「子供が強いものに憧れるのは当たり前でしょ?」楓が悠斗を擁護するように声を上げた。「もっとすごいママが欲しいって、何が悪いの?」夕月は嫌悪感を露わにして楓を一瞥した。「脳みそがピーナッツ並みのあんたに、私と話す資格なんてないわ」「あんた!」大勢の目の前で、楓は見栄を保とうと罵詈雑言を飲み込んだ。振り向いて、冬真に助けを求めるような目を向ける。冬真の表情は重く、胸の内に抑え切れない感情が渦巻いていた。灼熱の太陽が照りつける中、吸い込んだ空気は刃物のように鼻腔を切り裂いていく。「大勢の前で正体を明かしたのは、私たちに見直してほしかったからだろう」氷の張った沼のように冷たい声が響いた。夕月は冷ややかに笑った。「もう好きじゃないのに、随分と思い上がってるのね」冬真は薄い唇を固く結び、顔の輪郭さえも冷たく凍りついたようだった。「レーサーとしての正体を明かしたのは、あなたたち父子に認められたいからじゃない。ALI数学コンペに参加したのだって同じよ。今の私は、橘夫人じゃなく藤宮夕月として生きたいだけ」記者がマイクを夕月に向けた。「藤宮さん、元ご主人とお子さんとの間に深い確執があるようですが、なぜ橘家で7年も過ごされてから、今になって一歩を踏み出されたのでしょうか?」夕月の瞳が遠くを見つめるように曇った。深いため息を漏らし、「母親になったから」と答えた。子供たちが生まれてから、何度も何度も、その寝顔を見つめ、その笑顔に心を癒され、涙を拭い、小さな体を抱きしめてきた。お風呂に入れ、ご飯を作り、片言の言葉を教える日々を、飽きることなく繰り返してきた。成長の一瞬一瞬を見逃したくなかった。ただ子供たちの姿を見るだけで、心が幸せで満たされていった。お互いを愛し合えるなら、それだけで十分だと思っていた。漆黒の瞳で悠斗を見つめながら、「母親としての道を歩む中で、私は精一杯努力したわ」「ママはわざとだ!」夕月の静かな眼差しに何の期待も感じられず、悠斗は尻尾を踏まれた子犬のように激しく反応した。怒りを抑えることなく、夕月に向かって叫び続けた。「わざとすごい運転して、僕をファンにして、今日ヘルメット取って、ママを選ばなかった僕を後悔させようとしたんでしょ!」悠斗は怒りで全身を震わせ、目が真っ赤に染まっていた。「悠斗
何度も何度も転んだ時、真っ先に駆け寄って抱きしめてくれたのは夕月だった。振り返った先に楓の姿を見つけた瞬間、喉の奥の泣き声が凍りついた。楓は悠斗の頬の涙を優しく拭った。「悠斗くん、泣かないで。私のバイクで遊びに行きましょう。あの人たちのこと、気にしないの!」悠斗は鼻をすすりながら頷いた。「楓兄貴が一番優しい」「当たり前でしょ?私も悠斗くんのパパなんだから。あなたのことを大切にしないわけないじゃない。さあ、行きましょう!」楓は悠斗の手を引いて駐車場へ向かい、彼にヘルメットを被せてバイクのエンジンをかけた。鋼鉄の猛獣のような大型バイクが駐車場を出ようとした時、数人の警官が楓を探して近づいてきていた。レーシングスーツから楓だと気付いた警官は、すぐに警察手帳を取り出した。「藤宮楓!直ちに停車しなさい!」楓はアクセルを思い切り踏み込んだ!黒い大型バイクが駐車場から飛び出していく!「藤宮楓、どこへ行く気だ!」「藤宮楓!!」警官たちは楓が逃げ去るのを見て、即座に無線を取り出し、他の警官たちに連絡を入れた。「応援要請!公共安全事案の容疑者の女性が、バイクで逃走中!」「各部署注意!翡翠大通りにて検問を設置、大型バイク桜A29898の取り締まり急務!」悠斗が去った後、記者たちは再び夕月を取り囲んだ。夕月は、数人の警官がサーキットに入り、レーサーたちと話し込んでいるのに気付いた。