LOGIN「小春様は、ご自分では気づいておられませんが……もう立派に、この屋敷のまとめ役になっておられますね」その夜。橘は使用人の休憩室で、昼間に呟いた言葉を繰り返した。そして、橘の言葉に、その場にいた使用人たちは一斉に頷いた。「本当にそうですよね」「小春様が来られてから、屋敷の雰囲気まで明るくなりました」「樹様のお顔がまたお優しくて」「樹様の雰囲気も、余裕が出たというか、葉様と親子にだな、と」樹が聞いたら眉を顰めそうな会話が一段落すると、一人の料理人がぽつりと呟いた。「……ところで、樹様と小春様って、進展してるんですかね」その一言で、休憩室が妙に静かになる。「……してないわね」橘がため息をついた。「まったく進展してません」橘のため息が使用人に伝染する。「樹様、あんなに好意を分かりやすく示していらっしゃるのに」「小春様は全然気づいておられませんし」「いいえ、あれは気づいていないというよりも、好意と厚意を間違えていらっしゃるというか」「まさかの、いい人と思われるパターン」「まさしく『まさか』ですよね」そこで、紅茶を飲んでいた渚が苦笑しながら口を開いた。「私も頑張るつもりだったのよ?」使用人たちの視線が一斉に集まる。「それなのに、樹ったら『余計なことはしないでくれ』って釘を刺すんだもの」渚は膨れたが。「社長らしいですね……」巻き込まれる形で同席していた柳沢が苦笑する。柳沢から見て、樹の両親である葉と渚は恋愛体質である。そして、小春に接する樹を見れば、意外ではあるものの、樹も恋愛体質だと分かる。だが、愛情表現の仕方はまるで違う。パーティーを開いて告白する舞台を整えるような両親に『何もするな』とい
この屋敷は、もう自分が守られるだけの場所ではない。翌朝、小春はリビングへ向かう。「渚さん、おはようございます」「おはよう、小春ちゃん」渚は飲んでいた紅茶のカップを置き、嬉しそうに微笑んだ。「ごめんなさいね。突然、お話相手と言われても困ってしまうわよね」「いえ、そんなことはありません」渚としてはこの時間が楽しみで仕方がなかったが、無理を言ったのではないかとも思っていたから。だから先手を打つように、小春に「そんなことはない」と言わせるようにしたのだが。「もしかして、私から聞きたい話があるのかしら?」社交辞令よりも熱意のある小春の言葉に、渚は首を傾げた。小春が渚から聞きないことなど、限りがある。樹のことかと思いつつ、そうならば小春の口から言わせたいと渚は思っていた。「……あの……樹さんの子どもの頃の話を……ご迷惑でなければ、ぜひ聞きたいです」そこで、二人の傍で新聞を読んでいた葉が顔を上げる。「渚、待った」「え?」葉の制止に、渚が不思議そうに首を傾げる。「黒歴史は黙っていたほうがいいんじゃないか?」「また、あなたは……そんなことを言って」渚はくすくす笑う。「樹は昔から優しい子だったわよ」「……母さん」いつの間にかリビングへ入ってきた樹が苦笑する。「小春に余計なことを言わないでくれよ」「あら、照れてるわ」その何気ない家族のやり取りに、小春も思わず笑みをこぼした。そんな小春に渚は優しく微笑み、夫と息子をリビングの外に追い出した。「邪魔しないで頂戴ね」葉は渚のお願いに断れない。そして樹は。「小春ちゃん、たくさんお話しましょうね」「はい」小春が楽しそうにしているのが一番なので、樹は肩を竦めて書斎に向かった。◇◇◇「小春様」昼前になると、柳沢が小春の部屋に来た。小春は参考書から顔を上げる。「そろそろ休憩の時間と聞いているのですが」「すぐ終わらせますね」待つという柳沢の言葉に甘え、きりのいいところで小春はシャープペンシルを置く。小春は時計を見る。樹と小春は、互いに二時間に一度は休憩を取ろうということになっていた。そして、休憩は一緒に、と。小春は柳沢についていく形で樹の書斎に向かう。書斎の扉が見えたところで、柳沢が先を小春に譲る。小春は書斎の扉の前に立ち、軽く深呼吸をしてから、扉を軽く叩く。「
朝比奈総合病院では理事会終了の翌日から慌ただしい空気が流れていた。「院長代行が就任するまで、決裁はこちらへ」「各部署の資料をまとめてください」突然の体制変更に戸惑いながらも、職員たちの表情はどこか明るかった。「ようやく前を向けそうですね」若い看護師の呟きに、ベテラン看護師も静かに頷く。「これで終わりじゃないわよ」「ええ。でも始まりになりました」そこへ悠真が姿を見せた。「皆さん、お疲れさまです」以前と変わらぬ挨拶だったが、職員たちの返事はこれまでより柔らかかった。「門倉先生」「理事会、お疲れさまでした」悠真は小さく頭を下げる。「これからは病院を立て直すために力を尽くします、よろしくお願いします」理事会で院長代理に認められた。それが分かる挨拶だった。「一緒に頑張りましょうね」ベテラン看護師が穏やかに微笑む。「ええ、頑張りましょう」悠真は静かに頷いた。何を頑張るか。それは――小春に、もう一度戻りたいと思える病院になることだった。◇◇◇篠原家では、柳沢が病院の報告を樹へ伝えていた。「院内は混乱するどころか、以前より落ち着いているそうです」「そうか」「職員の皆さんも、自分たちで病院をよくしようという意識が強くなっています」樹は静かに資料を閉じた。「ようやく本来の姿に戻り始めたな」「はい……社長」柳沢は少し間を置いて続ける。「小春様へは、いつお話しされますか」樹は窓の外へ視線を向けた。「第三者委員会が正式に発足し、病院の体制が固まってから話す。過去の話など、小春は興味がないだろうからな」「確かに、そうですね」小春は過去へ戻るためではなく、未来へ進むために病院と向き合ってほしい。
