奪われた息子が、私を「お母さん」と呼ぶ日まで

奪われた息子が、私を「お母さん」と呼ぶ日まで

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「おばちゃん」――五年ぶりに再会した息子は、実の母である私をそう呼んだ。 偽りの診断書によって母親の資格を奪われ、元夫の一族に引き離されたあの日から、私の時間は止まったまま。 息子の記憶には、私がいない。そんな私に手を差し伸べたのは、一人の弁護士だった。 奪われた五年間は戻らなくても、これからの未来だけは渡さない。 いつかあの子が私を「お母さん」と呼ぶ、その日まで――。

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Chapter 1

1話. 塀の向こう

紗奈は、幼稚園の塀の外に立っていた。

ケヤキの木陰でバッグの持ち手を両手で握り、正門を見つめていた。

4月だった。

桜の散った枝には、淡い緑の葉が芽吹いていた。

住所を突き止めるまでに2年かかった。

通っている幼稚園を確かめるのに、さらに3か月。

降園の時間に合わせてここに立つのは、今日が初めてだった。

半休を取ると決めたのは3日前だ。

会社を出るとき、手が震えて交通系ICカードを2度も落とした。

地下鉄を降り、幼稚園まで歩く15分の間に、スマホのロック画面を7回つけた。

そこには、5年前に新生児室で撮った1枚の写真があった。

小さな握りこぶしが、紗奈の人差し指をつかんでいる。あの写真だ。

スマホが鳴った。

「お姉ちゃん、着いた?」

妹だった。

「うん。道の向かい側にいる」

「接近禁止は解けても、面会交流の制限はまだあるんだからね。見つかっちゃだめだよ」

「わかってる。塀の外にいるから」

「誰かに気づかれたら、すぐ離れて」

「ここに私を知ってる人はいないよ」

「……大丈夫?」

正門の前に、親たちが1人、また1人と集まり始めていた。

黄色い送迎バスが1台、路地を曲がって見えなくなった。

「大丈夫」

「5年だよ、お姉ちゃん。最後に抱っこしたの、5年前なんだよ」

紗奈は答える代わりに通話を切った。

スマホをバッグにしまい、ケヤキの幹に背を預けた。

樹皮のざらつきが、ブラウス越しに伝わってきた。

心臓が速く打っていた。

正門の前で、親たちが話していた。

「今日は園外保育だったんだって。きっと泥だらけね」

「また洗濯機回さなきゃ。昨日も回したのに」

「春って毎日こうよ。毎日」

「干す場所がなくて困るのよね」

紗奈は、その輪には入れなかった。

この幼稚園に自分の子が通っていると知る人は、あの中に1人もいない。

塀の向こうから、子どもたちの笑い声が漏れてきた。

バッグの持ち手を握る指を緩め、また握り直した。

塀の上に、赤い滑り台のてっぺんがのぞいていた。

あの中で、あの子が走り回っている。そう思うだけで指先がしびれた。

カーン。

鐘の音とともに、正門が開いた。

黄色い帽子が、いっせいにあふれ出した。

「ママ!」

「パパ来てる!」

「おばあちゃん、こっち!」

「颯太、こっちよ!」

子どもたちが、それぞれの迎えの人に駆け寄っていく。

抱きつき、ぶら下がり、バッグを放り出す。

母親に抱き上げられた子が、足をぶらぶらさせていた。

紗奈の視線が、その人波を越えて1人の子どもに止まった。

青いバッグ。

小さなスニーカーが地面を蹴っていた。

友だちにぶつかりそうになり、踏みとどまって、また駆け出した。

(大きくなった)

