ねえ、5分だけ付き合ってーーMorning Side

ねえ、5分だけ付き合ってーーMorning Side

last updateLast Updated : 2026-10-25
By:  AmyOngoing
Language: Japanese
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通勤前の5分だけ、現実を忘れてみない? 本屋、カフェ、水族館、美容院――日常のすき間に落ちている小さなときめき。少し笑って、少しドキドキして、女性のための朝のショート恋愛集。

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面白い発想大好き
面白い発想大好き
明日も暖かい言葉いただいて頑張れると思います。
2026-09-24 21:48:28
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65 Chapters
1話
朝7時52分。そのクロワッサンは、最後の1個だった。焼きたて。表面はつやつやで、端は少しだけ焦げている。ガラス越しでも分かる。絶対においしい。私はトングを伸ばした。同時に、反対側から別のトングが伸びてきた。カチン。先端同士がぶつかる。「……あ」聞き覚えのない低い声。顔を上げる。背の高い男が立っていた。白いシャツの上にネイビーのカーディガン。寝起きなのか、髪は少し乱れている。でもそれが妙に似合っていた。私はクロワッサンを見る。男も見る。最後の1個。譲るべきだろうか。大人だし。でも。私は今日、このクロワッサンを食べるために、いつもより15分早く家を出た。「どうぞ」彼が先にトングを引いた。一瞬、心が揺れた。「いや、大丈夫です」「でも取りたかったんですよね?」「まあ」「顔に出てます」失礼だ。「そんなに?」「かなり」彼が笑った。ちょっと腹が立つ。でも笑うと目尻が下がって、思ったより柔らかい顔になる。「じゃあ」私はクロワッサンを取った。「遠慮なく」「本当に取るんですね」「譲ってくれたので」「普通、1回くらい譲り返しません?」「しました」「1回だけ?」「十分です」彼が声を立てずに笑った。朝から知らない男と、何をやってるんだろう。私はクロワッサンをトレーに乗せた。勝った。なぜか少し嬉しい。そのままレジへ向かおうとしたとき。「あ」彼が私のトレーを見る。「それ、チョコ入ってるやつですよ」「え?」「プレーンじゃなくて」札を見る。【ショコラクロワッサン】本当だ。私はチョコが苦手だった。朝から甘いものを食べると、少し気持ち悪くなる。「……最悪」思わず呟く。彼が吹き出した。「笑いました?」「いや」「笑いましたよね?」「ちょっとだけ」「失礼」「でも、そんな顔するほど?」「これを食べるために早起きしたんです」「そこまで?」「そこまでです」彼は少し考えてから、自分のトレーを差し出した。プレーンのクロワッサンが乗っていた。「交換します?」私は目を丸くした。「持ってるじゃないですか」「さっき取ったやつじゃないです。奥にもう1個ありました」見ると、本当にある。私が最後だと思っていただけだった。なんだ。「じゃあ普通にそれください」「それだと
last updateLast Updated : 2026-09-13
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2話
朝7時41分。私は知らない男のシャツを抱いていた。白いシャツ。大きめ。まだ少し温かい。そして、困ったことに、いい匂いがした。「……誰の?」朝のコインランドリー。乾燥機から洗濯物を取り出していたら、私の黒いニットと一緒に出てきた。当然、私のではない。一人暮らし歴8年。部屋に男物のシャツが紛れ込むような華やかな生活は、一度も送っていない。私はシャツを広げた。きれいに洗われている。襟元も袖口も傷んでいない。柔軟剤の香りだろうか。清潔で、少しだけ甘い。……こういう匂いの男なら悪くない。朝から何を考えているんだ。私はシャツを畳もうとした。そのとき。「あ、それ僕のです」後ろから声がした。振り返る。黒いパーカーにスウェットパンツ。片手に缶コーヒー。髪は完全に寝起き。しかも右側だけ妙に跳ねている。さっきシャツから想像した「清潔感あふれる大人の男」とは、かなり違った。「これ?」「はい」彼が笑う。「すみません。隣の乾燥機に入れたつもりだったんですけど」「1枚だけこっちに?」「たぶん」私はシャツを渡した。「どうぞ」「あ、ありがとうございます」彼が受け取る。そのまま着るのかと思ったら、しばらくシャツを見る。「……なんか、すごい丁寧に畳まれてますね」「途中までね」「僕、自分でやるとこうならない」「どうなるの?」彼がシャツを適当に丸める仕草をした。「こう」「最低」「着れば伸びます」「そういう問題?」彼が笑った。30歳前後だろうか。顔立ちは整っているのに、寝癖のせいで全然格好がついていない。でも、それが妙に親しみやすかった。私は自分の洗濯物をバッグに入れ始めた。「朝から洗濯するんですね」彼が言う。「夜、洗濯機回したら寝落ちして」「ああ」「朝起きたら、洗濯機の中で全部冷たくなってた」「分かります」「分かるんだ」「僕は昨日、洗濯機回そうとして洗剤入れたところで寝ました」「そこまでいったら回しなよ」「ベッドが呼んでたので」馬鹿だ。でも少し笑った。彼は隣の椅子に座って、シャツを膝の上に置いた。「それ、仕事用?」何気なく聞く。「いや」「じゃあ何用?」「デート用」私は手を止めた。なぜか。本当に、なぜか。ほんの少しだけ面白くなかった。「へえ」我ながら、感じ
last updateLast Updated : 2026-09-13
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先生、それ見本ですよね?
