ログイン世界は地球温暖化に怯えていた。だが六月、東京に雪が降り、アメリカやヨーロッパ、中国の穀倉地帯まで異常低温に襲われる。各国が穀物輸出を制限し、スーパーから米や野菜が消え、物流と治安は少しずつ崩れ始めた。設備保全技術者の神崎冬真は、母と妹を守るため都市を離れる決断をする。救急看護師の美月や仲間たちと出会い、一人を救えば食料が減るという残酷な現実に直面しながら、冬真は家族だけでなく共同体そのものを背負っていく。これは、終わらない冷夏と大飢饉の中で、人類が何を捨て、何を守り、もう一度文明を築けるのかを問う終末サバイバル物語。
もっと見る六月三日の朝、神崎冬真は自宅マンションを出た瞬間、自分が季節を一か月か二か月ほど間違えたのではないかと思った。
玄関を出るまでは、テレビで何度も「季節外れの冷え込み」という言葉を聞いていた。それでも六月は六月だし、いくら冷えたところで薄手の上着があれば十分だろうと考えていたのだが、エントランスの自動ドアが開いた途端、頬を刺した空気は春先のものですらなかった。
「寒っ……なんだよ、これ」
思わず声が漏れた。
吐いた息が、白かった。
冬真はマンションの入口で足を止め、もう一度ゆっくり息を吐いてみた。やはり白い。風に流されながら、薄い霧のようになって消えていく。
六月である。
しかも東京都内だ。
これが北海道の山奥ならまだ分かるが、東京の住宅街で六月の朝に息が白くなるというのは、どう考えても普通ではなかった。
スマートフォンを取り出して気温を確認すると、画面には「現在気温 7℃」と表示されていた。
「七度って……冬じゃないか」
自分で言ってから、さすがに大げさかと思ったが、駅へ向かう人々の服装を見る限り、大げさとも言えなかった。
ダウンジャケットを着ている老人がいる。厚手のコートを羽織った会社員もいる。制服姿の高校生たちは、ブレザーの上からマフラーまで巻いていた。
駅前のコンビニでは、入口近くに急ごしらえの棚が置かれ、その上に使い捨てカイロが並べられていたが、残っているのはほんの数個だった。
「申し訳ありません、カイロはお一人様二個まででお願いします」
店員が言うと、レジに並んでいた中年男性が呆れたように笑った。
「六月にカイロを買う羽目になるとは思わなかったよ。地球温暖化って、いったい何だったんだろうね」
「本当ですよね。僕も昨日、冬物を押し入れから出しました」
店員も苦笑いしている。
誰も深刻そうではなかった。
寒いこと自体は確かに異常だが、まだ笑い話の範囲だった。
冬真も同じだった。
そのときはまだ、この寒さが人生を根こそぎ変えるとは考えていなかった。
電車はいつも通り混んでいた。
会社員たちはスマートフォンを眺め、高校生たちは眠そうな顔で吊り革につかまり、駅に着くたびに押し込まれる乗客へ小さな苛立ちを向けていた。
日常は正常だった。
少なくとも見た目には。
冬真が勤めているのは、物流倉庫や食品工場向けの設備を扱う中堅企業だった。
冷凍設備、搬送機器、非常用発電機、給排水設備などを設置し、保守点検まで請け負う会社で、冬真は現場の設備保全を担当している。
派手さはない。
人に自慢できるような仕事でもない。
しかし食品工場の冷凍庫が止まれば数千万円分の商品が駄目になるし、物流倉庫の搬送設備が止まれば翌日の配送に影響が出る。
壊れたものを直す。
壊れそうなものを先に見つける。
冬真は、そういう仕事が嫌いではなかった。
「おはようございます」
事務所へ入ると、同僚の柴田が振り返った。
「神崎さん、見ました? 今日、最低気温五度ですよ。俺、朝に暖房つけましたよ。六月ですよ? 電気代どうしてくれるんですかね」
「電力会社に言えよ」
「いやいや、地球に言いたいですよ。お前、話が違うだろって。子供の頃から散々、温暖化で暑くなる暑くなるって脅されてきたのに、何で俺は六月にヒートテック着て出勤してるんですか」
柴田は笑いながら、ワイシャツの襟元を引っ張って見せた。
冬真も苦笑した。
「今年だけじゃないか。去年の夏なんか四十度近かっただろ。反動みたいなもんじゃないのか」
「反動って、気温にそんな都合のいい機能あるんですか」
「知らん。俺は気象予報士じゃない」
「神崎さんって、何でも知ってそうな顔してるのに、肝心なところで普通ですよね」
「喧嘩売ってるのか」
「褒めてるんですよ。たぶん」
こんな会話をしているうちは、平和だった。
午前九時半、冬真は課長の高木から呼ばれた。
「神崎、ちょっと来い」