冬真が振り向くと、涼が大きな足取りで近づいてきていた。松のように凛とした背筋、風に翻る衣服の裾、僅かに揺れる髪先、薄い唇の端に浮かぶ不敵な笑み。涼の後ろにはメカニックが一人付き添い、両手の前で上着を抱えるような格好をしていた。そのメカニックの後ろには、さらに二人の警官が控えていた。上着の下に隠されているのが手錠であることは、一目瞭然だった。警官が冬真の前に立ち、警察手帳を提示した。記者たちは血の匂いを嗅ぎ付けた蠅のように、一斉に押し寄せてきた。「橘様、お子様が藤宮楓と共に逃走しました。楓さんとの連絡にご協力をお願いしたいのですが」冬真の眉間に冷たい氷が結晶化したような表情が浮かんだ。「楓が何か問題を起こしたのか?」警官は脇に控える数人のレーサーたちを見やった。「彼女は数名のレーサーのヘルメット内に虫を仕
冬真は涼を見向きもせず、高慢な視線を夕月に向けたまま言った。「コロナの修理代は私が出す」金で解決できる問題など、冬真にとっては問題ですらなかった。「五歳の子供を大型バイクに乗せることを、少しも心配しないの?」夕月が問いかけた。男は眉をひそめた。「お前に何の資格があって、私の息子のことを心配する?」夕月は冷笑を浮かべた。「悠斗はお前に叱られて逃げ出した。楓だけが追いかけて慰めてやった。楓の運転技術は信頼している」冬真は続けた。その口調は夕月に向かってより一層冷たさを増していた。「むしろお前の方こそ、ちょっとした騒ぎで警察を呼び出して。世界中がお前に借りがあるとでも思わないと気が済まないのか?」夕月が口を開こうとした瞬間、突然の動悸が全身を無形の衝撃で襲った。四肢が痙攣し、頭の中が真っ白になり、鋭い耳鳴りで周囲の心配する声も聞こえない。「僕が支えるよ」鹿谷が駆け寄り、夕月を抱き留めた。涼の表情が曇り、鹿谷を一瞥すると、その眼底の感情はより一層冷たく沈んでいった。振り向くと、冬真の表情にも違和感が見られた。天野も夕月の傍らに寄り添い、露骨なまでの心配を示した。「夕月!大丈夫か?」鹿谷の問いかけに意識を取り戻した夕月は、自分が無意識に胸を押さえていたことに気付いた。「大丈夫、たぶんレースでの負荷が……」夕月は首を振って答えた。快晴の空の下、明るい日差しが降り注ぐ中、夕月の胸には漠然とした不安が広がっていた。バイクが公道を疾走する中、悠斗は楓の腰にしがみつき、すすり上げる鼻水を必死に堪えていた。楓は悠斗を連れて橘家に戻るつもりだった。悠斗を連れ出したのは、冬真に自分への信頼を示すため。息子のためなら、冬真も警察の件を何とかしてくれるはず。突然、数匹の蛾が目の前を横切り、ヘルメットに張り付いた。なんてこった!こんな広い道路なのに、どうして自分のヘルメットに!?楓が首を振って払おうとした瞬間、目の前に検問所が迫っていた。咄嗟に障害物を避けようとハンドルを切ったその時、バイクが制御を失った!大型バイクが横転し、楓は弾き飛ばされた。悠斗の小さな体が宙を描いて、植え込みに叩きつけられ、その四肢は不自然な角度に曲がっていた。地面に伏せたまま、楓は全身の骨が砕けるような痛