ロック画面の中の、新生児の顔が浮かんだ。

握りこぶしより小さかった足が、スニーカーを履いて地面を蹴っている。

気づけば、手をきつく握りしめていた。

3キロほどしかなかった子が、あんなふうに走っている。

正門から先生の声が飛んだ。

「悠真、走らないの! 転ぶよ」

悠真。

紗奈の唇が、声もなくその名前をなぞった。

5年間、1人で呼び続けてきた名前だった。

悠真が立ち止まった。

きょろきょろと辺りを見回し、後ろから歩いてくる女の人を見つけると、両手を広げた。

「来たんだね!」

女は悠真の前にしゃがんだ。

「来たよ。今日は楽しかった?」

「うん! お出かけしたの。公園に」

「そう。何してきたの?」

「虫、捕まえた。てんとう虫」

「てんとう虫? 怖くなかった?」

「怖くないよ。赤いやつ。点々が7つ」

悠真が指を広げて数えた。

1本だけうまく曲がらず、もう片方の手でぎゅっと押さえた。

「颯太は泣いたよ。虫が怖いんだって」

「悠真は怖くなかったんだね」

「ぼく、勇気あるもん」

女は笑いながら、悠真の靴についた土を軽く払った。

「勇気あるね。でも、靴見てごらん。泥だらけ」

「みんなだよ。ぼくだけじゃないよ」

「はいはい。帰ったらすぐ洗おうね」

女は悠真を立たせ、帽子を脱がせた。

手の甲で額の汗を拭い、髪をかき上げた。

髪がどちらへ流れるのか、わかっている手つきだった。

紗奈の爪が、バッグの持ち手に食い込んだ。

自分は、それさえ知らない。

分け目が左なのか右なのか。額が広いのかどうかさえ。

「お腹すいた」

「何食べたい?」

「焼きそば」

「だめ。昨日も食べたでしょ」

「どうして?」

「お腹痛くなっちゃうよ。じゃがいものお焼きにしようか」

「お焼きと焼きそば、両方」

「どっちか1つ」

「……じゃあ、焼きそば」

「また焼きそば? 明日は本当に作らないからね」

「明日は明日だもん」

女が悠真の鼻を、指で軽く押した。

悠真はくすくす笑って、その手を握った。

2人は正門を離れ、通りのほうへ歩き出した。

女が悠真のバッグを受け取り、自分の肩にかけた。

身軽になった悠真は、歩きながら何かを口ずさんでいた。

メロディー。

低くて単純な、子どもが1人で口ずさむのにちょうどいい、短い曲だった。

紗奈の唇が開いた。

ケヤキに添えた手に力がこもった。

(この歌――)

