공유

第5話

작가: 手足あせだく
「まだ起きていらしたんですか?」

心配そうに顔を覗かせた佐藤さんに、実花は何か答えようとしたが、喉が焼けるように痛んで声にならない。かろうじて短く息を漏らすのが精一杯だった。

近寄ってきた佐藤さんが実花の額に手を触れ、息を呑んだ。「なんて熱……!ひどい熱ですよ」

「少し、雨に降られたから……」実花は力なく微笑んだ。「薬は、もう飲んだわ」

「そんな場合じゃありません!こんなに熱くては大変なことになります」

佐藤さんは慌ててスマートフォンを取り出した。「和真様に連絡します。すぐに戻ってきていただかないと」

一度目のコール。誰も出ない。

二度目のコール。やはり応答はなかった。

「もういいわ……」実花は重い体を無理やり引き起こした。「タクシーを呼んでくれる?」

「一人で、病院へ行くから」

「そんな無茶な!お一人で行かせるわけにはいきません」佐藤さんが血相を変える。「私もお供します」

「いいの」実花は首を振って、静かに笑った。「一人のほうが身軽で行きやすいから。佐藤さんはここで休んで。夜更かしは体に毒よ」

彼女はベッドの縁を支えにゆっくりと立ち上がると、コートを羽織り、乱れた髪を無造作に束ねた。そして踵の低い靴を履き、夜の闇へと足を踏み出した。

救急外来の建物は、真夜中であっても不夜城のように眩い光を放っている。深夜だというのに、ロビーは絶えず人が行き交っていた。

実花はマスクを深く着け、力の入らない足を引きずるようにして受付を済ませた。番号札を受け取ると、案内されるまま点滴室の待合スペースへと向かう。

周囲には、点滴台を傍らにうつらうつらとしている者や、廊下に置かれたストレッチャーの上で処置を待つ者たちの姿があった。

壁際の隅にある椅子に腰を下ろすと、周囲の喧騒が遠い世界の出来事のようにぼやけて聞こえる。

その時だった。一人の男が車椅子を押して、実花の前を通り過ぎた。車椅子に座っているのは、ゆったりとしたマキシ丈のワンピースを纏った女だ。

「高城さん、こちらです。産婦人科の方で枠を調整しましたから、まずはエコーで状態を見てみましょう」

看護師の明瞭な声が響く。

「お手数をおかけします」男の低く落ち着いた声が返った。

聞き間違えるはずのない声だった。

視線を向けると、そこには和真と凛の姿があった。

「和真くん、怖い……」震える声でそう漏らしながら、凛は愛おしそうに、そして守るように自分の腹部にそっと手を添えた。

実花の心臓が、どくんと大きく跳ねた。

「大丈夫だよ、心配ない。僕がずっとそばにいるから」和真が優しく、慈しむように囁く。

傍らで看護師が、和らげるように笑った。

「そんなに不安がらなくても大丈夫ですよ。お怪我もかすり傷程度ですし、胎児への影響もまずないでしょう。念のためにエコーで確認しておけば、安心ですからね」

胎児。

エコー検査。

実花は無意識に、爪が食い込むほど拳を握りしめた。その鋭い痛みが、遠のきかけていた意識をかろうじて現実に繋ぎ止める。

和真は車椅子を押し、ゆっくりと去っていった。腰を屈めて熱心に慰めの言葉をかけ続ける彼を、凛は信頼しきった瞳で見上げている。

実花は隅の椅子に座ったまま、静かにスマートフォンを取り出すと、その光景を写真に収めた。顔の大半を覆うマスクと、目元に落ちる前髪が彼女の表情を完璧に隠していた。

ただ、自分でもはっきりとわかるほど、指先だけが激しく震えていた。

「瀬戸さん?」

ふいに声をかけられ、実花はハッと我に返って顔を向けた。点滴室の若い看護師だった。「あなたの番ですよ」

実花は最後にもう一度だけ、廊下の奥へと視線を送った。

二人の姿はすでに角を曲がり、完全に消え去っていた。

彼女は何も言わず、看護師の後に続いて点滴室へ足を踏み入れた。点滴を終え、病院を出た頃にはすでに朝の六時を回っていた。空の端には、うっすらと白みかけた光が差し込んでいる。