藤宮北斗はスマートフォンを拾い上げ、不敵な笑みを浮かべながら電話を続けた。「父上、藤宮家の面目は保たれましたよ。娘さんが優勝して、会場中が彼女の名前を叫んでいます」「さっきは楓が最下位だと言っていたはずだが?」盛樹の声が疑わしげに響く。北斗は薄く笑った。「もう一人の娘さんが優勝したんです」「何だと?他にどんな娘が?」盛樹は思わず声を荒げた。長い睫毛を瞬かせながら、北斗は答えた。「夕月ですよ」「夕月がレースなどできるはずがない。お前、人違いだろう!」盛樹は一蹴した。「間違いありません。伝説のレーサーLunaが夕月だったんです」北斗は素知らぬ顔で言い放った。「なに?あのLunaが私の娘だと?」もちろん盛樹もLunaのことは知っていた。知らない者などいない。国際レースでトップ10に入った時点で国内記録を塗り替え、まだ発展途上の国内レース界、特に女性レーサー不在の状況を一変させた存在だ。Lunaの試合は毎回、新記録の更新で歴史を刻んでいった。モータースポーツに詳しくない盛樹でさえ、新聞の一面や、ニュースサイトの見出しで目にしない日はなかった。「……確か5年前、Lunaのマシン、コロナとかいったか、何十億で売れたんじゃないのか!当時の最高額記録を更新したはずだ!」ここまで言って、盛樹は再び怒り出した。「あの恩知らずめ、車を売って稼いだ金を、ずっと隠していたのか!」北斗は父の言葉を聞く余裕もなく、会場内に警備員が集まっているのに気付いた。楓の元親友だった宮本が近づいてきて告げた。「今聞いたんだが、楓が頭おかしくなったみたいでよ。何人ものレーサーのヘルメットに虫を入れて、コロナのボンネットまで細工させたらしい。証拠も揃ってて、警察が逮捕するってさ」周りの若者たちは顔を見合わせた。「マジで頭イカれてんのか?」「こんなバカなことができるのは、あいつくらいだな!」北斗は電話口に向かって言った。「父上、聞こえました?娘さんが警察に捕まりそうですよ~」警官の携帯が鳴り、同僚からの報告を受けた。電話を切ると、すぐに冬真の方へ向かった。「他のレーサーは全員示談書にサインしているんだ!夕月、2億円で修理代は十分だろう!」冬真は夕月との押し問答に苛立ちを隠せずにいた。他のレーサーが示談に応じるのは予
大奥様は用紙を目にした瞬間、目を見開き、瞳孔が一気に縮んだ。体が硬直したかのように後ろに倒れかけ、運転手が慌てて支えた。冬真が大股で近寄り、警官の手から用紙を引き取った。「なぜここまで重症なんだ?」その問いに警官の胸に怒りが込み上げた。五歳児をバイクに乗せることを知っていながら、ただ息子の重傷にのみ驚くこの父親に。「時速100キロで翡翠大通りを走行していた藤宮楓。五歳の息子さんを後ろに乗せて!あなたは父親として、監護責任を果たしていたとお考えですか?!」「冬真!」楓が松葉杖をつきながら、片足を引きずって近づいてきた。顔には何枚もの医療用ガーゼが貼られている。「うっ……冬真!警察を訴えましょう!あの人たちが急に検問を設置したせいよ。あれさえなければ、私と悠斗くんは事故になんて……」警官の声が怒りに震えた。「藤宮さん、私たちは交差点に検問を設けていました。しかも100メートル手前から減速を促していたんです。制限速度60キロの道路での危険運転、責任は全てあなたにあります!」警官の言葉が終わらないうち、大奥様が楓に駆け寄り、平手打ちを食らわせた。パシンという鋭い音が空気を切り裂いた。それだけでは怒りが収まらず、エルメスのバッグを振り上げ、楓の頭を叩き始めた。突然の平手打ちに、楓はめまいを覚えながらバランスを崩した。尻もちをついた楓が悲鳴を上げる間もなく、大奥様のバッグが容赦なく頭を打ち付けた。警官が慌てて制止に入る。「大奥様、どうか落ち着いて!」「私の孫が手術室で……どうして落ち着けるの?!」大奥様の叫び声が胸を引き裂くように響いた。「楓、殺してやる!殺してやる!悠斗に何かあったら、あんたを道連れにしてやる!」楓は頭を両手で庇いながら、尻を引きずって逃げようとするが、大奥様は追いかけて叩き続けた。「冬真!助けて!お願い、助けて!!」冬真はその場に立ち尽くし、母親が狂ったように楓を殴りつける様子を冷ややかな目で見つめていた。「冬真!!」楓は大奥様のバッグを腕で防ぎながら、もう片方の手を冬真に向かって伸ばした。「冬真!殺されちゃう!汐がいたら、きっと守ってくれたのに!」楓は涙ながらに哀願した。「汐が生きていれば……」冬真の声は氷のように冷たかった。楓は顔を上げ、凍
