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第2話

Penulis: 小貝あい
「わかった」

綾音は短く答えて電話を切った。だが、指先だけが妙に冷えていた。

……

翌朝は、嘘のようによく晴れていた。綾音はいつも通り早く起きて、はるかを幼稚園へ送り出す準備を始める。

だが当の本人は、布団にくるまったまま、枕に頬を押しつけて起きようとしない。

「はるかちゃん、朝だよ」と、優しく声をかけながら抱き上げる。小さな身体から、甘いミルクのような匂いがした。それだけで、少しだけ気持ちが落ち着く。

はるかがもう少し小さかったころは、夜中に突然泣き出すことも多かった。鼻血が止まらなくなる夜もあった。

頑固な性格で、顔を拭かせてくれないこともあるから、朝になって、乾いた血が頬に残っていたこともあった。

あの頃は、本当に眠る暇もなかった。

ぼんやりと目を開けたはるかが、口を尖らせて言う。「パパが送ってもらう。約束してたもん」

綾音は一瞬だけ言葉に詰まった。尚弥は通園の車の中で、いつも短いお話をひとつ聞かせてくれる。それが、はるかの楽しみだった。

「今日はね、パパはお客さんのところにいて、帰ってこれないの。ママが送っていってもいい?」

はるかは少しだけ寂しそうな顔をすると、すぐにキッズスマートウォッチを操作し、尚弥へ発信する。

「もしもし、はるかちゃん?」

すぐに、尚弥の穏やかな声が返ってきた。

「パパ、幼稚園まで送ってくれない?」

尚弥は少しだけ間を置いて、やわらかく言った。「今日は難しいけど……午後は迎えに行くよ。それでいいか?」

「じゃあ……新しいおもちゃを買ってきて!」

尚弥が笑う気配がした。「わかった。約束する」

綾音はその様子を、ベッドのそばで静かに見守っていた。そのとき――

通話の向こう側で、小さな咳が聞こえた。続いて、かすれた女の声。

「尚弥……ちょっと具合が……」

薫だった。

次の瞬間、通話は切れた。

綾音は手にしていたはるかの服を、ほんの少し強く握った。

着替えを終えたはるかは、車に乗るとすぐまた眠ってしまった。幼稚園に着くころには目を覚まし、先生の姿を見つけると、元気に手を振った。

車を降りる直前、振り返って言う。「ママ、今日ね、パパが迎えに来てくれるって」

綾音は微笑んで、うなずいた。

そのまま綾音は勤務先のクリニックへ向かった。

週に二日、月曜と金曜は外来診療の日だ。それ以外の多くの時間は、松崎グループ傘下の恒生製薬で研究業務に携わっている。

松崎家は多角経営の企業グループだが、医療分野もその重要な柱の一つだった。

「松崎先生、大丈夫ですか?」看護師の長岡美里(ながおか みさと)が、コップを差し出す。「少しお疲れみたいですけど」

綾音は受け取って一口飲んだ。「昨日は少し立て込んでいて」

「予約、少し減らしましょうか?」

綾音は首を振る。

二年前、彼女が逝去された名医、矢口千恵子(やぐち ちえこ)の最後の弟子だと知られてから、診察を希望する患者は一気に増えた。遠方から来る人も多い。簡単に断るわけにはいかなかった。

