凌一は既に天野から視線を外していた。「ご自由に」そして夕月に向き直り、穏やかな眼差しを向ける。「星来を助けてくれて、ありがとう」「違います。星来くんが私を助けてくれたんです」夕月は首を振った。星来は夕月の手を握り、自分の胸を叩いてから、スマートウォッチを指差した。夕月はすぐに星来の言いたいことを理解した。自分が夕月を守ると、そう言いたかったのだ。「今日の星来くん、とっても勇敢だったわね」夕月は優しく微笑んだ。「星来くん!チューしていい?」瑛優が星来に抱きついた。星来が嫌がる様子を見せなかったので、瑛優は星来の頬にキスをした。夕月も膝をついて、星来の頭に軽くキスを落とした。星来の頬が薔薇色に染まり、漆黒の瞳には無数の星が瞬いているようだった。先ほどキャンプ場に戻った時、夕月は瑛優に星来とキノコ採りをしていた時の出来事を話していた。瑛優は話を聞いて、悠斗と一戦交えたい気持ちでいっぱいになった。でも、悠斗が今夜斜面で野宿すると聞いて、学校で会った時に、拳を見せながらじっくり話し合おうと決めた。天野は凌一の様子を観察していた。氷のような眼鏡の奥で、凌一の瞳が夕月と星来を見つめる時、不思議な優しさを帯びていた。「橘博士、息子さんのお母さんを探してみては?」天野の言葉に、食事の準備をしていた使用人が続けた。「坊ちゃまは藤宮さんと本当に仲が良いですから、藤宮さんがお母様になってくだされば……」この屋敷で働く使用人たちは、夕月が以前凌一の甥の嫁だったことを知っていた。しかし橘家の人々との接点は少なく、ただ夕月が書斎に出入りを許され、星来が彼女との触れ合いを嫌がらない様子を見て、父子にとって特別な存在なのだと感じていた。その言葉が空気を切り裂いた途端、星来の様子が一変した。瑛優に抱きしめられていた星来が突然身をよじり始め、瑛優は慌てて腕を解いた。星来は後ずさりし、夕月を見上げた瞳が一瞬で赤く染まる。そして踵を返すと、自室へと駆け出した。「星来くん!」夕月の呼びかけに、星来の足取りはさらに速くなった。「申し訳ございません」使用人は自分の失言に気付き、深く頭を下げた。「下がれ」凌一の声が冷たく響く。夕月と瑛優が星来の走り去った方を見つめているのを見て、「放っておけ。食事にしよう
その絵の中で、悲しい表情を浮かべているのは女王だけだった。また一枚の絵が滑り出てきた。クレヨンで描かれた絵には、ピンクのドレスの女王が娘の手を引いて城を出て行く様子が描かれていた。女王の顔には明るい笑顔が溢れている。三枚目の絵を受け取る。そこには娘の手を引く女王が、別の王様と出会う場面が描かれていた。王様の隣には小さな男の子が立ち、王様はダイヤの指輪を手に女王にプロポーズをしている。さらにドアの隙間からサラサラと五枚目の絵が滑り出てきた。新しい王様と家族になった女王と娘。女王の表情には戸惑いの色が浮かんでいる。星来は絵の才能がある。単純な線で描かれた絵なのに、人物の感情が見事に表現されていた。夕月はドアに背を寄せて床に座り込んだ。手には星来が描いた五枚の絵と、『ママになってほしくない』と書かれた紙切れを握っている。夕月の目に熱いものが込み上げ、瞳が潤んでいく。「ママになってほしくない」—— それは新しい家族の中で、また別の子供の母親となり、新たな母としての重荷を背負ってほしくないという願いだった。でも、これだけたくさんの絵を描いてくれたということは、星来が夕月を慕っている証。だからこそ、大切な夕月を傷つけたくないのだ。自分が夕月を困らせる存在になりかねないと気付いた時、星来は真っ先に夕月から距離を置こうとした。この部屋に自分を閉じ込めれば、夕月は同じ轍を踏まずに済むと、そう考えているのだろうか。車椅子の軋む音に振り向くと、凌一が手すりに手を添えて近づいてきていた。「どうして床に座っているんだ?」彼は夕月を見下ろすように問いかけた。夕月は星来から受け取った絵を凌一に差し出した。「星来くん……賢くて、切ない子ですね」凌一は養子の描いた絵に目を落として言った。「好きだからといって、所有する必要はない」夕月を見つめ、率直に語り始めた。「かつて私は間違っていた。君は私の出会った中で最も優秀な学生だった。同時に、一人の女性でもある。温室で大切に育て、夫に守られてこそ、君は輝けると思っていた。しかし現実は、その証明が誤っていたことを教えてくれた。人の心は移ろい易い。誰かに身を委ねる弱者の立場に、自分を置くべきではないのだ」耳に蘇る冬真の怒号。「お前だって下心があったはずだ!
