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第199話

Author: 玉酒
言い終えると同時に、峯の鋭い視線が、沈黙を守る和彦に突き刺さった。

全身から立ち上る怒気は、もはや形を持つかのように重く張りつめている。

「和彦、俺の妹は『陸川家の若夫人』って肩書を背負ってるんだぞ。その彼女が酒酔い運転の車にこんな目に遭ったのに……お前は見て見ぬふりをする気か?」

空気が、弦のようにぴんと張り詰めた。もう一言でも発せば、火花が散りそうなほどに。

和彦の視線が、淡く美穂の額をかすめた。

その声は氷のように静かで、感情の揺れが一切なかった。「美穂、外で話そう」

そう言って彼は最初に立ち上がり、調停室を出ていった。

磨かれた革靴が床を打つ音は一定のリズムで、冷ややかに響いた。そこには、迷いもためらいもなかった。

美穂は最初、拒もうとした。けれどその言葉は喉の奥で溶けて消えた。

もし彼が本気で介入してきたら――

鳴海との関係を考えれば、すぐにでも事を丸く収めてしまうだろう。

そうなれば、訴訟どころか、最低限の補償さえ手に入らない。

深く息を吸い、美穂は平然を装って立ち上がった。

背後でガラス扉が閉まる音と同時に、廊下の感知ライトがぱっと灯った。二人の影が長く伸び、重なりながらも、はっきりと分かれていた。

「鳴海の件は、もう追及するな」和彦は身を傾け、冷たい白い光が彼の顎のラインをくっきり浮かび上がらせる。「俺が志村家と話をつける。十分な補償を出させよう。……足りないと思うなら、俺個人でも上乗せする」

その声には感情の起伏がほとんどなく、まるで、ひとつの取り引きを淡々と進めているかのように。

美穂はふと気づいた。――彼が自分にこんなに長く話しかけたのは、きっとこれが初めてかもしれない。

その一言一言には冷たい計算が滲んでいて、友人を守るために、彼女に法律と正義の前で身を引けと言っているのだ。

美穂の唇がわずかに動いたが、言葉は出なかった。

彼のそうした損得勘定ばかりの態度には、もう慣れたはずだ。

心臓も、幾重にも重なった鈍い痛みのあとには、ただ冷えきった麻痺だけが残り、悲しみも失望も、もう感じることはない。

「……あなたがくれるものって、何?」自分の声が、驚くほど冷ややかで静かだ。

和彦がようやく彼女の方に振り向いた。

その視線が、美穂の美しい眉のあたりで一瞬だけ止まり、簡潔に言い放った。「櫻山荘園を、お前の名義
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Comments (1)
goodnovel comment avatar
あまねく
美穂だから腹が立つ でも謝罪は一般常識 こういう悪行も傲慢さで握り潰す人種ばかり 周りをうろつかせて和彦の人間性・本質が知れ るね!和彦見えてる?美穂が怪我してるぞ?
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