今回の風邪は、ひどく急激で容赦がなかった。

冷たい雨に打たれたせいでもあるが、何より、父の死からずっと張り詰めていた糸がふとした瞬間に途切れたせいだろう。

点滴のおかげで随分と体は楽になっていた。実花は処方薬を受け取ると、とにかく家へ帰ることにした。

今はただ、泥のように眠りたかった。

だが、運命はそう簡単に彼女を見逃してはくれなかった。

病院の正面玄関には、見覚えのある黒のマイバッハが停まっていた。和真の車だ。

「凛、ゆっくりでいいから」彼特有の落ち着いた低音に、腫れ物に触れるような過保護さが混じっている。

実花が目をやると、二人は彼女から五メートルも離れていない場所にいた。和真が凛の体を大切そうに支えている。

実花は即座に背を向けた。何も見えなかったふりをしてやり過ごしたかった。ここまで深く帽子とマスクを被っていれば、まさか自分だとは気づかないはずだ。

しかし、足を踏み出そうとした瞬間、ふっと膝の力が抜け、そのままコンクリートの地面に激しく膝を打ち付けてしまった。「あっ……!」思わず、鋭い痛みに小さく声を漏らす。

その大きな物音は、当然のように二人の注意を引いた。

「実花……?」近づいてきた和真が、ようやくそれが自分の妻であることに気がついた。

「どうしてこんな所にいるんだ?」視線が交差する。和真は実花の擦りむけた膝に目をやったが、彼の手は凛を支えることで塞がっており、これ以上誰かに手を差し伸べる余裕などなかった。

実花はよろめきながらも、なんとか自力で立ち上がった。どうにか姿勢を保とうとするだけで、ほんの数秒の間に額に薄っすらと汗が滲む。

「ただの風邪よ。薬をもらいに来ただけ」

長い沈黙の後、和真は低く押し殺すような声で言った。「なぜ、僕に連絡しなかった?」

実花は目を伏せ、あくまで「従順な妻」として静かに答えた。「電話はしたわ。でも、繋がらなかったの」

和真の喉仏が上下に動いたが、言葉は返ってこなかった。

代わりに、凛が口を開いた。「実花さん、和真くんを責めないでくださいね。昨日、私、事故に遭っちゃって……彼、心配しすぎて……それで……」

「ええ、わかっているわ」実花は無機質なほどに淡々と返し、すぐさま身を翻した。

「実花、僕が送る」

「大したことないから。もう車も呼んであるし、すぐそこよ」実花は振り返らずに歩き出した。一歩踏み出すごとに膝口が焼け付くように痛んだが、決して足は止めなかった。

和真は妻の遠ざかる背中を見つめ、一秒だけ動きを止めた後――再び、隣の凛へと向き直った。

……

朝の六時過ぎにタクシーで自宅へ帰り着いた実花は、すりむいた膝を手当てする気力すらなく、ベッドへ倒れ込んだ。一晩中続いた高熱と極度の疲労のせいで、再び目が覚めた時にはすでに午後になっていた。