「星来くん」夕月は両手を広げた。「私たちの未来は、自分で決められるの。もう二度と同じ過ちは繰り返さない。あなたの気持ちを裏切らないわ」星来は躊躇いながらも、夕月を見る目には深い愛着と憧れが満ちていた。小さな体が夕月に飛び込み、華奢な腕が首に回される。彼は夕月に母親になってほしくはない。ただ、自由であってほしかった。夕月は凌一の方を向いて言った。「先生の想いも、決して無駄にはしません」本当に愛する人は、相手の幸せが少しでも損なわれることを許せない。たとえ自分の想いを押し殺してでも、その人を自由な風のように解き放ちたいと願う。ただその人が幸せに生き、無数の星々のように輝いているのを見られれば、それだけで十分なのだ。夕月は星来の手を握り、ダイニングルームへ戻った。瑛優は星来が食卓に着いたのを見て、自ら星来の取り皿に料理を取り分けてあげた。夕食後、凌一が切り出した。「私との賭けのことは覚えているかな?残り時間はあと3週間を切っているが」「藤宮テックに対して、いつ動くつもりだ?」夕月は唇の端を上げ、少し考えてから「うーん……あと1、2週間くらいかしら」凌一は静かな眼差しで彼女を見つめた。夕月には確かな計画があるのだろう。その自信に満ちた様子からすると、藤宮テックはすでに彼女の掌の上で踊らされているも同然だ。だが、藤宮盛樹との関係は最悪と言っていい。盛樹が自ら藤宮テックを夕月に譲渡するはずがない。「2週間で完全に掌握できると確信しているのか?」夕月が答える前に、彼女のスマートフォンが鳴った。画面を確認した夕月は、凌一にディスプレイを見せた。斎藤鳴からの着信だった。夕月は通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替えた。鳴の興奮した声が一同の耳に届いた。「夕月さん、今どちらにいるんですか?素晴らしいニュースがあるんです!」夕月は答えた。「橘凌一博士のお宅にいるわ。斎藤さん、直接会ってお話しする必要があるのかしら?」夕月が橘博士の家にいると聞いた途端、鳴の下心は一気にしぼんでしまった。本来なら夕月を一人で誘い出すつもりだったのだ。「ああ、橘凌一のところですか」鳴の声には隠しきれない残念さが滲んでいた。鳴も凌一に取り入ろうとしなかったわけではない。国家機密プロジェクト
一介の大学教授に過ぎない斎藤鳴が、オームテックの助成研究者の一人でありながら、幹部陣にこれほどの影響力を持っているとは。凌一は静かにスマートフォンを手に取り、部下に指示を送った。「斎藤鳴の一挙手一投足を監視しろ」電話の向こうで鳴は上機嫌で続けた。「お礼をしたいなら、食事でも御馳走してくださいよ」夕月は応じた。「事が成就した暁には、きちんとお礼をさせていただきます。ただ現時点では、不必要な憶測を避けるため、接触は控えめにした方が良いかと」鳴は理解を示した。「もちろんです。買収案件の責任者就任が公になれば、橘社長も目を光らせてくるでしょうからね。くれぐれも慎重に」そう言いながら鳴は憤りを露わにした。「橘冬真のやつ、本当に最低ですよ!悠斗のガキもそうだ。父子でそんな真似を働くなんて、見てるとぶん殴ってやりたくなります!」「では雲上牧場で待ち伏せでもするか」凌一の冷ややかな声が響いた。「!!!」凌一の声に、鳴は猫を前にしたネズミのように首を縮めた。先ほど夕月が凌一の家にいると言っていたのだから、凌一の声が聞こえても不思議ではない。