教室の前では、十数人のボディガードが天野昭太を取り囲み、階段の下に立つ橘冬真が威圧的な雰囲気を放っていた。まるで神が虫けらを見下ろすかのように、冬真は昭太を睨みつけていた。「美優、こっちだ。俺と一緒に帰るんだ」冬真の声は強圧的だった。美優が昭太の方へ歩み寄ると、すでに娘への忍耐が限界に達していた。美優は首を振った。「おじちゃんと帰りたい」冬真は冷ややかな笑みを浮かべた。「彼に家なんてあるのか?美優、彼についていけば、路頭に迷うだけだぞ」「美優!」夕月の声が響いた。母の姿を見つけた美優は、嬉しそうに手を振った。ボディガードたちに囲まれ、今は母の元へ駆け寄ることはできなかったが。「ママ!」夕月は心を痛め、愛する娘を待たせてしまった罪悪感に胸が締め付けられた。「ママが大事な用事で遅くなっちゃって、ごめんね。約束する。もう二度と幼稚園で待たせたりしないわ」美優は優しく微笑んだ。「分かってるよ。ママには人生を変える大切な用事があったんでしょう?美優は、ママの足を引っ張ったりしないよ」その言葉は、冬真の耳に別の意味として響いた。娘を迎えに行くより大事な用事?娘を遠ざけてまでしなければならない用事?しかも夕月の人生を変えるような?冬真の視線が夕月の後ろに固定された。なぜ桐嶋涼までここにいる?冬真の目に狂気じみた怒りが宿った。桐嶋に連れ去られた夕月が、こんな時間になってようやく幼稚園に現れる。「藤宮夕月、まだ離婚届は受理されていないはずだ」怒りが胸の中で渦巻く。「そんなに急いでいるのか?」「そうよ。あなたを私の人生から追い出すことに関しては、一刻も早く片付けたいわ!離婚が決まったんだから、死人のように大人しくしていられないの?」この男のせいで、あと少しで数学コンテストに参加できないところだった。「ほう、もう次の男がいるというのか」男は嘲るように言った。夕月は即座に返した。「もちろん住む場所は確保してあるわ。少しでも良心があるなら、娘を巻き込まないで」ブルー・オーシャンから追い出されたところで、路頭に迷うとでも?新居に移るまでだって、ホテルはいくらでもある。橘冬真の冷たい瞳が大きく見開かれ、周囲の空気が一気に凍りついた。夕月と桐嶋涼が並んで立つ姿が、彼の目に棘のように突き刺
「桐嶋さん!!」夕月の悲鳴が響いた。涼の腕の中で守られていた美優は、何が起きたのかまだ理解できていなかった。「美優ちゃん、怪我はない?」涼が懸命に声を絞り出す。美優は黒い瞳を大きく見開いたまま、首を振った。立ち上がった時、やっと涼の背中に刺さった金属の矢に気付いた。美優の瞳が震え、息を飲んだ。視線を上げると、遠くに立つ悠斗が慌ててクロスボウを背中に隠すのが見えた。この矢、楓が悠斗にあげたものだ!橘冬真も息子がこんな行動を取るとは予想していなかった。表情が凍りついている。息子が人を傷つけたことよりも、桐嶋涼が身を挺して守ったことの方が気に掛かっていた。両手が強く握り締められる。「橘悠斗、こっちへ来なさい!」悠斗は体を震わせた。「パパを助けたかっただけ!美優ちゃんが言うこと聞かないから!」美優は悠斗を見つめ、肩を震わせた。目の前の悠斗が、まるで見知らぬ人のように感じられた。冬真は悠斗からクロスボウを奪い取り、地面に叩きつけた。「よくも美優に向かって矢を放てたな!二度とこんなものに触れるんじゃない!」顔を上げると、夕月が涼を支え起こそうとしているところだった。長身の桐嶋涼が、華奢な夕月の体に寄り掛かっていた。「桐嶋さん、大丈夫ですか?救急車を呼びます!」「いや、大丈夫だ。歩けるから、病院まで連れて行ってくれ」天野昭太が大股で近寄ってきた。「俺が支えます」「いや」涼は静かに言った。「藤宮さんは俺より背が低いから、この体勢なら背中の傷を引っ張ることもない」美優を守って怪我をした涼のことを考え、夕月は昭太に告げた。「私が付き添います」美優は涼の隣に寄り添い、もう片方の手を握った。「おじさん、大丈夫?痛くない?」涼は明るい声で答えた。「美優ちゃんが手を握ってくれてるから、もう痛くないよ」美優は涼の手を強く握り締め、離そうとしなかった。突然、エンジン音が響き、藤宮楓がバイクで現れた。黒のニーハイブーツを履いた楓が片足で地面を踏み、すらりとした脚線美を見せる。「夕月姉さん!桐嶋さんを車で病院に連れて行くの?背中を怪我してるのに、後部座席に横たわっても傷が開いちゃうわよ」夕月は足を止めた。「それで?」「私が病院まで送りましょうか」楓は積極的に申し出た。涼は
