เข้าสู่ระบบガタガタッ!
戸の取っ手が乱暴に揺れた瞬間、綾香の心臓が底へ落ちた。
顔から血の気が消え、全身が凍りつく。
薄い障子一枚向こうに、夫・鷹城司の影が大きく映っていた。
もし今、この扉が開いたら。
着物を緩め、夫の専属医と二人きりで寝台にいる姿を見られたら――。
「っ……!」
恐怖で声が出そうになった、その瞬間。
遼真の手が、綾香の口元をそっと塞いだ。
同時に身体を覆うように身を寄せ、司の視線から綾香を隠す。
「静かに。大丈夫です」
耳元で低く囁く。
そしてすぐ、扉の外へ向けて普段通りの声を出した。
「鷹城常務ですか」
戸を揺らしていた手が止まる。
「白石! なんで鍵かけてんだよ! 終わったならさっさと母屋へ寄こせ! 母さんが待ってるんだよ!」
遼真は綾香から距離を取り、乱れた衣服を素早く整えながら答えた。
「奥様は下腹部の冷えと筋緊張が強く、温熱療法と鍼治療を行っています。現在は治療中で、衣服も整っていません。患者さんのプライバシーに関わりますので、治療が終わるまで扉は開けられません」
声には迷いがなかった。
扉の向こうで司が舌打ちする。
「ちっ。ほんっと手のかかる女だな……白石、適当に終わらせて出てこいよ。あとで飲みに行こうぜ」
足音が遠ざかっていく。
庭から完全に気配が消えると、遼真はすぐ綾香から手を離した。
「今日はここまでにしましょう。かなり驚かれたでしょう」
綾香は返事もできず、呼吸を整えた。
恐怖が引いたあとになって、指先が震えてくる。
夫が扉一枚隔てたところで怒鳴っていた。
なのに綾香の頭に最も鮮明に残っていたのは、遼真が自分の「やめて」に、迷わず手を止めたことだった。
「白石先生」
遼真が振り返る。
「どうして……私に、ここまでしてくれるんですか」
しばらく沈黙したあと、彼は答えた。
「苦しんでいる人を見て、見なかったことにするのが嫌いだからです」
「医者だから?」
遼真はすぐには答えなかった。
その短い迷いが、綾香の胸を強く打った。
「最初は、そうでした」
綾香は視線を落とす。
胸の奥が熱くなり、すぐにまた冷えた。
警戒しなければならない。
そう思うのに、この男のそばなら少しくらい息をしてもいい気がした。「……もう少し、ここにいてくれますか」
遼真は何も言わず、再び座った。
手は伸ばしてこない。
綾香のほうから、彼の手首を掴んだ。
強い脈が指先に触れる。
生きている人の心臓が、こんなに近くにある。
それが妙に不思議だった。
「大丈夫ですか」
「はい」
今度は逃げずに頷いた。
二人の距離が、ほんの少しだけ縮まる。
綾香が先に彼の襟を掴み、引き寄せた。
唇がそっと触れた。
欲望よりも、安堵に近い最初の口づけだった。
いったん離れ、もう一度目が合う。
その時初めて、抑えていた熱が静かに目を覚ました。
午前二時。
雨音が弱くなった頃。
遼真は綾香の額へ口づけを落とし、懐から小さな青磁色の薬瓶を取り出した。
「明日の朝、美津子さんが出してくる薬を飲まされるようなら、これを使ってください。急性の刺激を抑えるための処方です。それから……こちらは鷹城司さんの無精子症診断書の写しです」
綾香の手に、冷たい真実が渡される。
さっきまで震えていた指は、もう止まっていた。
成城・蓮雨庵。静かな秋の朝。竹林の間から差し込む光が、障子を淡い銀色に染めていた。部屋には、二年前の最初の日と同じように、蓬と薄荷の香りがしている。古い座卓の前。綾香と遼真が向かい合って座っていた。ここは、二年前。綾香が司に顎を掴まれ、黒い薬を無理やり飲まされていた場所。冷たい床。苦い薬。恐怖。あの日の記憶は消えない。でも今、座卓の上にあるのは黒い毒薬ではなかった。綾香が自分で選んだ、薄い養生茶。「奥様。手首をお借りしても?」二年前なら、冷たく聞こえたかもしれない声。今は聞くだけで肩の力が抜ける。綾香が手を差し出す。昔あった痣は、もう消えていた。代わりに、子供を抱いた時についた小さな引っかき傷が一つ。遼真の三本の指が、寸・関・尺へ触れる。とくん。とくん。二年前、細く弱く感じられた脈。