手を伸ばしてゴルフクラブの表面を撫でながら、頭の中には夕月が鉄棒で信号受信器を叩き壊す光景が展開された。プラスチックの破片が飛び散っても、彼女はまばたき一つしなかった。冬真が見たことのない表情だったが、それが彼の血を沸き立たせた。無人トラックが実験場の壁に激突し、火花が散って炎が勢いよく燃え上がった。焦げた匂いが鼻をついたが、それ以上に印象的だったのは、燃え盛る炎を背にして自分に向かって歩いてくる夕月の姿だった。柔らかな長い髪が風に舞い、毛先の一部が高温で軽くカールしている。澄んだ顔立ちに、漆黒の瞳が飼い慣らされることのない豹のように、すべてを見下ろす野性的な輝きを放っていた。若い頃の冬真は、パートナーとなる女性は自分と肩を並べられる存在であってほしいと夢見ていた。二人で並び立ち、ライバルでありながら最も親密な恋人同士になる——そんな関係を。やがてそんな考えは捨てた。自分と同じような人間を見つけるのは困難だと悟ったからだ。両親や同じ階層の人々が選び、期待するように、良妻賢母型の女性と結婚の道を選んだ。橘夫人は良き内助の功で、子供たちの最初の教師ではあったが……決して心から愛する人ではなかった。「冬真様?」佐藤さんがずっとゴルフクラブを撫で続けている冬真を見て、おそるおそる声をかけた。「クラブのお手入れは済んでおりますが、他に何かご用でしょうか?」佐藤さんは手入れの済んだクラブが冬真の気に入らないのではないかと気が気でなかった。邸から女主人がいなくなって以来、使用人たちは皆、戦々恐々としている。以前は屋敷のあらゆることが夕月の手を通り、何か問題があっても夕月がすべて引き受けてくれていた。今では使用人が少しでも至らないことをすれば、冬真と悠斗の怒りを直接浴びなければならない。冬真が我に返り、手を引っ込めた。「クラブをしまっておけ」自分の部屋に向かう冬真の背中に向かって、佐藤さんがおびえながら返事をした。「はい」佐藤さんがゴルフクラブを片付け、物置から出てきたところで、怒りに満ちた冬真とばったり出くわした。人を殺しそうな冬真の眼光に射すくめられ、佐藤さんの体は機能を失ったように、その場に釘付けになった。「私が定光寺にいる間、夕月が戻ってきたか?」佐藤さんは冬真の問いに戸惑った。「いえ、いら
綾子の伸ばしかけた手がこぶしを作り、下唇を血が滲むほど強く噛み締めた。次の瞬間、彼女が冷笑を浮かべる。「ようやく分かりました。藤宮夕月のような女性が、橘夫人の座を捨ててでもあなたと離婚したがる理由が」冬真がその言葉を聞いた途端、暗く細い瞳に氷のような殺気が宿った。彼が綾子に警告する。「明日、必ず出社しろ。もし反故にしたら、桜都全体がお前の居場所を失うことになる」綾子の全身が震え上がった。車内にいる冬真は手の届く距離にいるというのに、まるで雲の上の存在のように感じられ、自分はただ見上げることしかできない。冬真が自分を受け入れるのは、ただ利用価値があるからに過ぎない。もし身の程を弁えなければ、冬真は行動でもって教えてくれるだろう——たとえ糞を食えと命じられても、笑顔で従わなければならないということを。「ああああ!」綾子は怒りに足を踏み鳴らしたが、それも無力な憤怒でしかなかった。金融街のビジネス界で、こんな屈辱を味わったことは一度もない。黒いマイバッハがあっという間に走り去っていく。冬真がノートパソコンを取り出し、仕事の処理を始めた。悠斗の声が響く。「あの人、本当に僕の新しいママになるの?」冬真は返事をしなかった。悠斗が続ける。「僕、あの人嫌い。全然好きじゃない」冬真がようやく応じた。「新しい母親を好きになる必要はない。私がどんな女性を選ぼうと、お前には関係のないことだ」冬真の表情が氷のように冷たく重々しくなり、悠斗に告げる。「誰が新しい母親になろうとも、役割と結果は同じだ。彼女たちはお前を育て、成長に導き、私が仕事で忙しい時に、優秀な跡継ぎへと導く責任を負うことになる」悠斗が尋ねる。「パパはあの人を好きなの?」「好きじゃない」冬真の答えは簡潔で迷いがなかった。「じゃあパパは、前のママを恋しく思ってる?」悠斗はしばらく待ったが、冬真からの返事は返ってこなかった。悠斗が続ける。「僕は前のママが一番だと思うんだ。あの人だって優秀でしょ?」冬真はノートパソコンの画面に映る自分の顔を見つめ、口角が下がっているのに気づいた。夕月の話をするのは気が進まない。彼女のことを考えるだけで、心が乱れる。悠斗が食い下がった。「パパ、本当にママにお願いして戻ってきてもらわないの?」この時、冬真の声に氷