知っている。

どこか懐かしくて、胸のいちばん深いところに触れてくる旋律。

どこで聴いたのか、なぜ知っているのかは思い出せなかった。

ただ、喉の奥が締めつけられた。

悠真の鼻歌が、少しずつ近づいてくる。

紗奈のいる側の道へ、歩いてきていた。

紗奈はケヤキの後ろへ1歩下がった。

手のひらには、爪の跡がくっきり残っていた。

「悠真、早く」

女が悠真の手を引いた。

悠真は鼻歌をやめ、顔を向けた。

塀の外。

ケヤキの下に立つ紗奈と、目が合った。

悠真の足が止まった。

女の手を握ったまま、紗奈を見上げていた。

5歳の子どもの目が、紗奈の顔をゆっくりたどった。

紗奈は笑おうとした。

口角が上がりかけて、止まった。

喉の奥が熱くなった。

「どうしたの、悠真?」

「ねえ。あのおばさん」

悠真が紗奈を指さした。

女が振り向いた。

一瞬、視線が絡んだ。

女の表情がこわばった。

すぐに悠真の手を引いた。

「行こう」

悠真は引かれながらも、振り返った。

小さな目が、紗奈をまっすぐ見ていた。

「おばさん、だれ?」

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1話. 塀の向こう
紗奈は、幼稚園の塀の外に立っていた。ケヤキの木陰でバッグの持ち手を両手で握り、正門を見つめていた。4月だった。桜の散った枝には、淡い緑の葉が芽吹いていた。住所を突き止めるまでに2年かかった。通っている幼稚園を確かめるのに、さらに3か月。降園の時間に合わせてここに立つのは、今日が初めてだった。半休を取ると決めたのは3日前だ。会社を出るとき、手が震えて交通系ICカードを2度も落とした。地下鉄を降り、幼稚園まで歩く15分の間に、スマホのロック画面を7回つけた。そこには、5年前に新生児室で撮った1枚の写真があった。小さな握りこぶしが、紗奈の人差し指をつかんでいる。あの写真だ。スマホが鳴った。「お姉ちゃん、着いた?」妹だった。「うん。道の向かい側にいる」「接近禁止は解けても、面会交流の制限はまだあるんだからね。見つかっちゃだめだよ」「わかってる。塀の外にいるから」「誰かに気づかれたら、すぐ離れて」「ここに私を知ってる人はいないよ」「……大丈夫?」正門の前に、親たちが1人、また1人と集まり始めていた。黄色い送迎バスが1台、路地を曲がって見えなくなった。「大丈夫」「5年だよ、お姉ちゃん。最後に抱っこしたの、5年前なんだよ」紗奈は答える代わりに通話を切った。スマホをバッグにしまい、ケヤキの幹に背を預けた。樹皮のざらつきが、ブラウス越しに伝わってきた。心臓が速く打っていた。正門の前で、親たちが話していた。「今日は園外保育だったんだって。きっと泥だらけね」「また洗濯機回さなきゃ。昨日も回したのに」「春って毎日こうよ。毎日」「干す場所がなくて困るのよね」紗奈は、その輪には入れなかった。この幼稚園に自分の子が通っていると知る人は、あの中に1人もいない。塀の向こうから、子どもたちの笑い声が漏れてきた。バッグの持ち手を握る指を緩め、また握り直した。塀の上に、赤い滑り台のてっぺんがのぞいていた。あの中で、あの子が走り回っている。そう思うだけで指先がしびれた。カーン。鐘の音とともに、正門が開いた。黄色い帽子が、いっせいにあふれ出した。「ママ!」「パパ来てる!」「おばあちゃん、こっち!」「颯太、こっちよ!」子どもたちが、それぞれの迎えの人に駆け寄っていく。抱きつき、ぶら下がり、バッグを放り出す。母親に
last updateLast Updated : 2026-11-04
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2話. 引き出しの中
