Masuk良樹と市原慎司は部活でサッカー部に入ってる。
だから部活の有る日は帰りの時間が志保と合わないのだが、志保はいつも部活が終わるのを待っている。図書室で時間を潰してるらしい。 「別に待ってなくても、先に帰っていいんだぜ?」 何回もそう言っているのだが、志保はそれでも待っている。そんな彼女が、その日は休み時間に、申し訳なさそうにこう言った。
「ゴメンね、よしくん。今日は美咲ちゃんちで中間テストの勉強をすることになったの……だから、先に帰ってもいい?」 「いや、別にいいって。前から何度も言ってんじゃん。俺が部活の日は先に帰っていいんだぜって」 「そうだけど、1人で帰るのつまんないんだもん」 志保は口を尖らせながらそう言った。まあその気持ちは、良樹もわからないでもない。 「それはいいけど、帰りあんまり遅くなるなよな。1人なんだからさ」 「うん、わかってる。あんまり遅くならないよう市原は、勇気を振り絞って当たり障りのにない会話を試みた。 「……今日の奈良、どうだった?」「うーん、お寺とか神社の良さって正直よくわからないんだけど、友達と一日一緒に出掛けてるみたいで楽しかったな」 渡辺は、にこやかに答える。しかし、ふと真顔になって市原に尋ねた。 「ねえ、市原くん」「な、なに?」「市原くんって、川島くんの親友だよね?」「え? あっ、ま、まあね」「川島くん、なにかあったのかな。なにか聞いてる?」「え……? どうかしたの?」「なんか川島くん、ずっと上の空でさ。私と一緒にいても全然楽しくなさそうだし……もしかして私、何かしちゃったのかな……」「……」「さっきも、夜部屋に来てねって言ったら、正直だりーとか言われちゃって……冗談だって言ってたけど」 その、か細く不安げな声。普段の彼女からは想像もできない、あまりにも儚げな横顔。 ――違う。君は、何も悪くないよ。悪いのは、全部川島なんだ。アイツが君を、こんな顔にさせてるんだから。 「……アイツは、バカなんだよ」 市原は、気づけばそう呟いていた。 「え……?」「川島は、悪気があるわけじゃないんだ。ただガキなだけなんだよ。自分がどれだけ幸せな場所にいるのか、アイツは全然わかってない……だから、渡辺さんが気にする必要は全くないと思うよ」 それは親友を庇っているようで、その実、最も手厳しくその本質を断罪する言葉だった。 渡辺は、驚いたように市原の顔をじっと見つめた。 「……市原くんって優しいんだね。川島くんのこと、庇ってくれるんだ」「庇ってるつもりはないよ。た
市原慎司のグループが宿泊するホテルに着いたのは、良樹たちよりだいぶ後だった。 (楽しかったけど、さすがにちょっと疲れたなぁ) とりあえず部屋に行って少し休みたい。ゴロゴロしたい。そんなことを考えながら、彼はグループの仲間とともにロビーへと入った。 「ねえ、市原くん。少しおみやげ物とか見ていかない?」 グループの女の子たちにそう誘われた市原は、内心では早く部屋で休みたいと思いつつ、彼女たちに付き合った。女の子からの誘いを断るという選択肢は、彼の中にはない。 「市原くんは、今日楽しかった?」 女の子の一人がそう尋ねた。 「もちろん楽しかったよ。神社とかお寺とか正直興味ないけどさ、キミらと同じグループだからかな、すごく楽しかったよ」 女の子たちが頬を赤らめた。こうして彼は、また女子人気を高めていく。 「んっ?」 売店のある場所はロビーに近い。そこで話し込んでいる良樹と渡辺の姿が、市原の目に飛び込んできた。 (……ちっ!) 彼は内心で舌打ちしながらその場を通り過ぎようとした。あまり見たくない光景だからだ。 そして良樹たちの前を通り過ぎようとした時、ふたりの会話が漏れ聞こえてきた。 「川島くん、今日の夜の約束、忘れないでね?」「わかってるって。……あー、でも、だりーな。一日中、江藤と藤原と一緒で、マジで疲れたわ。正直、部屋でゴロゴロしてえ」「え……」「わりいわりい、冗談だって! 絶対行くから、待ってろよな!」 良樹がヘラヘラと笑いながらそう言い、それを聞いた渡辺が、少しだけ傷ついた顔で作り笑いを浮かべている。 その光景を見て、市原の頭の中で何かが、ぷつりと切れた。 腹の底から、黒いマグマみたいな何かが、せり上がってくる。 ――コイツ…&