この日は週末で、 和真が珍しく午後の早い時間には帰宅した。

実花は重い体を引きずってちょうど救急箱を開け、膝の傷にガーゼを当てようとしているところだった。

「ずいぶん早いのね」

顔を上げた実花に、和真の視線が向けられる。「今日は大した用もなかったから、君の様子を見に戻ったんだ。膝の具合はどうだい?」

「大丈夫よ。薬を塗っておけば、そのうち治るわ」

「ならいい。君は昔から体が丈夫な方だしな」

「ええ」

和真はわずかに眉を寄せた。実花の反応が、あまりに静かすぎる。

その時、和真のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。

「和真くん……実花さんとちゃんと話してね。私のせいで喧嘩なんてしちゃダメだよ。誤解をちゃんと解いて……、ああっ!」

短い悲鳴。続いて、何かが激しくぶつかる鈍い音がスピーカー越しに伝わってきた。

「どうしたんだ!」和真の声に焦燥が混じる。

「ううん、なんでもないの……床が滑りやすくて、ちょっと転んじゃっただけ……っ、痛……」

「動くんじゃない!すぐに行くから」通話を切るなり、彼はひったくるように車のキーを掴んだ。「実花、悪いがしっかり休んでいてくれ。向こうの様子を見てくる」

実花は何も言わず、背を向けて階段を上り始めた。

足を引きずりながら遠ざかるその後ろ姿を見送る和真の胸に、かつてない正体不明の不快感がよぎった。

寝室に戻った実花は、洗面台で顔を洗い、改めて体温を測った。三十九度二分。

病院でもらった解熱剤を一錠飲み、ベッドに入ろうとした瞬間、スマートフォンの画面が明るくなった。

弁護士の薫からのメッセージだった。

【証拠はほぼ揃ったわ。資料を整理して、次の段階に入る準備をしましょう】

その一文は、どんな薬よりも劇的に実花の心へ活力を注ぎ込んだ。体の重みが、ほんの少しだけ和らいだ気がする。

あともう少し。

あともう少しで、すべてが終わる。

実花は荒い息を整えながら、ゆっくりとベッドの縁に腰を下ろした。

実花の風邪は、結局一週間ほど長引いてようやく快方に向かった。

アトリエの仕事もしばらく休みをもらっていた。

その日はリビングで花を生けながら、気分転換にウッディな香りのアロマを焚いていた。背後から、不意に和真が腕を回してくる。

「実花、君は本当に家庭的だね」耳元で囁く声はどこまでも優しい。

実花は反射的に身を避けてしまいそうになったが、かろうじて踏みとどまった。口角を上げ、不自然にならない程度の笑みを浮かべる。「あなたが喜んでくれるなら、それでいいわ」

「そうだ。明日の夜、友人たちとの集まりがあるんだ。みんな君に会いたがっている。一緒に行かないか」

結婚して三年の月日が流れるが、彼が友人たちに自分を紹介しようとしたことなど一度もなかった。今さら、心境の変化でもあったのだろうか。

実花はすぐには答えず、手元の花に目を落とした。

沈黙をどう受け取ったのか、和真が気遣わしげな口調で続ける。

「体調が万全じゃないなら無理しなくていい。僕から断っておくよ。君はもともと、こういう賑やかな場所は苦手だろう?」

이 작품을 무료로 읽으실 수 있습니다
QR 코드를 스캔하여 앱을 다운로드하세요

최신 챕터

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第100話

    実花はビクッと息を呑んだ。何が起きたのか理解する間もなく、暗闇の中から圧倒的な威圧感がのし掛かってきた。次の瞬間、彼女は熱を帯びた強い腕に引き寄せられ、冷たいドアボードに乱暴に押し付けられていた。そして、有無を言わさぬ暴力的なキスが降ってきた。相手の力が強すぎて、実花は身動き一つとれない。隙を突いて思い切り噛み付いてやろうと身構えた瞬間——ふと、あの冷たくて甘い、嗅ぎ覚えのある香りが鼻をかすめた。その刹那、実花の意識は白く飛び、全身からスッと力が抜けてしまった。彼女の抵抗が解けたのを察知したのか、男の喉の奥からくぐもった低い笑い声が漏れた。男はそれを合図にさらに深く踏み込み、貪るようにキスを深めてくる。彼の大きな掌が実花の後頭部をがっちりとホールドし、もう片方の手は彼女の頬から首筋、そしてドレスの滑らかな生地を伝って下へと滑り落ちた。そのまま細い腰を的確に捕らえると、自分の体へと強く押し付けてきた。「んっ……」酸素を奪われ、実花の顔はたちまち朱に染まる。足の力が抜け落ちていく彼女は、ただ必死に男のスーツのジャケットにしがみつくことしかできなかった。たっぷり十分ほどが過ぎ、男はようやく唇を離した。暗闇の中、彼は実花の赤く腫れた唇を親指でなぞりながら、ひどく掠れた声で囁いた。「あいつと別れろ」ようやく解放された実花は、乱れた呼吸を整えるように激しく肩を上下させた。あまりにも激しく責め立てられたせいで、彼女の目尻にはうっすらと赤い涙の滲みが浮かんでいる。暗がりでこんな強引な真似をしておきながら、先ほどはホールの外で沙耶と親しげに並んでいた彼の姿を思い出し、実花は冷ややかな顔で男の胸を押し返した。「どこのどなたか存じませんが、突然なんてふざけた要求をなさるのかしら。でも、さっきのキスがそこそこお上手だったことに免じて、今すぐ出て行ってくれるなら、犬に噛まれたと思って水に流してあげるわ」その挑戦的な言葉に、湊は呆れたように小さく吹き出した。彼は再び実花に覆い被さり、その熱い吐息を彼女の耳元に吹きかけた。「俺が誰か分からないなら、もう少し頑張るしかないな。ここで最後までヤッちまっても、お前は文句言わないんだよな。ん?」甘く跳ね上がった語尾に、実花の耳の奥が粟立つ。湊がこちらの挑発に乗らず、さらに危険な行動に出ようとしているのを