「この中には、院長による職員への継続的な暴言と暴行、取引業者との不適切な金銭授受、架空請求を疑わせる会計資料、その他、刑事事件として捜査機関へ提出すべき記録が保存されています」秘書の言葉に、会議室は凍り付いた。「ばかな……」事務長が青ざめる。「根拠はあるのか」理事の一人が厳しい声で問う。「ございます」秘書は落ち着いて頷いた。「USBには録音データ、メール、決裁書類の写し、防犯カメラの保存映像、私が保管していた業務日誌を収録しております」秘書は崇道を見た。「録音には院長ご本人の音声も含まれています」崇道が机を強く叩いた。「捏造だ!」「警察による鑑定を受けても構いません」秘書は一歩も引かなかった。「データの作成日時も残っております。改ざんの有無はすぐ判明します」崇道は言葉を失う。「私は院長秘書として、この病院を守ることが仕事でした」秘書は静かに続けた。「だから長年、こうして証拠を持ちながら、これらを出すことができませんでした。病院そのものまで失いたくなかったからです」理事たちは互いに顔を見合わせる。その表情からは、すでに崇道への信頼が消え始めていた。「皆川さん」年長の理事が口を開く。「この件は病院だけで判断できる範囲を超えていますな」「そうですね」皆川は静かに頷いた。警察の介入。親友の遺した病院が受ける社会的ダメージを考えると、心の弱い部分がくじけそうになるが、皆川は強く目を瞑り、しっかり受け止めた。「刑事事件の疑いがある以上、第三者による調査が必要でしょう」崇道は勢いよく立ち上がる。「待ってください! 私は病院のために――」「……病院のため?」皆川が初めて厳しい口調になった。
――病院経営を実際に支えていたのは、院長の仕事を代理で行っていた朝比奈小春さんです。秘書の言葉に、会議室は水を打ったように静まり返った。「何を言っているんだ」崇道が低い声で制する。「事実です」秘書は一歩前へ出た。「私は10年以上、院長秘書として朝比奈先生のそばにおりました。だからこそ申し上げます」秘書はまっすぐ前を見る。「病院経営の実務を担っていたのは、朝比奈小春さんでした」理事たちの視線が一斉に秘書へ集まると、皆川が一つ咳払いをした。「具体的に説明してください」皆川が静かに促す。「はい」秘書は頷いた。「小春さんは、院長代理として業務を行っていました」事務長が眉をひそめる。「院長代理なんて職は……」「正式な肩書ではありません。しかし、小春さんのなさっていたことに役名を与えるならば『代理』です」「確かに、朝比奈小春さんは院長の仕事を手伝ったかもしれないが……」「補佐ではありません」秘書は淡々と続ける。「各診療科との調整、医療機器導入の事前調査、行政への提出書類の確認、地域医療機関との連携、職員配置の調整、患者相談への対応」秘書は崇道に視線を移す。「その多くを院長にやっておくようにと言われ、小春さんが私と相談しながら進めていました」「そんな馬鹿な……」理事の一人が思わず声を漏らす。「朝比奈先生のサインは……」秘書は静かに崇道を見る。「決裁に書かれたサインは院長のものですが、小春さんが書いた資料に目を通すことなく、そのままサインをなさっていました」判断材料をまとめるのも小春。そしてその判断も、担当部署の医師たちと話した小春がほぼ出していた。「朝比奈院長は何を&helli
「これは……」理事たちは、映し出された資料を見ていた。互いに顔を見合わせ、頷き合う者もいる。もはや誰も崇道が用意した資料など見ていない。もともと読みにくくて、見づらかった資料だ。誰も彼も、それを机の上に置くのは早かった。「これは……一職員の声と軽視することはできませんな」「こちらも、いま一度内容を確認すべきでは……」「退職理由が、朝比奈小春さんの退職ですか」「こちらも同じですね」「朝比奈小春さんがいなくなって、誰にも仕事の相談ができなすなった、と……」小春の名前が彼らの口に上がり始めたときだった。「少々、お待ちください」一人の男が立ち上がる。事務長だった。「発言をお許しいただけますか」崇道は小さく頷く。「ありがとうございます」事務長は崇道に頭を下げたあと、理事たちへ一礼した。「皆様のお気持ちは理解できます。しかし、少々感情論へ流されておられるように思います」会議室が静まる。「朝比奈小春さんは、確かに優秀な職員でした」皆川は黙って聞いている。「ですが、一職員に過ぎません」「……」「医療従事者は使命感の強い職業です。残業が続く者もおりますし、患者へ親身に寄り添う職員も珍しくありません」誰も何も言わないことで、自身を得た事務長の声が大きくなる。「心理的な支えとなり、患者の不安を和らげる看護師や職員もおります。それは特別なことではないのです」理事たちが小さく頷き始めた。「さらに申しますと、職場での人間関係の問題や陰口、行き違いは、残念ながらどこの組織にも起こり得ます」事務長は一度言葉を切る。「それだけで病院経営を揺るがすべきではありません」







