Masuk遥が我に返った時には、すでに手遅れだった。湊は自ら口にした「試す」という言葉を余すところなく実行に移していた。彼女の目尻にはじわりと涙が滲む。ふと入り口に目を向けると、人影が横切ったのが見えた。胸がギュッと締め付けられ、慌てて湊を押し退けようとした。「誰かいるよ……」湊は答えなかった。彼のオフィスには、たとえ誰かが用事で来たとしても、彼の許可なく足を踏み入れる度胸のある者などいない。百歩譲って、誰かが入ってきたとして、それがどうしたというのだ。自分のオフィスで自分の妻にキスをして、何が悪い。法に触れるわけでもあるまいし、誰に文句を言われる筋合いもない。だが、遥はひどく緊張していた。何しろ、彼女は元々九条グループの社員だったのだ。もし誰かがオフィスに入ってくれば、知った顔に出くわす可能性は十分すぎるほどあった。湊は多忙を極める身だ。社内掲示板の書き込みを追うような暇もなければ、興味もない。だから、社員たちが裏でどれほど好き勝手に噂を広めているかを知らないのだ。もし本当に誰かに見られでもしたら、明日どころか、今夜のうちに掲示板は「社長がオフィスで飢えたホストのような真似をしていた」の話題で持ちきりになってしまう。遥には、守るべきプライドがある。湊は彼女に抵抗されて少し苛立ったのか、いっそのこと椅子のマッサージ機能をオンにした。椅子全体が後ろに数十度傾き、完全に寝そべるような体勢になった。周囲のマッサージローラーが遥の体を椅子にがっちりと固定し、身動きが取れなくしてしまった。起き上がる力すら入らない。少し動こうとするだけで、椅子もそれに合わせて動いてしまうのだ。湊はまだ聞いてくる。「強さはどれくらいがいい?ソフトか、それとも少し強めか?」遥は答えた。「選べるの?じゃあ、一番弱いレベルで」彼女は普段マッサージなどほとんどしない。湊に言わせれば、彼女の体は「少し触れただけで痛がる」ほどデリケートなのだ。マッサージの力が強すぎると、全身に赤い跡が残ってしまう。強い刺激に耐えられないため、マッサージをするならソフトなものしか選べない。だがそれは湊から言わせれば、靴の上から痒いところを掻くようなもので、全く効果がない。湊はふっと笑い、袖を腕まで捲り上げると、遥のふくらはぎに手を置
遥は瞬きをして我に返った。「あそこにある、あのピンク色のコーヒーカップ、誰があなたに差し入れしたのか考えてたのよ。ずいぶん乙女チックじゃない」湊はそこに置かれているコーヒーカップに視線をやった。彼自身も明らかに驚いた様子だった。遥は顔を上げて彼を見つめた。おそらく湊の顔から少しでも手がかりを読み取ろうとしたのだろう。だが彼の深い瞳とぶつかった時、そこに見えたのは、遥を溺れさせてしまいそうなほどの深い笑みだけだった。湊は手を伸ばし、遥の顎を優しく撫でた。今朝、彼女は化粧をするのをサボり、結衣を起こす時に母娘でベタベタとじゃれ合っていた。その時、結衣のベビーローションを顔いっぱいに塗ってしまったため、今も彼女の顔からはベビーローションの甘いミルクの香りが漂っている。湊は笑った。「九条夫人、何を心配しているんだ?あれは昨日出かけた時、結衣が俺に渡してくれたものだぞ」彼は立ち上がってテーブルへ行き、そのコーヒーカップを手に取って遥に渡した。カップの側面には、結衣がマジックで描いた落書きがあった。ラベルには「ホットミルク」と書かれている。コーヒーではなかった。湊が説明した。「昨日、結衣を乗馬の大会に連れて行った時、蓮が結衣に買ってやったミルクだよ。飲み終わった後、結衣が絵を描いたんだ。昨日、急用で会社に寄った時、結衣はソファで俺を待っていた。帰る時に、これを俺にプレゼントするって言って置いていったんだ」カップの絵をよく見ると、パソコンを見つめている男の姿らしきものが描かれており、頭には……三本の毛が立っている。子供の絵の描き方は、いつだってシンプルだ。結衣は遥を描く時、いつも二つ結びのおさげを描く。それが湊になると、頭頂部の三本の毛になってしまうのだ。遥は思わず吹き出した。「結衣には絵の才能がこれっぽっちもないみたいね」「これから育てていけばいいさ。結衣がその気になれば、いくらでも才能は伸ばせる」湊は少し身をかがめ、遥の滑らかで小ぶりな顎を指で挟んだ。「それより、九条夫人、お前は何を考えていたんだ?俺が浮気しているんじゃないかって疑ってたのか?」「そんなことないわよ。九条社長は毎日こんなに忙しくて、私の相手をするだけで手一杯なんだから、浮気する暇なんてあるわけないじゃない?
