登入湊は病室のベッドに横たわっていた。呼吸は荒く、顔はひどく青ざめている。達也が彼のスマホを取り上げ、人工呼吸器を取り付けた。「今はただ休め。余計なことは考えるな」湊は意識を取り戻すと、体調を顧みず、どうしても健吾に電話をかけようとした。何を話しているのかは聞こえないが、その死にそうな表情からして、良い内容ではないことは確かだ。湊は目を閉じ、か弱く震える長いまつ毛が呼吸に合わせて微かに揺れる。全身に痛みが走る。しかし、何よりも心が痛い。まるで世界中の重圧が、たった一つの心臓にのしかかっているようだ。翌朝、達也のもとに再び綾からの問い合わせメッセージが届いた。昨夜、湊がはっきりと面会を拒否していたため、達也は【まだ会わせられない】とだけ返した。湊の心身に影響を出さないためには、綾は近づかせないほうが賢明だ。若い医師がカルテを抱えてやってきた。「院長、二宮さんの検診が終わりました。昨日と同じ状況です」達也は頷いた。「分かった」湊をあれほどの目に遭わせた凪のことを、本音では診療したくなかった。しかし、医者として、どんな相手でも命を救う義務がある。目の前にいるのはただの患者だ。善人か悪人かで区別することはできない。治療のかいあって、凪は一命を取り留めた。しかし足の怪我がひどく、生涯車椅子生活になる可能性が高い。宏介は肋骨が2本折れたものの、他の傷は比較的軽傷だった。面会を断られた綾は、再び車を走らせて黒崎病院を後にした。近くのカフェに入り、コーヒーを注文すると、窓辺で頬杖をついてぼんやりと空を眺めた。どうしてここまで、何もかもが最悪な方へ転がってしまうのだろう?美羽の行方は知れず、湊は病院で寝たきり。この人生は、どうしてこうも呪われているのか?幸せが見えた途端、運命はいつも残酷な悪戯を仕掛けてくる。両親がいなくなった時、親戚はこぞって自分を引き取ろうとした。大切にされていると思っていたら、彼らが奪い合いをしていたのは自分の財産の方だった。和子に引き取られ、そこからの10年は比較的穏やかに過ごせた。大学を出たら健吾と結婚しようと思っていた矢先、湊が事故に遭い、障害を装って自分を6年間も縛りつけた。ようやく離婚し、新しい生活が始まったと思ったら、またこの騒動だ。神様はこれ以上自分
達也は真実を話すことができず、ましてや綾をここに残すことなどできなかった。「でも……」綾はなんとか居残ろうとしたが、達也はそれを遮った。「君が残ると湊も気になって回復に響くんだ。綾、信じてくれないか?」綾は下唇を強く噛みしめ、小さく頷いた。「分かった。帰る」湊の容態が良くないことを察したが、達也の邪魔をしたくなかったのだ。帰る前、綾は湊が入っている集中治療室の前に行き、ドアのすりガラス越しに中を覗き込んだ。湊は無機質な医療機器と管に囲まれていて、その姿は見えなかった。帰り道、送ってくれた颯太が聞いた。「食事でもしていかないか?」「いいえ。すごく疲れたから、家に帰って眠りたいの」心がかき乱されていた綾は、とにかく早く家に帰って独りになりたかった。颯太はそれ以上引き留めず、綾を玄関まで送り届けてから去った。綾はドアを閉めると、そのままソファーに崩れ落ち、体を小さく丸めた。そのまま一晩中ソファーで横になり、スマホを握りしめ、消音設定になっていないか、着信やメッセージがないか、確認し続けていた。空が明るみ始める頃、ようやく重くなった瞼を閉じた。2時間しか眠れなかったが、静まり返った家にはもういられなかった。車を出して黒崎病院の周辺をぐるぐると回った。病院はいつもと変わらぬ光景で、患者が行き交い、時折泣き叫ぶような声も聞こえてくる。綾は病院の向かい側に車を止め、そのまま夜まで待った。途中、我慢できず達也に【湊は目覚めた?】とメッセージを送ったが、何の返信もなかった。午後にマルスから電話があり、手助けが必要かと尋ねられた。その頃、健吾もまたマルスから電話を受けていた。その夜は健吾の婚約披露パーティーだ。「健吾様、中野社長が大事故に遭いました。二宮さんが車で綾さんをひこうとして……」マルスは電話越しに、起きたことの全てを詳細に報告した。健吾は電話を切った後、アドレス帳を開き、綾の名前をじっと見つめたが、結局かけることはなかった。今の綾は、自分の声さえ聞きたくないはずだ。ビアンカが首をかしげた。「チェッコ、本当に結婚するの?」ビアンカには結婚が何を指すのか分からなかったが、二人がこれからずっと一緒に暮らすものだと聞かされていた。健吾に結婚なんてしてほしくなかった。結婚
