LOGIN結婚して五年の旦那、理人(まさと)の前に現れた、足の不自由な初恋の人、詩織(しおり)。詩織の巧みな嘘に騙され、裏切りを重ねる夫を捨てて、木香(このか)は再起を図る。
View More冷たくて固い床の上で、私の手足は冷えていった。
その地下室の扉は、私、有浦木香(ありうらこのか)がゴミ同然に叩き込まれるまで、長らく開かれていなかった。 そこでは、壊れてしまった古い家具や、破れて染みがついた絨毯が、埃を被っていた。 愛した夫は、きっと今頃、私との結婚記念日にはキャンセルしたレストランで、食事を楽しんでいることだろう。 ──彼の、初恋の相手と一緒に。 さっき投与された堕胎薬が、お腹の子供の命を奪っていくのが分かる。 この子を産んで、育てたかった。 本当は、幸せな家庭を築きたかった。 それも、私のわがままで済まされてしまうの? もう、声を上げる力もなくなった。 お腹の子が死んでいくのを、感じている他になかった。 第一話 結婚記念日、半年前から予約していたフレンチのレストラン「モンクール」の席で、私は一人座っていた。 夫の有浦理人(ありうらまさと)は、約束の時間になっても来ることはなかった。 メッセージにも返信がなく、電話も繋がらない。 私の胸は、心配よりも落胆に満たされていた。 大切な約束を忘れられることなど、これで何度目かわからない。 私の様子を気に掛けたウェイターが、「最初のお料理をお持ちいたしましょうか?」と尋ねに来た。 私は、最後の強がりで「夫を待ちますので」と答えた。 その瞬間、携帯が震えた。 理人からの着信だ。 震える手で電話を取ると、理人の低い声が聞こえた。 「仕事中は連絡してくるなと言っただろ。一体どうした?」 一体どうした。 その言葉は、まるで私との約束など、覚えていないようだった。 大切な日だから、14時には仕事を終わらせると、言っていたのに。 その言葉を飲み込み、平静を装って答えた。 「お疲れ様。……先に着いてるわよ」 「着いてる? どこに?」 心の底に広がる冷たい絶望に震えながらも、微かな希望に縋るように、理人の質問に答えた。 「レストラン。結婚記念のお祝いに、半年前に予約してたでしょ? 今日──来てくれるのよね?」 ほんの数秒の沈黙の後、理人は取り繕うように言った。 「ああ……明日だと勘違いしてたよ。すまない。このところ、忙しくしていたから」 確かに、理人はこの国を代表する大企業の社長だ。 いつも忙しそうに走り回っているのを、五年前に結婚した当初から見て、知っている。 それでも、ほんの一年前までは、記念日を忘れることも、すっぽかされることもなかった。 それもそのはずだ。 理人が「忙しい」理由は、仕事以外にあったからだ。 「今からでも、来てくれる……?」 私がそう聞くのと同時に、後ろから拗ねたような、甘い声が聞こえた。 「理人、まだかかるの? 今日は、私たちが再会した記念日なのに……」 ……その声は、槙原詩織(まきはらしおり)のものだと、すぐにわかった。 詩織は、理人の初恋の相手だった。 そして、十代で飛行機事故に遭い、亡くなった。 そのはずだった。 しかし詩織は、奇跡的に助かっていて生きていた。 被害者の数が多く、当時体格が似た別の女性と間違えて報じられていたそうだ。 そして一年前、すっかり大人になった美しい姿で、理人の前に現れた。 車椅子の上で、事故で足が不自由になったと語る詩織は、誰が見ても不幸で健気な女性だった。 「ああ……すぐ戻るよ」 電話の向こうで、理人の柔らかい声が聞こえた。 少し携帯を離したのか、遠い声だったが……もう長い時間、私には向けられたことのない響きだった。 「槙原さんと一緒なの?」 