湊の社長室で、遥はオフィスチェアに座ってくるりと回してみた。数十万円は下らない高級オフィスチェアは、確かに彼女がリサイクルショップで三千円で買ってきた椅子とは比べ物にならないほど座り心地が良い。おまけにマッサージ機能までついている。ここに座っていると、このまま社長室に住み着いてしまってもいいような気がしてくる。健太がコーヒーを運んできた。「立花社長、コーヒーはいかがですか?」「ありがとう、そこに置いておいてくれ」湊の社長室の後が一面のガラス張りになっており、そこに立てば東都の街並みを一望できるだけでなく、寒い冬の日にここに座って日差しを浴びていると、体中がポカポカと暖まってくるようだった。健太は笑って言った。「立花社長、社長室の居心地はいかがですか?」「匂いがするね」健太は顔色を変えた。どこか掃除が行き届いていない場所があっただろうかと慌てて聞き返そうとしたが、遥が舌打ちしながら感慨深げに続けるのを聞いた。「資産家の匂いがプンプンするわね」九条グループの社長室は、確かに隅々まで贅を尽くしている。だがこれも、九条グループが何十年もかけて積み上げてきた結果であり、だからこそ今の巨大なビジネス帝国があるのだ。正男と久美子が経営していた頃の立花家の会社は、質素そのものだった。九条グループとは、比べるべくもない。健太は笑いをこらえながら言った。「では……社長がお戻りになる前に、社長の私物をすべて運び出してしまいましょうか?」遥は椅子をくるりと回して健太に向き直り、ひどく胸を痛めているような表情を作った。「そんなことできるわけないじゃない!私のオフィスに、こんなバカでかいデスクと椅子を置くスペースなんてないわよ!」健太は必死に笑いをこらえながら社長室を出て、エレベーターの前で湊を出迎えた。「遥はどれくらい待ってる?」「立花社長は三十分ほど前にいらっしゃいました。書類をお届けに上がったとのことで、現在は社長室内でお待ちです」湊は、健太の口元から隠しきれずに溢れている笑みを見て、冷たく鼻を鳴らした。「何を話してた?」「立花社長は、社長室のインテリアがとても素晴らしいと。特にあの椅子がお気に召したようです」湊は足を止めることなく歩き続けた。社長室の前に来ると、秘書たちが駆け寄ってき
長年の取り調べ経験を持つ刑事は、綾乃の言葉に含まれた重要な手がかりを聞き逃さなかった。「彼女は誰を怒らせたんだ?」綾乃の言葉が、ピタリと止まった!刑事の毅然とした視線とぶつかり、彼女の体は思わず小刻みに震え出した。歯を食いしばり、声で絞り出した。「九条潤です。彼女は、九条潤を怒らせたんです」刑事たちが顔を見合わせる。その時、取調室のドアの窓ガラス越しに、一人の男の陰鬱で冷酷な視線が注がれていた。彼は背が高く、頭がドア枠の最上部に触れそうなほどだったため、ちょうどその窓の高さに両目が収まっていたのだ。湊は首を横に振った。九条潤ではない。いや、正確に言えば、潤だけではないはずだ。綾乃は手のひらにじっとりと汗を滲ませ、唇を震わせて言った。「そ、それから、相沢穆と相沢樹もです。彼らは、もし私が立花遥の会社を潰すことができたら……その、私に見返りをくれるって」具体的な見返りの内容については言及しなかったが、どうせ金や地位といった類のものだろう。あの二人については、湊もそれほど驚かなかった。彼のポケットに入っていたスマホが鳴った。自分の本来のSIMカードではないものが入っており、大晦日以降、着信音が響くのはこれが初めてだった。発信元はアフリカの小さな国からの国際電話だ。どう見ても、足のつかない使い捨ての匿名回線である。ずいぶんと手の込んだ隠蔽工作だ。湊が通話ボタンを押すと、相手の声はボイスチェンジャーで加工されていた。「しばらくどこかに隠れていろ。東都にはいるな。九条湊に捕まるんじゃないぞ」言い終えるや否や電話は切られ、こちらが反応する隙すら与えられなかった。湊は取調室の中で震え上がっている綾乃を見つめながら、スマホの画面を無造作に指でなぞった。滑らかな画面に指紋が残る。先ほどの電話は、相沢家のあの馬鹿兄弟からではない。潤からでもない。おそらく、綾乃自身も、ずっと裏で自分を操っていた黒幕が誰なのか、本当は分かっていなかったのだろう。湊は取調室のドアを押し開け、大股で外へ出た。お正月が過ぎたとはいえ、東都はまだ真冬の冷え込みが厳しく、小雪が舞い散っていた。湊はタバコをくわえた。胸の内に渦巻く抑えきれない苛立ちは、かつて忌み嫌い、やめたはずのタバコにすがらなければ、紛らわしようもなか