「冬真親子も楓も、斜面を登ってくる時を狙って、思う存分殴ればいい」鳴の足から力が抜けた。単なる虚勢を張っただけだったのに!実際に冬真と対面したら、おとなしく尻尾を巻くに決まっている。「た、橘博士、今夜はとても重要な資料の整理が……」電話越しの斎藤の声が震えていた。「雲上牧場でやればいい。迎えを手配しておく」「で、でも……」凌一の声が氷柱のように耳に突き刺さる。「『はい』とだけ答えればいい」電話越しにもかかわらず、鳴は見えない大きな手に首を締め付けられているような感覚に襲われた。声が震えて言葉にならない。結局、おとなしく凌一に従うしかなかった。「は、はい」夕月は、今頃の斎藤鳴の惨めな様子が目に浮かんだ。凌一の真意は、鳴への警告だということも分かっていた。通話を切ると、凌一が一言。「三流だな」夕月は低い声で呟いた。「必ず報いを受けさせます」凌一は不審に思い、尋ねた。「何かあったのか?」夕月は深いため息をつき、「私の博士論文を盗用されたんです」凌一の切れ長の瞳に、鋭い光が宿った。天野も初耳だった。「どういうことだ?」夕月は自嘲気味に
食事を終えた夕月は、待ちきれないように凌一の書斎へと足を向けた。というより図書館と呼ぶべき空間だった。この邸宅には三層吹き抜けの図書館があり、絶版本の宝庫であり、その多くのデータは機密扱いで、一流大学の教授ですら容易にアクセスできないものばかりだった。夕月は知識の海原に身を委ねたが、瑛優と天野が待っていることもあり、二時間余り読書を楽しんだ後、名残惜しそうに書斎を後にした。雲上牧場、斜面の下方にて:山風が冷たく吹き抜けていく。「パパ、おしっこ!もう我慢できないよ!!」悠斗の声が今にも泣き出しそうだった。家の至宝として大切に育てられてきた御曹司が、こんな窮地に追い込まれるとは。悠斗は斜面に寄りかかったまま、両手を拘束され身動きが取れない。トイレはおろか、ズボンを下ろすことすらできない状態だった。冬真は悠斗の傍らに横たわっていた。アウトドア用のジャケットを着ていても、夜露に濡れた山林の中で気温は急激に下がり、長時間動けない状態が続いて血行が悪くなり、全身が強張り、手足の感覚が鈍くなっていた。冬真は顔を引き締めて深いため息をつき、これも凌一からの試練だと自分に言い聞かせた。だが悠斗が耳元でずっと唸り声を上げ続けるものだから、冬真はいらだちを覚えていた。普段から子供と過ごす時間など少なかった。悠斗という子は本当に分かっていない。この五年間、夕月は一体どんな教育をしてきたのか。先ほど冬真が斜面の上を呼んでみたが、誰も見張りはいないようだった。冬真は上方を見上げた。時間が経つほど、ここに人が来る可能性は低くなる。思い切って片手で悠斗を抱え上げ、まず悠斗を上に連れて行こうと考えた。その後で人を呼んで楓を助けに来ればいい。結局楓は足首を捻り、尻と太腿まで怪我している。この虚弱な二人を連れて脱出するのを想像すると、冬真は面倒くさく感じた。元々、弱者が大嫌いだった。冬真は片手で体を支え上げた。斜面を這い上がったその時、漆黒の森の中に幾つかの懐中電灯の光が揺らめくのが見えた。急いで身を屈め、斜面の下に身を隠す。「声を出すな」悠斗に小声で言い聞かせた。悠斗は小さな唇を尖らせ、顔を真っ赤にして我慢している。斎藤鳴は凌一の部下に連れられ、斜面の縁まで来ていた。部下が鳴に言い渡す。「今夜は