今は穏やかで、しっかりしている。特別な奇跡というより。食べて。眠って。笑って。怒って。そうして生きてきた時間の結果だった。遼真が笑う。「脈は落ち着いています。定期検診の結果も問題ありません。最初に会った頃とは、ずいぶん違いますね」綾香が彼を見る。「遼真さんが隣にいてくれたことには感謝してます」「はい」「でも今は、わかるんです」少し笑う。「私を生かしたのは、結局、私だったって」遼真は一瞬黙った。そして笑った。「その通りです。僕がしたのは、隣で少し脈を見たくらいです」「『少し』じゃないでしょう」綾香も笑う。縁側の向こうから、子供たちの声。「ママ!」続いて。「パパも!」小さな足音が近づいてくる。遼真が手首を離した。「診察終了ですね」「優先順位、下がりましたね。白石先生」綾香が先に障子を開く。冬真と紗愛が同時に飛び込んできた。遼真は転ばないよう、二人の背中へ手を添える。四人が縁側で一塊になる。座卓の上では、養生茶が少しずつ冷めていく。脈枕も出したまま。綾香は、わざわざ戻って片付けようとは思わなかった。昼になったら誰かが片付けるかもしれない。夕方までそのままでも、別に構わない。少しくらい生活が乱れても、もう世界は壊れない。遼真がふと思い出したように言う。「綾香」「うん?」「脈は、これからも一生診ます」綾香が眉を上げる。「でも、最初みたいに『奥様』って呼ぶのは、もう
東京・文京区小石川。恵仁堂宗家。この日は、恵仁堂財団の新しい共同代表体制を一門へ正式に知らせる日だった。綾香が共同代表理事として財団運営に参加し、重要事項を遼真と共に審議することを確認する。祖霊殿の前。案内役が告げる。「白石綾香理事、ご入場です」綾香は少し緊張した顔で、印を受け取る手順を確認する。隣の遼真と目が合う。彼がほんの少し笑った。二人で祖先へ香を供え、礼をする。白石景吾が、金色の布に包んだ箱を差し出した。中には恵仁堂財団の重要事項を確認するための宗家印。「財団の主要な意思決定に共同で責任を負う理事、白石綾香さんへ、この印をお渡しします」綾香は両手で受け取った。重い。遼真が一門へ向けて宣言する。「本日より、白石綾香理事が恵仁堂財団の共同代表理事に就任します。そして僕の人生の伴侶は、これからも綾香ただ一人です」拍手が起きる。綾香は印を見ながら、小声で言った。「本当に重い」遼真も小声で返す。「責任は、だいたい重いものです」二人とも笑った。その後の最初の財団会議。綾香はさっそく一つ提案した。「宗家当主やその配偶者だからという理由だけで、財団の代表権が自動的についてくる仕組みはやめたいです」一部の長老が顔を上げる。綾香は続ける。「理事会と専門委員会を置いて、任期と権限を明文化しましょう。私の次の人が無能でも、血筋だけでここに座れるなら、鷹城と何も変わりません」沈黙。最初に景吾が頷いた。遼真も賛成票を上げる。綾香は、手元の印が少しだけ軽くなった気がした。権力を受け取ることより。権力が勝手に暴れない仕組みを作ることのほうが大事だった。***午後十一時。蓮雨庵へ戻る。竹林の道を、手を繋いでゆっくり歩く。奥に見える灯り。二人が初めて心を近づけた離れ。遼真が綾香を軽く抱き上げ、縁側へ上がった。「明日の朝。最初に会った時の座卓で、脈を見ましょうか」「診察料、高そう」「家族割があります」「何%?」「生涯契約なら無料です」綾香は呆れながら笑った。世間の前では冷静な会長。二人きりになると、たまにこんなことを言う。最初に会った日には、想像もできなかった。
