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第3話

Penulis: 小貝あい
「……どうして尚弥の携帯を?」

綾音の声は、自分でもわかるほど少し冷えていた。

電話の向こうで、薫が小さく息をつく。「尚弥が一晩中看病してくれて……今は疲れて眠ったの」

その声には、かすかな自責と遠慮が混じっていた。

「薫さん、体調が悪いんですか?」綾音は静かに尋ねる。

「昨日……お酒を飲みすぎてしまって」そこで言葉を切る。「気持ちの整理がつかなくて……手首を切ってしまったの。でも尚弥がすぐ来てくれて、病院に運んでくれたから、もう大丈夫」

責める余地のない説明だった。

夫を亡くしたばかりの女性が、衝動的に命を絶とうとするが、義弟が駆けつけ、一晩中付きっきりで面倒を見てあげた。それだけの話だ。

「そうですか」綾音は淡々と答えた。「では、ゆっくり休んでください」

薫は短く返事をして、通話は切れた。

急に訪れた静寂が、綾音の胸に不安を広げていく。

薫は、綾音のそばにいるはずの尚弥に看病してもらっているのに、お礼の言葉ひとつ口にしなかった。むしろ先ほどの口調は、それが当然であるかのように聞こえた。

まるで――綾音のほうが場違いな存在であるかのように。

胸の奥で、悲しみと怒りがせめぎ合う。だが次の瞬間、その感情はすっと引いていった。代わりに残ったのは、不思議なほど澄んだ冷静さだった。

綾音は静かに窓の外へ視線を向ける。今は、感情のまま動くべきじゃない。

はるかはまだ幼い。あの子の世界は――守らなければならない。

だったら、尚弥と薫の過去に、いったい何があったのか。

それを自分の目で確かめるしかない。

……

午前九時。綾音は会社の会議室に入った。

尚弥はすでに中央の席に座っていた。グレーの細かな織り柄が入ったスーツ、ネクタイはしていない。どこかラフな装いなのに、不思議と隙がない。

祖父の松崎博司(まつざき ひろし)が亡くなってから、尚弥の社内での発言力は急速に強まっていた。さらに怜也の死も重なり、今や実質的に意思決定を下しているのは尚弥だと言ってもいい。

そのせいか――

ただ静かに座っているだけなのに、彼からは無視できない威圧感が漂っていた。

本日の議題は、複数の進行中プロジェクトに対する資源配分と予算調整について。

前半の議題は順調に進んでいく。

そして――

標的治療薬と新規製剤研究センターの報告に入った瞬間、会議室の空気がわずかに張り詰めた。

新型腫瘍抑制剤プロジェクト。会社が今後三年間で最も期待している柱の一つだ。だが、責任者である薫の姿はなかった。

代わりに研究員の一人が立ち上がる。「ステラフェーズⅢの複数データに、わずかな変動が確認されています。現在、安定性について追加検証を進めています」

慎重な報告だった。

役員数名がうなずく。想定内の範囲――そんな空気だった。

尚弥は大型モニターを見つめたまま、しばらく何も言わなかった。珍しく、判断が遅れているように見えた。

その沈黙を破ったのは、綾音だった。「現段階での追加予算投入と臨床準備の前倒しには反対です」

会議室が一瞬で静まり返った。視線が一斉に集まる。

綾音は普段、必要以上に前へ出るタイプではない。まして、ここまで明確な反対意見を示すことはほとんどなかった。

しかも――その対象は、義姉である薫が主導しているプロジェクトだ。

尚弥の視線が、ゆっくり綾音へ向く。そこにあるのは、夫の視線ではなく、経営責任者としての視線だった。

「理由は?」

綾音は資料を開いた。落ち着いた声で言う。「三点あります」

会議室の空気が引き締まる。

「まず、今回のデータ変動は単なるロット差ではありません。同様の異常は半年前にも確認されています。今回の三系列の差異を合わせると、統計的警戒域に入っています」

数名の役員が表情を変えた。

「それから、資源配分の問題です。私の部署で進めているブクリョウ多糖誘導体プロジェクトは臨床試験を終え、安全性と免疫調整効果の両面で有意な結果が出ています。現在はデータ解析に集中投資すべき段階です」

そして尚弥を見ながら続けた。

「最後に――プロジェクト責任者である松崎薫博士が複数回会議を欠席しています。研究管理上、適切とは言えません。まず本人によるデータ整理と説明を優先し、そのうえで再評価するべきだと思います」

会議室は、水を打ったように静まり返っていた。

誰もが知っている。薫は松崎家が長年かけて育ててきた、最前線に立つ研究者だ。これまで綾音は、薫のプロジェクトを補足することはあっても、間違いを指摘する側に回ったことはほとんどなかった。

尚弥の表情は最後まで変わらず、静かに口を開く。

「松崎さんの分析は専門的で妥当だと思います。技術検証チームを立ち上げましょう。松崎さんにもレビュアーとして参加してもらいます。二週間以内に、詳細なデータとリスク分析報告書を提出してください」

