとさえ思ったほどだった。「あの子が私を見下すような目で見てきたのよ!」大奧様は先ほどの夕月の眼差しを思い出し、まだ腹立たしげだった。自分の態度に何の問題もないと思い込み、むしろ自分が不当な扱いを受けたと信じているようだった。「私は所詮、あの子の姑なのよ!」「元姑です!」株主が即座に訂正した。「あの子は七年間も私の嫁だったのよ。一日の師は一生の父というでしょう?七年も姑をしてきたんだから、もう少し孝行してもいいはずよ。そもそも離婚を騒ぎ立てて迫ってきたのは、あの子の方でしょう」大奧様は唾を吐くような仕草で続けた。「田舎育ちの娘なんて、七年教え込んでも、礼儀作法の何もわかっちゃいない」株主たちは一様に不快そうな表情を浮かべた。「藤宮さんは今やサミットの上客なんですよ。社長まで追い出される羽目になりたいんですか?」「永川理事長だって、ただの脅しでしょう……」大奧様は聞く耳を持たなかった。株主たちは諦めて、傍らに立つ楓に視線を向けた。「藤宮さんの妹さん」ある株主が冷ややかに警告した。「冬真君に余計な面倒を引き起こすのは、おやめになった方が」別の株主が嫌悪感を露わにして尋ねた。「そもそもビジネス界とは無縁の方が、なぜここにいるんです?誰が連れてきたんですか?」「冬真さんが連れてきてくださいました!」楓は胸を張って答えた。株主たちは再び冬真を詰め寄った。「CTOのオファーはどうなった?先週の食事で和解できたのか?」「和解なんてできてないでしょう。今日の藤宮さんの態度を見れば明らかじゃないですか」株主たちの声が飛び交う中、冬真の険しい表情は闇を帯びていった。「彼女にCTOが務まるとは思えない」冬真は依然として自分の判断を曲げなかった。グループの将来を考えての決断だと信じ込んでいた。「CTOってどんな役職
二階の豪華絢爛な会議室で:夕月は出席している学界の重鎮や高官一人一人に丁重な挨拶を交わした。席に着くと、大物たちが次々と誘いの言葉を投げかけてきた。夕月は凌一に視線を向け、長い睫毛の下から輝く瞳で見つめながら、「私の志望は日興研究センターです」と言い切った。一瞬、場が凍りついた。夕月の狙いは明確だった。しかし、いきなり最難関に挑むとは。重鎮たちは息を潜めて見守った。凌一が夕月の日興研究センター入りを認めるのかどうか。夕月はバッグから一冊の資料を取り出し、凌一の元へと歩み寄った。「これが、私からの入門試験です」凌一は差し出された資料に目を通し、一瞬だけ驚きの色を見せた。「藤宮テックの株式目論見書?」凌一は夕月が実家の企業の目論見書を持ってきた意図を測りかねていた。「日興の研究には様々なレアメタルが必要で、多くの実験が極秘で行われていると聞いています。そして父の会社は、それらの重要な金属資源を掌握しています」凌一は資料を夕月に返そうとした。「君の父親の会社は信用できない」夕月は受け取ろうとせず、微笑みながら問いかけた。「では、藤宮テックが私の会社になれば、どうでしょう?」凌一が顔を上げる。その澄み切った瞳は、相手の心の奥底まで見通すかのようだった。「藤宮テックの収益は年々下がっています。父は核心技術をオームテックに売却しようとしています。でも、オームが狙っているのは技術だけではないはず」夕月は凌一をまっすぐ見つめ、力強く言い切った。「私は藤宮テックを外資の手に渡すつもりはありません」凌一の表情は微動だにしない。まるで昼食の予定でも訊くかのような淡々とした口調で告げた。「二ヶ月以内に、藤宮テックの支配権を握れ」出席者たちからため息が漏れた。「それは無理難題というものでは」重鎮たちは夕月の経歴を隅々まで調べ上げていた。「藤宮さんは離婚したばかりで、確か十八歳まで藤宮家とは離れて暮らしていた。藤宮テックの株式など持っていないはずです。二ヶ月で支配権を奪取するなど、至難の業でしょう」夏目那岐も口を挟んだ。「それに藤宮盛樹氏がオームへの売却を決めたということは、子供たちに継がせる気などないということでしょう」「二ヶ月では無理です」夕月は首を振った。凌一は資料を茶卓に投げ出し
