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第2話

Author: まめだれ
翌日。

寝室のドアを開けると、律人はアイランドキッチンに立ち、ベーコンを焼いていた。

物音に気づいて振り返った律人の目元に、金縁眼鏡の奥でわずかな笑みが浮かんだ。

「起きたか。ちょうどよかった」

目玉焼きとベーコンを盛りつけた皿をテーブルに運びながら、律人は自然な口調で言った。

まるで昨夜、書斎であんな冷酷な言葉を口にしたのが、別人だったかのように。

「詩織、結婚7周年おめでとう」

私はその場に立ち尽くした。

この7年間、記念日にはいつも、律人が自分で料理を作ってくれていた。

「先に白湯を飲め」

彼は椅子を引きながら、薄い書類を私の前へ滑らせた。

「朝食を食べたら、これに署名してくれ。あまり時間がない。できれば午前中に、君の個人アカウントから出してほしい」

私は目を伏せた。

それは結婚記念日の贈り物などではなかった。

隙なく作り込まれた「謝罪声明」だった。

内容は、昨夜の最終回の放送で、パーソナリティとして不適切な誘導を行い、電話出演者のプライバシーを侵害したことを認め、その結果生じたネット上の騒動と精神的苦痛について、私が全面的に責任を負うというものだった。

「これは、どういうこと?」

自分でも驚くほど、声は平静だった。

律人は私の向かいの椅子を引いて座ると、わずかに眉を寄せた。

「昨夜の電話相談の音声が一部だけ切り取られて、ネットに拡散された。同じ学科の学生が、あの子の声だと気づいたらしい。今は大学の掲示板も動画サイトも、あの子を非難する書き込みであふれている。既婚者だと知りながら関係を持った、常識がないってな」

律人は一度言葉を切った。

「詩織、ネットの誹謗中傷は、放っておいて済む話じゃない。美羽は精神的に脆くて、昨夜から身体にも症状が出ている。番組はもう放送休止になった。君は長くこの仕事をしてきた人間だろう。君が責任を引き受けて、あれは番組上の演出だったと説明すれば、世間の矛先も変えられる。それが、美羽を守るにはいちばん確実な方法だ」

あまりにも滑稽だった。

7年前。

私が原稿を読み間違え、ネットで激しく叩かれたとき。

律人は夜通し資料を調べ、専門知識を使って内容証明を送り、私に向けられたあらゆる悪意から守ってくれた。

それが7年後。

同じようにネット上の誹謗中傷が起きた今、法律と規律を何より重んじてきたはずの男が、自ら声明文を作成し、妻に不倫相手の身代わりになれと迫っている。

「私が署名しないと言ったら?」

私は律人の目をまっすぐに見た。

「私は番組の進行役として、果たすべき責任を果たした。放送上の規則にも違反していない。律人、あなたは法学者でしょう。この件で私に落ち度がないことくらい、分かっているはずよ」

「詩織、これは法廷の話ではない。危機管理の話だ」

律人の声が低くなった。

その目には、かすかな失望さえ浮かんでいた。

「あの子は身寄りもなく、苦労してようやくここまで来たんだ。この騒ぎがこれ以上大きくなれば、将来まで台無しになる。君はいつだって寛容で、話の分かる人だっただろう。どうして今回だけ、そんなことにまでこだわるんだ」

「相手が相馬美羽だから?」

その名前を口にした瞬間、食卓の空気が凍りついた。

律人はコーヒーカップを持ったまま動きを止め、顔色を変えた。

いつも感情を表に出さない彼の顔に、初めて明らかな動揺が浮かんだ。

「君……知っていたのか」

律人の声がかすれた。

「そこまで聞いていたなら、もう隠すつもりはない。詩織、俺と美羽は、君が思っているような関係じゃない。あの子はあまりにも脆くて、俺以外に頼れる相手もいないんだ。

これに署名してくれたら、君にはひとつ借りができる。それでいいだろう。これから先も、久世の妻は君だけだ。それは変わらない」

妊娠8週の身体は、もともと不安定な時期にあった。

昨夜の大きな精神的衝撃に耐えきれず、ついに身体が悲鳴を上げた。

胃が大きく波打ち、激しい吐き気とともに、下腹部の奥へ重く引きつるような痛みが走った。

「律人……お腹が、痛い……」

私は力なく椅子の背にもたれ、歯を食いしばるようにして、かろうじて声を絞り出した。

律人が立ち上がろうとした、そのとき。テーブルに置かれていたスマホが、突然鳴り響いた。

画面には、航平の名前が表示されていた。

律人は迷わず電話に出た。

受話口から、航平の切迫した声が響く。

「律人、すぐ来てくれ!美羽が大学の池のそばで取り乱してる!身の潔白を証明するって、池に飛び込もうとしてるんだ。誰が何を言っても聞かない。お前が来るまで、ここを動かないって!」

律人の顔色が変わり、弾かれたように立ち上がった。

その拍子に、テーブルの上のコーヒーカップが倒れた。

褐色の液体が天板を伝い、「謝罪声明」を汚し、私のスカートの裾にも飛び散った。

「律人……」

震える手を伸ばし、彼のコートの裾をつかんだ。

指先は、まるで血が通っていないように冷たかった。

「行かないで……病院に連れていって。私……たぶん、血が……」

律人は私を見下ろした。

その目にあったのは心配ではなく、隠す気もない苛立ちだった。

「詩織、もういい」

彼は私の指を一本ずつ、力任せに引き剥がした。

「君はずっと理性的な人だったはずだ。こんな見え透いた仮病で、俺を引き止めようとするな。見苦しい。

美羽は今、命に関わる状態だ。君は――」

律人はテーブルの上の声明文へ目を向けた。

「少し頭を冷やして、自分で署名しておけ。話は戻ってから聞く」

そう言い残すと、律人は背を向け、大股で家を出ていった。

私は椅子へ崩れ落ちた。

下腹部を締めつける痛みは、次第に激しさを増していった。

うつむくと、鮮やかな赤い血が内腿を伝い、磨かれた木の床へ滴り落ちていた。

目を背けたくなるほど、はっきりとした赤だった。

私は泣かなかった。

汚れたスマホを手探りでつかみ、静かに119番へ電話をかけた。

律人の言ったとおりだった。

私は確かに、一本の木だった。

もう二度と、誰かに寄りかかる必要のない木だった。

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