تسجيل الدخول勢いよく立ち上がって後を追いながら、直哉が慌てて口を開いた。「あの……どちらへ?」「星嶺市だ」「星嶺……」いったん頷いたものの、次の瞬間、目を見開く。「星嶺市に戻るんですか?まさか……真帆さんに会いに行くとか!?」一雄は肯定も否定もしなかった。「ダメです!」直哉は誰よりも早く立ちはだかった。「今、おじさんたちは、あなたの弱みを掴もうと狙ってるんですよ。もし知られたら……」焦りきった様子で大きく息をつく。「一雄さん、安心してください。真帆さんの件はずっと私が見ています。絶対に何かあったりはしません。それに、もう真帆さんは無事です。ずっと動向を追ってましたし、万が一何かあれば、真っ先にあなたに報告しますから!」「無駄口はいい」一雄の声は低く、周囲の空気が一気に冷えた。「俺が聞いているのは一つだけだ。真帆は、どうして怪我をした?」「そ、それは……」直哉は言葉を濁した。「真帆さんは……」そのとき、オフィスのドアが外から開いた。入ってきたのは、一雄の秘書チームの一人だった。だが一雄は、特別な表情も向けず、ただ視線を上げて続きを促した。女の秘書は回りくどい言い方をせず、端的に告げた。「一雄様、会長からお電話です。至急、ご自宅へ戻るようにとのことでした」一雄はわずかに眉を寄せた。数秒の沈黙のあと、結局了承した。秘書が出ていくと、一雄は直哉に命令した。「真帆が星ヶ丘に来る正確な日時を調べろ。それから、搭乗便の情報も全部送れ。それから、今後真帆に関することは、大小関係なく全部俺に報告しろ」「承知しました、一雄さん」直哉は深く頷いた。三日後。真帆は最後の検査で「経過良好」と診断された。待っていましたとばかりに退院手続きを済ませ、知恵と悠人と共に、依頼人に会うため星ヶ丘へ向かった。機内では、悠人は背筋を伸ばして、やけに行儀よく座っていた。その緊張ぶりを見て、真帆はバッグから持ち歩いているミントキャンディを一つ取り出し、差し出した。目の前に差し出されたキャンディを見て、悠人の目が一瞬、ぱっと輝いた。驚いたように真帆を見る彼に、真帆は唇の端をわずかに上げた。「食べてみて。美味しいよ。私のお気に入り」悠人は大切そうに受け取り、口に入れた。ひんやりして、ほんのり甘い。まるで
星ヶ丘、西園寺グループ。直哉は出勤打刻を済ませてから、社長室のドアをノックした。中から「どうぞ」という声が聞こえてきて、ようやく扉を開ける。「一雄さん、出たてのホヤホヤの情報です。真帆さんが星ヶ丘に来るそうですよ!」声には、抑えきれない喜びがにじんでいた。一雄は書類にサインしていた手を、わずかに止めた。顔を上げると、満面の笑みを浮かべた直哉と目が合った。なぜだか、胸の奥が少しざわついた。「真帆が星ヶ丘に来るってだけで、そんなに嬉しいのか?」「え?」直哉は一瞬きょとんとしたあと、首をかしげた。「一雄さんこそ、嬉しくないんですか?」一雄は言葉に詰まった。「いいから、くだらないこと言うな」軽く咳払いをし、書類をめくる。目は文字を追っているが、内容はまるで頭に入ってこない。あくまで平然を装いながら、何気ない口調で尋ねた。「で、真帆が星ヶ丘に来る理由は分かってるのか?」「仕事みたいです」直哉は姿勢を正した。「星ヶ丘で最近かなり注目されてる、あの夫殺害事件ですね。長年DVを受けていた母親が、暴行を受けている最中に身を守るため果物ナイフで夫を刺して死亡させた件です。今、星ヶ丘ではかなり話題で、記者も群がってます」一雄はネットの動向に疎い。事件の詳細は知らなかったが、以前給湯室を通りかかった際、社員たちの噂話で耳にしたことはあった。彼は眉を上げた。「それなら、正当防衛じゃないのか?真帆がそんな案件を引き受ける理由が分からない」直哉は苦笑し、唇をすぼめた。「一刺しだけなら、ですね……」「……」一雄の目がわずかに揺れた。状況はすぐに察しがついた。長年の抑圧が限界に達し、感情が爆発してしまったのだろう。一雄はそれ以上追及する様子もなく、特に関心を示さなかった。そんな一雄を見て、直哉の中で燃えていた噂話欲は静かに消えていった。「そういえば、一雄さん。真帆さんが星ヶ丘に来るなら、こちらで何か手配します?」一雄は一瞬、頷きかけた。だが、ふと思い直して首を振る。「いや、いい。仕事で来るんだ。必要なものは、向こうの事務所が全部用意するだろう」そして、誤解を避けるかのように話題を切り替えた。「彼らの離婚の件は、どうなってる?終わったのか?」「まだです」直哉は露骨に顔をしかめた。「ずっと