会議室へ入ると、高木のほかに海外事業部の社員が二人いた。壁の大型モニターにはアメリカ中西部の物流センターが映っていた。
現地担当者が英語で話し、それを通訳担当が日本語へ直していく。
「現地時間で昨日の夜から設備異常が続いています。冷蔵側ではなく、暖房側です。倉庫内部の温度低下が予想以上に大きく、結露と凍結が発生しています」
冬真は眉をひそめた。
「どこですか」
「アイオワです」
「六月ですよね」
「もちろん六月だ」
高木が腕を組んだまま答えた。
モニターが切り替わり、倉庫の外の映像になった。
白かった。
冬真は最初、画面のノイズかと思った。
だが違う。
雪だった。
駐車場に停められた大型トラックの屋根に、数センチほど雪が積もっている。
「これ、今日の映像ですか」
「三時間前だ」
高木の声から笑いが消えていた。
「現地では霜害も出てるらしい。倉庫の設備だけなら対応できるが、問題は周辺の農場だ。出荷予定が止まる可能性がある」
「トウモロコシですか」
「それだけじゃない。大豆、小麦、飼料用作物も影響が出てる。まだ被害の全容は分からん」
海外事業部の男が言った。
「ヨーロッパでも似た報告があります。フランス北部とドイツの一部で低温被害、中国東北部でも異常低温が続いているようです」
冬真はモニターを見たまま、黙っていた。
東京が寒いだけなら、珍しい異常気象で済む。
だが、北米もヨーロッパも中国も同時となれば、さすがに気持ちが悪い。
「世界中で同時に?」
高木が肩をすくめた。
「そういうことになるな。ただ、俺たちは気象学者じゃない。設備屋は設備屋の仕事をする。先方はヒーター増設を希望してるから、既存設備でどこまで対応できるか見てくれ」
「分かりました」
冬真は席に戻ると、昼まで図面と格闘した。
倉庫の断熱性能。
暖房能力。
配管。
電源容量。
非常用発電機。
こういう具体的な問題に向き合っている間は、余計なことを考えずに済む。
昼休みになると、柴田がコンビニ弁当を持って隣へ座った。
「アメリカ、雪らしいですね」
「知ってるのか」
「ニュース速報で出てますよ。六月としては記録的な寒波だとか」
「記録的って言葉も安売りされすぎて、最近よく分からないな」
「それはありますね。記録的猛暑、記録的大雨、記録的大雪。毎年何かしら記録更新してますもん」
向かいに座った事務の佐倉が口を挟んだ。
「でも、今年の夏は涼しいなら私は嬉しいけどな。去年なんて外を歩くだけで死ぬかと思いましたよ」
「佐倉さん、今朝七度ですよ」
「暑いよりはマシじゃない?」
「極端なんですよ。中間がないんですか、日本には」
柴田が言うと、佐倉は笑った。
「秋があるじゃない」
「秋、最近二週間くらいしかないですよ」
食堂のあちこちで同じような話が出ていた。
寒い。
異常だ。
でも、まあ来週には戻るだろう。
そんな雰囲気だった。
冬真自身も、心のどこかでは同じように考えていた。
気象は変わる。
明日暖かくなるかもしれない。
来週には二十五度になるかもしれない。
ニュースはいつも大げさだ。
誰もが、日常は明日も続くと信じている。
そう信じなければ、朝から満員電車になど乗っていられない。
午後三時過ぎ、母親から電話がかかってきた。
仕事中だったので一度切り、休憩時間にこちらからかけ直した。
「もしもし。何?」
『何って、あんた、電話くらい普通に出られないのかい』
「仕事中だったんだから仕方ないだろ。用件は?」
『相変わらず愛想がないねえ。まあいいよ。今度の日曜、時間ある?』
「何で」
『畑の支柱、一本折れちゃったの。あんた工具持ってるでしょ』
「ホームセンター行けば売ってるだろ」
『六十一の母親に長い支柱を担いで帰ってこいっていうの? 親孝行の息子が車で運んでくれると助かるんだけどねえ』
「都合よく親孝行扱いするなよ」
『都合悪いときだけ息子をやめるのもやめなさい』
冬真は頭を掻いた。
昔から母親には勝てない。
「分かった。日曜行くよ」
『そう。ついでに陽菜にも連絡してあげなさい』
「何で」
『あの子、最近仕事忙しいみたいだから』
「俺も忙しいよ」
『妹より忙しいって張り合ってどうするの。三十二にもなって』
「張り合ってない」
『じゃあ電話くらいしてやりなさい。兄妹なんてね、親が死んだら嫌でも二人だけになるんだから』
「縁起でもないこと言うなよ」
『縁起じゃなくて順番の話だよ。じゃあ日曜、昼ご飯作って待ってるから』
「分かったよ」
電話が切れた。
冬真はスマートフォンを見つめながら、小さく息を吐いた。
陽菜とは、もう半年以上まともに話していない。