「私のところで要職に就きたいだと?お前程度の人間が、何の資格で?」冬真の声に嘲笑の色は込められていない。しかし彼の生来の高慢さ、衆生を見下ろす絶対的な立場が滲み出ていた。蟻を嘲笑う必要など感じない。しかし彼の目には、すべての人間が蟻にしか見えないのだ。一瞥する価値すらない存在として。綾子の顔が一瞬で真っ青になった。これほどあからさまな軽蔑を受けたのは初めてのことだった。M国留学の経歴を誇りに思い、学術誌に論文を掲載され、金融街の将来有望株として注目を浴びてきた自分が……冬真の目には、価値のないゴミ同然に映っているのだ。青ざめた顔がみるみる赤く染まっていく。「それなら、どうして車に乗せてくださったんですか?」冬真がまつ毛を伏せ、彫刻のように冷たい表情で、愚か者に説明する手間すら惜しむような苛立ちを露わにした。「明日から私の生活アシスタントとして働け。毎日決まった時間に出社し、橘グループに出入りしろ」綾子の頭の中で、「ガーン」という耳を劈く音が響いた。まるで頭に手榴弾を投げ込まれたかのように、思考が真っ白になって何も考えられない。「せ、生活……アシスタント?毎日何をすればいいんですか?」冬真の冷ややかな視線が綾子に注がれ、そこには露骨な嘲笑が込められていた。無言で彼女の愚鈍さを嘲っている。「经験がなくても常識はあるだろう。明日、秘書室に顔を出せ。そこで仕事の内容を教えてもらえ」綾子は太ももの上に置いた両手をぎゅっと握りしめ、爪が手のひらに食い込んだ。「私は自分の才能を活かすために橘グループにお世話になるつもりでした。生活アシスタントなんて……雑用係じゃないですか。誰にでもできる底辺の仕事をさせるなんて、あまりにも人材の無駄遣いではありませんか?」冬真が冷笑した。「お前のどこが人材だ?公開実験で不正を働くような愚か者が」「……」綾子は唇をきつく結び、長い沈黙の間、心の中で狂ったように叫び続けていた。奥歯を砕けそうなほど強く噛み締める。「生活アシスタントが欲しいなら、わざわざ私を雇う必要なんてないじゃないですか」冬真の声に氷のような笑いが滲んだ。「お前にはまだ利用価値がある。お見合いをして、悠斗の新しい母親になりたがっている安井さん……お前が私を利用するなら、なぜ私がお前を利用してはいけない?」
冬真が悠斗を連れて車に乗り込んだばかりのところに、綾子が追いかけてきた。「橘社長、私も同じ車に乗せていただけますか?」悠斗が不満の声を上げる。「僕は超反対!!」綾子の表情が硬直し、気まずくなった。しかしこれは悠斗一人で決められることではない。彼女は堪え忍びながら、甘い声で言った。「悠斗くん、私は心から、あなたと仲良くしたいと思ってるの」冬真の声が響いた。「わがままを言うな」彼は苛立った口調で悠斗を警告し、それから綾子に言った。「乗れ」綾子の瞳に勝ち誇った色が浮かんだ。悠斗の雪のように白い頬が金魚のように、怒って膨らんだ。駐車場では、幼稚部の子供たちが列を作って学校のバスに乗り込んでいた。「星来くん、何を見てるの?」瑛優の声が響いた。星来はその場に立ったまま、遠ざかっていく黒いマイバッハを見つめていた。我に返ると、瑛優が手を差し出しているのが見えた。星来は自分の手を瑛優の手のひらに重ねる。二人は一緒にバスに乗り込むと、瑛優が尋ねた。「あの変なおばさんを見てたの?私も見たよ、橘おじさんの車に乗るところ。悠斗も一緒だった」星来は瑛優の隣に座ると、スマートフォンに打った文字を瑛優に見せた。「安井綾子がいとことお見合いしてる。悠斗のお母さんになりたがってるんだ」瑛優は少し考えてから、星来のいとこが冬真だということを思い出した。「悠斗、あの新しいママを気に入るかな。私はあのおばさん、なんか変だと思う」瑛優の考えでは、冬真はもう自分とは何の関係もない人だった。冬真が悠斗にどんな新しいママを見つけようと、それは自分には関係ない。ただ少し心配なのは、悠斗がうまくやっていけるかということだった。何しろ悠斗はとても気難しい子だから。瑛優は思い出した。綾子がレーシングカートを運転できることを。楓に少し似ているところもある。でも悠斗は、楓のような新しいママを好きになるだろうか?それに、瑛優は綾子と短時間接触したことがあったが、この人を好きになれなかった。星来がスマートフォンの画面を瑛優に向けて光らせた。「あの人、やっぱり変人だよ!」*マイバッハの車内で、綾子は体を捻って片方の肩を背もたれに預け、顔には満足げな笑みを浮かべていた。「橘社長が私を車にお誘いくださったということは、結婚を前提にお付き