しばし沈黙が続いた後、真帆が静かに口を開いた。「もう一度、電話してあげたら?せめて状況だけでも聞いてみよう。もしかしたら、先に当事者と会うだけ会ってもいいかもしれない」「ダメ!」知恵は考える間もなく即答した。「あなた、まだ完治してないでしょ。命が惜しくないの?」「大丈夫だよ。向こうから頼ってきてるんだし、話を聞くだけなら問題ないでしょ」真帆は宥めるように微笑んだ。「引き受けられそうなら引き受ければいいし、無理だと思ったら断ればいい」知恵から彼の家庭環境が良くなかったと聞き、なぜか胸の奥がきゅっと痛んだ。同類を憐れんだのか、それとも、ただ放っておけなかっただけなのか。真帆は、この案件を最初から断りたくはなかった。知恵はしばらく真帆を見つめ、結局折れるように、彼女の目の前で電話をかけ直した。簡単なやり取りを終え、電話を切る。「決まり。二、三日したら星嶺市に来るって。その時に直接会って話すってさ」「星嶺市に?」真帆は少し驚いた。「彼、ここに住んでるわけじゃないの?」「うん。子どもの頃に一家で引っ越したって言ってたでしょ。今は星ヶ丘に住んでるみたい」その地名を聞いた瞬間、真帆の表情がわずかに止まった。脳裏をよぎったのは、一雄の名前。すぐに我に返り、自嘲気味に笑った。自分だって星ヶ丘育ちなのに、星ヶ丘と聞いて真っ先に思い浮かべたのが彼だなんて。本当に、笑えない。知恵の幼なじみの弟が病院に来たのは、真帆が抜糸を終えたその日だった。年は彼女たちより三、四歳は下だろう。目の下には濃い隈が浮かび、何日もまともに眠っていないことが一目で分かる。体つきも異様なほど細く、色褪せたダウンジャケットが身体に合わず、ぶかぶかと揺れていた。真帆を見ると、病室の入口で足を止め、どう入ればいいのか分からない様子で立ち尽くしていた。結局、場を取りなしたのは知恵だった。「悠人、こっち。この人が、私が話した刑事案件で一番頼れる弁護士の柊真帆」そして真帆の方を向き、「真帆、こっちは私の幼なじみの弟の三浦悠人(みうら ゆうと)」真帆はベッドから立ち上がった。療養の日々のおかげで、顔色もずいぶん戻っている。彼の前まで歩き、右手を差し出した。「はじめまして。柊です」悠人は、その白く細い指先を見つめ、手を伸ばし
「真帆!」龍司は、真帆がここまできっぱり否定するとは思ってもいなかった。震える指先で床に散らばったガラス片を指し示す。「破片はここにある、熱湯だって床に残ってる。真帆、君はいつからやったことを認めない人間になったんだ?」「龍司さん、その言い方はずいぶんおかしいんじゃないですか?」背後から、冷笑を含んだ声が飛んだ。ドア枠にもたれかかっていた知恵が、冷ややかな目で龍司を見る「真帆はさっき病院で中度の脳震盪って診断されたばかりなんですけど?水を飲もうとしてふらついて、手が震えて、うっかりポットを落としただけ。それのどこが、そんな物騒な話になるんです?」二人は息ぴったりに、前後から龍司を挟み撃ちにした。龍司の目つきが、一気に冷え切った。「医者も警察も、馬鹿にしてるのか?波が警察に通報したら、真帆はどう収拾するつもりだ?」「警察に行くのは、波だけとは限らない」真帆は静かにまぶたを上げた。「私も怪我をしてる。理屈で言えば、私だって同じように被害届を出す立場よ」龍司は眉を寄せる。「俺は、犯人を必ず見つけると言ったはずだ」「それで?見つけた後、どうするつもり?」「当然、君に納得のいく説明をする」「……そう」真帆は即座に頷いた。「じゃあ、龍司さん、その説明を待っているわ。その時は、どうか、私を失望させないでね」龍司さん……結婚して五年。真帆が彼を、こんなふうに呼んだのは初めてだった。そのよそよそしい呼び方に、龍司は一瞬、言葉を失い、顔に張りついていた怒りさえも、ひび割れたように崩れた。なぜか分からないが、真帆の言葉には裏がある気がしてならない。だが、今は波の安否が最優先だった。深く考える余裕もなく、彼は診察室へと駆けていった。知恵はその背中に向かって小さく舌打ちし、真帆のベッド脇に歩み寄る。「……やったの?」真帆は、ただ微笑むだけで答えなかった。「やるじゃない」知恵は遠慮なく褒めた。「あなたもね。あんなもっともらしい理由、よく即座に出てきたわ」眉を上げて言う。「さすが。専門分野が一致してるだけあるわ」そう言いながら、床にしゃがみ込み、ガラスの破片を拾い始めた。真帆は心配そうに声をかけた。「放っておいて。清掃の人が来るから」「平気平気、ついでだし」口調は軽いが、内心ではやはり不安が残