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第99話

    征二郎の傍らで優雅に微笑む沙耶を見つめながら、湊は探るように目を細めた。しかし、その鋭い視線は、周囲の人間にはまったく別の意味に受け取られていた。遠巻きに様子を窺っていた客たちの間で、ヒソヒソと囁き声が交わされる。「征二郎さんがわざわざ沙耶お嬢さんを連れてきたってことは、思惑は明らかだな。篠宮の奥方の座を狙ってるってことだろう」「沙耶お嬢さんは優秀だからな。黒田家の若い世代じゃ間違いなくトップだ。征二郎さんの期待も大きいんだろうよ」「しかし、二人並ぶと本当にお似合いですね。絵に描いたような美男美女だ。篠宮様のあの熱い視線を見ましたか?あれはもう、完全に両思いでしょう」「ああ、知ってたら私の姪も連れてきて運試しさせたのにな。万が一、篠宮様の目に止まれば御の字じゃないか」「よせよ、お前の姪が沙耶お嬢さんに敵うわけないだろ?」「敵わなくてもいいんだよ。姪には姪の良さがある。男なんて、女は何人いたって文句は言わないもんだ」次第に下劣さを増していく会話に、実花は酷く苛立ちを覚えた。これ以上聞いていられず、席を立とうとしたその時、和真が心配そうに彼女の肩を抱き寄せた。「どうした?気分でも悪いのか?」ずっと実花に密かな視線を送り続けていた湊は、和真の手が彼女の肩に触れた瞬間、猛烈な怒りに瞳孔を収縮させた。傍らに控えていた山崎は、主のまとう空気が嵐の前の静けさのように一変したのを察知し、瞬時に事態を飲み込んだ。彼はすぐさま完璧な営業スマイルを顔に貼り付けると、早足で和真のもとへ向かった。「瀬戸社長、お初にお目にかかります。私は当主の特命アシスタントを務めております、山崎と申します」突如としてトップの側近から声をかけられ、和真は恐縮した様子を見せた。「山崎さん、ご丁寧な挨拶を痛み入ります。篠宮様から何かご伝言でしょうか?」「ええ。先日、瀬戸社長が画家『Rose』の作品を所蔵されていると伺いまして。もしよろしければ、本日拝見する機会をいただけないかと思いましてね」「もちろんです!今日はチャリティー出品として、Roseの『蜉蝣(かげろう)』を持参しております」和真の顔に明らかな喜色が浮かんだ。「それは素晴らしい。よろしければ、少し場所を移して詳しいお話を聞かせていただけませんか?」山崎が巧みに和真をその場から連れ出す