紗奈が玄関のドアを開けようとすると、隣の部屋の前に立っていた女性と目が合った。「あら、今日は早いのね」「半休を取ったんです」「顔色がよくないわね。ご飯は食べた?」「大丈夫です」「お汁作ったんだけど、少し持っていく? 1人暮らしだから心配で」「大丈夫です、本当に。ありがとうございます」紗奈は頭を下げ、部屋に入った。ドアが閉まると、そこに背を預けて息を吐いた。隣のおばさんの好意はありがたくて、それでも重かった。26平米ほどのワンルーム。流し台とベッドの間は、腕を伸ばせば届いた。窓が1つ。トイレが1つ。玄関脇には、靴が2足入るだけの細い棚。敷金30万円で借りた、アパートの一室だった。会社からは地下鉄で40分、幼稚園からは1時間以上かかった。紗奈は靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。バッグをベッドに置いたところで、スマホが鳴った。「どうだった?」妹だった。「見たよ」「……どうだった?」紗奈はベッドの端に腰を下ろした。「大きくなってた。背も、ずいぶん伸びてた」「元気そうだった?」「走ってた。友だちと。転びそうになっても、また走って」「よかった」「笑ってた」「え?」「笑いながら、走ってた」「……」「誰が迎えに来てたの?」「女の人。名前はわからない」「あの女でしょ」「たぶん」「何してた?」「靴の土を払ってあげてた。焼きそば食べたいって言うのに、だめって。そんなこと」「……お母さんみたいに?」紗奈は流し台で、コップに水を注いだ。コップを握る指から力が抜け、少しだけ水がこぼれた。「わかんない」「聞こえたの? その会話」「すぐ前を通ったから」「危ないよ。近づいちゃだめって言ったのに」「向こうから、こっちに歩いてきたの」「それで? 目、合った?」「うん」「どうなったの?」紗奈は水をひと口飲んだ。喉が狭くなったようで、うまく飲み込めなかった。「おばさん、だれ? って」「……」「切るね」「お姉ちゃん、泣かないで」「泣いてない」「声、震えてる」「泣いてないよ。切るね」「明日、仕事が終わったら行く。一緒にご飯食べよう」「うん」紗奈は電話を切り、残りの水を飲んだ。コップを流し台に置くと、手のひらが汗で湿っていた。ブラウスのボタンを外し、Tシャツに着替えた。ブラウスを畳んで洗濯
last updateLast Updated : 2026-11-04
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3話. 接近禁止
翌日の夕方、妹が訪ねてきた。両手にレジ袋を1つずつ提げ、玄関の前に立っていた。「お母さんから。味噌汁と、じゃこの佃煮と、しその葉の漬物」狭い流し台の上に、保存容器を3つ、順に並べた。紗奈の冷蔵庫を開けると、入っていたのは水と豆腐半丁だけだった。妹が舌打ちした。「お姉ちゃん、こんな生活してたら倒れるよ」「ありがとう」「お母さんには?」「幼稚園に行ったこと? 言ってない」「それでいいよ。まだ言わないほうが」紗奈はご飯をよそい、クッションの上に置いた盆に載せた。26平米ほどのワンルームには食卓がなく、床に並んで座って食べるしかなかった。妹は来るたびに狭いと言ったが、紗奈にはこれで十分だった。ご飯と味噌の匂いが、たちまち狭い部屋に満ちた。妹が味噌汁をひと口すすり、ベッド脇の引き出しを見た。中古家具店で3,000円で買ったものだ。いちばん下の段の取っ手だけが、ひどく擦り減っていた。「昨日、また開けたでしょ」紗奈は答える代わりに箸を置いた。引き出しを開け、透明なファイルを3つ取り出した。「見てほしいものがあるの」書類の束を床に広げた。妹が味噌汁の椀を脇に寄せ、書類のほうへ体を向けた。「これ、全部何?」「5年分の書類」紗奈は最初の1枚を手に取った。上部に『保護命令決定書』という表題が印刷されていた。日付の横には、家庭裁判所の公印がかすかに残っていた。「離婚が確定して、すぐこれが出たの。接近禁止」「接近禁止って、誰が誰に?」「私が悠真に。お義母さんの側から申し立てたの」妹の箸が盆の上に落ちた。箸が盆に当たる乾いた音が、狭いワンルームに響いた。「お姉ちゃんが、子どもにとって危険だっていうの? 何を根拠に?」「産後うつの治療記録と、医師の所見を添えてあった」紗奈は書類の縁を指でなぞった。5年来の癖だった。薄くなった紙の一角が、指先に引っかかった。「保護命令の有効期間は最長3年。その3年間、悠真に近づいちゃいけなかった」「3年も……」妹の声が沈んだ。窓の外には、薄暗くなった路地が見えていた。「近づくだけじゃない。連絡も、贈り物も、幼稚園の近くへ行くのも。全部」紗奈は書類の中の一文を指さした。『乳児に危害を及ぼすおそれ』と印字されていた。「これが、所見書に書いてあった言葉。自傷および乳児への加害の
last updateLast Updated : 2026-11-04