仲が悪いわけではない。
喧嘩をしたわけでもない。
ただ、互いに仕事が忙しく、生活時間も違い、用事がないから連絡しない。
家族とは、そういうものだと思っていた。
いつでも連絡できる。
いつでも会える。
だから今日でなくてもいい。
その考えが、どれほど贅沢なものだったかを知るのは、もう少し先のことだった。
午後六時。
会社を出ると、朝よりさらに冷えていた。
街角の大型ビジョンでは天気予報が流れている。
『明日の東京都心の予想最高気温は十一度。六月としては極めて異例の低温となる見込みです』
通行人の男が足を止めた。
「十一度? 勘弁してくれよ」
隣の女性が笑う。
「週末には戻るって言ってるから大丈夫でしょ」
「本当かよ。服全部クリーニング出しちゃったよ」
冬真は駅へ向かいながら、ニュースアプリを開いた。
記事がいくつも並んでいる。
欧州で異常低温。
中国北部で霜害。
カナダの一部地域で降雪。
日本各地でも記録的低温。
そして、一番上に緊急速報が表示された。
『米国中西部、六月として観測史上初となる広範囲の降雪。主要農業州で作物への被害懸念』
冬真は足を止めた。
記事の写真には、真っ白になった農地が写っていた。
畑の向こうまで雪が積もっている。
六月のトウモロコシ畑だという説明がなければ、真冬の写真にしか見えない。
冬真は数秒、画面を眺めていた。
「……変だな」
初めて、その言葉を口にした。
寒い、ではない。
異常、でもない。
変だ。
世界のどこかで、何かが噛み合わなくなっている。
ただ、その正体までは分からなかった。
駅へ入る直前、細かなものが頬に当たった。
雨かと思い、空を見上げる。
白い粒だった。
雪ではない。
霰に近い。
六月の東京で。
冬真の周囲でも、何人かが立ち止まって空を見上げていた。
「うわ、マジかよ」
「写真撮ろう」
「SNS上げたら伸びそう」
若い男女が笑っている。
冬真も、つられて少しだけ笑った。
そのときはまだ、笑えた。
その夜、世界各地の穀倉地帯で何が起きているのかも知らずに。
テレビでは相変わらず、
『一時的な寒気です』
と専門家が説明していた。
そしてニュース番組の最後に、気象予報士がいつもの調子で笑った。
「来週には気温が平年並みに戻る見込みですので、皆さん体調管理には十分お気をつけください」
冬真はその言葉を信じた。
日本中が信じた。
世界中が、似たような言葉を信じていた。
来週には戻る。
来月には戻る。
今年だけだ。
誰もがそう思っていた。
けれど、その年、日本に夏は来なかった。
第13話 三か月後、食べ物がなくなる 七月五日の朝、神崎冬真は電車の中で、一枚の給食写真を見ていた。 SNSで急速に拡散されている、小学校の給食を撮影した写真だった。 白いご飯が小さな茶碗に半分ほど。 具の少ない味噌汁。 煮豆。 漬物。 それだけだった。 投稿者の説明によれば、以前は魚や肉のおかず、牛乳、デザートまでついていたという。食材調達が難しくなったため、一時的に献立を変更したらしい。 写真の真偽を冬真が確認できるわけではない。 だが、似たような報告は一件ではなかった。 別の学校では牛乳が週二回に減った。 別の自治体ではパン給食を中止し、備蓄米を使用した米飯へ切り替えた。 肉類の使用回数を減らした自治体もある。 卵を使用する献立が消えたという書き込みもあった。「子供から先に減らすわけじゃないんだろうけどな……」 冬真はスマートフォンを閉じた。 自治体だって、好きで給食を減らしているわけではない。 決められた予算がある。 その中で食材価格だけが二倍、三倍になれば、今までと同じ献立を維持できるはずがない。 それでも、子供の皿が小さくなる写真は、大人向けの商品が値上がりするニュースよりずっと胸に刺さった。 向かいの席には、小学生くらいの男の子と母親が座っていた。「今日も給食、少ないかな」 男の子が言う。 母親はスマートフォンを見ながら答えた。「どうだろうね。でも朝ちゃんと食べたでしょう」「お昼までお腹すくよ」「帰ってきたら何か作るから」「唐揚げがいい」