那岐は涼に何度も目配せを送った。彼女を説得する言葉を期待して。以前から桐嶋幸雄を通じて夕月の桜都大学復帰を働きかけたかったのだ。夕月の才能なら、間違いなく大学の看板となるはずだった。だが幸雄は頑なに高慢を貫き、夕月への説得など一切応じなかった。涼は夕月の隣に座り、端正な横顔に優雅な笑みを浮かべていた。彼女の横顔を見つめる眼差しは熱を帯び、一瞬たりとも逸らすことはなかった。「こほん、こほん!」那岐は咳払いで涼の注意を引こうとした。この類まれな美貌の持ち主は、物憂げな表情で那岐を一瞥した。その眼差しは秋の湖水のように冷たかった。「私は夕月の考えに賛成です」夕月は驚いて振り返り、彼を見つめた。涼は身を乗り出し、頬杖をつきながら夕月を見つめていた。漆黒の瞳には夕月の姿だけが映り込んでいる。首を少し傾げ、まるで世間知らずの少年のような無邪気さで、夕月の前で無害な表情を浮かべていた。距離を縮めても、夕月が身を引かないよう計算されたその仕草。夕月は彼の吐息を感じ、魅惑的なフェロモンの香りに包まれていた。「君の決断は全て支持する。欲しいものは、何でも手に入れられるはずだ」涼は真摯な眼差しでそう告げた。宴会場では——「ガシャン!」という鋭い音が響き、グラスの破片が大理石の床に散らばった。同業者との会話中だった冬真が振り向くと、足元でウェイトレスが屈み込んでいた。割れたグラスを片付けようとする彼女の手は震え、顔を上げた時の蒼白い表情は、狩人に追われる子鹿のようだった。冬真は眉間に皺を寄せた。不意に脳裏に浮かんだのは、結婚したばかりの夕月がエルメスの食器を割った時の光景。メイドが固定し忘れた食器棚を開けた瞬間、中身が一斉に落下したのだ。夕月は唯一救い出した茶碗を両手で抱え、こう言った。「あなたのお茶碗だけは守れたわ」彼は夕月を抱き上げ、破片から遠ざけた。不意の記憶が心臓を強く打ち、冬真の全身が強張った。その整った顔立ちは、刃物で削り出したかのように冷たい表情を見せていた。足元で屈んでいたウェイトレスは、高級な革靴に飛び散った赤ワインの染みに気づき、反射的に拭おうと手を伸ばした。新進気鋭の実業家たちと親しげに談笑していた楓は、物音に顔を向けた。冬真の足元で、何個ものグラスが割れて
楓は表情を氷のように凍らせ、足早に近づいていった。霧島葵が冬真に何度も頭を下げている場面に出くわした。「申し訳ございません、本当に申し訳ございません。靴を汚してしまって……」葵は膝をつき、タオルを手に冬真の靴を拭おうとした。その瞬間、床に散らばっていたガラスの破片が彼女の膝に突き刺さった。「きゃっ!」悲鳴を上げ、床に崩れ落ちた葵は、血を滴らせる膝を見つめ、うろたえた様子を見せた。冬真は無表情のまま、葵を見下ろしていた。彼女の演技がことごとく見え透いていた。葵は涙を浮かべた瞳を上げ、震える子ウサギのように冬真を見上げた。ある角度から見ると、目の前の女性は18歳の夕月に、どこか似ているところがあった。「まあ、血が出てるじゃない。早く立って」楓は即座に葵の腕を掴んだ。