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第98話

    彼にとって、今日の最大の標的は篠宮湊である。今の時間帯はまだ前菜に過ぎず、メインディッシュの出番はこれからだ。「さっき、凛さんに会ったわよ。少し立ち話もしたわ」実花はあえて意味ありげにそう告げた。――早くあなたの愛しの初恋相手のところへ行って。ここで私の視界を遮らないで。しかし和真は、その言葉の裏にあるとげとげしい本音を無視したどころか、さらに距離を詰めてきた。あろうことか、実花の頬にかかった後れ毛を指先で優しくすくい上げる。まるで、妻を心から愛する完璧な夫を演じきるかのように。その時、ついに湊が姿を見せた。彼の放つ圧倒的な存在感は、登場した瞬間に会場中の視線を一身に集めた。今日は濃紺のスーツを身に纏い、その生地には茨と薔薇の暗紋が密かに浮かび上がっている。「本日はプライベートなアート鑑賞会へお越しいただき、誠にありがとうございます。皆様にお持ちいただいた出品物は、後にチャリティーオークションにかけさせていただきます。寄付先を代わりまして、厚く御礼申し上げます。今宵はビジネスを一旦忘れ、純粋にアートを語らう場にしたいと存じます。どうか素晴らしい夜をお過ごしください」そう挨拶が済むと、来客たちも互いの探り合いや見え透いたお世辞をやめ、一斉に今夜の展示品へと話題を移し始めた。今夜の招待客は総勢二十名にも満たない。しかも誰もが確固たる地位を築いている者ばかりだ。そのため、湊の機嫌を取ろうと群がるような不格好な真似をする者はいない。そもそも、この空間に招かれたこと自体が、最高峰のステータスの証なのだから。湊がまず歩み寄ったのは、黒田征二郎のもとだった。「湊くん、今夜のコレクションはどれも一級品ばかりだね。どれを切り取っても、オークションの目玉になり得る代物だ」征二郎は感嘆の声を漏らし、惜しみない称賛を送った。「征二郎様、過分なお言葉です」「沙耶のことは、わざわざ紹介するまでもないな?なんといっても、君たちはもう何年もの付き合いになる」征二郎は自然な流れで、孫娘へと話題を向けた。沙耶は優雅に顎を引き、静かに会釈をした。決して馴れ馴れしくはしない。名家の令嬢としての気高さを保ちつつ、礼儀をわきまえた、実に絶妙な距離感だった。湊もまた、沙耶と和やかに、かつ角の立たない会話を交わしていた。だが、その視線は会話の合間にさりげ

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第97話

    「昔の凛のことも、今でもよく覚えてるよ。白くて丸っこくて、本当におてんばだった。当時、僕の家は君たちの家の隣にあって、しょっちゅう彼女と遊んでいたよなあ」昔を懐かしむような穏やかな口ぶりを作って語りながら、和真はその実、鋭い眼差しで駿大の些細な反応をじっと窺っていた。駿大は幼くして海外へ留学していたため、そもそも妹の誕生から最初の五年間をまったく知らなかった。両親が不慮の事故に遭い、学業を中断して慌ただしく帰国し、葬儀や病院の手配に奔走する中で、初めて「妹」と対面したのだ。「俺が帰国した時、凛はまだ病院にいてね。ひどく怯えきっていたよ」駿大の言葉には、痛ましいほどの愛情が滲んでいた。「事故が起きた時、凛も同じ車に乗っていたんだったね?」和真が静かに尋ねる。「ああ。両親は帰らぬ人となってしまったが、幸いにも凛に体の怪我はなかった。ショックは受けていたが……天国の両親が守ってくれたんだろうな」そこで言葉を区切ると、駿大は安堵したように和真を見た。「この数年、君は凛の面倒をよく見てくれて、あいつにとっても兄のような存在だ。君がそばにいてくれて、俺もずいぶん安心できたよ」その言葉を聞いて、和真の胸の内に冷ややかなものが走った。――どうやら駿大も、凛が自分の本当の妹ではないことを知らないらしい。和真はあえて何気ない風を装い、少し冗談めかした口調で言葉を継いだ。「ただ、凛が五歳以前の出来事をまったく覚えていないのは、少し寂しい気もするけどね。……まあ、ある意味よかったのかもしれない。昔、僕と遊んでいた時に彼女の足の裏に怪我をさせてしまって、傷跡を残してしまったんだ。もし本人が怪我の理由をはっきり覚えていたら、あれだけ美容にうるさい凛のことだ、きっと僕を一生恨んでいただろうから」それを聞いた瞬間、駿大の目がスッと細められた。――おかしい。和真はこんなふうに感傷に浸り、昔を懐かしむような男ではない。それに、これまでの二人の付き合い方からして、心温まる思い出話に花を咲かせるような柄でもなかった。若くして帰国し、崩壊寸前だった高城家を自らの手で権力の頂点へと引き戻した当主である。駿大の直感は、時に恐ろしいほど鋭かった。彼は頭の中で、和真の放った言葉の一言一句を反芻し始めた。自分の言葉が駿大に思惑通りの疑念を抱かせたのを見て取り