「と、冬……」首に巻き付いている細長い生き物の正体に気付いた!目を見開いても、その全容は闇に溶けて見えない。窒息しそうな恐怖に、声を出すことすら困難になっていく。「うっ!」両足から力が抜け、その場に気を失った。斜面の上方には監視カメラが設置されていることに気付いた冬真は、熟考の末、悠斗を連れて斜面の下に戻った。翌朝早く、冬真は悠斗と楓を病院に連れて行った。斜面の下には虫が異常に多く、冬真の顔と首には何カ所も虫刺されの腫れが出来ていた。服の襟元から虫が入り込み、胸元まで刺されていた。悠斗も全身が発疹だらけになっていた。楓の状態は更に酷かった。斜面の下で気を失っている間に、まぶたを虫に刺され腫れ上がり、目を開けることすらできなくなっていた。楓は自分が盲目になったと思い込み、冬真と悠斗の鼓膜が破れそうな悲鳴を上げた。ベッドにうつ伏せになった楓の尻と太腿に、看護師が薬を塗っている。楓が延々と悲鳴を上げ続けるものだから、看護師は何度も目を白黒させていた。「藤宮楓さんでしょうか?」後ろから女性の声がした。楓は振り向いたものの、薬を塗られたまぶたが開かず、誰が来たのかわからなかった。「え?そうですけど、あなたは?」「雲合署の者です。通報を受け、傷害未遂の証拠も掴んでいます。事情聴取にご協力願えますか」数日後、桜都国際空港:夕月は瑛優の小さな手を握り、到着ロビーの柵の後ろで首を長くして待っていた。「ママ、鹿谷さんってどんな人?」「人ごみの中で一番かっこよくて素敵な人よ。ママの親友なの!」天野と涼は母娘の後ろに立っていた。涼は大あくびをする。今は朝の7時、鹿谷を出迎えるため、まだ暗いうちから起きてきたのだ。空港の旅客たちは、二人のイケメンに足を止めて視線を送っていた。天野はマスクをしていた。人目を引くのは好まないが、長身で逞しい体格、生地の下から浮かび上がる筋肉の輪郭は、否が応でも目を引いてしまう。涼に至っては言うまでもない。際立つ容姿に、八十歳のお年寄りから三歳の子供まで、性別関係なく彼の方を振り返った。「元社員のことを随分気にかけているんだな」天野が感慨深げに言った。涼の視線は夕月から離れない。「俺が気にかけているのは、君の妹だけさ」率直に言い放つ。鹿谷がどんな顔をして
涼は侮蔑的に嗤った。「ふん、誰かの心が砕ける音が聞こえたようだが」その冷たく傲慢な声で言い放つと、天野の顔を窺った。てっきり天野も自分と同じように顔を曇らせているだろうと思った。だが意外なことに、腕を組んだまま二人を見つめる天野の深い瞳には、穏やかな光が宿っていた。涼の顔が引きつる。苦い思いをしているのは、この自分だけというのか。地面に落ちて砕けた心は、まさか自分のものだったとは!ふん、さすがは天野少尉、こんな場面でも冷静沈着を装うとはな。「きっと今頃、鹿谷の顔面を殴りつけたい衝動と戦っているんだろう」涼は天野の表情を読み取ろうとする。「夕月のためだけに、必死に理性を保っているのさ」深いため息をつく。天野を見習わなければ。度量がなくては、どうして夕月の心の中で二番目の座を射止められようか!?「私も鹿谷さんにチューしたい!」夕月が美味しそうにキスをするのを見た瑛優が、待ちきれない様子で声を上げた。夕月は瑛優を抱き上げ、瑛優は鹿谷の頬に何度もキスをした。鹿谷の潤んだ瞳は首筋まで真っ赤に染まっていた。恥ずかしそうに「君の娘さん?」と尋ねる。夕月は頷いて「うん、藤宮瑛優よ。瑛優って呼んでね」鹿谷は優しい眼差しで瑛優を抱きしめ、夕月は二人を腕の中に包み込んだ。涼は息が詰まりそうになった。