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第229話

Autor: 手足あせだく
だが、和真は致命的に勘違いをしている。

凛にとって、彼が家に帰ってこないことほど好都合な状況はなかったのだ。

沙耶から頼まれた任務をこなすには、主人が不在の方が圧倒的に動きやすい。凛は家事を手伝うフリをしながら、隙を見ては邸宅の中をくまなく探索していた。他の使用人たちは、凛がかつて高城家のお嬢様だったという先入観もあり、「どうせまた主人に縋り付きに来た哀れな女だろう」と高を括り、次第に警戒を緩めていった。

――ただ一人、古株の家政婦である佐藤さんだけは別だった。

彼女だけは常に冷ややかな目で、凛の一挙一動を監視していた。

ある日の午後。

凛は使用人の隙を突き、掃除道具を取りに行くという口実で、こっそりと納戸へ忍び込んだ。薄暗い室内を素早く見渡すと、棚の隅に置かれた四角い木箱に目を留める。鍵すらかかっていない、ごくありふれた簡素な箱だ。

周囲に誰もいないことを確認し、そっと蓋を開ける。

――中には、分厚い紙の束。大量のスケッチ画がぎっしりと詰まっていた!

これだわ!沙耶さんが言っていた、実花の盗作の証拠……!絵の専門的なことなど、凛にはさっぱり分からない。

ただ、これ
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  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第304話

    それから数時間後、実花を乗せた飛行機がようやく着陸した。彼女は不思議そうにスマホの画面を点灯させたが、新着メッセージは一件も届いていなかった。自分の予想では、妊娠を知った湊から今頃鬼のように連絡が殺到しているはずなのに、スマホは拍子抜けするほど静まり返っている。まさか、まだ荷物が届いていないのだろうか?首を傾げながら配送アプリを確認してみたが、画面にはしっかりと「配達完了」の文字が表示されていた。きっと忙しくて、まだ包みを開けていないのだろう。まさかこの時、湊がすぐ次の便のファーストクラスに乗り込み、直接自分を追いかけてきているなどとは、実花は夢にも思っていなかった。朝から晩までの長いフライトを終え、空港に降り立った頃には、外はすっかり夜の帳が下りていた。到着ロビーを出ると、そこには早くから鈴木が待機していた。小さなキャリーケースを引き、背中にリュックを背負った実花の姿を見つけるなり、彼は慌てたように駆け寄ってきた。そして、まるで壊れ物でも扱うかのように極めて慎重な手つきで、実花の手から荷物をすべて受け取ったのだ。さらには、すっと保温ボトルまで差し出してきた。「実花さん、長旅でお疲れでしょう。まずは温かいお白湯をどうぞ」鈴木は普段からよく気がつく男だが、あくまで運転手であって世話係ではない。ここまで至れり尽くせりな態度を取られ、実花は思わず目を丸くした。もっとも、前回の拉致事件があったせいで、彼なりにいつも以上に神経を尖らせているだけだろうと納得することにしたのだが。実際のところ、鈴木は少し前に湊から直接電話を受け、「実花が妊娠した。絶対に粗相のないよう、細心の注意を払って徹底的にサポートしろ」と厳命されていたのだ。自分の不注意で実花を危険な目に遭わせてしまった前回の失態がある。今回の任務は、まさに汚名返上の絶好のチャンスだった。だからこそ、こうして全力で気を配っていたのである。ただ、妊娠のお祝いを口にすることだけは控えていた。ボスである湊から「お祝いは俺が直接会って伝える」と釘を刺されていたからだ。黒田邸へ戻ると、リビングでは征二郎がくつろいでいた。「実花、ここ数日はどこへ行っていたんだね?」征二郎は普段、実花の行動に細かく口を出すことはない。だが、さすがに何日も姿が見えなかったた