9月21日、午前9時10分。連休の朝。私は和菓子作り体験の教室で、白い餡を前に固まっていた。今日作るのは、秋の菊をかたどった練り切り。先生の見本は、薄い黄色と白が重なって、花びらがきれいに開いている。私のは。「……じゃがいも?」思わず呟く。向かいに座る先生が、眼鏡の奥で笑った。70代くらい。小柄で、髪はきれいな銀色。着物ではなく、白いシャツに濃紺のエプロン。「じゃがいもに失礼よ」「そこ?」「じゃがいものほうが形きれいだもの」朝から厳しい。参加者は私を含めて3人。隣の女性も肩を震わせている。「先生、花びらってどうやったらそんなに均等になるんですか?」私が聞くと、「均等にしようとするから変になるの」「どういうこと?」「花だって全部同じじゃないでしょ」先生は自分の見本を持ち上げた。近くで見る。「あ」1枚だけ、花びらが妙に短い。「これ、失敗?」「そう」即答。「見本なのに?」「見本だからって失敗しちゃいけないの?」なんとなく言葉に詰まる。先生は平然と、短い花びらを指で少し広げた。「朝から完璧なの作ったら疲れるでしょ」隣の女性が吹き出した。「先生、それ教室で言っていいんですか」「いいの。食べたら一緒」確かに。私はもう一度、自分のじゃがいもを見る。いや、菊。たぶん菊。先生が隣に来た。「貸して」私の練り切りを手に取る。「ここだけ少し押して」「ここ?」「そう。全部直そうとしない」「でも右側が変」「右側は右側の人生があるの」急に壮大。また笑う。先生の言う通り、1か所だけ整えた。すると、不思議と全体も少しましに見えた。「ほんとだ」「でしょう」「先生、すごい」「70年以上生きてるからね」さらっと言う。「70年以上生きると和菓子うまくなる?」「ならない。私は30年やってるから」普通に現実的だった。完成した練り切りを、小さな黒い皿に置く。先生の見本と並べる。全然違う。でも、さっきよりはちゃんと花に見える。「写真撮る?」先生が聞く。「撮ります」スマホを出す。先生が自分の見本を横へ置いた。「比べたら私の下手に見える」「大丈夫。先生のほうが100倍きれい」「じゃあ端っこにしといて」意外と気にするんだ。写真を撮ったあと、お抹茶と一緒に食べる。自分で作
last updateLast Updated : 2026-09-21
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目、閉じてください
午前10時05分。小さなコーヒー焙煎所の前に、「香り当て体験 5分」という看板が出ていた。連休の朝。急ぐ予定もない。私はなんとなく入った。店の奥には、30代前半くらいの男性。黒いエプロン。白いシャツ。袖は肘までまくっている。「体験ですか?」「はい。5分なら」「じゃあ3種類だけ」彼は小さな瓶を3つ並べた。中には挽いた豆。「目、閉じてください」「いきなり?」「香りだけで当てるので」「見ちゃだめ?」「見たら意味ないです」仕方なく目を閉じる。視界がなくなると、急に店の音が近くなる。ミルの低い音。カップが触れる音。そして。「近づけますね」声が思ったより近い。「はい」鼻の前に瓶が来たらしい。深く吸う。香ばしい。少し甘い。「チョコ?」「惜しい」「コーヒーなのに?」彼が笑う気配。「もう1回」瓶が少し離れて、また近づく。今度は彼の指先が、鼻先のすぐ下にある気配がする。見えないぶん、変に意識する。「何か分かります?」「……ナッツ?」「正解」「ほんと?」「開けていいですよ」目を開ける。彼の顔が、思ったより近くにあった。「近い」思わず言う。「香り届かないと困るので」さらっと返される。彼は1歩下がった。