無理やり引き上げようとする楓に気づいた葵は、まるで発作を起こしたかのように、足をばたつかせながら叫び声を上げた。「きゃああっ!離して!近づかないで!」葵は楓に触れられるのを激しく拒絶し、腕をねじり、必死にもがきながら制御を失ったように叫び声を上げた。「触らないで!叩かないで!藤宮さん、お願いです、私を殴らないで!私は誰も誘惑なんてしていません!!」彼女の泣き叫ぶ声に、周囲の注目が集まり始めた。これまでウェイトレスのミスなど気にも留めなかった上流階級の人々が、一斉に視線を向けてきた。数多の目に見つめられ、楓はその場で硬直した。一瞬、思い当たった。この白百合のような女が冬真の前でこんな大騒ぎを起こしたのは、自分を罠に嵌めるためではないのか。本当の狙いは別にある。以前、自分に殴られた仕返しをしようとしているのだろうか。楓は唇の端を歪め、男っぽい仕草で足を開いて屈み込み、両手を太腿に置いた。葵の頬を軽く叩きながら、目を細めて言った。「お姉さん、どうしたの?そんなに大げさに反応して!私はあの臭い男どもと違うわ。傷つけたりしないから」優しく諭すような声で話しながら、突然葵の腰を掴んで締め付けた。葵は体が拘束されるのを感じ、ビクリと体を震わせた。楓は葵の膝に刺さったガラスの破片を見下ろしながら、それらを全て女の脚に押し込める想像を楽しんでいた。「まあ、こんなに血が出てるわ。ほら、手当てに連れて行ってあげる」楓は葵の腰に手を回
紫金の扉から出てきた夕月の耳に、階下の物音が飛び込んでくる。高い位置から、夕月は宴会場の騒ぎの中心を静かに見下ろした。「聞いたことなかったんだが」背後から涼の声が響く。「橘汐が生きていた頃、お前とはどんな関係だった?」突然、遠い過去の名前を口にされ、夕月は一瞬、言葉を失った。戸惑いながら涼の方を振り向き、夕月は答えた。「汐さんは楓と幼なじみで、姉妹のように親しかったわ。私と汐さんはあまり……良い関係とは言えなかったけど」藤宮家での認知パーティーで初めて汐と出会った時、汐から警告めいた言葉を投げかけられたことを思い出す。おそらく楓が何か吹き込んだのだろう。そのせいで汐は夕月に対して、最初から敵意を抱いていたに違いない。豪華なシャンデリアを見上げながら、夕月の瞳が潤んでいく。「でも亡くなる前は、少しずつ関係が改善してきていたの」ある日突然、汐の訃報を耳にした朝のことを思い出す。加害者は裁かれたものの、あの日から橘家から笑い声が消えてしまった。「どうして急に汐さんの話を?」夕月は不思議そうに尋ねた。涼は一階の宴会場に視線を向けたまま、「あの子は橘汐の友人だ」夕月は瞬きを繰り返しながら、涼の視線の先を追った。涼が指しているのは、あのケガをしたウェイトレス?振り返った瞬間、涼の整った顔が目の前に迫っていた。顔と顔がぶつかりそうなほどの至近距離に、夕月は息を飲んだ。瞳孔が驚きで開いたその視界には、涼の魅力的な瞳だけが映り込んでいた。「内緒だよ」涼は茶目っ気たっぷりの声音で囁いた。まるで夕月と戯れているかのような仕草。大広間に座っていた凌一の視点からは、夕月の体が涼の影に半ば隠れているように見えた。一方、冬真の立ち位置からは、階段に立つ二人が、まるでキスをしているかのように映った。冬真は目の前で泣き喚くウェイトレスなど目に入らない。葵の傍らを素早く抜け出すと、大股で階段へと向かった。自分が走っていることにも気づかないほどの勢いで。瞬きするほどの間に、夕月の背後まで詰め寄っていた。背後に人の気配があることにも気づかない夕月。突然、首筋に冷たい感覚が走り、肩を大きな手で掴まれた。後ろから加えられた強い力に、夕月はバランスを崩す。体勢を失った瞬間、涼が咄嗟に腰に手を回した。