アルプス山麓。家族が休むためだけに用意した、小さな別邸。綾香はここへ来ると、午前のオンライン会議を二時間までに制限した。残りの時間は子供たちと散歩する。昼寝する。遼真と買い物へ行く。初めて近くのスーパーへ行った日。遼真が幼児用お菓子の成分表示を、異常なほど長く見ていた。綾香はカートを押して先へ行く。「遼真さん。お菓子一袋買うだけで論文査読してるんですか?」「糖分が高いです」「今日くらい、世界が滅びてもいいことにしましょう」結局、一番小さな袋を一つだけ買った。しかも冬真と紗愛より先に、両親が二個ずつ食べた。そんな日々が、綾香にはどんな国際会議より大切だった。庭。一歳を過ぎた冬真と紗愛が、よちよちと歩いている。蝶を追いかけた冬真が尻もちをつく。紗愛が近づき、兄の手を掴む。二人で笑った。「転ばないようにね」綾香が声をかける。過去の傷が完全に消えたわけではない。黒い煎じ薬に似た匂いを嗅ぐと、今でも胸が跳ねる時がある。ただ、そんな日にも帰る場所がある。小道の向こうから遼真が来た。手には白磁のポット。「お茶、冷めます。今日は薬草三種類だけです」「それでも三種類入ってるんだ」綾香がカップを受け取る。手を包まれる。「ありがとう。時々、この生活が夢みたい」「夢ではありません」「三年前、あの冷たい床に座ってた私が。どうしてここまで来たんだろう」遼真は少し考えた。「ここまで来たのは、綾香がずっと選んだからです」綾香が顔を上げる。「僕が救ったわけじゃない。僕は隣にいただけです」しばらく沈黙。綾香が肩へ寄りかかる。「それでも、隣にいてくれてありがとう」「それなら、一生できます」「一生は長すぎる。まず明日まで」「では、明日また契約更新します」「条件を見てから」子供たちの笑い声。綾香は目を閉じた。幸福は、大きな報酬として一度に降ってくるものではない。こうして一日ずつ更新されるものなのかもしれない。遼真がいつものように手首へ触れる。「脈、いいですよ」「それだけ?」「いいえ」少し間を置く。「好きです。それは脈を見なくてもわかります」綾香は笑い、彼へ口づけた。その日の夕方。東京の法務チームから最終報告が届く。鷹城司は前月、刑務所医療区画で感染症と呼吸器不全を併発し死亡。鷹城美津子も長
双子のお食い初めを終えた頃。蓮雨庵の古い書庫に保管されていた恵仁堂の医書が、研究チームへ移された。恵仁堂の伝統処方を出発点に、星雲グローバルR&Dが標準化を進めてきた天然物由来の神経系希少疾患治療候補。開発コード――『保生丹(ほせいたん)』。スイス・バーゼルと東京の臨床機関が参加した国際共同第Ⅲ相試験で、統計学的に有意な有効性と安全性指標が得られた。米国FDA。欧州EMA。優先審査手続も進む。「榊原代表。複数のグローバル製薬企業から、契約一時金とマイルストーンを含め、最大六兆円規模の共同開発・ライセンス案が届いています」巨額だった。だが条件次第で、薬の価格も研究継続性も大きく変わる。「全部無償にすれば、次の研究資金がなくなるかもしれない」遼真が言う。「でも、最も高く買う一社へ独占させるのも違う」綾香は頷いた。「独占売却はしません。複数地域で非独占ライセンスを設定します。その代わり、低所得国と希少疾患児支援プログラムには無償または大幅減免の実施権を用意しましょう」収益を捨てるのではない。研究を続けられる資金と、治療へのアクセスを両立させる。それが綾香の選択だった。***一週間後。スイス・ジュネーブ。国連欧州本部で開かれた、国際保健と医療アクセスに関するハイレベルフォーラム。WHO関係者。各国代表。医療政策の専門家。綾香が壇上へ立つ。濃紺の和装を基調にしたシルクスーツ。髪には翡翠の簪。隣には遼真。「古い医療知識も、現代科学の検証を通過して初めて、より多くの人を救う手段になります」英語で語る。「私たちは低所得国や希少疾患の子供たちが、価格だけを理由に治療から排除されない仕組みを広げます。同時に、次の研究を継続できる構造も守ります」講演後、国際保健分野での医療アクセス拡大への貢献を評価する特別表彰が二人へ贈られた。拍手の中。綾香は一度だけ目を閉じる。鷹城家の薄暗い部屋で、黒い薬を飲んでいた自分。今の自分。あまりにも遠い。***その夜。レマン湖を望むホテルのバルコニー。遼真が綾香の肩を抱く。「これからは、予定を減らしましょう」「また仕事の話?」「家族の話です。何もしない日も必要です」遼真は黄金色の鍵を綾香の手のひらへ置いた。アルプスの山麓に用意した、恵仁堂欧州拠点近くの小さな別邸。