「ああ」 理人は、悪びれることなく答えた。 「詩織が、コンサートを観に行きたいって言うんだ。今日の食事はキャンセルしてくれ。必ず埋め合わせはする」 「それは……結婚記念日より大切なコンサート?」 思わず、言葉が漏れた。 電話の向こうで重々しいため息が聞こえた。 「一年に一回しかないコンサートなんだ。普段、詩織の介助をしてる奴が、急病で来れなくなったんだよ」 車椅子生活を理由に、詩織は何度も、理人を呼び出し、手伝いを頼んだ。 電話越しに、甘えるような泣き声を何度も聞いた。 理人も、それを断ることはなかった。 それどころか、自ら「何か困っていることはないか」と常に気にかけていた。 「コンサートは今日しかない。記念日のお祝いなんか、また別の日にもできるだろ」 記念日のお祝いなんか。 それは、わざわざ私を傷つける言い回しを選んでいるわけではない。 本気で、今日を「どうでもいい日」だと思っている口調だった。 「ねえ理人、まだなの? コンサートの前に夕食に連れていってくれるんでしょ? 早くしないと、予約の時間になっちゃうわ」 再び、詩織の甘える声が聞こえた。 理人はそれに応じた後、私に言った。 「今夜は遅くなる。先に寝てろ」 その言葉を最後に、電話は切れてしまった。 掛け直しても、電源が切られているのか、繋がらなかった。 私は唇を強く噛んだ。 拳を握りしめた後、近くにいたウェイターにキャンセルを申し出た。 「ごめんなさい。……同席人が急に来れなくなってしまったの。キャンセルさせていただいても宜しいですか?」 ウェイターは少し戸惑いながら答えた。 「……もうお食事のご用意を始めておりまして、所定のキャンセル料を頂くことになるのですが」 「構いません」 家族用に預かっているブラックカードを差し出した。 ウェイターは気まずそうにそれを受け取り、会計を済ませた。 私が店を後にする時、後ろから囁き合う声が聞こえた。 「あの人、夫が来るって言ってたわよね?」 「用意していたケーキも結婚記念日のものよ。それなのにキャンセルだなんて」 「そんな大事な日なのに……本当にあの人奥さんなのかしら?」 「やめなさい、何か急用が入ったのかもしれないでしょう」 「結婚記念日のお祝いより大切な? 親でも亡くなったのかしら」 その声は、憐れみと好奇と嘲笑だった。 ──人前で涙を見せるものじゃない。 結婚した当初、理人がよく言っていた言葉を思い出した。 当時の理人は、「だから自分の前では泣いていい」と、続けてくれたのに……。 いつからか理人は、私が涙を見せると、露骨に苛立つようになった。 「涙で同情を誘うな」と、低い声で叱りつけられた。 そうして私は、涙を堪えることを覚えてしまった。 涙を流しても、愛した人の心ひとつ動かせないなら、ただ惨めなだけだ。 だから今回も、涙は一筋も出てこなかった。「木香……お前は……どうしたら俺を許してくれる……?」病室の床に膝をついて項垂れたまま、理人は縋り付くように言った。「……」私は理人を見下ろして呟いた。「私が子供を殺された時、あなたが、私を信じてくれていたら……可能性があったかもね」理人には、返す言葉がなかった。私は改めて告げた。「時間を巻き戻して。それ以外に、許す方法はないわ」──離婚の手続きは、宏樹が代行した。詩織は逮捕された。警察に引き渡される時には、すっかり狂人のようになっていたらしい。泣きながら抵抗したが、もうその涙に騙される人は一人もいなかったそうだ。妊婦を拉致し、強制的に堕胎させた凄惨な事件は大々的に報道された。ニュース記事のコメントには、『酷すぎる! この詩織って女、人の心がないの?』『胎児相手でも立派な殺人罪! 司法は然るべき措置を!』