それだけ言って、会議は終了した。皆が次々と席を立つ中、綾音だけはしばらく動かなかった。

尚弥はもう部屋を出ている。スクリーンに残るデータを見つめながら、綾音は考えた。

彼は最後まで、薫の名前を口にしなかったし、責めもしなかった。そして同時に、薫のプロジェクトを守ったような措置を取った。

綾音は立ち上がる。この扉を出たら、自分と尚弥の間にはっきりとした線が引かれたのだと理解していた。

「綾音」廊下に尚弥が立っていた。まるで彼女を待っていたかのように。「少し時間あるか」

綾音はうなずく。二人は無言のまま執務室へ入った。

ドアが閉まると、尚弥が一歩近づく。「さっきのプロジェクトが薫さんにとってどれほど重要か、お前ならわかっているはずだ。どうして止めようとした?」

綾音は振り向かず、窓の外を見た。高層ビル群が無機質に並んでいる。「会社の利益を最優先に考えただけ。私情を持ち込んだつもりはないよ」

尚弥の声には、わずかな不満がにじんでいた。「薫さんにいろいろ支えてもらってきたんだろう?彼女が一番大変な時期に、仕事のほうまで邪魔するつもりなのか?」

綾音はようやく顔を上げた。だが、すぐには答えない。ここで感情的に弁解すれば、自分が悪者にされるだけだと分かっていた。

一歩距離を置くように、丁寧な口調で答える。「松崎社長。会社の利益を最優先にするようにとおっしゃったのは、以前、社長ご自身でしたよね。それなのに、私の提案を私情を理由に却下なさるおつもりですか?」

綾音を見つめる尚弥の視線が、わずかに鋭くなる。

この言い争いを一刻でも早く終わらせたいのか、彼は眉間を軽く押さえた。

「綾音。あのプロジェクトが会社の将来を支える柱になることは、お前も分かっているはずだ。兄さんも生前、とても気にかけていた」

怜也の名前を口にしたことで、尚弥の口調はいっそう真剣味を帯びる。

「薫さん――松崎博士は、長い時間をかけてあの研究に取り組んできた。その努力は誰もが知っている」

尚弥の整った横顔を見ないように、綾音は視線を外したまま言う。

「重要なプロジェクトであればあるほど、データに変動が出ている段階では慎重に判断すべきではありませんか?

どれだけ時間や労力を費やして得た成果でも、科学的に正しいと証明できなければ意味がありません。だからこそ社長も、検証チームの立ち上げに同意されたはずです」

さらに、もう一歩踏み込む。

「仮に問題を抱えたままプロジェクトを進めて失敗した場合――松崎博士ご本人の評価にも、会社の信用にも大きな影響が出ます。そうではありませんか?」

私情を一切挟まず、淡々と事実だけを積み重ねるその口調に、尚弥はしばらく黙り込んだ。

綾音とは長い年月を一緒に過ごしてきたはずなのに、この瞬間、少しだけ遠く感じられた。

記憶の中の綾音は、穏やかで、芯が強く、人の気持ちをよく理解する女性だった。だが今、目の前にいる彼女は違う。

鋭く、柔らかさの奥にはっきりとした強さを持った、これまで見たことのない表情をしている。

「昨夜のことだが――」尚弥が静かな声で言った。「おばあさまが、薫さんには仕事を辞めさせて、海外で療養させた方がいいと言い出したんだ。まだお前には話していなかった」

綾音は一瞬だけ動きを止めた。

尚弥は彼女をまっすぐ見つめたまま続ける。

「今、薫さんに一番必要なのは家族の理解と支えだ。普段、お前たちは仲がよかったし、プロジェクトでも支え合ってきただろう?本当に――彼女が一番弱っているこの時期に、あそこまで強い意見を出す必要があったのか?」

胸の奥がすっと冷えていく。それでも綾音の表情は静かなままだった。

「松崎社長。責任者が変わる可能性があるからといって、プロジェクトの科学的検証基準を下げる理由にはなりません。私は開発部門の一員として、専門的な見解を述べただけです。最終的な判断は社長にあります」

尚弥は数秒間、何も言わなかった。

やがて背を向け、ゆっくりと椅子へ戻る。そして深く腰を下ろし、背もたれに身体を預けた。

腕を組んだその姿は、すべてを見抜いたかのような雰囲気をまとっている。

「綾音」

落ち着いた声だったが、どこか不穏な響きを帯びていた。

「松崎家の問題は、できれば身内だけで解決したい。兄さんが亡くなったばかりだ。今は多くの人間が松崎家と会社の動きを見ている。食い違いを表に出して、外部に余計な憶測を呼ぶ必要はない」

綾音は素直にうなずいた。

「おっしゃる通りです。家の安定も会社の安定も大切です。だからこそ、プロジェクトにおけるリスクを事前に排除しておくことが、家にも会社にも最も誠実な対応だと思います」

尚弥の眉が、わずかに寄る。しばらく黙って綾音を見ていたが、やがて手を軽く振った。「そこまでこだわるなら、レビュアーとしての責任をしっかり果たしてくれ。以上だ」

「もちろんです。では失礼します」綾音はテーブルの上の資料を手に取り、静かにドアへ向かった。

ドアノブに手をかけたとき――背後から声が届いた。

低く、迷いの残る声だった。

「もし今日、立場が逆だったら……薫さんはきっと、お前を守ったと思う」
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