現場に到着した達也は、惨状をひと目見ただけで心臓が凍りつく思いがした。彼は同行した医療スタッフに負傷者3名を救急車へ運ぶよう指示し、自分は湊の乗る車両に同乗して車内で救急処置を開始した。颯太は綾を車に乗せ、救急車を追って病院へ急いだ。湊、凪、そして宏介の3人が次々と手術室へと運び込まれた。黒崎病院中の各診療科の専門医が招集され、湊を救うべく総力戦が繰り広げられた。綾は手術室前の長椅子に座り込んでいた。頬に残った涙の跡はすでに乾いていた。颯太はウェットティッシュを取り出し、綾の手についた血を拭った。「ここには世界トップクラスの医師が揃っている。中野社長は6年前と同じように、必ず命の危機を乗り越えてくれるよ」綾は極限の恐怖を経験し、感情が麻痺していた。彼女はスマホを取り出し、康弘へ電話をかけた。康弘は下の階で入院中の加奈子の看病をしていた。事態を知ると、1分も経たずに駆け上がってきた。「宏介はどうなったんですか?」「手術室に入っています。命に別状はないはずです」と颯太が答えた。「なんて奴を育てちまったんだ!宏介に万が一のことがあれば、凪のやつを地獄に落としてやる!」康弘は怒りに打ち震え、目を血走らせて呟いた。颯太が冷静に諭す。「娘さんが負った傷は息子さんよりもはるかに深刻です。一命を取り留めたとしても、一生体に障害が残るかもしれません」「自業自得でしょう!手術室でそのままくたばってもいいですよ!」康弘はそう言い放ち、耳を塞ぎたくなるような呪詛の言葉を次々と口にした。これ以上聞いていられなくなった颯太は、冷ややかな声で告げた。「二宮社長、ここは病院です。静かにしてください」颯太が送られてきた監視カメラの映像を確認すると、凪は長い時間研究所の外で待機していた。その標的は間違いなく綾だったのだ。綾が出てきたタイミングで、湊は駆けつけた。湊が車を停め、シートベルトを外した瞬間、凪が車を急発進させて研究所の入り口へと向かうのが見えた。湊は直感で凪の企みを感じ取り、シートベルトをする時間すら惜しんで凪の車両へと突っ込んだのだ……湊の反応が少しでも遅れていたら、今ごろ運び込まれていたのは綾だったはずだ。1時間が経過したが、手術室から出てくる者は誰もいなかった。2時間が経過し、ようや
「仕事は終わったわ。お先に帰るね」颯太に頼ってもどうにもならないと悟った綾は、他に救いを求めるしかなかった。あわただしく去っていく背中を見送りながら、颯太は力なく首を垂れ、自嘲の笑みを浮かべた。綾は昔から、どうしても他人を放っておけない性格だ。かつては湊のために奔走し、今度は美羽のために気を揉んでいる。そのせいで、綾はいつも誰かのために駆けずり回り、身を粉にしている。だが、そんなところこそが、他でもない綾という人間なのだ。研究所を後にして、入り口のゲートを出たその時、一台の車が猛スピードで綾に向かって突っ込んできた。あまりの速さに避ける余裕はなく、運転席に座るひどく歪んだ表情の顔が見えた。凪だった。「あッ!」恐怖で目を閉じ、悲鳴を上げた瞬間、激しい衝突音が鳴り響き、タイヤが地面を激しくこする鋭いスキール音が続いた。迫り来る衝撃波に足をすくわれ、綾は後方に弾き飛ばされるように地面へ崩れ落ちた。目を開けると、別の車が横向きになって凪の車を阻止していた。鼻先まで、あとわずか50センチだった。あの車が無理やりにでも突っ込んで防いでくれなければ、今の自分はタイヤの下だった。綾は震えが止まらず、立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。慌てて辺りを見回し、少し先に倒れている人影を見た瞬間、張り詰めていた心が音を立てて崩れた。