LOGIN雫はあまりの動揺に、自分の声がマイクに拾われていることすら忘れていた。その狼狽した呟きは、会場にいる全員の耳に筒抜けとなっていた。スクリーンの中のウォルターは苦笑しながら首を振り、たどたどしく口を開いた。「偽物だという声が聞こえましたが、私はノラとは長年の友人ですよ。彼女は誠実な人間であり、このような見苦しい真似をするはずがありません。もっとも、彼女はAIの分野でも天才ですがね」蒼真は彩葉の泰然とした美しい顔を食い入るように見つめながら、激しく息を吸い込んだ。胸を大きく上下させたが、いくら深呼吸を繰り返しても、激しい動悸は一向に収まらなかった。業界の誰もが一目置くウォルターほどの人物と、彩葉は旧知の仲だったというのか。自分はその人物すら、直接目にしたことすらなかったというのに。今この瞬間、蒼真の目に映るかつての妻は、まったく見知らぬ他人のようだった。今日初めて出会った人間と対峙しているような錯覚に陥る。怒濤の如き衝撃に呑まれ、思考は完全に麻痺していた。雫は冷や汗でスーツを濡らし、入念に仕上げたはずの化粧も見るも無惨にドロドロに崩れ始めている。「ウォルターさん、ご無沙汰しております」彩葉はスクリーンに向かって、温かな笑みを向けた。「お久しぶりです、ノラ」無愛想な巨匠という世間のイメージとは裏腹に、ウォルターの彩葉に対する態度は格別に親しげなものだった。会場は騒然となり、配信を見守っていた視聴者たちも熱狂に沸き返った。【まじか!ターナルテック会長がノラって!しかもウォルターが友人とか、どれだけすごいんだ!】【完全にチートじゃん!】【ターナルテックが非上場なのが惜しすぎる。明日上場してたら株価どこまで跳ね上がったんだろ】【これで投資家が殺到するのは確実だな。上場も時間の問題か?】【この彩葉さんと結婚できる男、前世でどれだけ徳を積んだんだろうな……】一方、展示センターの外に停められた車の中では、弘明がネットのコメント欄を眺めながら内心でほくそ笑んでいた。「社長、もしこのタイミングで氷室様……いえ、彩葉さんが氷室蒼真の元妻だと世間に知れ渡ったら、大変な騒ぎになりますよ。林雫も永遠にネットの晒し者です。盗作の汚名だけでなく、略奪女として完全に社会から抹殺されますね」翔吾は長い足を組み、アームレストに
彩葉は絶妙な弧を描くように目を細め、笑みが深まった。「そう言うと思っていたので、今日、あえてうちの会社の新車デザイン図を公開したんです。御社の発表からわずか十五分しか経っていません。これで、どちらがパクったと言えるのかしら?」聴衆もなるほどと頷いた。こうなると、ターナルテックが氷室グループを盗作したという話は成り立たない。蒼真は胸を大きく波立たせ、ごくりと喉を鳴らした。だが彩葉を止めようという気持ちは微塵もなかった。むしろ、一言も聞き漏らすまいと耳を澄ませていた。雫の新車デザインが出来上がってから、蒼真の心にも引っかかりがあった。誰かにその疑念を晴らしてほしかったのだ。「私の設計が盗作だと言う前に、そちらの会社のデザインをよく見てもらえますか!あちらこそノラを丸パクリしているじゃないですか!デザイン界の恥さらしも甚だしい!」雫は自分が主導権を握ったと思い込み、興奮のあまり顔を歪ませていた。「見てください皆さん、一体どちらが盗作なのかを!」「どちらがパクったか?それはあなたよ」彩葉の余裕たっぷりの佇まいに、雫の怒りは沸点に達した。声が裏返りそうになる。「何を根拠にそんなことが言えるんですか!」「根拠は――私がノラだから」彩葉の声は焦りもなく、静かで落ち着き払っていた。だが、芯の通った澄んだ響きがあり、その場にいる全員の胸に真っすぐ突き刺さった。会場が沸騰した。まるで屋根を吹き飛ばすほどの歓声が渦巻いた。雫はびくりと体を震わせ、よろよろと一歩後退した。信じられない思いで、目の前の憎たらしいほど美しい顔を凝視する。この女が……ノラ?ありえない……ありえるはずがない。あんなに地味で、何の取り柄もない女が、国際的なデザインの女神、ノラだなんて!?こんな馬鹿げた話が、どこにある!「ノラ……?」蒼真は弾かれたように椅子から立ち上がった。目の奥が激しく揺れ動き、その広い肩は震えを抑えきれなかった。ぼんやりと彩葉を見つめながら、まるで魂が抜け出たように、頭の中が真っ白になった。どういうことだ。彩葉が、ノラだと?つまり、この二年間――氷室グループの電気自動車を全国トップへと押し上げた功労者が、誰もが崇拝してやまないあの女神が――ずっと、自分のそばにいたということか?蒼真は荒い息を吐きながらも、動