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    それに、あの二人は言っていた――母親はお前を捨てたのだと。おそらく、一生本当の親を見つけることはないだろう。でも、それがどうしたというのか。そんなとりとめのない記憶を頭から振り払うように、凛は深く息を吸い込んだ。もう一度そっと下腹部を撫でると、その瞳に冷酷で強い光を宿す。欲しいものがあるなら、誰からでも奪い取ればいいのだ。その時、スマホのバイブレーションが思考を遮った。沙耶からのメッセージだ。【凛、あなた冴島夜行の連絡先を持ってる?教えてちょうだい】冴島夜行。あのイカれた男のことを思い出しただけで、凛は背筋が凍るような悪寒を覚えた。【あの人に何か用なの?】【この前のパーティーで、彼が落とし物をしたみたいなの。送ってあげようと思って】妙な話だとは思ったが、深く詮索する気にはなれなかった。できることなら、夜行とは一生関わり合いになりたくない。【ごめんなさい、沙耶さん。私、あの人の連絡先は持ってないわ】【でもこの前、一緒に会場へ来ていたじゃない】【途中でたまたま鉢合わせただけよ。親しくなんかないわ】沙耶はそれ以上追及しなかった。スマホを置き、頭を抱える。凛の線がダメとなると、もう八方塞がりだ。妊娠のことなど、怖くて誰にも相談できない。普段は友人として多くの令嬢たちが周りに群がっているが、彼女たちがちやほやしてくるのは自分が黒田家のお嬢様だからに過ぎないことくらい、沙耶もよく分かっていた。もし未婚のまま妊娠し、おまけに相手の男すら分からないなんて知られたら、格好の笑い者にされるに決まっている。どうしようもなくなった彼女は、最後の頼みの綱として母の芳江に電話をかけた。「お母様……」通話が繋がった瞬間、こらえていた涙がじわりと滲み、そこから先の言葉が詰まって出てこなくなる。「沙耶、どうしたの?」電話口から、芳江の穏やかで優しい声が響いた。芳江はこの娘に心血を注いで育て上げてきた。沙耶もその期待に見事に応え、幼い頃から常に一番であり続け、自分の意見をしっかり持った才女に育った。だからこそ、芳江にとって沙耶は自慢の娘であり、目に入れても痛くないほど溺愛していて、少しの苦労もさせたくなかったのだ。もはや一人で抱えきれなくなった沙耶は、涙声になりながらかいつまんで事情を打ち明けた。「お母様、

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    深く息を吸い込み、冷たい水をグラス一杯あおって、ようやく少しだけ頭が冷えた。震える指でスマホを操作し、裏のアカウントに切り替えてメッセージを打ち込む。【前回頼んだ件、抜かりはないわよね?】相手はプロの業者なのだろう、返信はすぐに飛んできた。【どの件だ?】沙耶が彼らに依頼した仕事など、数え切れないほどあった。【ホテルと、チンピラよ】あえて詳細を言葉にする必要はない。それは、沙耶が男を使い、ホテルで実花に薬を盛らせてチンピラに襲わせた一件のことだ。今度は少し返信が遅れた。おそらく過去の記録を確認しているのだろう。数分後、ようやく画面が光った。【あぁ、向こうが言ってたぜ。一晩中たっぷり味わえて、女のイキっぷりも最高だったってよ。後からネットで顔写真を確認したが、黒田のところのお嬢ちゃんで間違いねぇってさ】【他の奴に嗅ぎ回られたりしてないでしょうね?】【絶対にねぇよ】そのメッセージを見て、沙耶はわずかに胸をなで下ろした。もっとも、そのチンピラが湊や夜行の底知れぬ狂気におびえ、恐怖で口を割れなくなっていることなど、彼女は知る由もない。彼女が頼りにしていたのは、最初から最後まで自分の手が汚れておらず、間に仲介役を挟んでいるため、どんな捜査が入ろうとも自分に辿り着くはずがないという、歪んだ自負だけだった。――湊さんが言っていた「自分がしたこと」というのは、きっと別の何かのことだわ。そうやって必死に現実逃避でもしなければ、正気を保てなかった。なにせ、彼女が裏で仕出かした悪事など数え切れないのだから。湊の名前が脳裏をよぎるたび、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。長年密かに恋い焦がれてきた湊は、彼女にとって完璧な理想の男性だった。冷酷で、周囲の人間を氷のように冷たく突き放すその孤高な姿が、当時の彼女にはたまらなく気高く魅力的だったのに。いざその冷たい刃が自分に向けられてみると、こんなにも息が詰まるほど苦しいものだなんて思いもしなかった。だが、今は感傷に浸っている暇などない。湊が口にした「もう一人の男」の正体を、何としても突き止めなければならなかったのだ。まずはホテルに直接電話をかけ、防犯カメラの映像を開示するように要求した。しかし、ホテル側は顧客のプライバシー保護を理由に、冷淡に突っぱねた。

