ログイン「薫?」尚弥は階段の下まで歩み寄った。「最近冷えてきているのに、そんな格好じゃ風邪を引くぞ」視線が自然に彼女の足元へ落ちる。素足だった。厚手の靴下さえ履いていない。その様子を見た瞬間、尚弥の胸の奥がわずかに重く沈む。「ねぇ、尚弥。どうして綾音が……あのプロジェクトを私から取り上げようとしたの?」薫の声は震えていた。「私だって半年近く関わってきたのに……どうして?怜也が亡くなったから?」階段を下りる足がもつれ、そのまま崩れそうになる。尚弥はすぐに数段駆け上がり、その身体を支えた。「薫、落ち着いて」「尚弥……あのプロジェクトは私のものなの。最初は確かに綾音の考えを参考にしたところもあった。でも……ここまで形にしてきたのは私よ。私にとっては……子どもみたいなものなの」涙を流しながら、薫は続けた。「怜也がいなくなったから……私も、もう用済みってこと?」尚弥は一瞬、言葉を失った。だがすぐに静かな声で言う。「まずは部屋に戻って、ちゃんと着替えよう」肩に手を添える。「食事も用意してある。少しでいいから食べて」「食欲がないわ」そう言って薫は手すりをつかみ、ゆっくりと階段を上っていく。その背中が、途中で止まった。彼女は口元を押さえ、肩が小さく震える。「尚弥……私、この家が好きだし、ここで育ったから、離れたくないの。だから、追い出さないで」その背中を見つめながら、尚弥は息を飲み込んだ。やがて、はっきりとした声で言う。「心配しなくていい。俺がいる限り、お前はいつだって松崎家の人間だ。誰にも追い出させたりはしない」その言葉に、薫はゆっくり振り返った。涙で濡れた目で尚弥を見つめる。そして、小さく頷いた。「……うん」秋の空は暗くなるのが早い。仕事を終えた綾音は、まっすぐの青山ガーデンにある自宅へ向かった。門をくぐったところで、玄関前の階段にはるかの小さな影が見えた。小さな器に入った果物を食べながら、母親の帰りを待っていた。車を降りた綾音は、足早に娘のもとへ向かう。「ママ!」はるかはぱっと立ち上がり、そのまま胸に飛び込んできた。綾音は娘を抱き上げ、頬に何度も口づける。甘いミルクのような匂いがして、一日の疲れが、ほんの少しだけほどけた。そのとき、家政婦の真紀がリビングから顔を出した。「奥様、
綾音はそのままドアを開けた。尚弥の声が背中に届いていたはずなのに、まるで聞こえなかったかのように、足を止めることはなかった。自室に戻ると、ドアに背を預けたまま、深く息を吐く。手にしていた資料を握る指先が、わずかに白くなっていた。曖昧なまま流されることよりも――何が起こるかわからない未来の方が、よほど怖い。やがて綾音はデスクに向かい、内線の受話器を取った。「古賀さん、すみません。『補中益気湯エキス顆粒の改良と徐放技術応用』のプロジェクト、過去のアーカイブ一式を共有していただけますか」一拍置いて続ける。「今日の三時の会議で、少し大事な話をします」受話器を戻すと同時に、パソコンにデータが届く。画面に開かれた資料を見つめながら、綾音は静かに目を細めた。このプロジェクトは、尚弥の祖母、松崎信子(まつざき のぶこ)の仲介で立ち上がったものだ。表向きは「義姉妹での共同開発」とされ、成功すれば美談になる――そんな筋書きだった。だが、最終申請用の資料に記載されているのは、「松崎薫・製剤プロセス革新チーム」であり、綾音の名前は、その下の「薬理サポート」の欄に、控えめに並んでいるだけだった。「……やっぱり、こうなるのね」小さく呟くと、綾音はキーボードを叩いた。午後三時、広い会議室には、開発部を中心に各部門の主要メンバーが揃っていた。議題は補中益気湯エキス顆粒プロジェクトのフェーズ総括。中央の席には尚弥が座り、手元の資料に目を落としている。その表情は静かだったが、何を考えているのかは読み取れない。