次の瓶。「また閉じて」「はいはい」目を閉じる。今度は少し緊張する。「そんなに警戒しなくても」「してません」「眉間に出てます」「見えてるのずるい」「僕は開けてていいので」低く笑う声。2つ目は柑橘っぽい。「オレンジ?」「正解」「簡単」「じゃあ最後難しくします」瓶ではなく、今度はカップらしい。ふわっと香りが来る。柔らかい。少し花みたい。私は考える。「これ、コーヒー?」「コーヒーです」「香水みたい」「そういう豆もあります」「分からない」「ヒント出します?」「お願いします」一瞬、間。それから、「春っぽい香り」耳の近くで言われた。近い。さっきより近い。思わず目を開ける。彼も少し驚いた顔。「開けましたね」「今のは反則」「ヒントですけど」「耳元じゃなくていいでしょ」「小声のほうが集中できるかなと」本当?絶対少し楽しんでいる。彼が笑う。「答えはジャスミン系です」「分かるわけない」「でも、かなり近かったですよ」「香
last updateLast Updated : 2026-09-21
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休むポーズも正式です
午前9時30分。初心者向けヨガ体験に来た。連休4日目。昨日は甘いものを食べすぎた。だから今日は少し健康的なことをしよう。そう思った。開始10分で後悔した。「では、右足を左腕の外側へ」先生は簡単そうに言う。無理。足がそこまで行かない。隣の女性を見る。同じく止まっている。目が合う。彼女が小声で言った。「これ、人間の関節でできます?」吹き出しそうになった。先生がこっちを見る。「無理しなくて大丈夫ですよ」40代くらいの女性インストラクター。細い。柔らかい。何をしても優雅。同じ生物とは思えない。次はバランスポーズ。片足で立つ。腕を上げる。私は3秒でぐらついた。隣の女性もぐらつく。2人同時に床へ足をつく。「今、合わせました?」彼女が言う。「たまたま」「チームワークいいですね」何のチームだ。先生が笑う。「できるところまででいいですよ」私はもう1回挑戦する。2秒。さっきより短い。「退化してる」隣の女性が言う。「そっちも」「私は1秒」「勝った」こんな低レベルな勝負ある?でも楽しい。後半。先生が言った。「では、チャイルドポーズで休みましょう」膝をついて、体を前へ倒す。楽。ものすごく楽。「これ好き」隣から声。「私も」先生が聞いていた。「休むポーズも正式なヨガですからね」私は顔を上げる。「これもヨガ?」「もちろん」「じゃあ、ずっとこれでも?」「今日はそれでもいいですよ」隣の女性と目が合う。「聞きました?」「聞きました」2人で堂々と休む。先生が笑う。「無理して難しいポーズするより、今の自分に必要なのを選ぶほうが大事です」ちょっといいことを言った。でも私たちは床に伏せたまま。格好がつかない。「先生」「はい」「これ寝てもいい?」「寝たらヨガじゃなくなります」「境界厳しい」また笑う。最後は仰向け。目を閉じる。照明が少し落ちる。静かな音楽。さっきまで必死に足を上げていたのが嘘みたい。体が床に沈む。隣の女性が小さく息を吐いた。私も同じくらい長く吐く。呼吸だけを気にしていると、さっきまで「できない」と思っていたことが急にどうでもよくなる。先生が静かに言った。「今、何もしない時間です。上手に休もうともしなくていいですよ」上手に休
last updateLast Updated : 2026-09-22
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朝から勝負します?