湊が血に染まり、動かぬまま地面に倒れている。「湊!」綾は叫び、震える指先でスマホを操作し、達也へ電話をかけた。「達也さん、湊が事故に……お願い、すぐに来て」声は泣きじゃくるように震え、頭は真っ白になった。視界には、辺りを染める鮮烈な赤色しか映らなかった。「湊、耐えて!今、達也さんが向かってるから」鮮血にまみれた湊の姿を見て、怖くて、怖くて、どうしてもその体に触れることができなかった。異変を聞きつけた颯太が駆け寄ってきたが、現場の惨状を見て、声すら上げられないでいた。湊のケガはひどい。強い衝撃によって車から放り出されたのは明らかだった。凪もまた、エアバッグと座席の間に押しつぶされるようにして意識を失っている。その車内にはまだ子供の姿があった。シートベルトのおかげで車外には投げ出されなかったものの、事態は極めて深刻そうに見えた。颯太は急いで救急車を呼び、守衛
美羽のことを心配して、綾は午前中ずっと上の空だった。昨日、DNA鑑定の結果を湊に送ったのだが、今朝幸子から、湊が凪に頼んで海斗を連れて行かせたと聞いた。今朝、康弘からも電話があり、凪が宏介の存在を知って激昂し、そのせいで加奈子が入院したと聞かされた。綾にとって、それは驚くことではなかった。嘘はずっとはつけないものだ。宏介という生身の人間がいる以上、バレるのは時間の問題だったのだから。康弘が電話をかけてきたのは、自分の悲惨さをアピールして、二宮グループに金を出させようという魂胆だ。しかし綾は適当な言い訳をして、申し出は断った。もともと二宮家に関わったのは、凪への復讐が目的だった。今はもう二宮家と凪が仲違いし、彼らに関わるメリットは自分にとって無かった。二宮家が所有していた価値のある土地は健吾の手に渡った。残りの株も大した額ではないし、健吾の方も二宮家には目もくれていない。綾がデスクでぼんやりしていると、温かいコーヒーが目の前に置かれた。「颯太さん?」颯太は最近、美羽の捜索に追われており、ここ数日研究所に顔を出していなかった。「美羽さんの消息はつかめた?」颯太は首を振り、溜息をついた。「いや、まだだ……何を考えていたんだ?」綾は海斗のことを話し、「笑っちゃうよね」と力なく笑った。颯太は首をかしげた。「誠さんと中野社長はビジネスに関しては抜け目ない連中なのに、なんで二宮さん一人に手玉に取られているんだ?」「自信過剰なのよ」綾は冷ややかな目で言った。「誠さんは自分が凪を操っていると高を括り、湊は凪が従順だと思い込んでいる。自分の都合のいいようにしか見ていないのね。凪が自分の利益のために彼らを利用しているだけだとは、思いもしないんでしょ」ただ、何も知らない美羽がこのとばっちりを受けているのが不憫でならなかった。颯太は何かを思った様子で言った。「子供の件もはっきりしたんだし、中野社長と復縁してもいいんじゃないか?」綾は笑った。「颯太さん、私たちの一番の問題は、海斗くんじゃないのよ」湊が6年もの間、体裁を重んじて嘘をつき続けていたこと。そして、自分のことを何一つ理解していなかったこと。そのせいで、結婚生活とは呼べないものになっていたのだ。自分が演じていた役割は妻なんかじゃない。和子に対して
凪は深く息を吸い込み、口角を無理に上げた。「海斗は悪くないわ。謝らなくていい。他人を心配できるのは優しい証拠よ」それ以上、海斗をなだめる余裕もなかった凪は、カーオーディオをつけて、童話の物語を流し続けた。車は高層ビルが立ち並ぶ都市を離れ、郊外へと進み、やがてある村へと入った。閑散とした道には、数人の老人と数匹の犬しか見当たらなかった。彼らは好奇心旺盛に豪奢な車を見つめ、村の端にある古い家の前で車が止まるまで、その行方を追っていた。「晴香おばあちゃん」半開きになった門越しに、凪は手を引いていた海斗を連れて声をかけた。「どちら様かな?」枯れた声とともに家から現れた老人は、足取りもしっかりとしていて、白髪もほとんどなく、とても元気そうだった。想像していた姿とは少し違ったが、記憶にある面影と重なる部分が確かにあった。