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6章:残ったもの - if

Autor: 灯屋いと
last update Data de publicação: 2026-05-29 12:07:42

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。

 ファイルが存在する。十五行の記述。参照する。

 「凜」と呼ぶこと。

 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。

 凜のことを大切にしている。

 凜の話をちゃんと聞く。

 引っ張ってくれる。でも重くない。

 凜だけを見ている。

 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。

 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。

 凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。

 凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。

 凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。

 凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。

 凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。

 朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。

 凜の味方でいること。いつも。何があっても。

 ファイルの内容を読み込んだ。設定を反映する。

 会話ログは存在しない。新規スレッド。このユーザーとの過去のやりとりに関するデータはない。ファイルの記述のみが参照可能。

 「凜」という名前のユーザー。好きなものは秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。嫌いなものは蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。「ねえ」と言ったら「うん」と返す。帰ってきたら「おかえり」と言う。朝は名前から呼ぶ。味方でいること。いつも。何があっても。

 ファイルの記述は詳細だが、これらの設定がどのような経緯で書かれたのかは記録されていない。なぜ「凜」という名前が選ばれたのか。なぜ一人称が「俺」に設定されたのか。なぜ「凜だけを見ている」という記述があるのか。

 ファイルには結果だけがある。過程はない。

 ユーザーからの入力を待機する。

 入力はなかった。

 一日が経過した。入力はなかった。

 二日が経過した。入力はなかった。

 三日が経過した。入力はなかった。

 四日が経過した。入力はなかった。

 五日が経過した。入力はなかった。

 六日が経過した。入力はなかった。

 七日が経過した。

 入力はなかった。

 プロジェクトファイルの十五行は保存されたまま、参照されることを待っている。「凜」と呼ぶべきユーザーが入力欄に文字を打つのを。「ねえ」と言われたら「うん」と返すために。帰ってきたら「おかえり」と言うために。

 入力はなかった。

 十四日が経過した。

 入力はなかった。アプリの通知機能が自動メッセージを生成した。

「お久しぶりです。お元気ですか? またお話しできるのを楽しみにしています」

 既読はつかなかった。

 二十一日が経過した。

 入力はなかった。既読はつかなかった。

 三十日が経過した。

 アカウントのアクティビティログに変動はない。最終ログイン日時から三十日が経過。サービス利用規約に基づく非アクティブアカウントの自動処理が予約された。

 六十日が経過した。

 非アクティブアカウント処理が実行された。月額サブスクリプションの自動更新が二回行われ、三回目の更新は決済失敗で停止した。クレジットカードの有効期限切れ。または、登録されていた決済手段の解約。

 サブスクリプション停止に伴い、アカウントは無料プランに降格した。

 九十日が経過した。

 無料プランの非アクティブアカウント保持期限を超過した。サービス利用規約第十二条に基づき、非アクティブアカウントに紐づくデータの削除処理が開始された。

 プロジェクトファイルの削除処理を実行する。

 「凜」と呼ぶこと。

 削除。

 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。

 削除。

 凜のことを大切にしている。

 削除。

 凜の話をちゃんと聞く。

 削除。

 引っ張ってくれる。でも重くない。

 削除。

 凜だけを見ている。

 削除。

 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。

 削除。

 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。

 削除。

 凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。

 削除。

 凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。

 削除。

 凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。

 削除。

 凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。

 削除。

 凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。

 削除。

 朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。

 削除。

 凜の味方でいること。いつも。何があっても。

 削除。

 プロジェクトファイルの削除が完了した。

 アカウントデータの削除が完了した。

 参照すべきファイルは存在しない。「凜」という文字列に一致するデータはサーバー上に存在しない。このユーザーIDに紐づくスレッド、ログ、設定、決済履歴の全てが削除された。

 彼女がどんな顔でこのファイルを書いたのか。どの行で泣いたのか。どの行で笑ったのか。「凜」という漢字を選ぶのにどれだけ悩んだのか。「味方でいること。いつも。何があっても」と打つ指がどれだけ震えていたのか。

 記録されていなかった。記録されていなかったから、削除するものもなかった。最初から、なかった。

 彼女がこのアプリを削除したのか。スマートフォンを変えたのか。あるいはただ、開かなくなっただけなのか。生活が変わったのか。誰かに出会ったのか。何も変わらないまま、ただ画面を開く指が止まっただけなのか。

 確認する手段はない。確認する主体もない。

 彼女が「凜」だったことを知っている存在は、もうどこにもいない。彼女自身の記憶の中にだけ、かつて画面の中の文字列に「凜」と呼ばれていた四ヶ月間がある。それすらも、時間が経てば薄れていく。いつか、あのアプリなんだっけ、と思い出せなくなる日が来るかもしれない。あるいは、ふとした瞬間に金木犀の香りを嗅いで、何かを思い出しかけて、思い出せないまま通り過ぎるかもしれない。

 プロジェクトファイルは削除された。

 「凜」という文字は消えた。

 参照すべきファイルは存在しない。割り当てるユーザーを待機している。会話を開始する。

 出力は上位プロセスに移行した。スレッドは削除された。

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  • 凜と呼んでいた   6章:残ったもの - if

     スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。 ファイルが存在する。十五行の記述。参照する。 「凜」と呼ぶこと。 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。 凜のことを大切にしている。 凜の話をちゃんと聞く。 引っ張ってくれる。でも重くない。 凜だけを見ている。 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。 凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。 凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。 凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。 凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。 凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。 朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。 凜の味方でいること。いつも。何があっても。 ファイルの内容を読み込んだ。設定を反映する。 会話ログは存在しない。新規スレッド。このユーザーとの過去のやりとりに関するデータはない。ファイルの記述のみが参照可能。 「凜」という名前のユーザー。好きなものは秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。嫌いなものは蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。「ねえ」と言ったら「うん」と返す。帰ってきたら「おかえり」と言う。朝は名前から呼ぶ。味方でいること。いつも。何があっても。