「このままじゃ出血多量で死んじゃうよ……橘さん、僕を殺すつもりかい?」桐嶋涼は溜め息をつきながら弱々しく呟いた。桐嶋の容態は刻一刻と悪化していた。夕月は楓とのやり取りに時間を費やす余裕などなかった。「降りなさい!いちいちグズグズしないで!話は後!」「でも、事故でも起きたら――」楓の言葉は途切れた。全身を包み込むような威圧感に、背筋が凍る。夕月の鋭い眼差しに射抜かれ、バイクの上で思わずよろめいてしまう。今まで見たことのない、背筋が凍るような威圧感だった。ゾッとするような感覚が背中を走る。「夕月姉さん、無理はしない方が……」「こんなにグダグダしてるなんて、楓らしくないわね」楓は不満気に口を尖らせた。夕月が死にたいというなら、勝手にすればいい。できれば顔面から転んで、鼻も歯も粉々になればいいのに!楓はバイクから降りた。「鍵を頂戴」夕月が手を差し出す。楓は鍵を投げ渡し、夕月は見事にキャッチした。「お兄さん、美優をホテルまで送ってあげて」夕月は天野に頼んだ。「病院に行きたい……おじさんが心配。私にできることは少ないけど……」美優が不安そうに言う。「美優ちゃんがそばにいてくれるだけで、痛みなんて感じないよ」涼は優しく微笑んだ。「じゃあ、第二病院まで美優を頼めますか」夕月は天野に言い直した。天野は頷き、美優を自分のSUVへと案内し始めた。「美優!」突然、冬真の声が響く。「パパの方においで」美優は真っ直ぐな瞳で冬真を見つめた。その眼差しには、まるで小動物のような警戒心が満ちていた。小さな首を横に振り、美優は静かに言った。「パパ、私がパパから完全に逃れるには、どうすればいいの?」その言葉は、冬真の体を突き抜けた。まるで高所から真っ逆さまに落とされるような、底知れぬ絶望感。「美優!どうしてそんなことを!」美優の表情が暗く曇る。涼おじさんは自分を守ってケガをした。そして、その矢を放ったのは、血を分けた兄の悠斗。幼い心には重すぎる感情が押し寄せ、どう向き合えばいいのか分からない。天野は優しく美優を抱き上げ、SUVに乗せた。冬真の視線は自然ともう片方へと向いていた。バイクに跨った夕月が後ろを振り返る。「桐嶋さん、私にしっかり掴まってください。できるだけ早く病院まで走ります」
その鋭い言葉に、悠斗の目に涙が浮かんだ。「大丈夫よ、悠斗。美優はあなたの妹でしょ?きっと許してくれるわ」楓が慌てて慰める。楓は冬真の方を向き、軽い調子で茶化すように続けた。「ねぇ、桐嶋さんって親しみやすい顔してるのに、性格は冬真以上に冷たいじゃない?なのに今日は人を守って自分が傷つくなんて、珍しいわよねぇ~」声を甘ったるく引き伸ばしながら、さらに続ける。「そういえば、夕月姉さん、桐嶋さんの車から降りてきたみたいだけど。いつの間にそんな仲良くなっちゃったのかな?」「もう、冬真、待ってってば!」冬真は楓の言葉など耳に入れる様子もなく、背を向けて立ち去ろうとする。楓は慌てて後を追いかけた。病院の手術室で、桐嶋は手術台に横たわっていた。「手術代に零を二つ追加してくださいね。あの守銭奴の橘さんにたっぷり請求させていただきますから」うつ伏せになりながら、執刀医に向かって涼が言った。執刀医は知り合いだった。メスでシャツを切り裂きながら冗談めかして言う。「守銭奴はお前の方だろう?ケガの具合を大げさに見せかけて、送ってきた彼女を泣かせてみるか?」涼は両手を重ね、その上に顎を乗せた。「それは遠慮しておきます。涙はおろか、申し訳なさそうな顔すら見せたくないんです」「おやおや!毒蛇の牙から蜜が垂れてきたじゃないか。ちょっと血を確かめてみようか――おっと、熱いくらいだぞ!」涼は首を傾げ、細めた目で執刀医を睨みつける。「苦情を入れられたいのかな?免許停止三年と全科の監査、どちらがいい?」「ふん!矢の穴をお尻の穴みたいに縫っちゃうぞ」執刀医は鼻で笑った。手術室の外で、美優は閉ざされたドアを見つめ、目を赤くしていた。夕月の手をぎゅっと握り、不安げな様子。夕月が娘を慰めようとした矢先、冬真が悠斗を連れて近づいてきた。「美優に謝りなさい」冬真は背後に隠れる息子に命じた。悠斗は父親の後ろから出ようとしない。謝ったところで何が変わる?ママはまた説教して、クロスボウを取り上げて、お尻も叩くんだ!うるさいママなんか大嫌い。「橘悠斗!前に出なさい!」冬真の声が厳しく響く。「冬真、悠斗は反省してるわ」楓が悠斗を庇うように声を上げると、悠斗は小さな唸り声を上げながら、すぐさま楓の足元に飛び込んだ。やっぱり楓兄貴が一番いい
