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凍える窓から陽だまりの島へ
凍える窓から陽だまりの島へ
Autor: 詩音

第1話

Autor: 詩音
港中市(みなとなか)の誰もが、時山家の御曹司は「狂った妻」を迎えたと噂している。

だが、橋本夢奈(はしもと ゆめな)だけは分かっていた。自分は決して狂ってなどいないことを。

彼女には、どうしても必要な儀式があった。この世の光をひと目も見ることなく逝ってしまった我が子を、弔うための儀式が。

自宅を葬儀場のように飾り立てたのは、これで三度目。夫の時山昇(ときやま のぼる)は、ついに堪忍袋の緒が切れた。

彼は荒々しく扉を蹴破るようにして入ってきた。その目は血走り、部屋中に飾られた葬式の飾りを睨みつけると、低い声で吐き捨てた。

「夢奈!いい加減にしろ、いつまでこんな真似を続けるつもりだ!?」

昇は大股で踏み込み、火のついた線香が立つ銅の香炉を一蹴した。香灰が床一面に飛び散った。

夢奈はゆっくりと視線を上げ、彼を見つめた。その手には、まだ火を灯していない束ねた線香が握られている。彼女の声は、溜息のようにか細かった。

「今日は、あの子の初七日よ。父親なら……線香の一本でも上げるのが筋でしょう」

昇は絶句した。だがすぐに眉をひそめ、隠しきれない苛立ちをぶつけた。

「いつまでそのことに固執してる。佳澄とはもう縁を切ったと言っただろう」

彼は夢奈に歩み寄り、彼女の手首を掴もうと手を伸ばした。声を少し和らげて諭した。

「男に多少の『過去』があるのは当然だ。夢奈、いい加減前を向いたらどうだ」

「過去……?」

夢奈は差し出された彼の手を激しく振り払うと、鋭い声を上げた。

「あなたの言う『過去』って、たった一週間前のことじゃない!

私たちの家のキッチンで!私があなたのための酔い覚ましのスープを作ってた、あの調理台の上で起きたことじゃない!」

……

記憶が濁流のように、容赦なく押し寄せてくる。

一週間前。

親友の西田佳澄(にしだ かすみ)が離婚して行き場を失い、四歳になる息子の西田宏(にしだ ひろむ)を連れて助けを求めてきた。

夢奈は同情し、深く考えずに二人を家に迎え入れた。

昇はその時、何も言わずにただ頷いただけだった。

佳澄の誕生日。夢奈はわざわざ仕事を早めに切り上げ、ショッピングモールまで彼女の好物であるモンブランを買いに行った。

「親友」にサプライズを届けたかった。

ケーキを手に帰宅すると、キッチンからかすかな物音が聞こえてきた。

佳澄が夕食の準備でもしているのだろう……そう思った夢奈は笑みを浮かべ、足音を忍ばせて近づいた。

そして、聞いてしまった。

女の艶めかしい嬌声と、男の抑え込んだ荒い息遣いを。大理石の調理台が打ちつけられ、ガタガタと震える鈍い音を。

彼女が扉を開けると、そこには、服を腰まで乱し、調理台に押し付けられた佳澄と、夫の昇が激しく絡み合う姿があった。昇は背を向け、我を忘れて動いており、夢奈の存在に全く気づいていなかった。

夢奈の手からケーキが「ベチャッ」と音を立てて落ちた。

生クリームと栗のペーストが床に飛び散り、重なり合う男女の剥き出しの足にも跳ねかかった。

昇が勢いよく振り返った。

夢奈の姿を捉えた瞬間、彼の顔から血の気が引いた。

「……夢奈?」

夢奈は背を向けて走り出した。

「夢奈!待て、説明させてくれ!」

佳澄が慌てて服を整えながら追いかけてくると、彼女の前に「ドサッ」と膝をつき、必死に床に額をこすりつけた。

「私のせいなの!魔が差して昇さんを誘惑しちゃったの!昇さんは悪くないわ!」

横に立つ昇は苦渋に満ちた表情で、声を枯らした。

「飲みすぎたんだ……一時の過ちだ、人違いをしてた……」

夢奈は手を振り上げ、佳澄の頬を思い切り引っぱたいた。

涙が堰を切ったように溢れ出した。

「離婚して行く宛がないっていうから、善意で置いてあげたのに……私の夫とそんなことをするなんて……!」

佳澄は頬を押さえ、涙を流しながら縋り付いてきた。

「ごめんなさい、夢奈……私はただ、あなたが羨ましかったの……あなたは何でも持ってる。完璧な家庭も、完璧な夫も……

私には何もない。離婚したらゴミみたいに捨てられて……長年の付き合いじゃない、今回だけは許して。ねえ?

誓うから、二度としないって……」

夢奈は全身を震わせ、胸が詰まって言葉も出なかった。

「出て行って……!二人とも今すぐ私の家から出て行って!!」

その時だった。客間から突然飛び出してきた佳澄の息子、宏が、全身の力で夢奈を突き飛ばした。

「悪いおばさん!ママをいじめないで!」

その衝撃はあまりに強く、唐突だった。

夢奈は防ぐ間もなく後ろによろめき、腰をテーブルの鋭い角に強く打ちつけた。

激痛が走り、腰椎から下腹部へと突き抜ける。彼女は呻き声を上げ、身を丸めて床に崩れ落ちた。

佳澄は慌てて服をかき寄せ、顔を真っ青にしながら言った。

「すぐに出て行くわ……夢奈、宏くんは悪くないの、私を守ろうとしただけ。子供を責めないで……」

言い終えると、彼女は宏の腕を掴み、後ろも振り返らずに玄関を飛び出していった。

昇は床でうずくまり、青ざめた顔で震える夢奈を見て、その目に葛藤を浮かべた。

彼は自分の頬を強く殴り、掠れた声で言った。

「夢奈……そ、外は大雨なんだ。あいつら親子がこんな夜に飛び出したら危ない……

少し我慢してくれ、すぐにお医者さんを呼ぶから!

待っていてくれ、あいつらを落ち着かせたら、すぐに戻る!」

昇は、夢奈の顔色が刻一刻と白くなっていくのも構わず、奥歯を噛み締め、佳澄二人を追って外へ走り去った。

夢奈は一人、冷たい床に取り残された。

温かい血が、制御不能なままじわじわと床に広がっていく。

震える手で、恐る恐るそこを触った。

指先に触れたのは、ねっとりとした感触……

目の前に持ってきた手は、刺すような鮮血に染まっていた。

……

医師が到着した時には、すべてが遅すぎた。

「奥様……赤ちゃんは助かりませんでした」

医師は沈痛な面持ちで告げた。

「まだ四週にも満たない状態でしたが、今回の衝撃があまりに強く、流産を招きました」

夢奈は病床に横たわり、うつろな目で天井を見つめていた。

医師は言葉を切り、さらに声を落とした。

「それから……今回の流産で子宮に深刻な損傷を負いました。今後……再び妊娠することは、極めて困難だと思われます」

妊娠は極めて困難……

夢奈はゆっくりと目を閉じた。

その存在を知る暇さえなかった、我が子……

大切に守り育てていくはずだった、宝物……

夫の愛人の子供に、殺されたのだ。そして自分も、母親になる資格を永遠に奪われた。
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