「社長!あれは……奥様です!」颯は声を上げそうになるのを必死でこらえ、興奮で体を震わせた。蒼真は大きな手をぐっと握りしめた。胸を突き破りそうなほど激しく脈打つ。目の前にいる彩葉は、かつての彼女とはまるで別人だった。いつも自分の後ろをついて回り、何でも素直に従っていたあの女は、もうどこにもいない。今の彼女は生まれ変わったように、高みから世界を見下ろす女神のように――その気迫は、蒼真を圧倒するほどだった。「あなた!見て!彩葉よ!」多恵子は血相を変え、夫の腕に縋りついた。「早く何とかして、ここから出て行かせて!」浩一郎は彩葉の冷たくも艶やかな顔を食い入るように見つめながら、多恵子の手を乱暴に振り払った。「どうしろというんだ。ここは氷室グループの発表会だぞ、俺に何の権限がある!」多恵子は振り払われた手首を抑えながら、彩葉に憎しみのこもった視線を向けた。雫は壇上で立ち尽くし、颯爽と歩いてくる彩葉が自分の目の前で足を止めるのを、ただ見守るしかなかった。「林部長、私のことはわかりますよね」彩葉は涼しい目をわずかに細め、堂々とした態度で言った。「あなたの異母姉、ターナルテック会長の氷室彩葉です」会場がどよめいた。ターナルテックの会長が、この林雫の姉だって?氷室グループの発表会の当日に、ターナルテックが新車のデザイン図を公開した――これは真っ向からの挑戦状ではないか。いよいよ面白くなってきた。雫はしばらく言葉に詰まった。堂々と輝く彩葉の前に立つと、自分がひどくちっぽけに感じられた。だが素早く気持ちを立て直し、口角を持ち上げる。「氷室代表、いえ、今は氷室会長とお呼びすればいいのかしら。今日は発表会に何のご用ですか?観覧なら、いいお席をご用意しますが」彩葉の瞳には何の感情も浮かばなかった。口の端だけがかすかに上がる。「結構です。少々、お伺いしたいことがありまして。終わったらすぐに失礼します」雫は内心で毒づきながらも、表面上は取り澄ました笑顔を保った。「どうぞご遠慮なく。今日は氷室グループの新製品発表会。設計者兼研究開発部部長として、誠心誠意お答えします」「では」彩葉の冷たい視線が雫を素通りして、背後の大スクリーンに注がれた。「林部長、氷室グループのためにご自身で手がけたというこの新車のデザインは、
雫の胸は激しく高鳴っていた。彼女は満面の笑みを浮かべ、マイクに向かった。「ご来場の皆様、氷室グループ最新モデルの電気自動車『JX Ultra』の発表会へようこそ。まずは大スクリーンをご覧ください」画面の中で、最新技術の粋を集めた美しいセダンが鮮やかなドリフトを決め、観衆の前に颯爽と姿を現した。「うわあ、かっこいい!」会場のあちこちから歓声が上がった。観客の反応の良さに、雫は内心でますます浮き立った。客席の浩一郎と多恵子は、娘の晴れ姿に顔をほころばせている。この発表会で雫が成功を収めれば、自分の会社であるウィンドスカイにとっても大きな追い風となる。氷室家との縁談を決定づける追い風にもなるだろう。娘の活躍がよほど嬉しいのか、ここ数日多恵子に冷たくしていた浩一郎も、今夜ばかりは幾分表情を和らげているようだった。「あれ、この新車……どこかノラの作品に似ていない?」突然、誰かが口にした。「ほんとだ!どこかで見たような気がするって思ったら!」「でもノラって氷室グループとは契約解除したんじゃなかったっけ?それなのにノラっぽい雰囲気があるって……これって盗作では?」「何百万も出して紛い物を掴まされるのは真っ平だ。ちょっと引くわ」「パクリはあり得ない!ノラを馬鹿にしてる!」ざわめきはまだ大きくはなかったが、すでに蒼真の耳にも届いていた。