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第5話

作者: 小貝あい
「薫?」尚弥は階段の下まで歩み寄った。「最近冷えてきているのに、そんな格好じゃ風邪を引くぞ」

視線が自然に彼女の足元へ落ちる。

素足だった。厚手の靴下さえ履いていない。

その様子を見た瞬間、尚弥の胸の奥がわずかに重く沈む。

「ねぇ、尚弥。どうして綾音が……あのプロジェクトを私から取り上げようとしたの?」薫の声は震えていた。「私だって半年近く関わってきたのに……どうして?怜也が亡くなったから?」

階段を下りる足がもつれ、そのまま崩れそうになる。

尚弥はすぐに数段駆け上がり、その身体を支えた。

「薫、落ち着いて」

「尚弥……あのプロジェクトは私のものなの。最初は確かに綾音の考えを参考にしたところもあった。でも……ここまで形にしてきたのは私よ。私にとっては……子どもみたいなものなの」

涙を流しながら、薫は続けた。「怜也がいなくなったから……私も、もう用済みってこと?」

尚弥は一瞬、言葉を失った。だがすぐに静かな声で言う。「まずは部屋に戻って、ちゃんと着替えよう」

肩に手を添える。

「食事も用意してある。少しでいいから食べて」

「食欲がないわ」そう言って薫は手すりをつかみ、ゆっくりと階段を上っていく。

その背中が、途中で止まった。彼女は口元を押さえ、肩が小さく震える。

「尚弥……私、この家が好きだし、ここで育ったから、離れたくないの。だから、追い出さないで」

その背中を見つめながら、尚弥は息を飲み込んだ。やがて、はっきりとした声で言う。

「心配しなくていい。俺がいる限り、お前はいつだって松崎家の人間だ。誰にも追い出させたりはしない」

その言葉に、薫はゆっくり振り返った。涙で濡れた目で尚弥を見つめる。

そして、小さく頷いた。

「……うん」

秋の空は暗くなるのが早い。仕事を終えた綾音は、まっすぐの青山ガーデンにある自宅へ向かった。

門をくぐったところで、玄関前の階段にはるかの小さな影が見えた。小さな器に入った果物を食べながら、母親の帰りを待っていた。

車を降りた綾音は、足早に娘のもとへ向かう。

「ママ!」

はるかはぱっと立ち上がり、そのまま胸に飛び込んできた。

綾音は娘を抱き上げ、頬に何度も口づける。甘いミルクのような匂いがして、一日の疲れが、ほんの少しだけほどけた。

そのとき、家政婦の真紀がリビングから顔を出した。「奥様、夕食の準備ができています。尚弥様はお戻りになりますか?」

綾音は一瞬だけ言葉に詰まる。午後の出来事のあと、尚弥は会社から姿を消していた。

時間はすでに七時半を回っている。

「……今日は戻らないと思う」

その横で、はるかがぱっと顔を上げた。「じゃあ、電話してみる!」

スマートウォッチを操作し、すぐに通話をつなぐ。

「はるかちゃん?」向こうから聞こえた尚弥の声は、いつも通り優しかった。「どうした?」

「パパ、今どこ?一緒に晩ごはん食べる?」

「パパはもう食べたよ。ママは帰ってる?」

「うん、今帰ってきたよ」

「じゃあママと一緒に食べて。パパは少し遅くなるから」

「……わかった」はるかは通話を切り、端末を持ったまま綾音の前に立つ。「ママ、代わる?」

綾音が答えようとした、その瞬間――

受話口の向こうで、かすかな咳の音がした。女性の声だった。

すぐに、尚弥の声が続く。「はるかちゃん、もう切るね。できるだけ早く帰るから」

「うん、わかった」はるかは何も気づかないまま電話を切り、綾音の手を引いた。「ママ、ごはん食べよ」

綾音はその場に立ったまま、わずかに動きを止めた。

今の女性の声は誰のものか――聞き間違えるはずがなかった。

真紀が用意してくれた夕食は、いつも通り丁寧だった。だが綾音は、ほとんど味を覚えていない。ぼんやりしていて、娘の皿におかずを取り分けるのを忘れてしまう。

すると、はるかが頭をこすりつけてくる。「ママ、お魚が食べたい」

綾音ははっとして、焼き魚の骨を丁寧に取り除き、娘の皿に移した。

……

気づけば、もう九時半を回っていた。綾音ははるかを風呂に入れて、英語の勉強に少し付き合うと、寝かしつける。

それから書斎で急ぎの仕事を片付け、ようやく寝室へ戻った。

そのとき、何気なくスマートフォンを見る。

――十一時だった。

翌日の午後、恒生製薬の社内ポータルに一本の通知が掲載された。内容は簡潔だった。

――経営層および管理職の総合判断により、「補中益気湯エキス顆粒の改良と徐放技術応用」プロジェクトは、引き続き松崎薫博士が統括する。松崎綾音博士は「ステラフェーズⅢ」プロジェクトの再検証業務に専念するため、本件の実務から外れる。

