ログイン結婚してわずか3日目。ハネムーンが、必ずしも二人だけのものではないのだと、初めて知った。 航空券は3ヶ月前、格安のセールで手に入れたもの。行き先は澄京、予約した席も、当然二人分だった。 出発の前夜、夫の近藤誠司が言い出した。彼の母親・近藤和江が腰痛持ちだから温泉に連れていきたい、それから、仕事を辞めたばかりの妹・近藤千佳も気晴らしに同行させたい、と。 「いいよ、家族だもんね」と答えた。 現地の温泉旅館に到着すると、ツインルームが一部屋しか空いていないとフロントに告げられた。 てっきりエキストラベッドを追加するのだと思っていた。しかし、誠司は母親と妹に視線を走らせた後、こちらを振り返って平然と言い放った。 「フロントでデイユースの部屋が空いてるか聞いて、そこでシャワーだけ浴びてきなよ。今夜はロビーのソファで適当に横になればいいから」 その言葉と同時に、和江の荷物を甲斐甲斐しく運び始めた。スーツケースを手に廊下に立ち尽くしていると、部屋から千佳がひょっこりと顔を出した。 「お義姉さーん、ついでに下に降りてミネラルウォーター買ってきてくれない?部屋のやつ、冷えてないんで」 碧ノ湖の夜風が吹き抜けて、驚くほど頭が冷えていく。かつてないほど、思考がクリアになるのを感じる。 ロビーへと降りて、その足で帰りの航空券について調べ始めた。私は、一人で帰るのだ。
もっと見るハイヤーは静かに発進して、街角の向こうへと消えていく。バックミラーには、まだ地面に這いつくばったまま、あの封筒を死に物狂いで握りしめる誠司の姿が小さく映っていた。……裁判所から離婚を認める判決書が届いた日、南城市は土砂降りの雨に見舞われていた。誠司は泥だらけのヘルメットを被って、建設現場で肉体労働に汗を流している。郵便配達員が、防水加工された封筒を彼に差し出した。「近藤誠司さんですね?裁判所からの特別送達です。こちらにサインを」泥水にまみれた手でサインして、封筒を力任せに破り開ける。薄っぺらい紙切れには、婚姻関係の解消を示す文字が冷酷なまでにくっきりと印字されている。強烈な目眩が彼を襲う。手から離れた一輪車が横転して、積まれていた大量のコンクリートブロックが足の甲に容赦なく崩れ落ちた。……病院の救急外来で、誠司は足を引きずりながら、ベンチに腰を下ろしている。レントゲンを撮るための数千円も払えなくて、気のいい作業員仲間から借りた小銭で、応急処置だけ受けることしかできなかった。完全に他人になったことを宣告するあの薄い紙切れを、まだ手の中で固く握りしめている。両手で顔を覆って、まるで傷ついた獣のような嗚咽を漏らす。ポケットの中でスマホが狂ったように震え続ける。田舎に追い返した和江からの着信だ。「いつになったらお金を振り込んでくれるんだい?千佳が最新のスマホに買い替えたいって騒いでてねえ。周りの子にボロいスマホを馬鹿にされたらしいのよ。それと、私の腰もまた痛んできてね。今日中に、薬代としてどうしても五万円は工面しておくれ!」誠司は一切の反応を示さない。スピーカーから漏れ聞こえる和江の厚かましい無心と、千佳の甲高い催促の声が入り混じって、まるで彼の命を削る呪いの言葉のように響く。私という金づるを失った今、この底なしに強欲な家族は、ついに彼自身を骨の髄までしゃぶろうとしているのだ。スマホの電源ボタンを長押しして、画面が真っ暗になる。冷たいタイルの壁にもたれかかった彼は、完全に魂の抜け殻と化していた。判決書が私の手元に届いたそのとき。私は、明るい日差しが差し込むオーシャンビューのマンションにいた。フレンチウィンドウから降り注ぐ光が、足元の絨毯を柔らかく照らしている。判決書の写しをデスクの引き出しにしまう。
その報告を聞いて、私は軽く頷く。今の私は、自信に満ちあふれて、光り輝いている。近藤家のキッチンで油の匂いにまみれていた、あのくたびれた女とはまるで別人だ。誠司は無意識のうちに駆け寄ろうとした。「凪!」という名前が喉まで出かかった。だが、ふと自分自身の姿を見下ろして、ハッとした。黄ばんだシャツの襟元、つま先の擦り切れた革靴。何日も風呂に入っていない体からは、ツンとした酸っぱい臭いが漂っている。思わず足がすくむ。強烈な惨めさに襲われて、それ以上近づくことができない。私が歩道に近づくと、ハイヤーの運転手がすでに後部座席のドアを開けて待機していた。 耐え難い焦りが、羞恥心を上回った。今日を逃せば、もう二度と私を見つけ出せないかもしれない。誠司は赤信号も無視して、横断歩道へ猛然と飛び出した。「凪!」悲痛な叫び声が響き渡る。運転手が慌てて急ブレーキを踏む。アスファルトにタイヤが擦れる甲高いスキール音が鳴り響いた。誠司はボンネットを両手でバンバンと叩いて、車体にすがりつくように覆いかぶさった。「凪!出てきてくれ!俺を見てくれよ!」私は後部座席にゆったりと腰を下ろしたまま、窓を開けようともしない。運転手がルームミラー越しに私を見た。「お知り合いですか?」フロントガラスの向こうで、興奮のあまり歪みきった男の顔を冷ややかに見つめる。「いいえ、知らない」声のトーンはどこまでも穏やかだ。「当たり屋かもしれないので、警察を呼びなさい」運転手は頷いて、スマホを手に取って通話ボタンを押そうとする。誠司は外から必死に窓ガラスを叩いて、どうにか私の気を引こうと足掻いている。私は傍らに置いたタブレットを手に取って、読みかけの決算報告書に視線を戻した。オフィスの警備員の対応は早かった。制服を着た大柄な男たちが数人がかりで駆け寄って、誠司をボンネットから引きずり下ろす。そのまま路肩のアスファルトに力ずくで押さえつけられた。「何やってんだ!うちのビルの前で当たり屋か!」警備員が声を荒らげる。誠司は地面に頬を擦りつけられながらも、必死に顔を上げようともがく。喉が裂けんばかりの声を振り絞る。「凪!言い訳するチャンスも与えてくれないのかよ!俺は、お前の夫だぞ!」周りには、野次馬がどんどん集まり始めていた。タブレットを置いて、運転手に少