元から険しかった彼の顔が、さらに険しさを増していく。雫が自ら手がけた車の魅力を得意げに語り続けているうちにも、会場全体が突然ざわめき始めた。観客たちがスマホを取り出してSNSを確認し、記者たちも耳打ちし合いながら顔色を変えていた。いったい何が起きているのだろう。雫は異変に気づき、一瞬動揺した。「社長、これを見てください!」颯が小走りで駆け寄り、スマホを蒼真の目の前に差し出した。「ターナルテックが今日公開した新車のデザイン図です。色やロゴなどの細部こそ違いますが――全体のフォルムはうちの新車とほぼ同じです!」蒼真が目を凝らすと、確かにその通りだった。自社の新車がノラの作品に似ているという声が上がっている。そしてターナルテックの新車は、それに輪をかけて似ている。言われなければ、ノラ自身が設計したと思っていたかもしれない。「あちらが……ノラのデザインを真似たの
あっという間に日は過ぎ、氷室グループ新車発表会の当日がやってきた。発表会は午後三時から、北都の国際展示センターで開催される。氷室の車の熱狂的なファンはもちろん、各メディアの記者が一斉に押しかけ、SNSでもリアルタイム配信が予定されていた。氷室グループのブランド力があればこその熱気だった。今回の新車発表会がこれほどまでに世間の注目を集めた最大の理由のひとつは、車のデザインを、あの「ノラ」名義ではなく、氷室グループ研究開発部部長の林雫が直接手がけたと大々的に宣伝されていたからだった。最強の後ろ盾であったノラを失った氷室の完全新車が、果たしてどこまで世間を熱狂させられるのか――会場に集まった誰もが固唾を呑んで見守っていた。発表会の会場は、最先端のテクノロジー感に満ち溢れていた。深い紺色と紫が交差する巨大なスクリーンを背景に、空間全体が、星空が溶け合ったような幻想的な空間だった。訪れた人々は、一歩足を踏み入れた瞬間からその幻想的な雰囲気にぐっと引き込まれ、圧倒されていた。「何度こういう場に来ても、いざ本番を目の前にすると、やっぱり興奮しますね!」「ほんと、まるで夢の世界みたい。すごく素敵で鳥肌が立つ!」「林部長のセンスですよ、この空間のデザイン全部が」「ご本人は最近ネットで色々叩かれてますけど、実力だけは本物よね。だからこそ、あの社長も彼女を手放せないのよ」バックステージで、社員たちのそんな絶賛の声を耳にした雫は、ひそかに口の端を吊り上げてほくそ笑んだ。はっ、このバカどもには分からないだろうね。それらすべては、とうに退職して追い出された「元スタッフ」が考え出したものだ。あいつは車のデザイン図だけでなく、発表会の照明や演出プランまで、図面の余白に細かく書き込んで残していってくれた。こちらがわざわざ手を加えるところなど、ほとんど残っていなかったほどだ。なんて親切なのかしら、と内心で嘲笑う――雫の心には、他人の成果を盗んだという後ろめたさのかけらも存在しなかった。それどころか、自分がすべてを作り上げたという歪んだ優越感で胸がいっぱいだった。他人のアイデアを拝借して、一体何が悪いというの?私がこうして日の当たる場所で形にしてあげたのだから、むしろ私に感謝すべきだわ。あいつでは、どうせ一生かかって
夜もすっかり更けて、賑やかで温かかった食事会がお開きになった。蒼唯は瑠璃子を病院へ送り届け、弘明は夢を家まで送り届ける役目を担った。万里はすっかり遊び疲れて眠くなってしまい、彩葉が丁寧に歯磨きと着替えを済ませ、ゲストルームのベッドに優しく寝かしつけた。彼がすやすやと心地よい眠りに落ちたのをしっかりと確かめてから、彩葉は足音を忍ばせて、そっと自分の寝室へと戻った。扉を開けた途端、待ち構えていた翔吾が彩葉の体をぐいと引き寄せ、その大きくて熱い手で、腰のくびれから背中にかけてゆっくりと、確かめるように撫で上げた。彩葉の背筋が、快感と緊張でぞくりと震える。翔吾の荒い吐息が白い首筋に吹きかかり、ひどく熱くて、そしてくすぐったい。「やっと、二人きりの時間になれたな」「だ、だめよ。まず、その傷の手当てをちゃんとしないと」彩葉は翔吾の固い胸板をそっと押し返し、頰を林檎のように赤らめて抗議した。