腕を押さえられた盛樹は、その足で楓の肩を思い切り蹴りつけた。「がぁっ!!」楓は地面に倒れ込み、今度こそ全身が激痛に包まれた。蟻に噛まれるような痛みが体中を這い回り、電気が走ったように全身が痙攣する。盛樹は深く息を吐き、手に握ったベルトを娘に向けながら冬真に告げた。「冬真さん、安心しろ。この畜生を決して許しはしない!悠斗の手が不自由になるなら、こいつの手を切り落とせ!足が不自由になるなら、こいつの足を切り落とせ!」楓のバイクに乗せられた悠斗が事故に遭ったと聞いた時、盛樹は天が崩れ落ちる思いだった。冬真が息子のために藤宮家に報復する前に、楓を徹底的に痛めつけて、冬真に文句を言わせない程度まで懲らしめようと考えたのだ。警官たちは呆れ顔で見つめた。まったく、何様のつもりだ。「ここは法治国家です」警官は諭すように言った。「たとえ実の父親でも、こんな暴行は許されません。まして手足を切り落とすなどと……」病院の駐車場:瑛優は車から飛び降りると、不安げに夕月の方を振り返った。事故の前に悠斗が夕月と喧嘩していたことを思い出し、小さな眉が八の字に寄る。夕月は瑛優の小さな手を優しく握り、柔らかな声で「行きましょう」と声をかけた。病院に向かって歩きながら、瑛優の胸の中で心臓が大きく鳴っていた。手術室の前で大奥様は夕月の姿を認めるや否や、まるで新たな怒りの捌け口を見つけたかのように、充血した目を剥いて仇敵を睨むように罵声を浴びせ始めた。「夕月!母親のする事じゃないでしょう?あなたの妹が私の孫を殺すところだったのよ!」大奥様は全身を震わせながら激昂した。「あなたがサーキットであんな真似をしなければ、悠斗は怒って逃げ出したりしなかった!悠斗が事故に遭ったのは、全てあなたが息子を追い詰めたからじゃないの!」夕月は無表情のまま大奥様を見据えると、冬真の襟首を掴んだ。「手伝って」と瑛優に告げる。「はい!」瑛優は父のネクタイを掴むと、思い切り引っ張った。まるで首に千斤の重しがかかったかのように、冬真は否応なく腰を折り、前のめりになる。夕月は冬真の顔を大奥様の目の前まで引き寄せた。「あなたの息子さんと楓は親友同士。義理の親子で、寝食を共にするほど仲が良かった」「……」冬真が口を開こうとした瞬間、夕月は束になった書類
大奥様は音を聞いて素早く振り向いた。瑛優も父のネクタイから手を離した。瑛優が小走りで近づくと、数人の看護師が手術室から移動ベッドを押し出してきた。瑛優の足が急に止まり、その場で凍りついた。丸い黒い瞳で、移動ベッドに横たわる悠斗を見つめる。悠斗は目を閉じ、まるで深い眠りに落ちているようだった。顔の大半は酸素マスクで覆われ、頭や腕、足には幾重にも包帯が巻かれていた。瑛優にはもう悠斗の面影が見えなかった。初めて見る悠斗のこんな姿に、大きな恐怖が胸を締め付けた。まるで見えない大きな手に口を塞がれたように、小さな体が震え止まらない。悠斗の体には何本もチューブが繋がれ、看護師が点滴を高く掲げている。夕月は目を逸らす力さえ残っていなかった。真っ赤に熱せられた針が心臓を刺し貫くような痛み。血が沸騰して白い煙となって消えていくように、生きる希望も全て蒸発してしまいそうだった。大奥様は悠斗の姿を目にし、絶望的な悲鳴を上げた。数人の医師が手術室から出てきた。