凛は深く息を吸い込んだ。親指の傷の処置と包帯を巻く作業は、すべて麻酔なしで行われた。メッセージを送信し終えた瞬間、彼女は全身の力が抜けてしまった。唇から血の気が失せ、遥の肩にもたれかかりながらスマホをロックした。凛は自分に言い聞かせた。こんなことで悲しむべきではない。私にはまだ、やらなければならないことが山ほどあるのだから、と。だが、心だけは自分の思い通りにはいってくれない。おまけに、蓮は彼女の初恋だった。物心ついてから、初めて好きになった相手なのだ。自分の恋は、慌ただしく始まり、そして何の結果も残さずに終わってしまったのだ。スマホは凛の手にしっかりと握りしめられていた。涙がこらえきれず目からこぼれ落ちる。華奢な肩が、まるで脆い蝶の羽のように小刻みに震えた。これでいいんだ、早めに損切りできたんだから。たとえ彼にとってこれがただのゲームだったとしても、構わない。そう自分に言い聞かせていたのに、不意に鼻の奥がツンとし、胸がうずき出す。溢れる涙に溺れるように、彼女の唇は涙の味で満たされた。遥は彼女が傷のせいで痛がっているのだと思い、顔を覗き込んで聞いた。「すごく痛むの?」凛はこくりと頷き、溢れそうな涙をぐっと堪えて、手で拭おうとした。だが、何度拭っても涙は止まらなかった。「うん、痛い。すごく痛い」遥は手を伸ばし、彼女の頬を濡らす涙を優しく拭って慰めた。「後で真理ちゃんに家まで送ってもらって、ゆっくり休んで。休み明けでまだ本格的に稼働していないから、仕事のことは心配しなくて大丈夫よ」今日は仕事始めだし、まだそんなにバタバタしていないから大丈夫だから。凛が怪我をしたのは親指だが、幸い医者は少し休ませれば治ると言っていた。痛み以外に異常はないとのことだった。真理が凛を家まで送ろうと車に乗り込んだ時、助手席に九条グループのロゴが入った茶封筒のファイルが置かれているのに気づいた。真理はポンと自分の額を叩いた。「しまった、お義姉さん!今朝、この資料をお兄ちゃんに渡すの忘れちゃってたわ!東エリアのショッピングモール建設プロジェクトの件なんだけど、お義姉さん、代わりにお兄ちゃんに届けてもらえないかな?」遥は手首を返し、時計に目をやった。この時計は、湊が新年のお祝いにプレゼントしてくれたものだ。
淵は視線を戻した。「親父は?」「朝、本家へ戻ったよ。会いに行くか?」淵は少し考えてから、首を横に振って冷笑した。「俺に会いたくないから本家へ帰ったんだろう。俺だって、わざわざ嫌がられに行きたくはないな」ここ何年も、淵と行健は一切連絡を取っておらず、互いに意地を張ったままだった。修はため息をついた。「これだけの年月が経ったんだ、お前もそろそろ意地を張るのはやめにしろ!親子の縁は切れないんだ、いつまでも親と意地を張り合ってどうするつもりだ?」淵は、ズボンの裾が空っぽになっている左脚をポンポンと叩いた。「兄貴、口で言うのは簡単だがな、俺のこの足が納得するかどうか、聞いてみてくれよ!」あの時、行健が迷うことなく処置を下さなければ、淵が失うものは一本の足だけでは済まなかったはずだ。だが、そんなことを淵に言っても通じるわけがない。もし言葉で説明してわかるくらいなら、ここまで長年こじれることはなかっただろう。修は手を振った。「俺が余計なことを言った、忘れてくれ。せっかく帰ってきたんだ、家族でゆっくり正月を過ごせ。他のことは一旦横に置いておこう!」淵はフンと冷たく鼻を鳴らした。……年末年始の休みは、あっという間に過ぎていった。遥は会社を設立して初めての正月休みなのだから、いっそのこと松の内が明けるまでゆっくり休んでもらおうと考えていた。だが、真理と紗月から毎日出社を急かされてしまった。結局、お休みはカレンダー通りで終わってしまった。真理は、「社長なのにこんなに仕事のやる気がない人、初めて見たわ」とまで言った。遥は笑った。「今年は生産目標もデザインの要求レベルも上がるのよ。休み明けからいきなり仕事に戻るのは、決して楽なことじゃないわよ」「それでも、家で毎日両親が言い争ってるのを見てるよりマシよ」真理たちの別棟では、淵と麗子が戻ってきてからというもの、一日たりとも平穏な日はなかった。昨夜など、麗子が淵の部屋から若い家政婦が出てくるのを見つけて大騒ぎになり、家全体がひっくり返るほどの騒動になった。そのせいで、夜中に湊が起きていって仲裁に入る羽目になり、遥にはそのまま寝ているようにと言い残した。九条家の上から下まで、遥以外にまともに眠れた者は一人としていなかった。遥はコーヒーを一