やがて発言の順番が回ってくる。綾音は資料の束を広げ、壇上に立った。プロジェクターに映し出されたのは――彼女が修正した資料だった。「まず一点、共有させてください」落ち着いた声が会議室に広がる。「現在提出されている申請資料と、原始記録の内容にいくつか齟齬があります。ここで一度、整理させてください」その一言で、空気が変わった。すでに申請は提出済みだ。この段階で「内容にズレがある」と言い出すのは、異例と言っていい。尚弥の視線が、ゆっくりと綾音に向く。静かだが、どこか探るような目だった。綾音は気にする様子もなく、用意していた資料を順に映していく。日付入りの実験ノートの写し。初期サンプルの検証データ。薫とのやり取りを記録し
「……どうして尚弥の携帯を?」綾音の声は、自分でもわかるほど少し冷えていた。電話の向こうで、薫が小さく息をつく。「尚弥が一晩中看病してくれて……今は疲れて眠ったの」その声には、かすかな自責と遠慮が混じっていた。「薫さん、体調が悪いんですか?」綾音は静かに尋ねる。「昨日……お酒を飲みすぎてしまって」そこで言葉を切る。「気持ちの整理がつかなくて……手首を切ってしまったの。でも尚弥がすぐ来てくれて、病院に運んでくれたから、もう大丈夫」責める余地のない説明だった。夫を亡くしたばかりの女性が、衝動的に命を絶とうとするが、義弟が駆けつけ、一晩中付きっきりで面倒を見てあげた。それだけの話だ。「そうですか」綾音は淡々と答えた。「では、ゆっくり休んでください」薫は短く返事をして、通話は切れた。急に訪れた静寂が、綾音の胸に不安を広げていく。薫は、綾音のそばにいるはずの尚弥に看病してもらっているのに、お礼の言葉ひとつ口にしなかった。むしろ先ほどの口調は、それが当然であるかのように聞こえた。まるで――綾音のほうが場違いな存在であるかのように。胸の奥で、悲しみと怒りがせめぎ合う。だが次の瞬間、その感情はすっと引いていった。代わりに残ったのは、不思議なほど澄んだ冷静さだった。綾音は静かに窓の外へ視線を向ける。今は、感情のまま動くべきじゃない。はるかはまだ幼い。あの子の世界は――守らなければならない。だったら、尚弥と薫の過去に、いったい何があったのか。それを自分の目で確かめるしかない。……午前九時。綾音は会社の会議室に入った。尚弥はすでに中央の席に座っていた。グレーの細かな織り柄が入ったスーツ、ネクタイはしていない。どこかラフな装いなのに、不思議と隙がない。祖父の松崎博司(まつざき ひろし)が亡くなってから、尚弥の社内での発言力は急速に強まっていた。さらに怜也の死も重なり、今や実質的に意思決定を下しているのは尚弥だと言ってもいい。そのせいか――ただ静かに座っているだけなのに、彼からは無視できない威圧感が漂っていた。本日の議題は、複数の進行中プロジェクトに対する資源配分と予算調整について。前半の議題は順調に進んでいく。そして――標的治療薬と新規製剤研究センターの報告に入った瞬間、会議室の空気
「わかった」綾音は短く答えて電話を切った。だが、指先だけが妙に冷えていた。……翌朝は、嘘のようによく晴れていた。綾音はいつも通り早く起きて、はるかを幼稚園へ送り出す準備を始める。だが当の本人は、布団にくるまったまま、枕に頬を押しつけて起きようとしない。「はるかちゃん、朝だよ」と、優しく声をかけながら抱き上げる。小さな身体から、甘いミルクのような匂いがした。それだけで、少しだけ気持ちが落ち着く。はるかがもう少し小さかったころは、夜中に突然泣き出すことも多かった。鼻血が止まらなくなる夜もあった。頑固な性格で、顔を拭かせてくれないこともあるから、朝になって、乾いた血が頬に残っていたこともあった。あの頃は、本当に眠る暇もなかった。