「……何ボサッとしてんのよ、川島」 いつもの、棘のある声がした。いつの間にか隣に来ていた美咲が、良樹の脇腹を肘でつついた。その目は、全く笑っていない。 「アンタが当たり前だと思ってた特等席。志保の隣であの子を笑わせるっていう、アンタだけの特権……見てみなよ」 美咲は顎で、穏やかな光景を指し示した。 「その席、もうアンタのじゃないよ。とっくに他の誰かが座ってる。……いい加減、気づいたら?」 そのナイフのように冷たい言葉の意味を、良樹は、まだ完全には理解できなかった。 ただ志保と藤原と、そして子鹿が作り出す穏やかで完璧な、自分の入り込む隙間がどこにもない光景を呆然と眺めていることしかできなかった。 一日の見学を終え、良樹たちはホテルへと戻った。 一日中歩き回って、身体は鉛のように重い。 「じゃあ、また夕食の時に」 藤原がそう言って、男子の部屋の方へ消えていく。 「志保、部屋行こ」 美咲が志保の腕を引いて、女子の部屋へ向かおうとした、その時だった。 「あ、槇原さん」 一人の男子が、少し照れたように志保に声をかけた。良樹も知っている、別のクラスの爽やかで人気のある男だ。 「もしよかったら、この後、売店とか一緒に見に行かない?」「え……」 志保が戸惑っていると、美咲がまるでガードマンのように、すかさず前に出た。 「ごめん、志保は疲れてるから。また今度にしてくれる?」 そう言ってピシャリと断り、志保を連れてさっさと行ってしまった。 その一部始終を、良樹は、少し離れた場所から、見ていた。 (……江藤が言ってたこと、本当だったんだな) 美咲が言
京都駅で新幹線を降りて、在来線に乗り換えて奈良へ。 さらに駅からバスへ乗り込み、最初の目的地である東大寺に着いた頃には、もう昼近かった。 「うわーっ! でっけえな、南大門!」 目の前に現れた巨大な門を見上げ、良樹は思わず声を上げた。教科書で見たことはあったけれど、実物は想像以上の迫力だった。 しかし、その感動を分かち合おうと隣を見ても、誰も彼の興奮に応えてはくれなかった。 藤原は「あの金剛力士像は運慶・快慶が中心となって……」と、しおりに書かれた説明を真面目に読み上げ、志保は……。 「ねえ、すごいね!」「うん、すごい……なんか、圧倒されちゃうね」 志保は良樹ではなく、美咲の袖をそっと引きながら小さな声でそう呟いた。 大仏殿の中は、ひんやりとした空気に満ちていた。 見上げるほど巨大な盧舎那仏像。その荘厳な姿の前に立てば、自分の悩み事がちっぽけなものに思えてくる……なんてことは全くなく、四人の間の気まずい空気は、大仏の慈悲をもってしても和らぐことはなかった。 「すごい迫力だね。写真で見るのとは、全然違う」 藤原が、感心したように呟く。 「そうだね。本当に大きい……神々しいっていうか、あ、仏様だから神々しいはおかしいのかな?」 志保が目の前の大仏を見上げながら、そう言った。 その横顔を藤原が、どこか切なげな、しかし、慈しむような優しい目で見つめていることに良樹は気づいてしまった。 そして、そんな藤原の視線に気づいた美咲が、眉をひそめながら鋭い視線を良樹へと突き刺してくる。 (……なんだよ、この空気は!) たまらなくなった良樹は、一人その場から逃げるように、足早に離れた。 昼食は、班ごとに決められた店で