午前10時20分。朝営業のボウリング場に来た。理由は単純。雨だったから。映画は混んでいそう。カフェは昨日行った。それで、なぜかボウリング。1人で。受付のお兄さんにも少し驚かれた。「1ゲームですか?」「とりあえず」靴を借りる。レーンへ行く。隣には30代前半くらいの男性が1人。黒いTシャツ。腕にはスポーツウォッチ。いかにも上手そう。私は少し警戒した。こっちは何年ぶりかも分からない。最初の1投。勢いよく投げる。ガーター。最悪。隣を見る。ちょうど彼も投げた。ガーター。目が合った。沈黙。「……見ました?」彼が聞く。「見てません」「僕も見てません」優しい世界。2投目。私は3本。彼は2本。「勝った」思わず言う。「今、勝負でした?」「今から」「いいですよ」軽い。そこから急に勝負が始まった。レベルは低い。私が5本。彼が6本。私がガーター。彼もガーター。「合わせなくていいですよ」「そっちが真似したんでしょ」「僕が先でした」小学生みたい。でも、笑える。彼がボールを選び直す。「重いほうがいいかな」「上手そうな顔して分かってないんだ」「顔関係あります?」「あります」「じゃああなたも結構上手そうです」「さっきガーター見たでしょ」「見てません」律儀に約束を守る。中盤。私が7本倒した。「おお」彼が拍手する。「次、ストライクいけるかも」「急に期待しないで」「期待するの自由なんで」彼の番。構える。投げる。8本。「惜しい」「今のかなりよかった」彼が戻ってくる。すれ違うとき、少し身を寄せて小声で言った。「先にストライク取ったほうが勝ちにします?」近い。声が耳のすぐ横。一瞬だけ変に意識する。「急にルール変えるのずるくない?」「今の点数だと僕負けてるので」「正直」「だからチャンスください」「いいですよ」「余裕ですね」「たぶん取れないから」「僕もです」2人で笑う。そこから本気になる。私はフォームを意識する。彼も急に静か。投げる。9本。「惜しい!」次は彼。ボールを持つ前に、私を見る。「見ててください」「プレッシャーかかるよ」「そのほうがいいです」投げる。きれいに真ん中。一瞬。ストライク?最後の1本だけ残
last updateLast Updated : 2026-09-22
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お茶は急いでも冷めません
9月23日、午前9時40分。5連休の最終日。朝から茶道体験に来ていた。自分でも少し意外。もっと寝ているつもりだった。でも昨日の夜、「せっかくの休みだし」と思って予約した。こういうときの私は、翌朝の自分に少し厳しい。教室には私と、もう1人女性客。先生は60代くらいの女性。薄いグレーの着物。動きが静かで、見ているだけで落ち着く。「作法は気にしすぎなくて大丈夫ですよ」最初にそう言われた。助かった。と思った5分後。私はお菓子を取る順番を間違えた。「あ」隣の女性が小さく言う。私も気づく。「やっちゃった」先生が普通に言った。「大丈夫ですよ」「戻したほうがいい?」「もう取ったんだから食べましょう」あっさり。緊張が少し抜けた。季節の和菓子は、薄いオレンジ色。秋の夕焼けをイメージしているらしい。「きれい」隣の女性が言う。「食べるのもったいないですね」私が言うと、先生が微笑んだ。「でも食べるために作ってありますから」そうだった。一口。甘い。そのあと、お茶。茶碗を回す向きが分からなくなる。右?左?私が止まっていると、先生が言う。「どちらでも命に関わりません」隣の女性が吹き出した。私も笑う。「先生、そんな感じでいいんですか?」「体験ですから」「もっと厳しいと思ってました」「厳しくしたら、お茶の味分からなくなるでしょう?」確かに。茶碗を持つ。
last updateLast Updated : 2026-09-23
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馬には全部ばれてます
9月23日、午前10時30分。5連休の最後に、なぜか私は馬の前に立っていた。秋の朝。空は高い。牧場の空気は少し冷たい。乗馬体験なんて初めて。目の前の馬は、私より落ち着いている。いや。完全に私を見下している気がする。「緊張してます?」横から声。インストラクターの男性。30代前半くらい。ネイビーのポロシャツ。日焼けした腕。笑うと少し幼く見える。「してません」「馬に全部ばれてますよ」「何が?」「今、この人怖がってるなって」馬を見る。確かに、じっと見られている。「そんな顔してる?」「馬が?」「私」「してます」即答。「帰ろうかな」「まだ乗ってないです」彼が笑う。まずヘルメット。自分でかぶる。顎紐を留める。つもりが、位置が分からない。「あれ」「貸してください」彼が近づく。「ちょっと失礼します」指が顎の下に入る。ベルトをつまむ。顔が近い。思ったよりかなり近い。私は反射的に少し顎を引いた。「動くと留めにくいです」「近いから」言ってしまった。彼が一瞬止まる。「僕が?」