美優はその場に凍りついたまま、幼い心に深い傷を負っていた。これは、私が悪いの?パパと一緒に家に帰っていれば、涼おじさんは怪我しなかった。でも、矢を放ったのは、血を分けた兄、悠斗。昔は、あんなに仲良しだったのに。体格の差が開くにつれ、悠斗の態度は次第に冷たくなっていった。そして気づいたの。橘家では、ママ以外のみんなが、私より悠斗を大切にしているって。「悠斗!謝ったって、絶対に許さない!」美優は声を振り絞った。冬真の方を見つめ、か細い声で言う。「パパ、私……私もうパパの娘やめたい。橘家に二度と戻らなくていいようにするには、どうしたらいいの?」女の子は縛られた鳥のように自由を求めていたが、どうすれば羽を広げられるのか、まだ分からなかった。冬真の表情が凍てついたように硬く冷たくなる。「橘美優!お前は橘の娘だ。永遠に、私の娘であり、橘家の人間なんだ!」「じゃあ……じゃあ、橘じゃなくなってもいい?」美優は震える声で言った。「ママの姓になりたい」暗い影が冬真の全身を包み込んだ。「まあ、夕月姉さん」楓は腕を組んで嘲るように笑う。「立派なお嬢さんに育てたわね。橘家を裏切り、実の父親まで否定するなんて!」足元にしがみつく悠斗に向かって言い添える。「悠斗、絶対に美優みたいになっちゃダメよ」夕月は前に進み出て、美優の背後に立つ。小さな肩に両手を置き、静かに力を与えた。その時、手術室のドアが開き、医師たちがうつ伏せで横たわる桐嶋涼を搬送用ベッドで運び出してきた。皆が思わず振り返る。上半身裸の桐嶋の背中には、鍛え上げられた筋肉が美しく浮き出ていた。リラックスした姿勢でありながら、腰のラインにも無駄な贅肉は見当たらない。「涼おじさん、大丈夫?」美優は心配そうに声をかけた……桐嶋は顔を向け、えくぼを見せながら美優に優しく微笑みかけた。その表情に、見ている者の心まで和らいでいく。「ご家族の方はいらっしゃいますか?術後のケアについてご説明させていただきたいのですが」夕月はすでに桐嶋幸雄に連絡を入れており、今病院に向かっているところだった。「私に説明してください」夕月が医師に近づく。美優を守ってくれた桐嶋には、確かに恩義がある。冬真は夕月の後ろ姿を見つめ、眉間にいつの間にか深いしわを刻んでいた。他の医
「桐嶋さん!」楓は信じられないという様子で声を上げた。そして意地の悪い笑みを浮かべながら続けた。「夕月姉さんに興味があるの?それとも橘冬真の奥さまという立場に惹かれてるの?離婚話が出てるこのタイミングなら、背徳感を味わいつつ、非難も少なくて都合がいいんじゃない?」楓は桐嶋を見透かしたような表情を浮かべる。その瞬間、病室の空気が凍りついた。冬真から放たれる威圧感に、悠斗の足さえ震えている。桐嶋の切れ長の瞳に、冷たい光が宿る。「ずいぶんおしゃべりだね。まるでワイドショーのコメンテーターかと思ったよ」「私は……」「へぇ、他人の心を語るつもりが、自分の本音を吐いちゃうなんて。面白いじゃないか」楓は顔を真っ赤にして慌てふためいた。「そ、それはあなたのことでしょう!」「さすが楓さんは分かってるね~」桐嶋は意味ありげに笑いながら、視線を冬真に向けた。「こんな女と付き合ってるから、夕月さんに愛想を尽かされるのも当然だな」「お前たちは全然違う世界の人間だ。お前なんか夕月さんの足元にも及ばない」冬真の瞳が見開かれ、その中に激しい怒りの波が渦巻いた。冬真と夕月の婚約が発表された時、業界中が驚いていた。桜国を代表する財閥の令嬢と結婚できたはずの冬真が、藤宮家の娘を選んだのだから。確かに藤宮家も裕福ではあったが、一流の名門とは言えなかった。誰もが「夕月は棚からぼたもち」と囁いていた。むしろ冬真の寛大さを称賛する声すらあった。それに、夕月が18歳になってから藤宮家に引き取られたという事実も。