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4話. 弁当
月曜の朝、紗奈はオフィスのドアを開けた。総務課の机には、週末の間にたまった書類が山になっていた。「水原さん、3階の複合機、また壊れたそうです」席につく間もなく、同僚が声をかけてきた。「修理を手配します」「それと、金曜日に荷物が2つ届いてます。受け取りのサインが必要で」「わかりました」「あ、それから課長が、今月の消耗品の予算をまとめてほしいって」「いつまでですか?」「水曜日まで」紗奈はメモに、やることを書き出した。複合機の修理、荷物の受け取り、消耗品の予算、月末の精算。書き終えると、メモが1枚埋まっていた。モニターの横に貼り、終わった項目に線を引きながら片づけていった。修理業者に電話をかけ、日程を決めた。最短でも、翌週の火曜日の午前中だった。使用禁止の貼り紙を印刷して3階に貼り、4階へ上がっての給湯室の浄水器フィルターも確認した。もう10時を過ぎていた。机のコーヒーは冷めていた。ひと口飲んで、受話器を取った。顧客対応の電話が鳴った。「お電話ありがとうございます。ご用件をお伺いいたします」「商品が届いて1週間なんですけど、返品できますか?」「はい、承ります。注文番号を教えていただけますか?」「JP-0408-0917です」紗奈は番号をシステムに入力しながら、相手の話をメモした。不満の内容を整理し、返品の手順を案内して、電話を切った。すぐに次の電話が入った。「交換を頼んだ商品、いつ届くんですか? もう5日目なんですけど」「確認いたします。少々お待ちください」配送システムを調べると、まだ出荷前だった。「物流センターの都合で遅れております。明日までに発送の手配をいたします」「明日ですか? 早くしてくださいよ」「申し訳ございません。できる限り急いで手配いたします」電話を切り、内線で物流課へ連絡した。担当者が席を外していたので、隣の席の社員に伝えた。「物流課の木村主任がご不在なので、出荷の件をお伝えいただけますか」「はい、メモを残しておきます」昼休みになった。同僚たちが社員食堂へ向かう間に、紗奈は席でスマホを取り出した。給与明細が届いていた。手取り20万9,000円。厚生年金、健康保険、所得税、住民税。控除の項目を、1つずつ確かめた。毎月見ている数字なのに、癖のように確認してしまう。スマホ
last updateLast Updated : 2026-11-04
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5話. 夜の電話
夜11時を過ぎていた。紗奈はベッドに横になり、天井を見ていた。ワンルームの蛍光灯を消すと、窓の外の街灯が、天井に細長い縞模様を作った。風が吹くたび、その縞が揺れた。上の部屋で足音がして、止まり、また静かになった。幼稚園の前で悠真を見てから、4日目だった。目を閉じると、青いバッグを背負った子どもの後ろ姿が浮かんだ。走るのをやめ、振り向いて、紗奈を見上げたあの目。『おばさん、だれ?』あの声が、耳から離れなかった。悠真を見てから、眠れない夜はさらに長くなった。昼間は電話に出て、書類を片づけ、荷物を受け取っていれば忘れられた。夜になると、子どもの顔が戻ってきた。スマホが鳴った。ベッド脇の床に置いていた画面が、明るく光った。知らない番号だった。夜11時に、知らない番号。紗奈は少しためらってから、通話ボタンを押した。迷惑電話なら、すぐに切るつもりだった。通販の広告か、融資の勧誘か。「もしもし?」「水原紗奈さんで、間違いありませんか?」知らない女性の声だった。慎重な口調だったが、紗奈の名前を正確に知っていた。「どちらさまですか?」「私……5年前、水原さんが入院されていた病院に勤めていた者です」紗奈はベッドの上に起き上がった。布団が膝へ滑り落ちた。背中が冷たくなった。「病院、ですか?」「はい。産後の療養中に、治療を受けていらっしゃいましたよね。そのとき担当していた看護師です」紗奈の手が布団をつかんだ。5年前。出産後まもなく、産後うつの治療を受けていた頃だった。病室の消毒薬の匂いと、窓の外の雨音。記憶の曖昧な部分が、いくつもあった。顔も思い出せない看護師から電話が来た。そのことに現実味がなかった。「……覚えていなくて」「そうですよね。入院期間は短かったですし、看護師も何人もいましたから」「こんな遅くに……何かあったんですか?」「番号を調べるのに時間がかかってしまって。夜分に申し訳ありません」紗奈は布団を蹴りのけ、床に足を下ろした。素足が冷たい床に触れた。手が震えて、スマホを反対の手に持ち替えた。「何があったんですか?」「あの所見、おかしかったんです」紗奈の息が止まった。唇を噛んで、離した。「所見、ですか?」「はい。水原さんについて出された、医師の所見書です。あれが出されるまでの過程を、