『不倫相手をこんなになるまで野放しにした男にも非があるでしょ。奥さんが可哀想』『男特定。有浦グループの社長らしい。報道されてないけど、権力で揉み消そうとしてる?』否定的なコメントばかり集まっていた。理人は、廃人のようになってしまったそうだ。周囲に「妻」と紹介して職場にも連れ込んでいたことが災いして、不倫を内々で片付けることができなくなり、有浦グループもバッシングを逃れられなかった。会社にも姿を表さず、家に籠ってブツブツと何かを呟くことしかできなくなり、離婚の手続きはかなり難航した。あの後、私は大手ファッション会社に、デザイナーとして就職した。ずっと昔に作ったポートレートを少し手直しして提出したところ、すぐに採用された。そして今は、大物歌手の衣装を任されている。「木香さん、次のコンサートに間に合わせられるかしら?」歌手のマネージャーが、スケジュール表を手に、アトリエに入ってきた。「任せて。もうあと少し。現状の写真を撮るわ。確認に回してくれる?」「ありがとうございます……! それにしても……」トルソーに着せられたスカーレットのドレスを見て、マネージャーが呟いた。「こんなに能力のある人が、今まで、非常な夫に飼い殺されていたなんて……世の中って理不尽ね」私はそれを聞いて、微笑んで返した。「いいの。もう終わったことよ」マネージャーは、デザイン図を手に、アトリエを出ていった。入れ違いで入ってきたのは、理人だ
確かに、私の端末には、先ほどの映像データの他に、別のファイルが送られてきていた。そのファイルにはロックが掛かっていて、開くことができない。「木香」宏樹は心配そうな顔で言った。「そこにあるのは、君にとってとても辛い事実だ。俺に任せてくれるなら、離婚手続きは全て代行する」「宏樹!」「理人は黙っていろ」宏樹の迫力に、理人はそれ以上何も言えなかった。「ただもし、君の目で全ての真実を知って、自らの手で幕を下ろしたいなら……"かつて君が愛した男"の誕生日を、入力してくれ」私は迷うことなく、理人の誕生日を入力した。『……理人、木香さんはいいの?』最初に聞こえてきたのは、詩織の甘えるような声だった。『ああ、構わない。あいつは仕事もしないで家にいるだけだ。槙原社で立派に働く詩織が優先されるのは当然だ』続いたのは、理人の残酷な言葉だった。これは……別荘のカメラの映像だ。詩織が私を拉致するより、ずっと前の日付が表示されていた。詩織が口を覆って呻いた。「木香、止めろ!」理人は、慌てて私の携帯を取り上げようとした。しかし、宏樹の手が、その手を掴んで止めた。「理人」宏樹の声は鋭かった。「自分が招いた結果だ。受け入れろ」それは、有浦家の……理人の兄としての、威厳が感じられる声だった。「やめろ……やめてくれ……謝るから……俺が間違っていた……」理人のきれぎれの懺悔と共に、音声は流れ続ける。『理人、あなたが欲しいわ』『詩織……ずっと側にいられなくてすまない。突然離婚したら、有浦家の体裁に関わる。辛い思いをさせるが、耐えてくれ』……映像の中の二人は、深く口付け合った。それは、紛れもない、不倫の証拠だった。覚悟は決まっていた。心は冷え切り、もう揺れることはなかった。「木香、違うんだ……俺が愛しているのはお前だけだ……これは……これは間違いなんだ……」理人は耐えきれず、その場に崩れ落ちた。『木香さんより、私を愛してる?』『ああ、愛しているよ』理人が詩織を抱き上げ、ベッドルームに向かった。画面が切り替わると、二人の愛し合う姿が映し出された。「いやあ! もうやめて!」恥辱に詩織は耐えかねて、叫びながら病室を逃げ出してしまった。「いいの? 槙原さんのこと追わなくて」私の嘲笑に反論することなど、今の理人にはできなかった。「違う!