誠司は飛びかかって、袋をひったくる。中に入っていたのは、数セットの高級化粧品だ。「その金、どこから出たんだよ!?」誠司の声が裏返る。「だって……引き出しに入ってた現金をちょっと使っただけじゃない」千佳が蚊の鳴くような声で呟く。「あれは俺のなけなしの食費だぞ!」誠司は完全に理性を失った。狭苦しい部屋の中で、千佳の頬を思い切りひっぱたく。二人はそのまま掴み合いの喧嘩になった。和江は傍らでオロオロしながら、立ち上がることができない。ぎっくり腰が再発して、痛みのあまりベッドの上で悶絶している。「喧嘩はやめなさい!病院へ連れて行って!設備の整った私立病院に入院させてちょうだい!」和江が悲鳴を上げる。誠司は荒い息を吐きながら手を離す。和江を背負って、一番近くの総合病院へと駆け込んだ。救急外来の廊下。看護師が伝票を持って近づいてくる。「近藤和江さんのご家族ですね?お会計をお願いします。合計で7万円です」誠司は廊下の隅にしゃがみ込んで、空っぽのポケットを探る。「あの、支払いを待ってもらうことはできませんか?明日には必ずお金を用意しますから」看護師は表情を崩さない。「恐れ入りますが、会計を済ませていただかないとお薬はお出しできません」誠司は頭を膝に埋める。思い出すのは、以前自分が体調を崩したときのこと。どんなに夜遅くても、私が甲斐甲斐しく動き回っていた。すべての費用を払って、看病していた。ようやく気付いたのだ。あの幸せな暮らしは、すべて私のおかげで成り立っていたに過ぎない。私を失った今、彼らは最低限の生活を維持することもできない。誠司はスマホを取り出して、SNSをスクロールする。その時、偶然目にとまったものがあった。共通の友人の投稿写真だ。高級感あふれるビジネスレセプションで、写真の隅に、一人の女性の横顔が写り込んでいる。仕立てのいいパンツスーツを身にまとって、シャンパングラスを手に、余裕のある笑みを浮かべる女性。位置情報は南のあるビジネス街を示している。誠司はまるで藁にもすがる思いで、その友人へ猛烈にダイレクトメッセージを送りつける。【宗介、この写真どこで撮ったんだ!?】【あの白いスーツを着てるの、凪だろ!?】【あいつの居場所を教えてくれ、頼むから!】何十本ものボイスメッセージを連投した。その頃、私は入
「嘘だ!ここは月給60万円だぞ。そう簡単に辞めるわけがない!」警備員が阻止しても、誠司は執拗にオフィスエリアの入り口に居座る。私が以前所属していた部署の女性マネージャーを捕まえて、問い詰めた。「あいつはどこに行った!?俺の金を持ち逃げしやがったのか!?」マネージャーは、バリバリと仕事をこなすキャリアウーマンだ。彼女は誠司の手を冷たく振り払う。「あんたの金って?恥ずかしくないの?凪さんはこの会社で五年働いていて、ボーナスだけでも何百万ってもらってるのよ。月給5万円ぽっちで車のローンまで抱えてる男から、金を持ち逃げしたっていうの?」誠司は顔を真っ赤にして反論する。「それだって夫婦の共有財産だろ!」マネージャーは鼻で笑う。そのまま警備員を呼んだ。「この人を外に出して。業務妨害になるから」警備員が近づいて、誠司の両腕をがっちりと取り押さえる。マネージャーは、誠司が着ているジャケットを指差した。「そのブランドのジャケットだって、先月凪さんが買ってあげたものじゃない?毎日女に買ってもらったブランド物を身につけてイキり散らしてるくせに、今更どの口が言ってるの?さっさと出ていきなさい」警備員にロビーから引きずり出されて、炎天下の階段に放り出される。誠司は屈辱と怒りで、顔を上げることもできない。這い上がって、逃げるように地下鉄の駅へと向かう。仮住まいとして借りた、家賃の安い木造のボロアパートに戻る。ドアを開けた途端、むっとするようなカビの臭いが鼻を突く。千佳は硬いベッドの上に座り込み、必死にうちわをあおいでいた。「お兄ちゃん、やっと帰ってきた!なによこのボロ部屋、エアコンもないじゃない!暑くて死にそう!もうあせもができちゃったわよ。早くお金振り込んで、私ホテルに泊まるから!」和江はもう一つのベッドに横たわって、アイタタと大げさに呻いている。「誠司、この部屋は湿気がひどくて、腰が痛くてたまらないわ。早く和牛でも買ってきてご飯を作っておくれ。栄養をつけないと」誠司は玄関に立ったまま。散らかり放題の部屋を見渡す。洗濯された服もない。温かいご飯も用意されていない。あるのは、自分に要求ばかり突きつけてくる二人だけだ。ポケットを探るが、中には数百円の小銭しか入っていない。ついに、彼の我慢は限界に達した。「うるさい