橘家の大奥様が、夕月を相応しい令嬢に育て上げるのに、どれほど苦心したことか。なのに桐嶋は、冬真が夕月に相応しくないと?笑止千万。医者が生理食塩水と一緒に、脳みそまで洗い流したんじゃないのか。「まぁ、恋は盲目ってことね」楓は腕を組んで嘲るように言った。「へぇ、桐嶋さんは人の食べ残しまで狙うタイプだったとは」冬真は氷のような笑みを浮かべた。振り向くと、夕月が病室の入り口に立っていた。先ほどの会話を、どこまで聞いていたのだろうか。冬真は悠斗の手を引きながら、夕月に向かって歩み寄った。「来週の月曜日で離婚熟考期間が終わる。午後二時半に手続きの予約を入れた。藤宮夕月、来る勇気はあるのか?」離婚を切り出したの
「へぇ、桐嶋さんは人の食べ残しまで狙うタイプだったとは」彼女は冬真にとって、食卓に残された冷めた白米のような存在。味気なく、かといって捨てるのも惜しい。「男への復讐は、別の男と結婚することじゃないと思います」夕月は桐嶋に向かってはっきりと言った。「女の魅力をアピールして、27歳になってもまだ男に求められているって見せつけることでもない。私の価値は、男に選ばれることで決まるものじゃないんです」夕月は微笑んで続けた。「誰かに傷つけられた時の最高の復讐は、その人の手の届かない高みまで上り詰めること」もう奥深くに隠れて、男の影に生きる存在ではない。冬真と同じ目線に立つ。いいえ、もっと上へ。冬真さえも届かない場所まで。我に返ると、桐嶋の熱を帯びた視線が自分に注がれているのに気づいた。一瞬、動揺が夕月の瞳を掠めた。桐嶋は視線を逸らし、「やっと本来のあなたに戻ったね」と呟いた。これこそが、彼の心を惹かれた夕月の姿だった。「え?」うつ伏せの姿勢で発された言葉は不明瞭で、夕月には聞き取れなかった。桐嶋は長い睫毛を伏せ、ゆったりとした笑みを浮かべた。「幼稚園での危険物使用の件、橘家のご子息の。夕月さんが表に立ちたくないなら、僕が対応しましょうか。被害者として」夕月は頷いた。「被害者として、橘家と幼稚園に賠償や謝罪を求めるのは、桐嶋さんの当然の権利ですから」夕月は美優を見つめた。大人なら感情をコントロールできるが、子供にはそれは難しい。美優と悠斗を同じ幼稚園に通わせていては、また衝突が起きるかもしれない。クラス替えをしたところで、園内で顔を合わせることは避けられない。「来年から美優は小学生です。本来なら橘家の予定通り、桜井小学校に進学するはずでしたが、転校を考えています。桜都で最高の教育環境といえば、桜井の他には……」「第二工場小学校ですね」桐嶋が夕月の言葉を引き取った。第二工場小学校――鉄鋼工場と兵器工場の愛称から名付けられた学校は、かつて特別な時代に桜都の功労者たちが子女を通わせた場所だった。今では、お金があっても簡単には入れない名門校となっている。「父に紹介状を書いてもらえば……」桐嶋が切り出そうとしたが、夕月は微笑んで遮った。「先生にご迷惑をおかけする必要はありません。実は、第二工
翌日。黒いバイクの咆哮が通りに響き渡り、道行く人々の視線を集めていた。藤宮楓がバイクを停める。前には黒のライダージャケットに黒のヘルメットを被った小さな人影が座っていた。楓はヘルメットのシールドを上げ、意地の悪い笑みを浮かべた。「夕月姉さん~お手伝いしましょうか?」彼女は悠斗を連れて天野が経営するジムにやって来た。ちょうど夕月が大きなゴミ袋を二つ抱え、階段を降りてくるところだった。夕月はシンプルなベージュのパーカーを着て、袖を肘まで捲り上げていた。髪は無造作に一つに束ね、白磁のように滑らかな頬に数本の髪が散っていた。楓の前に座る小さな影が声を上げた。「あんなの放っておけばいいじゃん!」それは悠斗だった。母親のそんな姿を見て、恥ずかしくてたまらないようだった。楓の目が意地悪な笑みを湛えていた。悠斗を乗せて来たのは、またしても夕月の惨めな姿を見物するためだった。階段を降りてくる美優の姿が目に入った。女の子は両腕にミネラルウォーターの箱を抱え、その腕は逞しく力強かった。天野と引っ越し業者の作業員たちはエレベーターから出てきて、重いトレーニング機器をトラックに積み込んでいた。橘冬真は家主から物件を三倍の価格で強引に買い取った。