Mag-log in辻浦綾音(つじうら あやね)は、長年片想いを続けてきた相手、松崎尚弥(まつざき なおや)と結婚した。 ようやく手に入れた幸せだった。 暖かい家庭を築いて、穏やかに生きていこうと決めた彼女だが、ある夜、思いがけず密やかな会話を耳にする。 「尚弥……あなたの子供を産ませて」 扉の向こうから聞こえたのは、夫の尚弥と義兄の妻――松崎薫(まつざき かおる)の声だった。 その瞬間、綾音の中で何かが静かに崩れ落ちた。 これまで信じてきた結婚も、必死に守ってきた家族の形も、気を遣い続けてきた「円満」という名の関係も――すべてが最初から仕組まれた舞台の上の出来事だったのだと思い知らされる。 夫の心は、最初から自分には向いていなかった。しかも、彼が昔から思い続けてきた相手――薫は、自分の家庭も、努力して出した成果も、そしてこれからの未来さえも、奪おうとしている。 それでも綾音は、泣きわめいたりはせず、ただ静かに、胸の奥に残っていた最後のぬくもりをそっとしまい込み、現実を見据えた。 彼女は迷いなく退職届を提出し、同時に離婚届も用意した。自分を裏切った夫から、子どもを連れてきっぱりと離れるために。 それからの綾音は、仕事にすべてを注ぎ込んだ。気づけば、彼女の周囲には自然と人が集まるようになっていた。 端正な顔立ちで、知性に溢れる外交官。誠実に寄り添ってくれる副院長。そして、無邪気なほど一途に彼女を守ろうとする年下の青年。 その頃になってようやく、尚弥は自分の過ちに気づいた。妻をないがしろにし、冷たく突き放していたと反省するが、突きつけられた離婚届に、一瞬で現実へと引き戻される。 何があっても自分を愛し続けてくれると思っていた妻が、自分が薫を優先したあの瞬間から、すでに離婚を決意していたのだと知った。 ある日。 綾音の前で、一人の男が静かに片膝をついた。真剣な眼差しで、彼女に結婚を申し込む。その光景を目にした瞬間、尚弥は赤くなった目のまま彼女の腕を引き寄せ、強く抱き込んだ。「……俺、まだ離婚届にサインしてないんだけど。重婚は犯罪なんだぞ?」
view more「薫?」尚弥は階段の下まで歩み寄った。「最近冷えてきているのに、そんな格好じゃ風邪を引くぞ」視線が自然に彼女の足元へ落ちる。素足だった。厚手の靴下さえ履いていない。その様子を見た瞬間、尚弥の胸の奥がわずかに重く沈む。「ねぇ、尚弥。どうして綾音が……あのプロジェクトを私から取り上げようとしたの?」薫の声は震えていた。「私だって半年近く関わってきたのに……どうして?怜也が亡くなったから?」階段を下りる足がもつれ、そのまま崩れそうになる。尚弥はすぐに数段駆け上がり、その身体を支えた。「薫、落ち着いて」「尚弥……あのプロジェクトは私のものなの。最初は確かに綾音の考えを参考にしたところもあった。でも……ここまで形にしてきたのは私よ。私にとっては……子どもみたいなものなの」涙を流しながら、薫は続けた。「怜也がいなくなったから……私も、もう用済みってこと?」尚弥は一瞬、言葉を失った。だがすぐに静かな声で言う。「まずは部屋に戻って、ちゃんと着替えよう」肩に手を添える。「食事も用意してある。少しでいいから食べて」「食欲がないわ」そう言って薫は手すりをつかみ、ゆっくりと階段を上っていく。その背中が、途中で止まった。彼女は口元を押さえ、肩が小さく震える。「尚弥……私、この家が好きだし、ここで育ったから、離れたくないの。だから、追い出さないで」その背中を見つめながら、尚弥は息を飲み込んだ。やがて、はっきりとした声で言う。「心配しなくていい。俺がいる限り、お前はいつだって松崎家の人間だ。誰にも追い出させたりはしない」その言葉に、薫はゆっくり振り返った。