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第300話

    澄江のポケットの中には、数本の髪の毛が隠されていた。先日、実花の寝室を掃除した際に、枕元からこっそりと回収しておいたものだ。実花は、百合の娘ではない。――だが、私の娘である可能性はあるのだから。……一騒動起こした百合が不承不承といった様子で立ち去った後、湊は間髪入れず空港へと向かった。実花の搭乗した便から数時間遅れとなるフライトを、強引に押さえたのだ。搭乗ゲートをくぐる直前、湊は自ら鈴木の携帯へ電話をかけ、神経質なほど事細かに指示を飛ばした。「実花の到着は午後五時だ。お前は他の護衛も連れて、到着ロビーの出口で待機しろ。万全を期して一時間前には配置につけ。運転は絶対に慎重にしろ。何があろうと、あいつから一秒たりとも目を離すな」普段の冷酷無比な社長からは想像もつかないほどの饒舌ぶりに、鈴木は戸惑いを隠せず思わず聞き返した。「あの……社長。もしかして、実花さんにまた何か危険が?」「あいつは、妊娠している」「……えっ!?」電話の向こうで、鈴木が盛大にむせる音が聞こえた。通話を切った後も、湊の過保護な手配は止まらない。最高峰の専属シェフ、妊婦専門の管理栄養士、ベテランの家政婦、さらには追加のSP……これだけの人員を配置するとなれば、今実花が住んでいるマンションでは到底手狭だ。湊はすぐさま、海浜市に所有する自身の別荘を、妊婦にとって完璧な環境に改装するよう業者に命じた。……これでもう、実花を黒田の屋敷へ戻らせる理由もないな。あの沙耶のように底意地の悪い女がうろついている場所に、身重の実花を置いておくなど論外だった。実花が一緒に住んでくれるかどうか? ――これだけ全面的なサポートを約束してやったのだ、「その見返りとして俺の傍にいてくれ」と要求する権利くらいはあるだろう。湊の口元には、何をどうしても隠しきれない甘い笑みがこぼれ続けていた。機内へ搭乗する際、出迎えたCAに向かって機嫌よく微笑みかけ、優雅に会釈までしてみせた。その色気を孕んだ深い微笑みに、CAたちは一瞬呼吸を忘れて呆然と立ち尽くしてしまったほどだ。シートに深く腰を下ろし、湊は静かに目を閉じた。傍目にはいつもの冷徹な顔に戻ったように見えるが、その脳内はすでに、生まれてくる我が子の名付け会議で埋め尽くされていた。男の子なら「実(みのる)」にする

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第299話

    「……くっ、ふふ……っはははは!」むせ返りが収まった守三は、珍しく腹の底から愉快そうに大笑いした。そして、それからたっぷりと五分間、石像のように固まったまま歓喜を噛み締めていた湊が、ようやく口を開いた。「祖父さん。退院したばかりで申し訳ありませんが……俺が留守の間、篠宮の采配はお任せしても?」一秒たりともここに留まる気はないとばかりに、湊は踵を返そうとする。「ほう?どこへ行くつもりだ。ずいぶんと急ぎのようだが」守三が笑いを噛み殺しながらわざとらしく尋ねると、湊は振り返りもせずに答えた。「――妻を口説き落としに」「相手はまだ頷いてもおらんだろうに、気が早いことだ。どうせお前の独り相撲だろうよ」守三は容赦なく水を差したが、その目元は完全に下がりきっていた。孫嫁としてこれ以上ないほど面白い女が、曾孫まで連れてきてくれるのだ。早くあの憎たらしいほど賢い小娘が子供を産み落とす日が来ないかと、守三は早くも曾孫を抱き上げる自分の姿を夢想し始めていた。「さて、どう口説き落としたものか……」待ちに待った曾孫の気配にすっかり相好を崩した守三と、まだ見ぬ我が子への喜びに浸る湊。和やかな空気が流れ始めたダイニングルームへ、突如としてヒステリックな女の金切り声が乱入してきた。「湊!妹はどこへ行ったの!?まさか、どこかに隠したんじゃないでしょうね!」百合だった。血相を変えて乗り込んできた実の母親に、湊の瞳は一瞬にして絶対零度の氷点下へと冷え込んだ。「何度言えばわかる。俺と実花には血の繋がりなど一切ない」湊は吐き捨てるように言った。実花が自分の子供を身籠っていると知った今、百合の「妹だ」という狂言は、吐き気をもよおすほどおぞましいものに感じられた。そして同時に、猛烈な怒りが込み上げてくる。実花は、とっくに自分が妊娠していることに気づいていたのだ。それなのに、百合に「二人は異父兄妹だ」と喚き散らされたとき、実花の胸中はどれほどの恐怖と絶望、そして底知れぬ嫌悪感に苛まれたことだろうか。それを想像しただけで、湊は目の前の母親の首を絞め上げてやりたい衝動に駆られた。「嘘よ!あんたが検査結果を裏で手を回して改ざんしたに決まってるわ!私は信じない!あの子を他の病院へ連れて行って、何度でも再検査させるから!」「……