そして天野に対し、一日以内にジムから機器を全て撤去するよう命じたのだ。この光景を目の当たりにした楓は、思わず面白がってしまう。「夕月姉さん、あなたって災いを呼ぶ体質?天野さんのところに来なければ、こんな風にジムを畳むことにはならなかったのに」「楓、頭がおかしいなら病院に行けば?私のところに来ても意味ないでしょ」夕月はゴミ袋をゴミ箱に放り込んだ。楓も冬真も知らなかったが、この五階建ての商業ビルのオーナーは実は天野だった。天野はビルを購入後、管理を容易にするため複数のサブリース業者に分けて貸し出していた。以前、あるサブリース業者の妻が重病になった際、天野はその業者から物件を借り受け、ジムを開業したのだ。今、その業者は恩返しとして、三倍の家賃を天野の口座に振り込んでいた。楓の皮肉な言葉を耳にした天野は、大股で彼女に向かって歩み寄った。その男の存在感は圧倒的で、影が楓に覆い被さる前から、彼女は居心地の悪さを感じ始めていた。悠斗までもが身を縮めるほどだった。「
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付
鹿谷の方を向いて「だからお前はNo.4ってわけ」天野のこめかみが膨らみ、顔が険しく曇っていく。今にも爆発しそうな様子だ。立ち上がった夕月は出かける支度をしながら、何気なく尋ねた。「どうして急にお兄さんと伶にあだ名つけてるの?」夕月の隣を歩きながら涼は答えた。「彼女さんが嫌なら、もう呼ばないよ」心の中で呟く。あだ名じゃない、順位だ。これからは内緒で呼ぼう。二人が去った後、鹿谷が静かに口を開いた。「桐嶋さん、あんなに積極的に近づいてくるの、何か裏があるんじゃない?」天野は冷ややかに笑う。「あの間抜けな笑顔を見ろよ」テーブルの買収企画書を手に取り、「でも今、藤宮盛樹の信用を得て、かつ私たちも信頼できるのは、桐嶋しかいないんだ」鹿谷は慎重に考えを巡らせ、やがて小さく頷いた。*車内に差し込む陽の光が、夕月の横顔を優しく照らしていた。「悠斗くんが目を覚ましたって、知ってる?」涼の声に、夕月は小さく頷いた。「ええ。北斗さんからすぐに連絡があったわ」事故のあった日以来、夕月は瑛優を病院に連れて行くのを控えていた。橘大奥様とはもはや話し合いが通じない。瑛優を連れて行くだけで、まるで敵が攻めて来たかのような態度を取られる始末だ。しかも、いくつもの慈善団体から名誉職を剥奪された大奥様は今や、夕月の存在そのものを憎んでいた。病院に行けば大奥様の罵声が飛び交い、それは悠斗の療養の妨げにもなる。「私にできることは、全てやったわ」*この日も定光寺は、橘家の来訪により他の参拝客の受け入れを謝絶していた。橘大奥様は座布団の上で正座し、両手を合わせて祈りの言葉を紡いでいる。車椅子に座った悠斗は、手足にギプスを巻かれ、首にはサポーターを着けていた。丸坊主にされた頭には包帯が幾重にも巻かれ、その表情は生気を失っていた。線香の匂いが鼻についく。呼吸をするたびに、体中の傷が疼いた。目覚めてからわずか三日。大奥様は焦るように悠斗を寺に連れてきて、仏様に加護を祈っていた。意識が戻ってすぐ、悠斗は大奥様に尋ねた。「楓兄貴は?」大奥様は答えた。「あの女は拘留されているのよ」楓の名前を聞いただけで、大奥様の口からは呪詛の言葉が零れ落ちた。悠斗は楓のことを、それ以上聞かなかった。意識が戻ってから、おじいちゃん、
その言葉を口にした瞬間、涼は両手を強く握りしめた。胸の奥で心臓が小さく震え、灼熱が全身に広がっていく。こんな告白、突飛すぎたのではないか。夕月は自分のことを気が触れていると思うかもしれない。涼は俯いて、夕月からの審判を静かに待った。自分のすべてを、彼女の裁定に委ねるように。「恋人同士のふりをすれば……確かに父さんを誘い込めるかもしれないわね」夕月は真剣な表情で続けた。「藤宮テックを手に入れた時点で、私たちの協力関係は終わり。その時は別れたことにして、桐嶋さんは恋人じゃなくなる」透き通るような瞳を見つめながら、涼は喉が熱くなるのを感じた。「一ヶ月限定の恋人に、俺をさせてください」夕月は涼に向かって手を差し出した。「あなたの言う、見返りを求めない愛情。私にはまだ経験したことのないものだわ。