第12話 肉が高級品になった日 七月四日の朝、神崎冬真は冷蔵庫を開けたまま、しばらく豚肉のパックを見つめていた。 昨日買ったばかりの切り落とし肉だった。特売でも高級品でもない、ごく普通の国産豚肉である。それなのに値札には、以前なら少し良い焼き肉用の肉でも買えそうな金額が印字されていた。「百グラム三百八十九円……」 記憶違いでなければ、数週間前までは二百円前後だったはずだ。 牛肉なら分からなくもない。 だが豚肉までこの値段なのか。 冷蔵庫の奥にある卵にも目を向ける。 十個入りで八百円近くした。高すぎると思いながらも、最後の一パックだったので買ってしまったものだ。 牛乳も一本三百円を超えている。 食パンも高い。 冷凍食品も高い。 今までは野菜だけだった。 その次に米。 そして小麦粉。 気づけば、食卓のほとんど全てが値上がりしている。 冬真は豚肉を冷蔵庫へ戻した。「朝から肉食うの、もったいないな」 口に出した瞬間、自分で嫌になった。 以前なら、肉を一食分使うのに「もったいない」などと考えなかった。 食べるために買ったものなのだから、食べればいい。 それが当たり前だった。 だが今は、その一パックを今日使ってしまったら、次に同じ値段で買えるか分からない。 もっと高くなるかもしれない。 そもそも売っていないかもしれない。 そう考えてしまう。 結局、朝食は米と味噌汁、梅干しだけにした。 母親から持たされた梅干しを一つ箸で割りながら、冬真はテレビをつけた。 朝のニュースでは、畜産
第11話 備蓄米が来た日 七月三日の朝、神崎冬真が目を覚まして最初に確認したのは天気ではなく、政府の備蓄米放出に関するニュースだった。 数日前までなら、起床後に見るものといえば時刻と電車の運行情報くらいだった。ところが今では気温、降雪、道路状況、食料価格、燃料供給、穀物輸出規制まで確認してからでなければ、一日を始める気になれない。 習慣というものは恐ろしい。 世界が変われば、人間の「普通」も驚くほど早く変わる。 テレビでは朝六時台から、政府備蓄米を積んだ大型トラックが倉庫から出発する映像を繰り返し流していた。『政府は本日より、第一弾としておよそ二十万トンの備蓄米を市場へ放出します。大手卸売業者を通じ、順次全国の小売店へ供給される予定です』 画面の中では、巨大な倉庫からパレット単位で積み出される米袋が映っている。 冬真はコーヒーを飲みながら、その光景を見ていた。「二十万トンって、多いのか少ないのか分からないな」 数字が大きすぎる。 一人暮らしの人間にとって米五キロなら感覚で分かる。 十キロなら一か月以上持つ。 だが二十万トンと言われても、それが日本全体で何日分なのか、冬真には実感できなかった。 番組には食料経済の専門家が出演していた。『今回の放出量だけを見れば、直ちに米が尽きるような状況ではありません。むしろ重要なのは流通です。備蓄米は国が保管しているだけでは消費者の食卓に届きません。精米、袋詰め、輸送、小売店への配送という工程が必要です』 司会者が質問する。『つまり、備蓄が十分あってもスーパーでは品切れが続く場合がある?』『当然あります。現在は道路状況の悪化や燃料問題によって物流能力そのものが低下しています。食料の量だけではなく、それを動かす能力も考えなくてはいけません』 冬真はコーヒーカップを置いた。
第10話 政府緊急会見 七月二日の朝、東京の雪はまだ完全には消えていなかった。 大通りでは除雪車が走り、駅前には踏み固められた雪が黒く汚れて残っている。道路の中央こそ車が通れる程度には回復していたが、歩道には凍結した箇所が多く、転倒して救急搬送される人が相次いでいると朝のニュースが伝えていた。 神崎冬真は窓辺に立ち、昨夜より少し薄くなった雪景色を眺めながらコーヒーを飲んでいた。 テレビでは、午前九時から政府が緊急記者会見を開くと繰り返し告知している。『政府は昨日から関係省庁による対策会議を続けており、食料供給、電力、燃料、交通網、農業被害などについて総合的な対応方針を発表する予定です』 冬真はカップを置いた。 午前九時。 いつもなら会社にいる時間だ。 だが今日は、高木課長から「午前中は自宅待機」と連絡が来ていた。鉄道は一部復旧したものの、運行本数が少なく、会社側も現場対応要員以外の出勤を抑えている。 昨日まで「通常勤務」を維持しようとしていた会社が、一日で方針を変えた。 それだけでも事態の深刻さが伝わってきた。 スマートフォンが震える。 柴田から社内チャットだった。『神崎さん、生きてます?』『生きてる』『うち子供大喜びです。庭で雪だるま作ってます』『元気だな』『嫁は泣きそうな顔してますけどね』 冬真は少し眉をひそめた。『何かあった?』『スーパー昨日から閉まってるんですよ。道路凍って配送来てないみたいで』『食料あるのか』『今のところは。親父が送ってきた米十五キロが神に見えます』『大事に食え』『そうします』 少しして、柴田からもう一通来た。