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第6話

    一見すると、妻を思いやる完璧な夫の台詞だ。だが、実花にはわかっていた。これは彼なりの、ちっぽけな罪悪感の清算に過ぎない。実花がいつものように「遠慮しておくわ」と物分かりよく断ることを、彼は最初から確信しているのだ。「ううん、せっかくだから行くわ」実花の返答に、和真は虚を突かれたように動きを止めた。「……え?今、なんて言った?」「行くと言ったの。体調ももう大丈夫だし、あなたの友人たちに挨拶しておくのもいいかと思って」実花は静かに微笑んだ。どうせ、彼らと顔を合わせる機会なんて、この先二度と訪れないのだから。翌日の夜。指定されたのは会員制のプライベートラウンジだった。開放的な

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第5話

    「まだ起きていらしたんですか?」心配そうに顔を覗かせた佐藤さんに、実花は何か答えようとしたが、喉が焼けるように痛んで声にならない。かろうじて短く息を漏らすのが精一杯だった。近寄ってきた佐藤さんが実花の額に手を触れ、息を呑んだ。「なんて熱……!ひどい熱ですよ」「少し、雨に降られたから……」実花は力なく微笑んだ。「薬は、もう飲んだわ」「そんな場合じゃありません!こんなに熱くては大変なことになります」佐藤さんは慌ててスマートフォンを取り出した。「和真様に連絡します。すぐに戻ってきていただかないと」一度目のコール。誰も出ない。二度目のコール。やはり応答はなかった。「もう

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第4話

    胸の奥がひどく重くなるのを感じ、実花は深く息を吸い込んだ。次に、和真のスケジュール管理ツールを開く。画面に並んでいたのは、目を疑うような記録の羅列だった。【凛:人間ドック】【凛:航空券・ホテル手配】【凛:誕生日】【凛:……】実花に関する記述を探そうと画面をスクロールし続け、ようやく最下部で見つけたのは、三年前に入籍した日の短いメモだけだった。実花は背もたれに身を預け、冷え切った指先を見つめた。感情を無理やり押し殺し、別のフォルダへと手を伸ばす。和真が最近購入した不動産、株式の取引履歴――専門的な数字の羅列は完全には理解できなかったが、構わなかった。見つけ

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第3話

    夜、七時半。瀬戸家の邸宅にあるキッチンは、温かな湯気に包まれていた。白身魚の蒸し物が湯を上げ、牛肉の煮込みが照りよく仕上がっていく。綺麗に切り揃えられた豆腐が、コンロの上の出汁のなかでことことと心地よい音を立てていた。そこへ、リビングのドアを開けて和真が帰ってきた。ダークカラーのチェスターコートに、仕立ての良いスーツ。首元のネクタイは少しだけ緩められている。夕食の準備をしている実花の姿を目にして、彼の鋭い目元がほんのわずかに和らいだ。実花はキッチンで手を動かしたままだ。帰宅の気配に気づいても、振り返りもせず、作業の手を止めることもしない。以前の彼女なら、和真が時

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