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第96話

    ホール内に展示された書画や骨董品を前に、実花は職業柄どうしても興味を惹かれ、一つ一つじっくりと見て回っていた。ところが、ある一見地味な古い杯(さかずき)の前で歩みを止めると、彼女はまたしても複雑な顔つきになった。あれは子供の頃、湊のリビングに置いてあったものだ。当時やんちゃだった実花は、よくあれを筆洗いに使っていたのだ。その間、湊から「貴重なものだ」などと注意されたことなどただの一度もなかった。和真は、実花の表情が一晩中どこかぎこちないのを見て、「やはりこういう場には慣れていないのだな」と勘違いしていた。これからはもっと連れ出して、場数を踏ませるべきだと密かにため息をつく。ちょうどその時、凛と彼女の兄である駿大が会場に姿を現した。凛の視線は一直線に和真を捉えた。あの病院での騒動以来、和真の態度は氷のように冷たかった。何度か連絡を取ろうとしてもあしらわれ、さすがの凛もやり過ぎたかと反省していたところだ。今日は兄の同伴で来ることができたので、この機会に和真に甘えて機嫌を取ろうと目論んでいたのだ。それなのに、和真はあろうことか実花を連れてきているではないか。彼が妻をこんな場に同伴させるなど、これが初めてのことだ。激しい嫉妬が凛の理性を飲み込もうとした。彼女は深く深呼吸をして心を静めると、和真をわざと素通りして実花の隣へとなれなれしく寄り添った。「実花さん、何をそんなに熱心に見てるの?」凛は実花の視線を追って得意げに口を開く。「ああ、この青花の杯ですね。これって古い王朝の幻の逸品なんですよ。元々は一対だったんですけど、戦乱のせいで片方が失われちゃって。残ったこの一つはまさにプライスレスの宝。それが篠宮の当主様のコレクションだったなんて驚きですね」凛は優雅に髪をかき上げながら、実花を当てこするようにチラリと見た。「今日、篠宮様のおかげで拝見できましたけど、普通の人は一生かかってもお目にかかれない代物ですよね」一連の台詞は、自分の教養をひけらかしつつ主催者を持ち上げ、同時に実花を「世間知らず」と見下すための巧妙な嫌味だった。しかし実花は、妙なものを見るような目で凛を一瞥しただけで、まともに取り合わなかった。今彼女の頭に浮かんでいるのは、かつてあの杯で数え切れないほど筆をすすぎ、そのせいで絵の具がこびりついたままにな

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第95話

    パーティーの会場は、郊外にある会員制のプライベートヴィラだ。日が落ちる頃、厳重なセキュリティが敷かれたエントランスには、色とりどりの高級車が次々と滑り込んできていた。手配していた送迎用のアルファードから降り立った実花は、遠目からでも目立つ和真の黒いマイバッハを見つけ、そちらへ歩み寄った。実花の姿を認めた瞬間、和真は不機嫌そうに眉をひそめた。「君、僕が用意したオートクチュールのドレスはどうした?どうして着てこなかったんだ」「ドレス?なんのこと?」実花はきょとんとした。「今朝早く、君のアトリエに届けさせたじゃないか」実花がスマホを確認すると、確かにアトリエから何度か着信が入っていた。作業の邪魔にならないようにしていて気がつかなかったらしい。「今日はアトリエには行ってないから」実花は淡々と答えた。和真は苛立たしげに顔をしかめると、すぐさま秘書に電話をかけた。「今すぐアトリエに行って、ドレスを取ってこい。急げ!」通話を切った後も、和真の胸の奥では腹立たしさがくすぶっていた。妻である実花を自分の界隈の集まりに同伴するのはこれが初めてだというのに、なんという無頓着さだ。こんな肝心なところで気が回らないとは。実花はそんな彼の顔色を見て取ったが、機嫌を取るつもりなど毛頭なかった。「この服装があなたの面目を潰すというのなら、今すぐ帰るわ。今後、こういう席に私を呼んでくれなくたって結構よ」この日、実花が身を包んでいたのは、深緑のベルベットドレスだった。華美な装飾は一切なく、胸元に宝石のブローチが一つ光っているだけだ。装いがシンプルであればあるほど、着る者の真価が問われる。透き通るように白い肌と相まって、彼女は息を呑むような気品を漂わせていた。実花から冷たく言い放たれ、和真は咄嗟に言葉を詰まらせた。「実花、そういう意味じゃないんだ。分かった、とりあえず中に入ってくれ。ドレスが届いたら着替えればいいから」エントランスで招待状を提示すると、恭しい態度のスタッフが二人を中へ案内してくれた。まずは受付へ通され、スタッフが説明を加える。「今夜は当主が主催する、プライベートなアート鑑賞会となっております。会の後半にはチャリティーオークションも予定しておりますので、出品されるお品物のご登録をお願いいたします」和真は迷わずペンを走らせた。『Roseの《