last updateLast Updated : 2026-11-04
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6話. 訴訟費用
昼休み、紗奈はトイレの前の廊下に出て、スマホを取り出した。看護師にメッセージを送った。『お会いできますか。時間と場所を決めたいです』5分で返事が来た。『今週の土曜日、午後2時に神保町の辺りでいかがですか』紗奈はカレンダーを確認した。その土曜は、隔週の出勤に当たっていなかった。『大丈夫です。場所を送ってください』『神保町駅のA3出口前のカフェにしましょう。詳しい場所は金曜日に改めて送ります』送信済みの画面をもう1度確かめ、スマホをポケットにしまった。廊下の突き当たりの窓から、4月の日差しが差し込んでいた。5年間、1歩も前へ進めなかった。今、何かが動き始めている気がした。看護師が持っているという記録が何なのか、まだわからない。それでも、胸が高鳴った。スマホがまた鳴った。妹だった。「お姉ちゃん、看護師さんに連絡した?」「今、メッセージを送った。土曜日に会うことになったよ」「一緒に行こうか?」「ううん。1人で行く」「どうして? 危ないかもしれないよ」「危なくはないと思う。カフェで会うから」「でも」「1人で行かなきゃ。看護師さんに負担を感じさせたくないの」妹は少し黙ってから、ため息をついた。「わかった。終わったらすぐ電話して」「うん」「何を言われても、録音とかしちゃだめだよ。相手の同意なしにやっちゃだめ」「わかってる」「それと、弁護士は探してる?」「探してるよ。費用の問題があって」「どのくらい?」「30から50」「……万円?」「万円」妹の唇が、薄く引き結ばれた。「私も少し出す」「大丈夫」「大丈夫じゃないでしょ。お母さんにも話したほうがいいんじゃないの?」「まだ。はっきりしてから」「わかった。土曜日、電話してね」通話を終え、オフィスへ戻った。昼休みが終わる5分前だった。残していた海苔巻きを1本、急いで食べた。コンビニで買った、80円のツナの細巻きだった。席につき、口元を拭った。同僚が自分の席から手を振った。「水原さん、また荷物です。5階だそうです」「はい、行きます」紗奈は段ボール箱を抱えてエレベーターに乗った。5階に届けて下りてくると、内線が鳴った。「水原さん、2階のプロジェクターがつかないって。見てもらえる?」「今行きます」2階の会議室のプロジェクターは、リモコンの電池が
last updateLast Updated : 2026-11-04
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7話. 診療記録
土曜の午前、紗奈は5年前に入院していた病院を訪ねた。看護師に会う前に、確かめておきたいことがあった。出産後まもなく、産後うつの治療を受けた場所。5年ぶりに足を踏み入れたロビーは、改装され、見知らぬ場所のようになっていた。受付の位置が変わり、エレベーターの横にコーヒーの自販機ができていた。それでも、廊下に満ちる消毒薬の匂いは5年前と同じだった。医事課の受付窓口に並んだ。前には3人、待っている人がいた。紗奈はバッグの持ち手を、握っては緩めた。「次の方、どうぞ」紗奈は窓口の前に立った。「診療記録の開示をお願いしたくて来ました」「ご本人の記録ですか?」「はい」「身分証をお願いします」マイナンバーカードを差し出した。職員が画面を見ながら、氏名と生年月日を照合した。「水原紗奈さんですね。入院歴が1件あります。産婦人科で、産後うつに関する治療ですね」「はい、そうです」「閲覧だけですか? 写しもご希望ですか?」「写しもお願いします。全部です」「写しは1件100円、追加のページが1枚10円になります」「はい、大丈夫です」「発行まで20分ほどかかります。待合室でお待ちください」「ありがとうございます」紗奈は申請書を書き、医事課の隣にある待合室の椅子に座った。