「わ、私……」波は一瞬、言葉に詰まった。「それは、その……」「あっ!」病室に、耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。真帆は、彼女に言い訳をさせる暇すら与えなかった。ベッドサイドに置いてあったポットを掴み、波の頭の上に振りかざした。中に入っていたのは、知恵が電話に出る直前に汲んできたばかりの熱湯だった。その熱湯が、波の頭へ降り注がれた。ガラス製のポットは砕け散り、波は顔を押さえて床にうずくまり、悲鳴を上げ続けた。真帆は、波がどれほどの怪我を負ったのかは分からなかった。ただ、指の隙間から流れ落ちる血を見て、割れたガラスで顔を切ったのだろう、と察した。ちょうどその時、龍司が真帆の好きなスイーツを買って戻ってきた。エレベーターを降りた瞬間、病室から響く凄まじい叫び声が耳に入り、彼は駆け込むように病室へ向かった。扉を開けた途端、血まみれの波と、ベッドの上で淡々と座っている真帆の姿が目に飛び込んだ。「波!」手にしていたスイーツが床に落ちる音も構わず、龍司は慌ててポケットからハンカチを取り出し、波の顔を押さえた。「医者だ!医者を呼べ!」声が裏返るほど叫ぶ龍司。異変に気づいた医師と看護師が次々と駆け込んできた。波の顔の傷を確認しようと手を伸ばすが、彼女はそれを拒み、龍司の胸に縋りついて、息も絶え絶えに泣きじゃくった。「龍司、私の顔、ダメになっちゃった……どうしよう……痛い……傷、残っちゃうよね……これじゃ、きっと嫌われる……」「馬鹿なことを言うな。医者がいる、何も問題ない。俺が、何とかする」必死に宥めながら、龍司は医師に向き直った。「どんな手を使ってもいい。必ず、元通りにしてください」医師は慌てて頷き、看護師に指示を出しながら、波を診察室へ連れて行った。龍司はその後を追おうとしたが、扉の前でふと立ち止まり、振り返った。淡々とした表情のまま、ベッドに座る真帆を見る。眉間に深く皺を寄せ、低い声で問いかけた。「真帆……どうして、こんなことをした?」問いかけでありながら、それはほとんど断定だった。いつもそうだ。理由も聞かず、正否も考えず、波に何かあれば、真っ先に真帆を責める。かつて、自分の命を懸けてまで守ってくれた男が、今は別の女のために必死になっている。真帆は時々、どうしても聞いてみたく
「体が回復したら、協議書にサインする」その言葉を口にした瞬間、龍司はまるで死刑囚が刑場に連れて行かれ、刃が首元に突きつけられたような感覚に襲われた。生きたいと願っているのに、何一つ変えられない。「ただ……その前に、君を傷つけた犯人は必ず突き止める。これは……」声はわずかに震えていた。「せめて俺が君にしてやれる最後のことだと思ってくれ」そう言い残し、彼は病室を後にした。廊下では浩一が待っており、姿を見るなり駆け寄ってくる。「龍司さん、真帆さんは……」「目を覚ました」龍司は眉間を押さえ、珍しく疲労を滲ませた。「真帆を襲った人間を調べろ。このまま終わらせるつもりはない」浩一は深く頷いた。彼が去ったあと、龍司は病室へは戻らなかった。扉のガラス越しに、知恵がベッドサイドで真帆にりんごを剥いているのが見えた。かつて、真帆が体調を崩すたびに、商店街の奥にある甘いデザートを好んでいたことを思い出す。胸に残る後悔を振り切るように、彼は車のキーを手に病院を出た。知恵はしばらく話し相手をしていたが、一本の電話で席を外した。真帆は軽い眩暈を覚え、横になろうとしたその時、病室の扉が外から開いた。波が、ベッドの上の真帆を見下ろし、隠す気もない得意げな目を向ける。「真帆さん、怪我をしたって聞いたから、様子を見に来たの」そう言って、背後で静かに扉を閉めた。脳震盪の後遺症なのか、それとも生理的な嫌悪感か。真帆は込み上げる吐き気を必死に抑え、氷のような声で言った。「出て行って」波に向ける感情は、もはや嫌悪しかない。だが波は肩をすくめ、腕を組んだまま一歩ずつ近づいてくる。「そんな怖い顔しないで。まだ話したいこと、いっぱいあるんだから。屋上でのこと、真帆さんも見てたでしょ?龍司は、あなたが怪我しても大して気にも留めなかったのに、私が少し具合悪いって言っただけで、慌てて飛んできて抱きしめてくれたのよ」彼女はくすりと笑った。眉と目尻に、隠しきれない優越感が滲んでいる。「愛されてるかどうかなんて、一目瞭然よ。私が愛されてない立場だったら、心に自分の居場所がない男に、しがみついたりしないわ。それに、もう龍司と離婚するんですって?」勝者の立場に立ったと確信したのか、波はますます傲慢になった。ベッドの周りを一周し、真帆の頭の