「理人……何を言ってるの?」宏樹が口角を上げて立ち上がった。後頭部から血が流れ落ち、首筋を通って、スーツを濡らした。「当然、データは送信済みだよ。木香の端末にも、……理人の端末にも」詩織は目を見開いて、口元を抑えた。「さっきまでの会話の映像も、全てリアルタイムで理人の端末に送っていたんだ。タブレットを壊されるその瞬間まで」詩織は、理人の足元に縋り付いた。「嫌! 違うわ! この狂人が私を嵌めようとしてるの! こいつは木香の協力者よ! 理人のお兄様だから油断してたの……さっきまでの映像も全部フェイクだわ! 理人! 理人は私を信じてくれるわよね!?」詩織の必死な様子を見て、理人の胸は痛んだ。詩織の言葉を信じてしまいたかった。彼女の悲痛な様子は、嘘をついているようには思えなかった。少なくとも、理人の目にはそうだった。理人は屈んで、詩織を抱き上げた。詩織は泣きながら、理人の首に抱きついた。「理人……!」理人は詩織の髪を撫でると、低い声で言った。「戻ろう。全て説明してくれ。……お前を疑うのは辛い」────理人の腕に支えられながら、詩織が戻ってきた。ふらふらとした様子ではあったが、もう車椅子には乗っていなかった。「……槙原さん。芝居はやめたのね」私が冷たい口調で言っても、もう理人は止めなかった。不機嫌そうな顔で、ただ口を結んでいた。詩織が、どさりと椅子に腰を下ろした。「違うの、誤解しないで……あの映像は作られたものよ。宏樹が……木香さんに唆されて、嘘の動画を作ったの……」肩を震わせながら涙を落とす様子は、何も知らない人の目には、無実の罪で虐められているように見えただろう。……理人は、これに騙されてきたんだ。病室のドアが開いた。頭に包帯を巻いた宏樹が、しっかりとした足つきで戻ってきた。「宏樹!」私は思わず声を上げた。「大丈夫だよ」宏樹が笑った。「ところで理人。監視カメラの管理アプリは持ってるだろ?」宏樹にそう言われて、理人ははっとした。長らく別荘を放置していたため、カメラの存在も、それを確認するアプリケーションがあることも、すっかり忘れていたようだ。理人がアプリを起動し、パスワードを入力した。「パスワードまでは忘れてなかったようだね」宏樹が苦笑した。理人の端末には、確かに、宏樹から送られてきたものと同じ
「確かめる方法?」その場にいる全員が、宏樹の方を向いた。「ああ……理人。あの別荘には確か、監視カメラがついていたよな?」監視カメラという言葉に、詩織の肩がぴくりと跳ねた。「そういえばそうだ。カメラの映像を見れば、木香、お前が嘘をついていることが分かるぞ」理人は勝ち誇っているが、これは好機だった。そのカメラの映像には、詩織が映っているはずだ。それを見せれば、言い訳はできないだろう。ちらりと見ると、詩織は明らかに青い顔をしていた。「監視カメラのデータを取りに行かないといけないな。俺が行こう。この中で、最も中立に近いだろう?」宏樹が言った。「どうだろうな。宏樹は木香に騙されてる。証拠を消すようなことがあったらどうする?」理人の言葉に、宏樹は笑った。「理人の言う通りなら、カメラの映像を見て決めるさ。データは必ず持ち帰る。行って戻ってくるまでの時間で、改ざんなんて無理だろ?」理人はまだ納得いかないようだったが、詩織の方を見た後、頷いた。「わかった。すぐ行ってきてくれ」詩織は幾分顔色が悪く見えた。自分の悪事の証拠が、これから暴かれようとしているのだから、当然だ。しかし理人は、しおりの顔色の悪さを心配して、ここに残ることを選んだんだろう。「宏樹……」私は宏樹に視線を向けた。正直、行って欲しくなかった。ここにいる私の味方は、宏樹だけだからだ。そんな私を見て、宏樹は私にだけ見えるようにウィンクをした。大丈夫、と口の動きだけで言った。「それじゃあ、行ってくるよ」宏樹が病室を後にした。それに続くように、詩織が言った。「あの……私、少しお手洗いに行ってもいいかしら? 気分が悪いの……」その様子に、私は思わず口を開いた。「逃げるつもりなの?」詩織が何かを言う前に、理人が制した。「木香、いい加減にしろ! 具合が悪い詩織を、手洗いにも行かせないつもりか!?」病院からの連絡さえ無視した理人が言うのだから、滑稽だった。子供を奪われたばかりの私よりも、少し顔色が悪いだけの詩織の方が心配らしい。「詩織、木香の言うことは気にするな。付き添おうか?」「……大丈夫よ。外に赤石が来てくれてるの。理人は、木香さんのそばにいてあげて」「お前……自分が犯人に仕立て上げられそうだと言うのに、木香に気を遣うのか?」「木香さんがこんなことをしたの