僕が抱えている、この腹の底で渦巻く黒くて重たい感情は、オマエとの友情や槇原さんへの同情だけじゃないんだよ。 僕が本当に腹を立てているのはさ、お前がいま楽しそうに話しているその幸せが、僕がずっと喉から手が出るほど欲しかったものだからなんだよ。 渡辺一美さん。 僕が彼女を好きになったのは、いつからだったか。 一年で同じクラスだった時、いつも窓際で窓の外を眺めていた彼女の横顔を、僕は何度も盗み見ていたんだ。 少しキツそうな目つきとは裏腹に、時折見せる笑顔の落差がたまらなく可愛くて、ちゃんと話してみたいとずっと思っていたんだ。 でも、不良っぽいという噂や彼女が持つ独特の空気に気圧されて、結局僕は一度もまともに話しかけることすらできなかった。 二年になって、クラスが別々になって。それでも、廊下ですれ違うたびに目で追っていたよ。いつか、きっかけさえあればって、そんな淡い期待を抱いていたんだ。 そんな時だ。オマエが渡辺さんと親しげに話しているのを見かけたのは。 席が隣になったからだと、最初はそう思っていた。でも日に日に楽しそうになっていく様子を見るたびに、胸の奥が軋むような痛みに襲われたんだ。 そしてあの日「渡辺と付き合うことになった」と川島から報告された時、僕は笑って「よかったな」と言うことしかできなかった。親友の幸せを祝福するフリをすることしか。 そうだよ、僕はあの時、心から祝福なんてしてなかった。祝福したフリをしていただけなんだ。 (なんで、オマエなんだよ……) イヤホンから流れるギターの音が、頭蓋骨に直接響く。 オマエには槇原さんという、あんなにも一途に想ってくれる可愛い女の子がすぐそばにいるじゃないか。 なのにその存在に気づきもせず、気づこうともせず、あろうことか僕がずっと恋焦がれていた女の子まで手に入れてしまった。 神様がいるなら教えてほしい。どうしてこんなにも、人の気持ちは上手くいかないようにできているんだろう。どうしてそうしたんですか。 ――いや違う。神様のせいじゃ
市原は、周りには聞こえないような低い声でそう言うと、藤原の隣の女子生徒に「ごめん、少しだけ席、代わってくれる?」と、爽やかな笑顔で頼み込んだ。彼女は、顔を赤らめながら、すぐに席を立った。 藤原の隣に、市原が深く腰を下ろした。 (なんで市原くんが?) 藤原は困惑していた。市原は良樹と並ぶ有名人なのでもちろん知ってはいるが、個人的な接点は全くない。おそらくまともに話したこともないはずだ。 「……大変なグループになっちゃったね」 市原はそう言って、修学旅行のグループに触れた。 「……うん。まあね」「あいつ……川島のこと、どう思う?」 ストレートな問いだった。藤原は、言葉を選びながら正直に答えた。 「少し……危うい感じがする。この前の球技大会だって、春の大会の時とは全然違ったから」「……だよね」「なにか、あったの?」「あったと思うよ。ただ、当の本人は何もわかってないんだろうけどね」 市原はそう言って、通路の向こう側で渡辺と楽しそうに話している良樹の横顔を、一瞬だけ冷たい目で見つめた。 「あいつは今、もう自分も周りも見えてないんだ。だから……」 市原は、再び藤原の方へと向き直った。その瞳は、先ほどまでの冷たさとは違い、真剣で、どこか懇願するような色を帯びていた。 「……槇原さんのこと、頼むな」 あまりにも短い、しかし、あまりにも重いその一言。 藤原は、ゴクリと唾を飲んだ。 それは、ただの頼み事ではない。かつて志保の隣にいた男の親友が今、志保の隣に座るかもしれない自分に、彼女の未来を託しているように彼には感じられた。 「……うん。わかってる」