ぼんやりと目を開けたはるかが、口を尖らせて言う。「パパが送ってもらう。約束してたもん」綾音は一瞬だけ言葉に詰まった。尚弥は通園の車の中で、いつも短いお話をひとつ聞かせてくれる。それが、はるかの楽しみだった。「今日はね、パパはお客さんのところにいて、帰ってこれないの。ママが送っていってもいい?」はるかは少しだけ寂しそうな顔をすると、すぐにキッズスマートウォッチを操作し、尚弥へ発信する。「もしもし、はるかちゃん?」すぐに、尚弥の穏やかな声が返ってきた。「パパ、幼稚園まで送ってくれない?」尚弥は少しだけ間を置いて、やわらかく言った。「今日は難しいけど……午後は迎えに行くよ。それでいいか?」「じゃあ……新しいおもちゃを買ってきて!」尚弥が笑う気配がした。「わかった。約束する」綾音はその様子を、ベッドのそばで静かに見守っていた。そのとき――通話の向こう側で、小さな咳が聞こえた。続いて、かすれた女の声。「尚弥……ちょっと具合が……」薫だった。次の瞬間、通話は切れた。綾音は手にしていたはるかの服を、ほんの少し強く握った。着替えを終えたはるかは、車に乗るとすぐまた眠ってしまった。幼稚園に着くころには目を覚まし、先生の姿を見つけると、元気に手を振った。車を降りる直前、振り返って言う。「ママ、今日ね、パパが迎えに来てくれるって」綾音は微笑んで、うなずいた。そのまま綾音は勤務先のクリニックへ向かった。週に二日、月曜と金曜は外来診療の日だ。それ以外の多くの時
松崎家の長男――松崎怜也(まつざき れいや)は三十二歳の若さで亡くなってしまった。死因は突然の心筋梗塞。松崎家は、深い喪失の中に沈んだ。そして今日、葬儀のあとに会食の席が設けられていた。朝から空がどんよりと重く垂れ込め、夕方になるころ、とうとう雨が降り出した。屋敷の大広間では、もともと置かれていた家具がすべて運び出され、代わりに会食用のテーブルと椅子が搬入された。祭壇の前には花立やローソク立てなどが配置され、中央に飾られた遺影の中で、ブリティッシュススーツを着ている怜也は、穏やかな笑みを浮かべていた。室内に、花の香りと線香の煙が混ざり合って漂っている。その中を、松崎綾音(まつざき あやね)は朝から弔問客の対応に追われていた。今日訪れているのは、政財界の関係者ばかりだ。顔なじみもいれば、テレビでしか見たことのない人物もいる。外の雨は、いつの間にか細かくなっていた。そのとき、来客の一人がグラスを誤って倒し、綾音はすぐに駆け寄る。相手のシャツの胸元が濡れているのを確認すると、すぐ声をかけた。「少々お待ちください。替えのシャツをご用意しますね」男性は驚いたように顔を上げ、すぐに柔らかく笑った。「それは助かります。お願いします」「いえ」綾音は軽く頭を下げると、周囲を見回した。さっきまで近くにいたはずの夫、松崎尚弥(まつざき なおや)の姿が見当たらない。少し戸惑ったが、すぐに思い当たる。――仲の良かった兄が急に亡くなったんだ。きっと、どこかで気持ちの整理をしているのだろう。そう思いながら、綾音は足早に三階へ向かった。三階の廊下は、一階の喧騒が嘘のように静まり返っている。あらかじめ用意しておいた予備の衣類を取りに、三つ目の部屋の前まで来た、そのときだった。中から、押し殺した泣き声が聞こえてきた。綾音の胸が、きゅっと締めつけられる。義姉の松崎薫(まつさじ かおる)だった。夫を突然亡くした彼女は一人ぼっちになり、耐えきれずにここで泣いているのだろう。綾音はそっとドアに手を伸ばした。薫とは昔から仲が良かった。こんなときこそ、そばにいてあげるべきだと思った。だがそのとき、話し声が聞こえた。「尚弥……葬式が終わったあと、私はおばあさまの指示で海外へ送られるってこと、知ってた?怜也がいなくなった今、もう私