「桐嶋さん!!」夕月の鼻腔にアルコールの香りが漂う。考える間もなく、よろめく涼の姿が目に飛び込んできた。夕月は咄嗟に両手を伸ばし、涼の腕を支えた。涼は唇の血を指で拭いながら、乱れた前髪の下から真っ赤な目を覗かせた。「大丈夫……うっ!」優しく安心させようとした言葉の途中、また赤い液体が零れる。夕月を驚かせまいと、手で口を覆った。鮮やかな赤い液体が、整った指の間から蛇のように伝い落ちる様は、見るものの心を揺さぶった。涼は内心で安堵した。先ほど飲んでおいた赤ワインが、十分な量で良かった。殺気立った冬真の視線の中、涼は夕月の目を覆おうと手を伸ばす。「見ないで。元旦那さんが狂犬みたいに怖いから、君が可哀想だよ」冬真の喉が詰まり、瞳孔が見開かれた!今、夕月に寄り掛かり、胸を押さえながら「血」を吐いているこの男は、まさに楓が言っていた「優男を装った計算屋」そのものじゃないか!冬真の拳が更に強く握り締められた。「桐嶋、俺はお前に触れてもいないんだぞ!」涼は手を上げ、夕月に掌の上の赤い液体を見せつけた。これこそが冬真の暴力の証拠——「夕月さん、心配しないで。自分で扉にぶつかっただけだから、橘さんは無関係だよ」冬真が嗅ぎ取ったのは、酒なんかじゃない。そこには、あのよくある「優男風」の甘ったるさが漂っていた。二十九年の月日をかけて磨き上げられたような、計算された優しさ。その芝居がかった振る舞いに、冬真の理性が危うくなる。長年のビジネスの世界で培った冷静さが、音を立てて崩れ落ちそうになった。「このクソ野郎……」言葉が途切れた瞬間、夕月の手にあったワインが冬真の顔面を直撃。一瞬にして冬真の表情が凍りついた。冷たい液体が顔を伝い、前髪を濡らし、鋭い顎のラインを伝って胸元へと滴り落ちる。高級スーツとシャツが深紅に染まっていく。階下の来賓たちから、驚愕の声が漏れる。冬真が涼を殴ったことだけでも十分衝撃的だったのに。そこへワインまで掛けられて、皆が首を伸ばし、一体何が起きているのかと食い入るように見つめていた。その光景を目にした橘大奥様は、まるで雛を守る親鳥のように階段へ駆け出そうとした。「夕月!正気を失ったの!?」涼の眼差しが一転、冷たく染まる。顎を僅かに上げた瞬間、階段下の二人のスタッフが大奥
冬真は夕月の表情に、衝撃と動揺を期待していた。紫金の扉の奥に招かれたところで、所詮何になる?業界の重鎮たちが夕月に求めているのは、ただの技術者としての仕事に過ぎない。確かに、ALI数学コンテストで金賞を獲得するほどの実力があれば、国内トップ企業で技術職として働くことはできるだろう。だが、二十七歳にして職歴ゼロの女性が到達できる限界は、せいぜいプロジェクトリーダー止まりだ。橘グループがCTOのポストを提供するのは、ただ彼女が自分の元妻だったという理由だけだ。冬真は手を上げ、ワインで濡れた前髪を掻き上げた。整った顔立ちが更に際立ち、その威圧的な雰囲気を強めている。最後の一滴のワインが顎を伝って落ちた。あまりにも優れた容姿のせいで、ワインを浴びせられた姿さえも、戦場で血を浴びた勇士のように凛々しく見える。「これが私からの前妻への最大の恩寵だ。明日から橘グループに来い」胸を押さえて大怪我を装う涼を見やりながら、冬真は軽蔑の眼差しを向けた。恩典を言い渡した後、片手をポケットに入れ、立ち去ろうとする。