涙で濡れた目で尚弥を見つめる。そして、小さく頷いた。「……うん」秋の空は暗くなるのが早い。仕事を終えた綾音は、まっすぐの青山ガーデンにある自宅へ向かった。門をくぐったところで、玄関前の階段にはるかの小さな影が見えた。小さな器に入った果物を食べながら、母親の帰りを待っていた。車を降りた綾音は、足早に娘のもとへ向かう。「ママ!」はるかはぱっと立ち上がり、そのまま胸に飛び込んできた。綾音は娘を抱き上げ、頬に何度も口づける。甘いミルクのような匂いがして、一日の疲れが、ほんの少しだけほどけた。そのとき、家政婦の真紀がリビングから顔を出した。「奥様、
綾音はそのままドアを開けた。尚弥の声が背中に届いていたはずなのに、まるで聞こえなかったかのように、足を止めることはなかった。自室に戻ると、ドアに背を預けたまま、深く息を吐く。手にしていた資料を握る指先が、わずかに白くなっていた。曖昧なまま流されることよりも――何が起こるかわからない未来の方が、よほど怖い。やがて綾音はデスクに向かい、内線の受話器を取った。「古賀さん、すみません。『補中益気湯エキス顆粒の改良と徐放技術応用』のプロジェクト、過去のアーカイブ一式を共有していただけますか」一拍置いて続ける。「今日の三時の会議で、少し大事な話をします」受話器を戻すと同時に、パソコンにデータが届く。画面に開かれた資料を見つめながら、綾音は静かに目を細めた。このプロジェクトは、尚弥の祖母、松崎信子(まつざき のぶこ)の仲介で立ち上がったものだ。表向きは「義姉妹での共同開発」とされ、成功すれば美談になる――そんな筋書きだった。だが、最終申請用の資料に記載されているのは、「松崎薫・製剤プロセス革新チーム」であり、綾音の名前は、その下の「薬理サポート」の欄に、控えめに並んでいるだけだった。「……やっぱり、こうなるのね」小さく呟くと、綾音はキーボードを叩いた。午後三時、広い会議室には、開発部を中心に各部門の主要メンバーが揃っていた。議題は補中益気湯エキス顆粒プロジェクトのフェーズ総括。中央の席には尚弥が座り、手元の資料に目を落としている。その表情は静かだったが、何を考えているのかは読み取れない。やがて発言の順番が回ってくる。綾音は資料の束を広げ、壇上に立った。プロジェクターに映し出されたのは――彼女が修正した資料だった。「まず一点、共有させてください」落ち着いた声が会議室に広がる。「現在提出されている申請資料と、原始記録の内容にいくつか齟齬があります。ここで一度、整理させてください」その一言で、空気が変わった。すでに申請は提出済みだ。この段階で「内容にズレがある」と言い出すのは、異例と言っていい。尚弥の視線が、ゆっくりと綾音に向く。静かだが、どこか探るような目だった。綾音は気にする様子もなく、用意していた資料を順に映していく。日付入りの実験ノートの写し。初期サンプルの検証データ。薫とのやり取りを記録し
「……どうして尚弥の携帯を?」綾音の声は、自分でもわかるほど少し冷えていた。電話の向こうで、薫が小さく息をつく。「尚弥が一晩中看病してくれて……今は疲れて眠ったの」その声には、かすかな自責と遠慮が混じっていた。「薫さん、体調が悪いんですか?」綾音は静かに尋ねる。「昨日……お酒を飲みすぎてしまって」そこで言葉を切る。「気持ちの整理がつかなくて……手首を切ってしまったの。でも尚弥がすぐ来てくれて、病院に運んでくれたから、もう大丈夫」責める余地のない説明だった。夫を亡くしたばかりの女性が、衝動的に命を絶とうとするが、義弟が駆けつけ、一晩中付きっきりで面倒を見てあげた。それだけの話だ。「そうですか」綾音は淡々と答えた。「では、ゆっくり休んでください」薫は短く返事をして、通話は切れた。