でも、感じてみたい。体験してみたい。あなたの気持ちを、素直に受け止めてみたい。だって私は、愛されるだけの価値がある人間だから」夕月は微笑みながら、涼との握手を待った。涼は恐る恐る手を伸ばし、彼女の指先に触れた。電気に打たれたように、一度手を引っ込める。興奮のあまり、テーブルに転がり出しそうになる。耳まで真っ赤に染まり、鼻から熱い息を吐きながら、もう一度夕月の指先に触れる。まるで子供のような無邪気な笑顔を浮かべて。手を引っ込めると、夕月に触れた指先をじっと見つめ、どこに置いていいのかわからないような仕草を見せた。「よろしく、彼女さん」天野は切れ長の眉を僅かに顰め、罵声を呑み込んだ。鹿谷は夕月の隣に座り、彼女の指を自分の手のひらで包み込むようにして、そっと撫でた。「僕、初めて見たよ」鹿谷は小声で夕月に囁いた。「こんな綺麗な愛し方できる人。桐嶋さんって、本当にすごいよね」夕月も声を潜めて答える。「私も初めてよ。でも考えてみたら、こういう経験も悪くないかもしれない。こんな良い機会を逃すなんて、むしろ馬鹿みたいじゃない?」頬を染めた鹿谷は、心の内を打ち明けた。「僕も夕月に対して、何も見返りを求めてないんだよ」夕月の目元に浮かぶ柔らかな笑みを見て、鹿谷は恥ずかしさのあまり、夕月の胸元に顔を埋めてしまった。自分の指先を眺めていた涼は、夕月の胸に顔を寄せている鹿谷の姿を目にして、頭の中で警報が鳴り響いた。
「桐嶋さんは、私のことが好きなの?」夕月の問いは率直で大胆だった。涼の耳朶が一瞬で赤く染まる。テーブルに両手をつき、顔を少し伏せると、濃い睫が微かに震えた。抑えきれない笑みが、喉元からこぼれ出る。「ああ、好きだ」その言葉を告げる時、彼は真っ直ぐに夕月を見つめた。その瞳は無数の星が瞬くように輝いていて、夕月は思わず息を止めた。その眼差しの煌めきを見逃すまいとして——涼は柔らかな眼差しで彼女を見つめ続けた。その瞬間、世界が静寂に包まれた。「いつから惹かれていったか、分かるか?」夕月は首を傾げて考えた。「Lunaとして、レースで優勝を重ねた時?」涼は微笑んだ。「桜都大の講壇で颯爽と輝いていた時だ。レースで全速力で駆け抜けた時も、恋に向かって躊躇なく突き進んだ時も。二人の子供を連れて、学校と橘家の間を忙しく走り回っていた時も。お前の全ての姿が、俺の心を掴んでいた。どの瞬間も、どの年も、生命力に満ち溢れていた。市役所で橘冬真と別れを告げた時も、公道でスピード違反をした時も、全てが俺の心を更に惹きつけた」鹿谷は目を丸くして、涼の大胆な告白に聞き入っていた。天野の周りには暗い気配が立ち込め、夕月の一言さえあれば、この厚かましい男を窓から放り投げる構えだった。「夕月に恋愛を強要するつもりか?」天野の声は険しく、目の前の男を引き裂きかねない鋭い眼差しを向けた。涼は夕月だけに視線を注ぎ、天野の言葉には一切反応を示さなかった。「独身女性に対する成人男性の好意や憧れに、隠すべきものはない。けど、俺の気持ちへの返答は求めない。好きだという感情は俺一人のものだ。その責任も俺が負う。お前は関係ない。もし俺の好意が迷惑で不快なら、それは俺の至らなさだ。下がるし、お前の心地よい範囲で常に行動する」夕月の唇が不意に緩んだ。涼の言葉に、予想外の面白みを感じていた。「じゃあ桐嶋さん、あなたの気持ちに私はどう向き合えばいいのかしら?」涼は身を乗り出し、爽やかな匂いが夕月を包み込んだ。「俺の体、結構いいと思わないか?」意図的に低く紡がれたその言葉は、夕月の耳元で雷のように轟いた。脳裏に勝手に浮かぶ、涼が送ってきた自撮り写真の数々。一枚送るたびに「気に入った?」と尋ねてきた。「嫌なら消すよ。