その場にいた全員が息を呑んだ。夕月が涼を見つめると、彼は長い睫毛を揺らしながら誠実に言った。「君の成功から、少しでもおこぼれにあずからせてもらえないだろうか」夕月は手を差し出した。「桐嶋さんのご参加を歓迎いたします」涼を見つめる夕月の心に、複雑な感情が湧き上がった。離婚後だけでなく、結婚前も、結婚生活の中でも、ずっと涼の存在があった。前に進みたいと思った時、この男は寄り添って歩いてくれた。立ち止まりたいと思った時も、涼はその場に佇み、静かに彼女を見守ってくれていた。かつて夕月は涼に尋ねたことがある。「あなたの信頼と助けに、どうやって報いればいいのか分からない」涼はただこう答えただけだった。「それなら俺にもっと大きな利益をくれ。夕月、昔は俺が君にこの世界を見せてやった。今度は君が俺を、まだ知らない世界へ連れて行ってくれないか?」涼が夕月の手を握る。夕月は口角を上げ、心の中で彼に答えた。「ええ」綾子は涼と夕月を眺めながら、笑みを浮かべて両手を胸の前で組んだ。「橘社長、二ヶ月もすれば恥ずかしい大失態を目にすることができそうですね」綾子は雅子にも向き直った。「その時は、楼座社長にも奇跡の瞬間を見届けていただきたいものです〜」雅子の表情は険しく曇り、綾子の言葉に応じることはなかった。冬真は橘グループの幹部たちを引き連れて去っていった。「坊ちゃま、学校まで送りましょう」冬真の秘書が悠斗に声をかけた。綾子が前に出てきた。「悠斗くん、私がお車で送ってあげる」悠斗が尋ねる。「どうして僕を送るの?」綾子は笑った。「だって私、あなたのパパとお見合いしてるの。私があなたの新しいママになるんだから〜」悠斗は綾子を見つめて愕然とした。彼の顔色が一瞬で変わる。「新しいママなんていらない!」後ずさりしながら拒絶の意思を示した。「悠斗くん、どうして新しいママが嫌なの?」綾子が問いかける。「あなたのママはもうあなたを要らないって言ったじゃない」悠斗は夕月の方に視線を向けた。瞳に涙が溜まっている。「ママがいなくなっても、新しいママはいらない!」悠斗は足を引きずりながら冬真を追いかけた。「パパ!待って」悠斗が叫ぶと、秘書は慌てて彼の傍らに付き添った。転倒を恐れて。冬真は立ち止まり、振り返って悠斗がよろめきながら近づいて
冬真の言葉が波紋を呼んだ。この瞬間、雅子の瞳にも動揺の色が走った。雅子が口を開く。「橘グループがこの時期に撤退すれば、違約金が発生します」冬真は答えた。「今少し金を払う方が、藤宮夕月と協力を続けてもっと大きな損失を被るよりはマシだろう?」彼の冷ややかな視線が夕月に注がれ、夕月は奇妙な既視感に襲われた。まるで冬真と離婚する前の時代に逆戻りしたかのようだった。かつて夕月は冬真に、橘グループの情報技術部門で働きたいと申し出たことがある。身内贔屓を避けるため、最下層からのスタートでも構わないと。あの時、冬真は彼女を一瞥することすらしなかった。「月数十万円の給料のために外で働いて、何の意味がある?家で子供の面倒を見ていればいい。橘家が君に稼いでもらう必要があるとでも?名門の夫人で、夫の会社で働く人がどこにいる?笑い物になるぞ」数年後、再び働きに出たいと提案した時も――「どこの会社が君を雇う?大学も卒業していない、職歴も皆無の人間を。橘家が君を甘やかしすぎた。外に出て何ができるというんだ?」そして今、冬真は再びあの時と同じ目で彼女を見ている。軽蔑と嘲笑に満ちた視線が、無言で問いかけている。「君に何ができる?」夕月は事務的な口調で応じた。「橘社長が私との協力を望まないのであれば、橘グループには速やかに公式声明を発表していただき、量子科学との協力プロジェクトからの撤退を宣言してください。量子科学は新たな新エネルギー自動車メーカーを協力パートナーとして募集いたします」「藤宮夕月、感情的になるな!」冬真が諭すように言った。「橘グループが協力撤退の声明を公表したら、どこの会社が君と手を組むと思う?」「俺が手を組むよ」涼が笑みを浮かべて口を開いた。「藤宮社長、桐嶋グループ傘下には複数の電気自動車協力メーカーがあるんだ。大型トラックでも、必ずしも橘グループを選ぶ必要はないだろ」涼の言葉を聞いた冬真は冷笑した。「横取りがお上手だな。桐嶋さんは他人の捨てたものを拾うのが好きみたいだ!」そう言うと、冬真は夕月を見下ろした。「どっちがゴミ回収業者なのか、分からないのか?」彼は続けた。「結局、男に頼らなければ何もできないじゃないか!」冬真は涼を冷ややかに一瞥した。「桐嶋さんが尻拭いをしたいなら、ご自由にどうぞ!」容赦なく嘲