急に訪れた静寂が、綾音の胸に不安を広げていく。薫は、綾音のそばにいるはずの尚弥に看病してもらっているのに、お礼の言葉ひとつ口にしなかった。むしろ先ほどの口調は、それが当然であるかのように聞こえた。まるで――綾音のほうが場違いな存在であるかのように。胸の奥で、悲しみと怒りがせめぎ合う。だが次の瞬間、その感情はすっと引いていった。代わりに残ったのは、不思議なほど澄んだ冷静さだった。綾音は静かに窓の外へ視線を向ける。今は、感情のまま動くべきじゃない。はるかはまだ幼い。あの子の世界は――守らなければならない。だったら、尚弥と薫の過去に、いったい何があったのか。それを自分の目で確かめるしかない。……午前九時。綾音は会社の会議室に入った。尚弥はすでに中央の席に座っていた。グレーの細かな織り柄が入ったスーツ、ネクタイはしていない。どこかラフな装いなのに、不思議と隙がない。祖父の松崎博司(まつざき ひろし)が亡くなってから、尚弥の社内での発言力は急速に強まっていた。さらに怜也の死も重なり、今や実質的に意思決定を下しているのは尚弥だと言ってもいい。そのせいか――ただ静かに座っているだけなのに、彼からは無視できない威圧感が漂っていた。本日の議題は、複数の進行中プロジェクトに対する資源配分と予算調整について。前半の議題は順調に進んでいく。そして――標的治療薬と新規製剤研究センターの報告に入った瞬間、会議室の空気
「わかった」綾音は短く答えて電話を切った。だが、指先だけが妙に冷えていた。……翌朝は、嘘のようによく晴れていた。綾音はいつも通り早く起きて、はるかを幼稚園へ送り出す準備を始める。だが当の本人は、布団にくるまったまま、枕に頬を押しつけて起きようとしない。「はるかちゃん、朝だよ」と、優しく声をかけながら抱き上げる。小さな身体から、甘いミルクのような匂いがした。それだけで、少しだけ気持ちが落ち着く。はるかがもう少し小さかったころは、夜中に突然泣き出すことも多かった。鼻血が止まらなくなる夜もあった。頑固な性格で、顔を拭かせてくれないこともあるから、朝になって、乾いた血が頬に残っていたこともあった。あの頃は、本当に眠る暇もなかった。ぼんやりと目を開けたはるかが、口を尖らせて言う。「パパが送ってもらう。約束してたもん」綾音は一瞬だけ言葉に詰まった。尚弥は通園の車の中で、いつも短いお話をひとつ聞かせてくれる。それが、はるかの楽しみだった。「今日はね、パパはお客さんのところにいて、帰ってこれないの。ママが送っていってもいい?」はるかは少しだけ寂しそうな顔をすると、すぐにキッズスマートウォッチを操作し、尚弥へ発信する。「もしもし、はるかちゃん?」すぐに、尚弥の穏やかな声が返ってきた。「パパ、幼稚園まで送ってくれない?」尚弥は少しだけ間を置いて、やわらかく言った。「今日は難しいけど……午後は迎えに行くよ。それでいいか?」「じゃあ……新しいおもちゃを買ってきて!」尚弥が笑う気配がした。「わかった。約束する」綾音はその様子を、ベッドのそばで静かに見守っていた。そのとき――通話の向こう側で、小さな咳が聞こえた。続いて、かすれた女の声。「尚弥……ちょっと具合が……」薫だった。次の瞬間、通話は切れた。綾音は手にしていたはるかの服を、ほんの少し強く握った。着替えを終えたはるかは、車に乗るとすぐまた眠ってしまった。幼稚園に着くころには目を覚まし、先生の姿を見つけると、元気に手を振った。車を降りる直前、振り返って言う。「ママ、今日ね、パパが迎えに来てくれるって」綾音は微笑んで、うなずいた。そのまま綾音は勤務先のクリニックへ向かった。週に二日、月曜と金曜は外来診療の日だ。それ以外の多くの時