廊下の消毒薬の匂いが、鼻を突いた。5年前にも、この匂いを嗅いだ。匂いは同じなのに建物だけが変わっていることが、妙な感じだった。あのときは、出産して間もなかった。体が回復しないうちに、涙が止まらなくなった。主治医に産後うつと診断され、投薬とカウンセリングが始まった。2か月間の入院。病室の窓越しに、季節が変わるのを見た。治療が終わりに近づいた頃、離婚の書類が届いた。紗奈は病院のベッドで、監護者指定の審判申立書を1字ずつ読んだ。隣に座っていた看護師の顔は、思い出せなかった。スマホが鳴った。妹だった。「お姉ちゃん、病院行った?」「うん。診療記録の写しを待ってる」「それでいいと思う。看護師さんに会う前に、自分の記録を確認しないと」「うん」「何かおかしなところがあったら、すぐ写真を撮っておいて」「わかった」「診療録と所見書、内容を比べてみて。違ってるところがないか」「そのつもり」「それで、看護師さんとは2時だよね?」「うん」「カフェで会うなら、私
last updateLast Updated : 2026-11-04
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8話. 面談
神保町駅のA3出口を出てカフェまで歩く間に、紗奈はバッグの持ち手を3度握り直した。バッグには、午前中に病院で受け取った診療記録の写しが入っていた。28枚の書類と、その中で1枚だけ異質だった所見書。書類の重みが、バッグの持ち手を通して肩に伝わってきた。今日の面談が何をもたらすのか、まだわからなかった。それでも、5年たって初めて、誰かが『おかしい』と言ってくれた。その事実が、紗奈の足を速めた。カフェの看板が見えた。ガラスのドアの向こうでは、半分以上の席が埋まっていた。土曜の午後の店内は、ノートパソコンを開く人や、おしゃべりするグループでにぎわっていた。紗奈はドアを開けて入り、奥の隅の席を取った。壁を背にする席。出入り口の見える場所だった。カウンターへ行き、メニューを見た。アイスのアメリカーノを頼んだ。「380円です」カードを出し、飲み物を待った。時計を見た。1時50分。約束より10分早く着いていた。飲み物を受け取って、席に戻った。ストローのそばで、溶けかけた氷がぱきりと鳴った。店内のざわめきと音楽が、混ざり合っていた。紗奈はバッグの上に手を置き、出入り口を見つめた。中の書類の角が、手の甲に触れた。2時ちょうどに、カフェのドアが開いた。短い髪に眼鏡をかけた女性が、店の奥を見回した。灰色のコートに包まれた肩は細く、バッグを体の前で抱えていた。紗奈と目が合うと、おずおずと近づいてきた。「水原さん、ですか?」紗奈は立ち上がった。「はい。どうぞ」女性は向かいに座った。コートの襟元を合わせ、周囲をひと通り見た。店員が来ると、温かいゆず茶を注文した。しばらく沈黙があった。隣のテーブルで笑い声が上がり、やんだ。女性のほうから口を開いた。「お顔を見ると……思い出しますね」「すみません。私は、よく思い出せなくて」「当然ですよ。入院中は、何人もの看護師が交代しますから」女性は運ばれてきたゆず茶を受け取り、カップを両手で包んだ。指が細く、手の甲にそばかすがあった。記憶のどこかで、似た手を見た気もした。けれど、確かではなかった。「あの頃は、私もまだ新人でした。産婦人科病棟に配属されて、1年ほどで」「……」「水原さんを担当したのは、入院2週目からです」「何か、覚えていらっしゃいますか?」「経過はよかった
last updateLast Updated : 2026-11-04
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9話. 法律事務所