床上げを終え、季節が巡った。双子は生後百日を迎えた。成城・蓮雨庵。高い秋空。風に揺れる竹林。今日は白石家の双子――冬真(とうま)と紗愛(さえ)のお食い初めだった。招いたのは、両家の近しい人々。会社の同僚。恵仁堂一門の年長者たち。規模はそれなりに大きい。ただし、綾香は広報チームが出した最初の企画書を半分近く削った。「フォトセッションは10分まで。子供たちの顔のアップ撮影は禁止。授乳時間になったら式は止めます」「代表、来賓挨拶の進行が遅れる可能性が……」「遅れればいいでしょう。お食い初めだからって、赤ちゃんを空腹のまま待たせるわけにはいきません」担当社員が笑いを堪える。綾香も笑った。以前の自分なら、『大切なお客様を待たせる』と聞いただけで謝罪しただろう。今は、自分で優先順位を決められる。「榊原綾香代表、白石遼真会長ご夫妻です」二人が庭へ出る。綾香は白地の訪問着。遼真は濃紺の羽織袴。腕の中には、小さな双子。朱塗りの祝い膳には、尾頭付きの鯛、赤飯、蛤のお吸い物、煮物、香の物が並んでいた。脇には歯固めの石も用意されている。一門の年長者である白石景吾が『養い親』役を務め、箸で赤飯をほんの少しつまんでは、冬真と紗愛の口元へ運ぶ真似をする。もちろん、まだ本当に食べさせるわけではない。二人が箸の動きを追って小さな手を伸ばすと、庭に笑い声が広がった。食べることに一生困りませんように。歯が丈夫に育ちますように。古くから続く願いを込めた儀式だった。景吾が二人の顔を交互に見て笑う。「元気に育てば、それが一番だ」綾香がすぐ聞く。「勉強できなくても?」老人が咳払いする。「元気で……人様に迷惑をかけず生きられれば」遼真が隣で小さく言う。「基準がかなり下がりました」庭に笑いが広がった。綾香は子供たちを見る。『家の跡継ぎ』という重い言葉より。ただ、冬真と紗愛として育ってほしかった。***夜。子供たちを寝かせたあと、庭の東屋。遼真が後ろから綾香の腰へ腕を回す。「疲れましたか、僕の大事な妻」「少し。でも、幸せ」「今日、一番よかったことは?」「景吾さんが『健康ならいい』って言ったこと」「僕もです」二人で、しばらく笑った。
府中刑務所、医療区画。鷹城司は長年の薬物・アルコール乱用と、その後の体調悪化により継続治療を受けていた。テレビには経済ニュース。【榊原綾香代表、双子の男女を無事出産】【星雲グローバル、欧州バイオ投資契約を正式締結】画面の中で綾香は、二人の子供を抱いて笑っていた。司が何度踏みにじっても、その人生はもう彼の評価など関係なく進み続けている。彼に残されたのは、治療と刑の執行。そして長く避け続けてきた責任だった。***同じ頃。東京警察病院、管理病棟のオンライン面会室。美津子はベッドへもたれ、画面越しに国選弁護人の説明を聞いていた。「鷹城司被告について、別件の横領事件でも有罪判決が確定し、服役期間は長期化する見込みです」「司が……そんなに長く……?」「また、司被告の重度無精子症については大学病院の記録で再確認されています。榊原綾香さんへ服用させた煎じ薬からも、従前の分析どおり天南星、巴豆などが検出されています」美津子の目が大きく開く。「じゃあ……あの子じゃなかったの……?」自分が三年間責め続けた嫁。薬を飲ませ続けた相手。事実を理解したからといって、時間は戻らない。「成城の本邸や関連資産についても、追徴・競売手続が進んでいます。一族側の元役員にも実刑判決が出ています」美津子はしばらく何も言えなかった。呼吸が乱れ、医療スタッフが面会を中止する。***その頃。蓮雨庵。綾香は産後の身体を休めながら、双子の寝息を聞いていた。遼真が温かい養生茶を持ってくる。「産後の回復用です。熱いうちに」「また苦い?」「少し」「正直になりましたね」遼真が匙で冷ます。綾香は一口飲み、顔をしかめた。「やっぱり苦い」「蜂蜜を追加します」「最初から入れて」「次回から」遼真は冷えた手と足を軽く温める。「法的なことは法務へ任せます。今は回復だけ考えてください」「うん」「まずは床上げの頃まで、ゆっくり身体を休めましょう。お食い初めの頃になったら、近しい人たちと子供たちの成長を祝えばいい」綾香は遼真の肩へ頭を預けた。華やかな結末より。二人の小さな呼吸が、何より良かった。