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第64話

    「あんたごときが、私を殴るなんて!」悲鳴に近い金切り声だった。「お兄ちゃんだって、私をぶったことないのに!」叫ぶと同時、凛は猛然と葵へと飛びかかった。常軌を逸したような素早さと容赦のなさで、自分が身籠っていることなど完全に頭から抜け落ちたように、そのまま葵と激しい取っ組み合いになった。現場は一気にパニックに陥った。「葵、やめて!彼女、妊娠してるの!」実花は慌てて割って入った。お腹を刺激しないよう、細心の注意を払いながら二人を引き離そうとする。だが、その「躊躇」を、凛は見逃さなかった。凛は素早く周囲に目を走らせ、近くにある大理石のテーブルの角を見つけ出した。次

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第63話

    道具を片付けようとした時、スマートフォンが不意に震えた。親友の葵からだ。通話ボタンをタップした途端、明るい声が耳に飛び込んできた。「さあ、気晴らしに買い物に行くよ!あんた、最近根詰めすぎ。このままじゃ絶対体壊すから!」その元気な響きを聞いて、一日中張り詰めていた実花の神経がすっと解けた。自然と口角が上がる。「……うん、わかった」ショッピングモールの白く冷たい照明が降り注ぐ。ハイブランドが並ぶフロアは人も少なく広々としていて、二人の足音ばかりがはっきりと響いていた。葵は実花の腕を引っ張りながらブティックへと向かい、呆れたように口を動かし続けている。「あんた

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第62話

    これ以上、自分のために親友にリスクを負わせるわけにはいかない。葵はもう、十分に戦ってくれたのだ。実花が葵を止めたのを見て、和真はすぐさま一歩距離を詰めてきた。調停に勝った余裕からか、その表情はいくぶん和らいでいる。そして、あの実花がよく知る、独りよがりな響きを帯びた声で言った。「実花、一緒に家に帰ろう」「凛が子どもを産んだら、あっちの生活はきちんと保証する。そうしたら、また僕たち二人でやり直せるはずだ」あたかも自分が最大限の譲歩をしているかのように、和真は言葉を区切った。「ここ最近、僕が君を蔑ろにしていたことは認める。でも、瀬戸の妻という立場は、ずっと君のものだ。それは変わらな

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第60話

    「先方の主張を覆せるような、何かこちらに有利な情報はありませんでしょうか?些細なことでも構いません。それがあれば、風向きを変えられる可能性があります」静まり返った室内で、重苦しい沈黙が流れた。やがて、和真が重い口を開いた。「……ある」第二回離婚調停の日がやってきた。この日は、葵が「一人で行かせるわけにはいかない」と実花に強く付き添いを志願した。一方の和真も、珍しく遅れることなく会場に姿を現した。冷え冷えとした白い照明が照らす廊下。二人の視線がぶつかった瞬間、その場の空気は一気に張り詰めた。和真は数秒ほど実花を無言で見つめていたが、やがて重々しく口を開いた。「実花。…

더보기
좋은 소설을 무료로 찾아 읽어보세요
GoodNovel 앱에서 수많은 인기 소설을 무료로 즐기세요! 마음에 드는 작품을 다운로드하고, 언제 어디서나 편하게 읽을 수 있습니다
앱에서 작품을 무료로 읽어보세요
앱에서 읽으려면 QR 코드를 스캔하세요.
DMCA.com Protection Status