LOGIN結月も本当に帰るつもりはなかったため、そのまま自然にその場に残った。これほど大勢の人がいる中で、彼女が一番親しいのは一輝だけだった。一輝は気を遣ってしばらく話し相手になってくれたが、すぐに誰かに呼ばれて行ってしまった。その場の空気を盛り上げているのは一輝一人で、事情を知らない人が見たら、今日が彼の誕生日だと思うほどだった。慎也は性格が悪く気分屋だが、宮野家の次男という絶対的な地位がある上に、一族の老若男女から溺愛されている。そのため、誰もが彼に媚び諂おうとする。結月を除いては。一輝が去ると、結月の周りはすっかり静かになった。涼介のおかげで、誰も彼女に話しかけようとはしない。今日の結月は、どうやら完全に蚊帳の外に置かれる運命にあるようだ。周りの人間は、結月と涼介がすでに離婚していることを知らない。端から見れば、夫は妊娠中の愛人を公然と連れ歩き、妻である結月を冷遇しているように映るだろう。同情、面白半分、そして軽蔑……四方八方から向けられるさまざまな視線が、結月の心を締め付けていく。しかし結月はそんなことには少しも気づいていないかのように、部屋の隅に座り、涼介をじっと見つめていた。「涼介さん、奥さん怒ってるみたいですよ。ご機嫌取りに行かなくていいんですか」誰かが面白がって冷やかした。涼介は結月を横目で見た。彼女は薄暗い場所にポツンと座り、まるで捨てられた小動物のようだ。涼介はグラスを揺らし、口角を上げて笑いながら言った。「数日前に喧嘩してね。今も拗ねてる真っ最中なんだ。今からご機嫌を取りに行っても無駄だよ。あいつは気が強いから、平手打ちを二発くらい食らうかもしれないな」「ははっ、奥さんってそんなに凶暴なんですか」「ああ、かなり凶暴だよ」涼介は仕方ないといった口調で、手に負えないというような素振りを見せた。涼介はゆっくりと酒を口に含み、笑いを含んだ声で、冗談とも警告ともつかない調子で念を押した。「お前ら、絶対にあいつを怒らせるなよ。何かあっても、俺は責任取らないからな」男たちとの距離はそれほど離れておらず、その話し声は一言一句違わず結月の耳に届いていた。結月は無表情のまま、次から次へと酒を煽る。その姿は、まるで恋に悩み、報われない愛に苦しんでいる女そのものだった。だが、結月自身だけは分かっ
涼介は、結月が美しいことを昔から知っていた。素のままでも十分に美しいが、一度身なりを整えれば、誰もが振り返るほどの艶を放つ女になる。それを、彼はよく知っていた。だからこそ、涼介はそんな結月を、誰にも見せずに閉じ込めておきたかったのだ。時間が経つにつれ、真珠は埃をかぶり、かつて彼女がもたらした驚きと胸の高鳴りを、涼介自身もすっかり忘れていた。周囲の多くの視線が結月に注がれている。同じ男として、涼介には、その水面下で蠢く視線の背後にある意味が痛いほどよく分かっていた。結月は涼介をじっと見つめ、それから春奈へ視線を移した。それは、涼介がこれまで一度も見たことのない眼差しだった。あまりにも静かなのに、涼介は理由もなく違和感を覚えた。結月が春奈を見つめている時、春奈もまた結月を見つめ返していた。今日の結月は格別に目を引いた。いつも不機嫌そうに顔を強張らせ、地味な服を着ていたかつての姿とは、まるで別人だ。嫉妬を覚えるほどに美しく、同時に心をざわつかせる。涼介が結月から目を離さないのを見て、春奈は密かに不満を飲み込み、親しげに涼介のそばへとすり寄った。口元を覆って軽く笑いながら言う。「結月、慎也さんの誕生日のためにこんなに念入りに着飾るなんて、本当に気合が入っているのね」涼介の目の色が瞬時に変わった。だが次の瞬間、結月がこう言い放った。「他人の集まりに参加するのに、きちんとした身なりをするのは最低限の礼儀よ。着飾る女がみんな、あんたみたいに男を誘惑するためだとは限らないわ」達也がここぞとばかりに口を挟んだ。「下品な言い方だな。はっ、所詮は貧乏人の出だな。どこまでいっても品がない」春奈はわざとらしくため息をついた。「結月、ただの冗談だったのに。まさかそんなに気に障るなんて思わなかったわ」その一言で、結月は「心の狭い女」に仕立て上げられた。案の定、達也だけでなく、その場にいた者たちも口々に春奈を擁護し始めた。まるで結月がよほどの無礼を働いたかのように、土下座して詫びろと言わんばかりの空気が流れた。涼介はわずかに眉をひそめたが、結月を庇おうとはしなかった。自分の許しもなく、勝手に人目を引く格好をしたのだ。少し痛い目を見れば、次からは慎むだろう。そう思いながら結月の顔を注視し、少しでも焦りや悔しさが表情に浮かべば