その中には北斗の姿もあった。悠斗の主治医は、第一病院の権威だった。彼は冬真の顔を認めると近寄って来た。「橘悠斗君の緊急手術は無事終了しました。これから48時間、ICUで経過観察が必要です」「息子の状態は?」冬真が問う。主治医は率直に答えた。「かなり深刻です。48時間後、仮にバイタルが安定したとしても、脳に重度の損傷を負っています。意識が戻るかどうかは、まだ分かりません……」そこで主治医の声色が暗く沈んだ。「橘さん、最悪の事態も覚悟しておいてください大奥様は医師の言葉を聞くと、慌てて駆け寄った。「先生!そんな……最悪の事態なんて!私の孫が無事だと約束してください!」主治医は難しい表情を浮かべた。「各科のトップドクターが手術に参加し、全員が最善を尽くしました」盛樹は北斗に何度も目配せを送った。床に崩れ落ちたまま起き上がれない楓は、北斗の姿を見るなり慌てて尋ねた。「北斗、悠斗のこと……大丈夫よね?」北斗は重い口調で答えた。「命は取り留めたさ。だが意識が戻るかどうかは……正直分からん。このまま植物状態になる可能性が高いし、仮に目覚めたとしても……」移動ベッドの悠斗を見つめながら、北斗は言葉を濁した。「……歩けるようになる保証はないな」「ああ
「お嬢ちゃん、ここは無菌室だから、入れないのよ」瑛優は看護師に尋ねた。「悠斗はいつ目を覚ますの?」看護師は優しく微笑んで答えた。「きっと、すぐだと思うわ」夕月が来てみると、瑛優はICUの壁際にしゃがみ込み、クレヨンで何かを描いていた。夕月は、瑛優が描いた常夜灯の絵を病室のドアに貼るのを見つめていた。瑛優は絵を貼り終えると、両手を合わせて目を閉じた。その表情には深い祈りが刻まれていた。夕月の喉元に、苦い感情が込み上げてきた。「悠斗が目を覚ましますように。そうしたら、ママに謝れるから」夕月は娘の頬に手を添えた。悠斗からの謝罪など、彼女は気にしていなかった。でも悠斗は確かに、瑛優と最も近しい存在だった。双子として生まれ、かつては心も体も寄り添って生きてきた二人。重傷を負った悠斗との対面は瑛優にとって初めての経験で、死の影がこれほど身近な人に迫ったことも初めてだった。この恐怖は、きっと長く瑛優の心に残るだろう。夕月はその場に膝をつき、瑛優を強く抱きしめた。瑛優は夕月の肩に顔を埋め、堪えきれない涙を零した。声を立てて泣くまいと必死に耐えながら、夕月の肩で泣き続けた。温かい涙が、母の肩の布地をじわりと濡らしていく。廊下では、数名の警官がまだ残っており、冬真への事情聴取を続けていた「藤宮さんから提出された資料によりますと、交通課内部で違反を隠蔽していた形跡が見られます。楓さんの度重なる違反運転について、橘さんと秘書の方にも調査にご協力いただきたいのですが」冬真の表情が一層暗く沈み、眉間に深い影が落ちた。警官と共に立ち去ろうとする息子の姿に、大奥様は突然、バネが跳ねたように椅子から立ち上がった。「何故冬真を連れて行くの?冬真は何も悪いことなんてしていないわ!」大奥様の大声に、周囲の人々が好奇の目を向けていた。「母さん、取り調べに協力するだけだ」冬真は恥ずかしさを覚えながら言った。大奥様の叫び声に、通りがかりの人々は冬真が何か悪事を働いたのではないかと疑いの目を向けていた。老婦人は夕月に矛先を向けた。「悠斗があんな状態なのに、まだ冬真を陥れる資料なんか集めて!」さらに声を荒げ「そんな証拠があったなら、なぜ早く警察に渡さなかったの?楓を逮捕させることもできたはずでしょう!あなたは最初から悠斗を傷つけ
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付