まるで高空から墜落する傷ついた白鶴のように、整った顔が雪のように蒼白になる。「何で飛び出さないんだ?」涼はもう我慢できなかった。「何のために?」天野は首を傾げる。「お前が殺して、俺が死体処理する!」涼は既に天野の獄中生活まで想定していた。まさに一石二鳥、ライバルを二人まとめて片付けられる。天野の目に軽蔑の色が浮かぶ。涼の鹿谷への敵意を感じ取り、諭すように言った。「久しぶりの再会を邪魔するな」「お前、兄貴なのに、人前でイチャつかせるのを放っておくのか?!」涼は目を見開いた。「イチャつくのが何か問題でもあるのか?夕月は随分会えていなかったんだぞ」天野は平然と返す。涼は天野を見つめ直す。まるで初めて会った人を見るかのように。「天野少尉、もうNo.2の座を諦めているとは」天野は眉をひそめた。「は?」涼の口から飛び出したのは一体何だ?涼は鹿谷に暗い視線を向ける。その眼差しは鹿谷を刺し殺さんばかりの鋭さだった。「夕月の隣に立てるのは、この俺だけだ
鹿谷は涼の刺すような視線に気付き、小さな心臓が震えた。誰だろう、この人。どこかで見た顔のような。飛行機を降りたばかりなのに、なぜか敵に出くわしてしまったような。瑛優は軽やかにキャリーバッグを押し、ツルツルした床の上を駆けてくる。涼の鋭い眼差しに怯えた鹿谷は、思わず夕月の後ろに身を隠した。人見知りの激しい鹿谷は人との接触が苦手で、特に異性の視線を避けていた。髪を短く切り、中性的な服装を好んでからは、異性の視線を感じることも少なくなった。たまに視線を感じても、整った容姿への好意的なものばかりだった。天野は素っ気なく頷いて「久しぶり」と挨拶した。鹿谷も軽く頷き返すだけで、挨拶を済ませた。夕月の兄については、長身で胸板が厚いという印象以外、特に記憶に残っていない。「こちらは桐嶋さん。月光レーシングクラブのオーナーよ」と夕月が紹介する。鹿谷は驚いた様子で、夕月の耳元に顔を寄せ、「てっきりオーナーは、おじさんかと思ってました」と囁いた。涼は奥歯をギリギリと噛みしめ、額に青筋が浮かんだ。生意気な小僧め。目の前で夕月に密着しやがって。「挑発のつもりか」低い声が喉の奥から漏れる。涼は鋭い視線で鹿谷を射抜くように見つめ、手を差し出した。「はじめまして」氷のような声が響く。鹿谷は夕月の腕にしがみついたまま、涼との握手を避け、小さく頷くだけだった。涼の黒い瞳は、厚い氷に覆われた湖面のように冷たく光る。「伶は人見知りで、男性との接触が苦手なの」夕月が説明する。言葉が終わらないうちに、涼の威圧的な雰囲気に怯えた鹿谷は首を縮め、夕月の後ろに隠れるように身を寄せた。自然な仕草で夕月の細い腰に腕を回す。夕月に抱きつくことで、安心感を得られるかのように。涼の目に宿った氷のような冷気が、一瞬にして砕け散った!殺人のプロに相談したいものだ。左手から切り落とすべきか、右手からか。そして夕月は、鹿谷のこんな親密な接触を全く嫌がる様子もない。なるほど、こういうタイプが好みとはな!!涼は深いため息をつく。生まれ変わりたい!か弱くて無力そうな子犬のような態度で、夕月の母性本能を刺激するわけか。涼は心の中で、自分の勝算を計算し直していた。鹿谷は見ていた。涼の敵意と軽蔑に満ちた目が、突如として底意地の悪い光を放つのを。「へぇ、まるで母親にべったりな子供のよ
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付