でも、それでいい。今、慎也が自分に興味を持っている。それだけで十分だった。結月は空港で荷物を受け取り、マンションへ戻った。慎也の連絡先はブロックしたまま解除することなく、ベッドに倒れ込むと、そのまま眠りに落ちた。目を覚ますと、スマホには衣織からの着信とメッセージが届いていた。帝都に戻ったのか、家族には会えたのかと、心配そうに尋ねている。結月は急用ができたと適当な口実を作って返信し、起き上がって洗面所へ向かった。鏡には、紙のように蒼白な自分の顔が映っていた。両目は血走って赤く腫れ上がり、見るも無惨な姿だった。どうして、こんな惨めなところまで追い込まれなければならないのだろうか。結月は冷たい水で顔を叩いた。顔を上げた時には、先ほどまでの脆さは、その顔から完全に消え去っていた。---慎也の誕生日は水曜日で、誕生パーティーの場所は高級会員制クラブ「CLUB AERIS」に指定されていた。結月は向かう前にデパートへ立ち寄り、入念にプレゼントを選んだ。たとえその場しのぎの芝居であっても、慎也を相手にするなら決して手を抜いてはいけないと分かっていたからだ。ただ、情熱的にすり寄るつもりはなかった。涼介のおかげで、ある一つのことを骨の髄まで思い知らされていたからだ。男というものは皆、どうしようもない生き物だ。手に入らないものほど欲しがるのだから。「CLUB AERIS」は最高級のプライベートクラブであり、入会条件も極めて厳しい。一輝が事前にボーイへ話を通していたため、結月が名前を告げると、すぐに最上級のVIPルームへと案内された。彼女がドアを押し開けた瞬間、室内の空気が一瞬にして静まり返った。部屋にいた全員が、まるで幽霊でも見たかのような目で結月を見つめている。「あれ、結月さんだよな?」「涼介の奴、やっと奥さんを人前に出すのを許したのか?」「いやいや、春奈のお腹がもう大きいの見ただろ。涼介は最近、再婚の準備で忙しいって噂だぜ」「じゃあ、なんで慎也さんの誕生日にあいつが来てるんだ?」一人の青年が飛び出してきた。グラスを片手に軽薄な視線で結月を値踏みするように眺め、口を開いた。「結月ちゃん、何しに来たんだよ?ここはお前が来るような場所じゃないだろ。気合い入れて着飾ってきたみたいだけど、涼介に復縁で
孝一は電話を切ると、誰かに呼ばれて診察室を出て行った。結月はカーテンの裏から歩み出ると、机の上に残された満のお絵かき帳を手に取り、診察室を後にした。病院の入口へ向かう途中、彼女はずっと考えを巡らせていた。建物の外へ出た時、すべての辻褄が合った。今日の陽射しはとても暖かかった。だが、結月の心は厚い暗雲に覆われていた。もう、逃げ出したくはなかった。これまでずっと耐え忍び、譲歩し、自分を押し殺して妥協し、水に流すことを学んできた。もともと、何もいらなかった。過去の愛憎や怨み、後悔のすべてを手放すこともできた。娘を失ったのは自分の運命であり、そういう運命なのだから、どれほど足掻いてもあの子を引き留めることはできないのだと思い込んでいた。だが実は、その運命は最初から最後まで、他人の手によって操られていたのだ。ひどい思い違いをしていた。一人の中年女性が声をかけてきたが、結月の顔が青ざめ、両目が血のように赤く充血しているのを見ると、すぐに声の調子を和らげた。「お嬢さん、スマホがずっと鳴ってるわよ。ご家族の誰かが病気なの?気を落とさないでね、そのうち全部過ぎ去っていくから」病院では、生と死が日常茶飯事であり、苦痛の形さえも人それぞれだ。他人の痛みを本当の意味で分かち合える者などいない。薄っぺらい慰めの言葉など、実際には何の役にも立たないのだ。すべて過ぎ去っていくのだろうか。結月は思った。もう、過ぎ去ることなどない。諦めずに何度も電話をかけてきていたのは、見知らぬ番号だった。結月は通話ボタンを押した。「どちら様ですか」彼女の声は嗄れており、まるで砂利で削られたような耳障りな響きを帯びていた。電話の向こうの一輝はギョッとして声を上げた。「えっと、結月さん、具合でも悪いんですか」一輝の声が、結月を現実へと引き戻した。遅れて陽射しの温もりを肌に感じ、彼女はゆっくりと体を起こした。唇がかすかに震え、やがて全身の震えを抑えきれなくなった。「いいえ」「あ、そうですか。なんか声の調子がいつもと違うみたいだから、無理しないでくださいね」一輝は相変わらず無駄話が多かったが、結月は決して彼の言葉を遮ろうとはしなかった。涼介の友人たちの中では、一輝はまだ良い人の方だった。あの時、春奈