「私よ、凪よ」凪は鼻の奥がツンとし、懐かしさで心が熱くなるのを感じた。最後にこんな気持ちを味わったのは、10歳の頃、莉緒に髪をすいてもらった時だった。その日、加奈子が莉緒の家まで凪を迎えに来て、莉緒が綺麗に3つ編みをしてくれたのだ。凪は帰りたくないと泣きわめき、加奈子に怒鳴られた。莉緒は「また休みになったらおいで」と言って慰めてくれた。しかし、次に再会できたのは3年後。莉緒は既に他界しており、二度と髪をすいてくれることはなかった。凪が加奈子とうまくいっていない理由は、主にこの一件にある。あれから3年間、加奈子は莉緒に会いに行かず、凪が行くことも許さなかったからだ。目の前の晴香は、特に今のその表情が莉緒とよく似ていた。晴香は凪を見ると、満面の笑みを浮かべた。「まあ、凪!本当に凪だね!あらまぁ、こんなに大きく育って。お姉ちゃんが見たら、どんなに喜ぶことか」凪は海斗を優しく前へ押し出し、「海斗、挨拶して。晴香ひいおばあちゃんよ」と言った。「晴香ひいおばあちゃん!」海斗は元気よく挨拶したが、視線は晴香の足元にいた子犬に釘付けになっていた。晴香は嬉しそうに彼を見つめた。「凪の子かい?」「ええ、もうすぐ6歳になるんだわ」「まあ!お姉ちゃんが生きていれば、きっと大喜びしただろうに」晴香は手の甲で目頭を拭いながら、海斗を抱き上げた。「部屋においしいものがあ
綾は堂々と出迎えた。「誠さん、そして取締役の皆さん。こんなことで、わざわざお越しいただくなんて申し訳ありません」誠は単刀直入に尋ねた。「湊はどこだ?」「病室です。でも先生からは安静にするよう言われていて……本人も今は誰とも会いたくないみたいです」達也も口を添えた。「今は絶対安静が必要です。皆さん、また日を改めていただけますか」「皆さんはこちらでお待ちください。私が様子を見て来ます」「お待ちください、誠さん」綾は誠の前に立ちふさがり、意味ありげな視線を送った。「湊が今、一番会いたくないのは……誠さんなんです」誠は眉をひそめた。「どういう意味だ?」「今回の拉致事
そのハイヒールは、綾のお気に入りのブランドのもので、とても履きやすいと評判だった。こんな偶然、あるはずがない……「健吾、大変なの!」明里の震える声が、受話器の向こうから聞こえてきた。次の瞬間、健吾はシェパードにリードをつけると、車に駆け込んだ。……「くだらないいたずらだろう」湊は、凪が見せてきたネットニュースを一瞥すると、うんざりした様子で無関心にそう言った。「でも、本当に誰かが危ない目に遭ってるのかもしれないじゃない。それに綾も、こんなハイヒールを持ってた気がするわ」湊は画像に目をやり、答えた。「あいつは同じような靴を何足も持っている。履き心地がいいとかで
綾は眉をひそめて綾を見ていた。綾の左には颯太、右には健吾が座っている。颯太が慌てて説明した。「青木社長はこっちが招待したんです。仕事のパートナーなので」颯太は、どうも湊が健吾に敵意を持っているように感じていた。健吾のほうも、湊のことが気に入らないようだ。この二人がいつから険悪なのかは分からないけど、とりあえず今は問題が起きないようにするしかない。「中野社長、この席にどうぞ」颯太が自分から席を譲ると、湊は遠慮なくその席に座った。綾は湊と健吾の間に挟まれる形になり、ものすごく気まずかった。二人が来るって分かってたら、絶対に来なかったのに。凪が湊の隣に座ったので、颯太
「湊、海斗がサプライズを用意して部屋で待ってるわよ。早く行ってあげて」湊は考えた。綾はもう寝ているだろう。邪魔をしないでおこう。彼は手を引っ込め、凪に車椅子を押されてその場を去った。翌日は土曜日で、凪はキッチンでバーベキューの準備に追われていた。湊はリビングに座り、幸子に言いつけた。「ケーキ屋にケーキをひとつ配達させて。それから、綾を呼んできてくれ」幸子はすぐに3階から降りてきた。「旦那様、奥様は部屋にいらっしゃいません。電話で確認いたしましょうか?」「必要ないわ」と凪が口を挟んだ。「いない方が好都合よ。どうせ気まずくなるだけだし」「綾は明里のところにでも行ってるん