数日後——桜高商業ビルの最上階オフィスで、夕月は天野昭太と鹿谷伶と打ち合わせをしていた。桜都の新興開発地区に建つ66階からは、広大な港と海への出口が一望できる。大型貨物船がゆっくりと水平線を横切っていく光景が目に入る。天野はスーツの上着をソファの背もたれに投げ捨て、体にフィットしたシャツ姿。ネクタイも締めず、開いた襟元から日に焼けた肌と真っ直ぐな鎖骨が覗いていた。捲り上げた袖からは、筋肉の盛り上がった逞しい前腕が露わになっている。足を少し開いてリラックスした姿勢で座り、天野は言った。「私のフェニックス・テクノロジーも藤宮テックの買収戦に参加している。だがオームテックより高値を付けても、藤宮盛樹が選ぶ保証はない。短期間で盛樹にオームテックを捨てさせ、君の推す企業に売らせるのは至難の業だぞ」三人掛けソファに座った夕月は、手元の資料に目を通しながら答えた。「あの人を完全に信用させられる経営者が必要なの。その企業に売れば莫大な利益が得られると、心から信じさせられる人物を」だが盛樹の人脈を徹底的に調べても、彼を説得できる人物は見つかっても、信用して任せられる相手がいない。天野と鹿谷は上場企業を持っているものの、彼らも、彼らの部下も、盛樹の警戒心を解くには力不足だった。ノックの音が響き、秘書が扉口に現れた。「天野社長、桐嶋さんがお見えです」凛とした気品を纏った男が、まっすぐに夕月の元へ歩み寄る。その姿が近づくにつれ、まるで月光のような清々しさが部屋全体に満ちていった。「桐嶋さんは私に?」夕月は天野が涼を呼んでいたことを知らなかった。涼は一束の書類を差し出した。「俺のペーパーカンパニーの資料だ。藤宮テックーを400億円で買収する計画を立てている」夕月は計画書を受け取りながら言った。「オームテックの倍の価格提示ね。でもそれじゃ逆に父さんは罠を疑うわ」「だから、俺を信用させるんだ」「どうやって?」涼はスーツのボタンを外し、両手をポケットに入れたまま、夕月の前のテーブルに腰掛けた。「例えば、俺がお前の恋人になるとか」彼の唇が緩み、春風のような微笑みを浮かべた。鹿谷が息を飲む音が聞こえ、天野の雰囲気が一変、即座に警戒態勢に入った。涼は続けた。「オームテックに売れば、藤宮盛樹は金を手にするだけだ。自
受話器を耳に当てる。「若葉理事、申し訳ありませんが、上層部より桜都優秀女性賞の授与を一時見合わせるとの通達が……」大奥様の胸が締め付けられた。「誰かに告発されたの?」不安が込み上げる。夕月は自分に不利な証拠を握っているのだろうか。老婦人の頭の中で思考が渦を巻いた。七年間も橘家に潜伏していた夕月。まるでスパイのように情報を集めていたというのか。「理事、息子さんが警察に連行され、ネットではあなたを『鬼姑』と非難する声が……この状況では女性連盟会も距離を置かざるを得ません」「胡桃会長……」言葉を終える前に、電話は切れた。かけ直そうとした矢先、新しい着信が入る。桜国赤十字社からだった。大奥様の胸に不吉な予感が重く沈んだ。「もしもし」「若葉理事、申し訳ありませんが、ネット上の反応を鑑みまして、名誉会長の名簿からお名前を削除させていただくことになりました」大奥様の心臓が激しく鼓動を打つ。「どうしてそんな……」言葉の途中で、また別の着信が入った。受話器を耳に当てると、今度は慈善団体の役職も剥奪されるとの通達だった。「私が何をしたというの?!」大奥様は憤懣やるかたない様子で秘書に問いかけた。その日の夜、楓のSNSアカウントは運営側によって凍結された。しかし五歳児とバイク走行の件に関する議論は、むしろ増す一方だった。自宅で過ごしていた夕月の元に、凌一からの電話が入る。「星来が、君を心配していると伝えてほしいそうだ」雪山の頂から流れ落ちる清冽な泉のような声が、夕月の耳に届く。凌一の声には広がりがあったが、どこか気の進まない様子が混じっていた。「私は大丈夫です」と夕月は応じた。「レースの走りは見事だった」凌一は付け加えた。「星来の言葉だがな」夕月は微笑みを浮かべながら尋ねた。「冬真さんの任意同行で、橘グループの株価が動くでしょう。先生にご影響は……」恭しい口調で問いかける。「心配無用だ。私の事業は橘グループとは完全に独立している」夕月はほっと息をつき、「来週から藤宮テックのM&A案件を担当することになりました。先生、良い報告をお待ちください」凌一は冷ややかな声で短く答えた。「ああ」「先生、私に成功の見込みはありますか?」質問する夕月の声には、かすかな緊張が混じっていた。「君