お絵かき帳の中には、娘と母親の姿しか描かれていなかった。きっと満も、病気が治ったら、ママとずっと幸せに暮らせる日を心待ちにしていたのだろう。絵は未完成だった。空白のページにはすっかり乾ききった血の痕が残されており、まるで一滴一滴が紙に叩きつけられたかのように、結月の目には滲んで見えた。結月はお絵かき帳を抱きしめ、声にならないほど泣き崩れた。しばらくして、ようやく感情を落ち着かせると、帰る支度を始めた。診察室を出た途端、子供を抱いた母親と不意にぶつかってしまった。その子供が両手で抱えていたタピオカミルクティーが、結月の服に思い切りぶちまけられた。「ちょっと、前を見て歩いてよ」相手の女は先手を打って文句を言い捨てると、子供を抱えたまま逃げるように去っていった。結月の胸元はすっかり濡れ、ベタベタとしたタピオカミルクティーが服の裾を伝って床に滴り落ちていた。その場でしばらく呆然と立ち尽くしていると、顔見知りの看護師がやって来て声をかけてきた。それでようやく我に返り、結月は服の汚れをどうにかしなければと思った。「その服、もう着られないでしょ。ちょうど私に着替えのパーカーがあるから、ちょっと待ってくださいね。取ってきますから」「ありがとうございます」看護師はすぐに着替えのパーカーを持ってきて手渡すと、自分の仕事へと戻っていった。結月はそのパーカーを受け取り、主治医の診察室にあるカーテンの裏で着替えていた。半分ほど着替えたところで、入り口から院長の声が聞こえてきた。「入り口のこれはどうしたんだ?誰か呼んで掃除させてくれ。万が一、患者さんが滑って転んだらどうするんだ」院長は診察室に入ってきたが、主治医が不在であることに気づき、電話をかけた。「ああ、山内先生。今、君の診察室にいるんだがね。用があるから、手が空いたらこちらに来てくれないか」結月がパーカーを被り、外へ出ようとしたその時、院長のスマートフォンが鳴った。その後の人生で、結月は何度もこう考えた。もしあの日、満のお絵かき帳を受け取ってすぐに空港へ向かっていたら。あの親子とぶつかっていなかったら。ミルクティーをかけられず、カーテンの裏で着替えていなかったら……おそらく、娘の死の真相を知ることは一生なかっただろう。だがその時、結月がカ
空港のアナウンスが響く中、衣織が驚いた声を上げた。「あんた、空港で何してるの?」結月は伏し目がちに、かすかに笑った。「帝都に帰って、お父さんたちに会ってこようと思って……」結月が言い終わる前に、衣織が興奮したように遮った。「帝都に!?どうしてそんな急に」「急に思い立ったの。この数年ずっと音信不通だったから、実家を追い出されちゃうかもしれないわね」冗談めかして言った結月に、衣織は絶句した。どう答えていいのか分からなかった。法廷では、対峙する相手を涙ぐむほど追い詰める凄腕の弁護士が、この時ばかりは結月をどう引き留めればいいのか、まったく言葉が見つからなかったのだ。衣織がようやく口実を思いついたその時、結月がふと言った。「待って、キャッチが入ったわ。満の主治医からだから、先に出るわね」衣織はこわばった声で答えた。「ええ、どうぞ」結月は搭乗手続きを済ませ、保安検査場の列に並びながら、主治医からの電話に出た。「小湊さん。先ほど資料を整理していたら、お嬢さんが描いたお絵描き帳がこちらに置き忘れられているのを見つけまして。以前、母の日のプレゼントとしてあなたに渡したいと言っていたものです。ええと、ご自身で取りに来られますか?それとも、こちらから何かでお送りしましょうか」結月は時間を確認した。出発までにはまだ十分な時間がある。病院を往復するには十分な余裕があった。「今から伺います」ちょうどいい機会だった。主治医の山内先生にはこれまで本当に世話になっていたのに、まだきちんとお礼を言えていなかった。荷物をコインロッカーに預け、タクシーで病院へと急いだ。その道中、慎也から電話がかかってきた。「来週、俺の誕生日なんだ。ぜひ食事にお越しいただきたいんだが、その光栄に預かれるかな」結月は、これからの短期的な予定をすでに心の中で決めていた。渋江にいる人間とは、もう誰一人として関わりたくなかった。だから、容赦なく言い放った。「悪いけど、時間がないの」そう言うと、すぐに電話を切り、慎也の連絡先をすべてブロックして削除した。涼介の連絡先など、なおさら残しておく必要はない。嫌悪感を抱く人間をすべて消し去ると、心がすっと晴れやかになった。まるで、目の前を遮っていた濃い霧が、すっかり晴れたかのようだ。