「大丈夫です。予定通りで」

美里は少し心配そうに笑う。「じゃあコーヒー淹れてきますね」

「ありがとう、長岡さん」

その日の診療が終わったのは、夜七時を回ってからだった。クリニックを出た瞬間、小さな影が勢いよく飛び込んでくる。

「ママ!」

はるかだった。

小さなリュックを背負い、口にはグミを頬張っている。

「パパが迎えに来てくれたの。それにおばさんも一緒だったよ。お菓子とおもちゃもくれたの!」

綾音ははるかを抱き上げた。その視線の先に一台の銀色の車が停まっており、そばに尚弥が立っていた。体に合った仕立てのスーツを着て、まっすぐこちらを見ている。

「お疲れ」尚弥が歩み寄ってきた。「はるかちゃんを連れて、どこかで食事でもどう?」

綾音は娘の手元を見た。指の間に、カラフルなグミが握られている。

「着色料の入ったお菓子ははるかちゃんの体によくないよ」

尚弥は少し驚いたように眉を上げた。「一回くらいなら問題ないと思うけど」

その隙に、はるかは小さな手を背中に回し、もう一粒を素早く口に放り込んだ。

綾音はそれに気づきながらも、何も言わず尚弥を見る。「次からは、子どもに変なものを与えないで」

尚弥は眉をわずかにひそめ、答える。「……わかった」

綾音は視線を外したまま尋ねた。「薫さんは?」

尚弥は自然な口調で答える。「薫さんは用事があるって。はるかちゃんを迎えたあと、先に送っていった」

その呼び方に、綾音の眉がほんのわずかに動いた。以前から聞き慣れているはずなのに、今日はやけに耳に残る。

「ママ」はるかが首に腕を回してくる。「最近、外でご飯食べてないよ。今日は外で食べたい」

綾音は少しだけ迷ったが、うなずいた。「いいよ」

そのとき、尚弥のスマートフォンが鳴った。彼は少し離れて通話に出る。

数分後に戻ってきたとき、表情が少し曇っていた。

「薫さんのところで少しトラブルがあったみたいだ。ちょっと行ってくる。店は予約してあるから、はるかちゃんと先に行ってて。終わったら合流する」

綾音が何か言う前に、尚弥はもう車へ向かっていた。

銀色の車体が、流れに紛れて見えなくなる。

「パパ、また行っちゃった」はるかが腕を組む。小さな頬を膨らませている。

綾音はしゃがんで、目線を合わせた。「お仕事があるんだよ。終わったらきっと来てくれる」

はるかは少し考えてから、こくんとうなずいた。「じゃあご飯に行こう。おなかすいた」

綾音は娘の手を握る。信号を渡る車の列を見ながら、胸が重くなっているのを感じた。

薫は夫を亡くしたばかりだ。きっと、誰かに支えてもらう必要があるのだろう。でも――その相手は、本当に尚弥でなければいけないのだろうか。

綾音は自嘲の笑みを浮かべ、そのまま、はるかの手を引いて駐車場へ向かった。

……

夜九時を過ぎても、尚弥は現れなかった。連絡もなかった。

「はるかちゃん、そろそろ帰ろうか」綾音はできるだけ柔らかく言った。

はるかは口を尖らせる。「パパ、また約束やぶった」

それでも、父のことは嫌いになれない年齢だった。

綾音は娘の気持ちをそらすため、隣のコンビニへ立ち寄った。小さなおもちゃをひとつ選ぶと、はるかはすぐに機嫌を直した。

「やっぱりママが一番好き!」

首に抱きつき、頬にキスをする。

綾音は娘を抱きしめたまま、静かに尋ねた。「はるかちゃん、もしね……パパとママが別々に暮らすことになったら、はるかちゃんはどっちと一緒にいたい?」

はるかは即座に答えた。「どっちも。ずっと三人でいたい」

その言葉が胸の奥に深く落ち、呼吸が少し苦しくなる。

その夜。綾音ははるかを抱いたまま眠った。けれど、午前四時過ぎに目が覚めた。

静かに体を起こし、廊下を見る。寝室の扉は、開いたままだった。

尚弥は帰っていない。

眠れることはできず、綾音は上着を羽織り、一階へ降りる。酒棚の前で立ち止まり、赤ワインをグラスの半分くらいまで注いだ。

他人から見れば、自分と薫は松崎家を代表する義姉妹だった。育った環境が似ていて、仕事の分野も近い。

綾音は医薬の家系に生まれ、名医の最後の弟子として育てられた。結婚後は恒生製薬の研究部門に入り、伝統処方と現代薬理の融合研究を担当している。

一方の薫は、海外の名門大学で生化学の博士号を取得し、四年前に帰国した後、すぐ恒生製薬の先端創薬研究センターに迎えられ、最前線の標的治療薬と新規製剤開発の中核研究員になった。

一人は古典を未来へつなぐ研究。もう一人は未来を切り開く研究。

どちらも、松崎家が最も重視している事業だった。

綾音はスマートフォンを取り出し、連絡先を開く。尚弥の名前の上で、指が止まった。

グラスのワインを一気に飲み干すと、唇を軽く噛み、そして――発信ボタンを押した。

呼び出し音が二回鳴っただけで、通話はつながった。

「もしもし、綾音?」

聞こえてきたのは、薫の声だった。
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