翔吾は激しい情欲を懸命に抑え込み、しぶしぶといった様子で大人しくベッドの端に腰を下ろした。彩葉はベッドの上に膝をつき、彼の黒いシャツのボタンを外し、緊張で指先を震わせながら傷の処置に取り掛かった。血が滲む痛々しい傷口を目の当たりにすると、胸の奥がぎゅっと熱くなって、また涙がこぼれそうになった。「泣きたければ、我慢せずに泣けばいい」翔吾はもう片方の腕で彩葉の細い腰をしっかりと抱き寄せ、あやすように背中を軽く叩きながら低く言った。「俺のために流してくれる涙なら、嬉しいぞ」「もう……一秒も大人しくしていられないの?」彩葉はぶつぶつと文句を言いながらも、手当ての手を休めなかった。彼にされるがままになっていた。翔吾は傷の痛みを顔に出さず、少しかすれた声で淡々と話し続けた。「佐久間寅昌と、佐久間美冴は、警察に身柄を拘束されたよ。奥さんのほうは精神的に追い詰められていたようで、旦那にすっかり愛想を尽かして、これまでの余罪も含めて洗いざらい喋ったそうだ。明日の朝には佐久間グループの株はストップ安を叩き出し、会社そのものが大きく揺らぐだろうな」彩葉は手当ての手をぴたりと止め、黙って彼の話に耳を傾けた。「佐久間澪のほうは、光一に腹を蹴られた際に子宮を激しく損傷して、一生子どもは産めない体になったそうだ」翔吾は淡々と告げながら、彩葉のや
彩葉の心は、答えの出ない深い葛藤へと沈んでいった。……翌日、樹の保釈のニュースが瞬く間に世間へと広まった。評判は傷つき、世間の風当たりも強くなったが、少なくとも保釈によって息をつく余地はできた。完全に社会的に抹殺される最悪の事態だけは免れたと言える。その夜、栞菜は旧交を温めるという名目で、雫を人目につかない隠れ家的なバーに呼び出した。雫は約束通り現れはしたものの、大幅に遅刻してきた。「煙たいし、品がない店ね。こんな場所での待ち合わせは二度と御免だわ」雫は店内で最も奥まった席に腰を下ろすと、サングラスをかけたまま顔をしかめた。まるで、パパラッチを警戒する大女優のような
「どうして僕だけ罰せられるの?どうしてあいつは罰しないの!?」その場にいた全員が呆気にとられ、全ての視線が一斉に瞳真に集中した。瞳真は全身を震わせ、顔を真っ赤にして叫び返した。「僕は殴ってない!全部お前一人でやったことだろ!僕のせいにしないで!」「お前が『万里を殴れ』って命令したんだ!お前はずるいよ!僕に手を出させて、自分は隠れて見てただけじゃないか。お前なんて最低だ!」「違う!嘘つきだ!」瞳真は怒鳴り返したが、ズボンの裾の下で膝が小刻みに震えていた。二人の子供は、まるで狂ったように互いを罵り合い、罪をなすりつけ合った。彩葉は自分の実の息子を見つめた。嘘をつく時だけ赤く
「氷室様、もうお目覚めでしたか?」ドアを開けて入ってきた弘明は、彩葉が起きているのを見て、少し気まずそうな表情を浮かべた。「申し訳ありません、眠っていらっしゃると思いまして……」彩葉は慌てて立ち上がり、取り繕うように笑った。「いえ、大丈夫です」弘明はベッドの方へ視線を向け、声を潜めた。「坊ちゃまは?」「まだ眠っています」彩葉も小声で答えた。「熱は下がりましたか?」彼女は屈み込み、万里の額にそっと手を当てた。「ええ、下がりました。でも本当に落ち着いたかどうかは、今夜の様子を見ないと何とも言えませんね」「氷室様、本当にお疲れ様でございました」弘明は手に提げていた
「大丈夫よ」彩葉は睫毛を伏せ、反論する言葉もなく、ただ受け入れた。「もしもし、るりちゃん……」「ふははは!いろはっちよ、出世したわね!」瑠璃子は興奮のあまり悲鳴を上げた。「まさか、まさかよ!いろはっちがホストをお持ち帰りするなんて!」彩葉は慌てて口を塞ぎ、恨めしげに言った。「るりちゃんったら――!」「言い間違えてごめんよ」翔吾がゆっくりと部屋を出ていくのを見送り、彩葉はソファに座り直して焦って説明した。「るりちゃん、変な想像しないで。彼と私は何でもないの」「彼って誰なのよ~?」瑠璃子は語尾を伸ばし、ゴシップに興味津々だ。「話せば長くなるわ。今はちょっと話せないか