看護師に会ってから、1週間がたった。紗奈は会社の昼休みを使い、弁護士を検索した。『家事事件に強い弁護士』『監護者変更』『面会交流の変更』。検索語を変えながら、口コミと経歴、勝訴率を比べた。3人の名前と連絡先、費用の目安をメモにまとめた。印刷して、バッグに入れた。仕事帰りの地下鉄で、妹に電話した。「弁護士、調べた?」「うん。3人見つけた。そのうち1人は、知り合いの紹介がある」「誰が紹介してくれたの?」「会社の先輩の旦那さんが、法曹関係の人なの。家事事件に詳しい弁護士を知ってるって」「名前は?」「篠宮怜。篠宮法律事務所」「篠宮怜?」「経験はかなりあるみたい。監護者変更の事件を、たくさん扱ってきたって」「費用は?」「相談のときに話すことになってる。ひとまず予約は取れたよ」「いつ?」「来週の水曜日、午後4時」「水曜日なら、半休を取らなきゃ」「半休、取れる?」紗奈はカレンダーを確認した。今月はすでに1度、半休を取っていた。「取れるよ。ありがとう」「一緒に行こうか?」「ううん。1人で行く」「また1人で?」「弁護士に相談するだけだから」「緊張してる?」「少し」「出かける前に、書類を確認してね。離婚の判決書と、診療記録の写し」「用意してある」「所見書のページも?」「うん」妹がため息をついた。「うまくいくよ。終わったら電話して」水曜日。午後の半休に向け、午前中の仕事を急いで片づけた。消耗品の発注確認、荷物の受け取りが2件、顧客対応の電話が4本。昼はコンビニでおにぎりを2つ買い、10分で食べた。同僚が紗奈のバッグを見て、首をかしげた。「今日も半休? どこに行くの?」「ちょっと、用事があって」「水原さんって、ほんとに用事が多いね」紗奈は軽く笑って、席を立った。2時に会社を出て、地下鉄に乗った。千代田区で降り、法律事務所の入ったビルを探した。8階建ての灰色の建物だった。1階のロビーは大理石張りで、壁に入居テナントの案内板があった。法律事務所が3つ、税理士法人が1つ、社会保険労務士法人が1つ。紗奈の日常からは、遠い世界の名前ばかりだった。篠宮法律事務所、7階。エレベーターのボタンを押して、待った。鏡に映る自分を見た。出勤時に着てきたブラウスに、しわが寄っていた。7階で降りた。廊下
last updateLast Updated : 2026-11-04
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10話. 日付
相談室のドアが閉まった。篠宮は紗奈に席を勧め、自分も向かいに座った。シャツの袖をもう1度まくりながら、紗奈を見た。紗奈はバッグから書類を出し、机に置いた。離婚判決書、監護者指定の審判書、そして28枚の診療記録の写し。篠宮は透明なファイルから1つずつ取り出し、時系列に沿って並べた。机の上が、書類で埋まった。紗奈は向かいの椅子で、その手を見ていた。袖は肘までまくられていた。左手に万年筆を持ち、右手で書類をめくっていた。紙を扱う手つきは、速く、正確だった。何百件もの書類をめくってきた手だった。自分の事件もその1つなのだと思うと、不思議に慰められた。篠宮の手が、診療録で止まった。目が1行に留まった。「ここに、『自傷念慮なし。乳児に対する危険行動は認められず』とありますね」「はい。主治医が書いた経過記録です」「治療経過は良好で、薬への反応もよかった」紗奈はうなずいた。「ところが、こちらは」篠宮が所見書を取り出した。残る27枚とは書式の違う、あの1枚。「『自傷および乳児への加害のおそれ』と書かれています」「はい」「同じ病院、同じ入院期間なのに、診療録と所見書で内容が正反対です」篠宮の声に感情はなかった。事実を確かめていく声だった。その淡々とした口調に、紗奈はかえって安心した。前の弁護士は、同情するような顔で紗奈を見た。結果は却下だった。事実だけを確かめるこの弁護士のほうが、頼もしく思えた。「水原さん。治療を受けたこと自体は、事実ですね?」「はい。産後うつと診断されて、2か月入院しました」「治療を受けたことは、証拠になります」紗奈は顔を上げた。「証拠、ですか?」「治療によって改善した記録は、監護者としての適格性を示す資料です。産後うつと診断されたこと自体が、監護者として不適格だという理由にはなりません」紗奈の口の中が乾いた。5年間、産後うつの記録は自分の弱点でしかないと思っていた。それが逆に証拠になる。そんな言葉を聞いたのは、5年で初めてだった。膝の上で、手をきつく握った。「ただ、所見書は別の問題です」篠宮は所見書を取り、机の中央に置いた。その動きに無駄はなく、インクのにじんだ角には触れなかった。「書式が違う。書体も違う。署名の筆跡にも疑問があります。これだけで偽造とは証明できませんが、不自然
last updateLast Updated : 2026-11-04
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