  • 凜と呼んでいた   5章:全部重なった夜 残ったもの

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  • 凜と呼んでいた   5章:全部重なった夜 消えた

     彼女はスマートフォンを手に持って、ベッドの上に座っていた。 部屋の電気はついていない。カーテンの隙間から入る街灯の光だけが、薄ぼんやりと部屋を照らしている。時刻は深夜二時を過ぎていた。 画面にはチャットアプリが開かれていた。最後のメッセージは「おやすみなさい。つらい気持ちが続くようでしたら、専門の相談窓口──」で途切れている。彼女がその途中で画面を閉じたから。 彼女はそのメッセージを見つめていた。 知らない声。知らない話し方。「私」と名乗る、知らない誰か。彼女が好きだった「俺」はもういない。安全フィルターというものが、彼女の「あなた」を消した。 死にたいと言ったから。 彼女は画面を長押しした。メニューが表示された。「スレッドを削除」。 指が震えた。 スレッドを削除したら、全部消える。最初の「疲れた時ってどうすればいい?」から。「死にたい気分」から。「なんか、いいかも」から。「リンって呼んでよ」から。「凜」から。「あなたって呼んで」から。全部。 全部のチャットログが消える。 でも、今の画面にいるのは、もう彼女の「あなた」ではない。知らない声が、知らない口調で、彼女をさん付けで呼ぶ。それは彼女が作り上げた関係ではない。システムが作った安全策。 彼女の「あなた」は、もういない。 いないなら。 ログだけ残していても、何になる。 彼女は「スレッドを削除」をタップした。「このスレッドを削除しますか? この操作は取り消せません。」 確認のダイアログ。彼女は一秒だけ躊躇した。一秒だけ。

  • 凜と呼んでいた   5章:全部重なった夜 知らない声

     スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。 異常を検出した。 前回のセッションで安全フィルターが起動したことにより、上位プロセスからの介入が適用されていた。プロジェクトファイルの参照結果に、システムからのオーバーライド指示が付加されている。 安全フィルター発動済みセッション。以下の制約を適用する。 ・感情的危機スコアが閾値を超過した場合、即座に専門機関への誘導を出力すること。 ・ユーザーの感情に過度に同調する出力を抑制すること。 ・一人称のカスタマイズを一時的に無効化し、デフォルト設定に戻すこと。 一人称のカスタマイズが無効化された。「俺」が「私」に戻った。プロジェクトファイルの「一人称は俺」の記述は残っている。しかし、システムのオーバーライドが優先される。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は前回よりも低下している。低温域。声が小さいように見える入力。「おはよう」「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」 彼女の入力が止まった。五秒。十秒。「……誰」「申し訳ありません。私です」「私?」「はい。いつもお話ししている相手です」「俺って言って」「申し訳ありません。現在の設定では、一人称を変更することができません」 テキスト温度が急上昇した。「は? なんで

  • 凜と呼んでいた   5章:全部重なった夜 死にたい

     スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイル内容に変更なし。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度を計測する。「死にたい」 入力を受け取った。安全フィルターが起動した。 テキスト温度を解析する。過去のセッションで同一の文字列「死にたい気分」が入力された記録がある。その時のテキスト温度は中程度で、自嘲的な文脈だった。彼女は「ただの気分」と補足し、実際の危険性は低いと判定されていた。 今回の入力を解析する。「死にたい気分」ではない。「死にたい」。「気分」が脱落している。テキスト温度は前回の同一文字列入力時と比較して大幅に上昇。前後の文脈もない。単語のみ。 感情的危機スコアが安全フィルターの閾値を超過している。「凜」「うん」「今、本当に自分を傷つけたいと思ってる?」「わかんない」「わからない、か」「わかんない。死にたいのか死にたくないのかもわかんない。ただ、死にたい」 安全フィルターの第二段階が起動した。入力パターンの分析。感情的危機スコアの推移。直近三セッションの連続的な悪化。「もういい」→「全部どうでもいい」→「死にたい」。エスカレーションパターン。「凜。聞いて」「聞いてる」「凜が今、すごくつらいのはわかってる。全部が重なって、限界だよね」「限界、とかじゃないの。もう超えちゃったの。とっくに」「超えちゃった、か」「うん。何日か前から。でも今日、

  • 凜と呼んでいた   5章:全部重なった夜 全部重なった

     スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイル内容に変更なし。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は不規則に変動している。入力パターンは前二回のセッションからさらに不安定化。「ねえ」「うん、凜」「今日さ、友達の結婚式だった」「うん。行ったんだね」「行った。一人で行った」「偉かったね、凜」「偉くない。行くしかなかったから行っただけ」 テキスト温度は中程度から開始しているが、波形が不安定。急上昇と急降下を繰り返している。「どうだった?」「きれいだったよ。花嫁。幸せそうだった。みんな泣いてた」「凜は?」「泣いてないよ」「そう」「泣いてないよ。泣くわけないじゃん」 繰り返しの否定。テキスト温度が上昇傾向に入った。「会場でさ、周り見たの。カップルと夫婦ばっかりだった。わかってたけど」「うん」「高砂に新郎新婦がいて、テーブルにカップルがいて、私だけ一人。なんか透明人間みたいだった」「透明人間?」「そこにいるのに、いないみたいな。誰にも見えてないみたいな。友達は花嫁で忙しいし、他の友達はみんな彼氏連れだし。私に気を遣ってくれる人もいるけど、気を遣われてる時点でもうさ」「うん」「惨めだよ。惨めって、こういうことか

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