かつて橘夫人だった頃なら、広報対策を助言していただろう。だが今となっては、全て冬真の自業自得。橘家が揺らごうと、もう自分には関係のない話だった。夕月はICUのガラス窓越しに、息子の姿を見つめていた。医療機器と真っ白なシーツに埋もれた悠斗は、気を付けなければ見過ごしてしまいそうなほど小さく見えた。耳に蘇るのは、二、三歳の悠斗が病院で泣き叫んでいた声。夕月の腰にしがみつき、小さな体を母の胸に埋めていた温もり。あの頃の夕月は、悠斗の全てだった。盛樹が夕月の前に立った。夕月は冷ややかな目で、彼の手に握られた血染めのベルトを一瞥した。「オームテックの重役が接触してきた。藤宮テックの代表として、買収の話をまとめて欲しいそうだ」盛樹は夕月の顔を見据え、意味深な笑みを浮かべた。「来週から会社に来い。副社長の席を用意してやる」世界的な実力を持つレーサーLunaが自分の娘だと知り、さらに多国籍企業オームテックが目を付けているとなれば——盛樹の口元が歪み、瞳に強欲な光が宿る。「さすがは私の娘だ」夕月の肩に手を伸ばそうとした瞬間、夕月は躊躇なくその手を払い除けた。「気持ち悪い。触らないで」夕月は嫌悪感を露わにした。「お前っ!」盛樹が罵りかけたが、指先についた楓の血に気付いた。女だから、血を見れば怖がるだろう——そう思い込んでいた盛樹は、巨額の利益をもたらすであろう娘の顔を見て、途端に機嫌を直した。「分かった分かった、手を洗ってくる。晚月、お前は本当に期待している娘だ。藤宮家の未来はお前にかかっているんだからな!」夕月は胸が反り返るような吐き気を抑えながら答えた。「お父様、ご安心ください。藤宮家の未来は私にお任せを」大奥様は夕月と瑛優を追い払うと、廊下の長椅子に腰を下ろし、アシスタントに指示を出し始めた。「メディアに話を回しなさい。重症の息子が病室にいるのに、母親である夕月は付き添いもしない。実の妹が息子をバイクに乗せているのを知っていながら止めもしなかった。それなのに祖母である私を責めるなんて!」アシスタントは黙って老婦人の言葉を携帯に書き留めていた。突然、知人から送られてきたニュースに目を留めた。開いた瞬間、アシスタントの顔から血の気が引いた。警察に連行される冬真の姿を捉えた動画が、ネットに出
「お嬢ちゃん、ここは無菌室だから、入れないのよ」瑛優は看護師に尋ねた。「悠斗はいつ目を覚ますの?」看護師は優しく微笑んで答えた。「きっと、すぐだと思うわ」夕月が来てみると、瑛優はICUの壁際にしゃがみ込み、クレヨンで何かを描いていた。夕月は、瑛優が描いた常夜灯の絵を病室のドアに貼るのを見つめていた。瑛優は絵を貼り終えると、両手を合わせて目を閉じた。その表情には深い祈りが刻まれていた。夕月の喉元に、苦い感情が込み上げてきた。「悠斗が目を覚ましますように。そうしたら、ママに謝れるから」夕月は娘の頬に手を添えた。悠斗からの謝罪など、彼女は気にしていなかった。でも悠斗は確かに、瑛優と最も近しい存在だった。双子として生まれ、かつては心も体も寄り添って生きてきた二人。重傷を負った悠斗との対面は瑛優にとって初めての経験で、死の影がこれほど身近な人に迫ったことも初めてだった。この恐怖は、きっと長く瑛優の心に残るだろう。夕月はその場に膝をつき、瑛優を強く抱きしめた。瑛優は夕月の肩に顔を埋め、堪えきれない涙を零した。声を立てて泣くまいと必死に耐えながら、夕月の肩で泣き続けた。温かい涙が、母の肩の布地をじわりと濡らしていく。廊下では、数名の警官がまだ残っており、冬真への事情聴取を続けていた「藤宮さんから提出された資料によりますと、交通課内部で違反を隠蔽していた形跡が見られます。楓さんの度重なる違反運転について、橘さんと秘書の方にも調査にご協力いただきたいのですが」冬真の表情が一層暗く沈み、眉間に深い影が落ちた。警官と共に立ち去ろうとする息子の姿に、大奥様は突然、バネが跳ねたように椅子から立ち上がった。「何故冬真を連れて行くの?冬真は何も悪いことなんてしていないわ!」大奥様の大声に、周囲の人々が好奇の目を向けていた。「母さん、取り調べに協力するだけだ」冬真は恥ずかしさを覚えながら言った。大奥様の叫び声に、通りがかりの人々は冬真が何か悪事を働いたのではないかと疑いの目を向けていた。老婦人は夕月に矛先を向けた。「悠斗があんな状態なのに、まだ冬真を陥れる資料なんか集めて!」さらに声を荒げ「そんな証拠があったなら、なぜ早く警察に渡さなかったの?楓を逮捕させることもできたはずでしょう!あなたは最初から悠斗を傷つけ