「冬真さん、その頭の中身スカスカなのに、よく威張れるわね。図に乗りすぎじゃない?」夕月の皮肉な言葉に、男は振り返って冷たく言い放った。「そんな生意気な口を利くと、後で後悔することになるぞ」夕月は冷笑を浮かべながら言った。「へぇ、どうなさるおつもり?私が土下座でもして感謝の言葉を述べるとでも?CTOの座を与えてくださるなんて、ありがとうございます、って?冬真さん、橘グループのCTOなんて、私には魅力的じゃないわ。もっと素敵な選択肢が山ほどあるのよ」その言葉が階段に響き渡った瞬間、階段口で待ち構えていたビジネス界の大物たちが、まるで堰を切ったように押し寄せてきた。一階のゲストたちは、これまで様子見を決め込んでいた。夕月の引き抜きに興味はあれども、冬真との関係を気にして躊躇していたのだ。離婚したとはいえ、未練が残っているかもしれないと、誰もが警戒していた。だが今、夕月が冬真との決別を公言した。もはや躊躇う理由などない。三段と階段を飛び越え、我先にと夕月の元へ駆け寄る。冬真の存在など眼中にない。むしろ彼を押しのけようとさえしている。「藤宮さん、こちらが私の名刺です!」「藤宮さん、橘グルー
数ヶ月前まで、夕月は冬真の裾に付いた米粒のような存在でしかなかった。邪魔だと思えば、払い落とせばよかった。離婚に際して財産分与など一切認めなかった。庇護を失った夕月と瑛優が、どれほど苦しむことになるか、それを見たかった。外で遊び疲れた野良犬が、泥まみれになって戻ってくるように。夕月もいずれ尻尾を振って、餌をねだりに戻ってくると、そう確信していた。それがたった数ヶ月で。自分に交渉する資格がないだなんて?冬真は失笑を漏らした。自分は橘グループの社長であり、桜都の頂点に君臨する存在なのだ。夕月の言葉など、所詮は強がりに過ぎない——だが次の瞬間、夕月の穏やかな声が場内に響き渡った。「皆様、私と冬真さんはもう他人です。無関係な個人同士。私は橘グループとは一切関わりません。むしろ、挑戦状を叩きつけたい。冬真社長が私との平和共存を望まないのなら、競争相手となりましょう。東風が西風を制するか、西風が東風を押さえ込むか——勝負です」冬真の呼吸が乱れる。長年、寄生虫のように見下してきた元妻が、まさか自分を打ち倒すと宣言するとは。胸の内で何かが燃え上がる。永劫の氷河の下から突如として噴き出すマグマのように、理性と誇り高い自制心が、内側から崩れ始めていた。夕月は冬真から視線を外し、差し出される名刺を丁重に受け取っていく。「今宵の月は、一段と輝いているようだね」背後から響く涼の声に、冬真は身を翻した。夕月の前で演技を打つ、この狡猾な男を警戒の眼差しで睨み付ける。涼の薄い唇の中央に、深紅の液体が染みついている。まるで血を啜った杜鹃の花のように。その艶めかしい赤が、元から完璧な容姿に妖艶な色気を加えていた。「こんなに彼女が輝くとは思わなかっただろう?あなたのために全ての光を封じ込め、影として生きることを受け入れた彼女を、ただのガラス玉のように扱った」涼は再び夕月に視線を向けた。「月は今まさに昇りつつある。天空に輝くと決めた月を、もう誰も引きずり落とすことはできない。あなたは、ただ月を見上げる野良犬でしかないんだよ」その時、ウェイトレスがガラスの破片と血痕を片付けていた。全員の視線が夕月に集中する中、楓と怪我をしたウェイトレスが会場からいなくなっていることに、誰も気付いていない。葵はバルコニーまで息
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付