研究開発部副本部長名義で出された、正式な決定だった。

その知らせは、湖面に落ちた小石のように静かに――しかし確実に波紋を広げていく。

誰も口には出さなかった。だが皆、心のどこかで理解していた。

松崎家で育った薫は、いわば松崎家の内側の人間。それに対して綾音は、松崎家に嫁いできた立場にすぎない。

どちらが守られる側か――言葉にするまでもなかった。

周囲の視線が、ほんの少しだけ変わる。

同情。詮索。そして、わずかな軽視。

そのすべてを静かに受け止めながら、綾音は小さく息を吐いた。そして研究開発部副本部長へ、決定に従う旨だけを簡潔に返信した。

……

午後三時過ぎ。研究棟の廊下に一人の女性の姿が現れる。

淡いベージュのセットアップ。整った装いだが、顔に病後の名残のような、わずかな憔悴が残っている。

数日姿を見せていなかった薫だった。

同僚たちが次々と声をかける。

「お体、大丈夫ですか」

「無理なさらないでくださいね」

薫は柔らかく微笑みながら、静かに応じていく。

やがて綾音の執務室の前を通り過ぎる時、ほんの一瞬、足が止まった。だが視線は向けない。そして何事もなかったかのように、そのまま歩き去っていく。

綾音は彼女に気づいていたが、顔を上げなかった。姿が完全に見えなくなってから、手元のハーブティーを口に運ぶ。

やさしい甘味が広がる。それでも、喉の奥に残る苦さは消えなかった。

――尚弥は薫にプロジェクトの統括を任せた。それが綾音への何より明確な答えだった。

そのとき、デスクの内線が鳴った。綾音は受話器を取ると、「俺の執務室に来てくれ」と、尚弥の低い声が聞こえた。

……

社長室に入ると、重い扉が閉まり、外の視線は完全に遮断された。

デスクの向こう側に座る尚弥は、わずかに身を乗り出して綾音を見ている。その視線には、これまでとは違う色があった。

穏やかで従順だと思っていた妻が、予想外の行動を取った――そのことで、尚弥は彼女のことを見直していた。

探るような視線を受けながら、綾音は机から数歩手前で足を止める。

大きな窓から差し込む午後の光が、床に長い影を落としていた。けれど室内の空気は、どこかひんやりと張り詰めている。

「座って」尚弥が隣の椅子を指した。

綾音は静かに腰を下ろす。背筋を伸ばし、両手を膝の上に重ねる。自然と距離を置いた姿勢になっていた。

「綾音」尚弥が口を開く。声音は完全に業務のそれだった。「補中益気湯エキス顆粒の件は、薫さんが引き続き担当する」

一拍置く。

「この件はここまでだ」

綾音の睫毛が、わずかに揺れた。だが何も言わず、尚弥の言葉の続きを待つ。

尚弥は立ち上がり、机を回り込むと、ポケットに手を入れたまま窓際へ歩いていった。高層階の窓の向こうには、無数のビル群が広がっている。

「納得できない部分もあるだろう。不公平だと感じるかもしれない。だが物事は、表面だけでは判断できない」

少し間を置いて続ける。

「薫さんは今、精神的にかなり不安定なんだ。おばあさまも海外で静養させたいと考えている。松崎家を唯一の拠り所にしてきた人を、これ以上追い込むべきじゃない」

そう言って、綾音の反応を確かめるように振り返る。

だが綾音は黙ったままだった。いつの間にか、その目にはわずかな迷いの色が浮かんでいる。

尚弥はさらに続けた。

「兄さんが亡くなったばかりだし、株式の整理も進んでいる。こういう時期だからこそ、身内同士の揉め事は避けたい」

そして静かに言い添える。

「お前は俺の妻で、薫は義姉だ。お前たちの関係がこれ以上悪化するのは、松崎家にとってもマイナスになるし……おばあさまだって、家族が穏やかであることを望んでいるはずだ」
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