「……馬が」「馬、後ろですけど」朝から逃げ道がない。彼が笑う。「緊張してます?」「馬にです」「そこ、僕じゃないんですね」言い方が少し残念そう。「仕事中でしょ」「そうでした」また笑う。顎紐を留める。最後に指が少しだけ顎の下をかすめた。「これで大丈夫」「ありがとう」「じゃあ乗りましょう」急に現実。馬の横へ。足をかける。「左足ここ。右手は前」説明される。でも高い。「無理かも」「大丈夫。僕います」「その言葉、こういうときだけ信用する」「普段を知らないでしょ」確かに。なんとか乗る。高い。怖い。でも、少し楽しい。「手、力入りすぎ」彼が下から言う。「落ちたくない」「そんな簡単に落ちません」「あなたは乗ってないから言える」「毎日乗ってます」「じゃあ代わって」「体験にならないです」馬が歩き出す。ゆっくり。揺れる。最初は体が固まっていたけれど、数分すると慣れてきた。「ほら、顔戻ってきた」彼が言う。「どんな顔だった?」「遺言考えてそうでした」「ひどい」彼が笑う。馬も耳を動かす。「今、馬も笑った?」「たぶん」「絶対私のこと舐めてる」「それ
last updateLast Updated : 2026-09-23
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今日は足元からでいい
午前7時35分。駅の地下通路で、私は自分の靴を見下ろした。黒いパンプス。昨日の雨で、つま先が少し白く曇っている。別に壊れてはいない。でも、なんとなく疲れて見えた。靴も疲れるのかな。そんなことを考えながら歩いていると、通路の端に小さな靴磨きスタンドがあった。椅子は2つ。カウンターの向こうには、50代くらいの女性。白いシャツに黒いエプロン。髪は短く、動きがきびきびしている。「磨いていきます?」目が合った。「どれくらいかかります?」「7分」7分。微妙に迷う時間だ。女性が私の靴を見る。「そのままでも歩けるけどね」「じゃあいいかな」「でも、磨いたほうがちょっと機嫌よく歩ける」それを言われると弱い。「お願いします」椅子に座る。靴を脱ぐのかと思ったら、そのままでいいらしい。女性が小さな台に私の足を乗せる。ブラシで表面の埃を払う。「結構履いてます?」「2年くらい」「いい靴ですね」「もう買い替えようかなと思ってました」女性の手が止まった。「なんで?」「ちょっとくたびれて見えるから」「このくらいで?」彼女は靴を持ち上げるようにして、横から見た。「底もまだある。革も割れてない。全然いける」断言された。「でも新品みたいにはならないですよね」「ならない」即答。「新品じゃないからね」当たり前だ。でも、その言い方が妙に気持ちいい。女性は黒いクリームを少量取り、円を描くように塗り込んでいく。小さな缶を開ける音。ブラシが革をこする音。地下通路のざわざわした朝の中で、その一角だけ妙に落ち着いていた。私は自分の足元をこんなに長く眺めるの、いつぶりだろうと思う。さっきまで白っぽかったつま先に、少しずつ艶が戻る。「靴磨きって毎日するんですか?」「毎日はしない。気になったときで十分」「そこも適当でいい?」「続かない完璧より、たまにちゃんとやるほうが長持ちするよ」その言い方が、また靴の話なのに妙に耳に残った。「傷もありますね」「そこ、目立つでしょ」「目立つけど、履いてたら傷くらいつくよ」「直せます?」「薄くはできる。でも消さなくていいんじゃない?」私は足元を見る。「なんで?」「ちゃんと歩いてきた靴って感じするから」女性はそう言って、今度は柔らかい布で靴を磨いた。力強い。迷いがない。
last updateLast Updated : 2026-09-24
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次の飛行機、見ていきます?
午前8時10分。空港の展望デッキは、思ったより風が強かった。私は髪を押さえながら、滑走路を見ていた。旅行ではない。家族に頼まれた書類を届けるために空港まで来ただけ。用事は20分で終わった。せっかくだから飛行機を1機くらい見て帰ろう。そう思って上がってきた。目の前で、大きな機体がゆっくり動く。近い。子どもじゃないのに、少しわくわくする。「もう少し右です」突然、隣から声がした。見ると、30代前半くらいの男性。薄いネイビーのジャケット。片手に双眼鏡。「何が?」「今、見てる機体。もう少し右に行くと離陸が見やすいです」「詳しいですね」「好きなだけです」彼は柵の端を指した。「あそこ、フェンスの切れ目から見ると翼までちゃんと見えます」「そこまで把握してるの?」「何回か来てるので」「かなり好きなんだ」「かなりです」即答だった。私は少し移動する。本当に、滑走路がよく見える。「ありがとう」「どういたしまして」数分後。機体が走り出した。速い。一気に浮く。「わ」思わず声が出る。彼が横で笑った。「初めて見ました?」「こんな近くでは」「次、もっと大きいの来ますよ」「分かるの?」「さっきアプリで見ました」そこは現代的だった。彼が双眼鏡を差し出す。「使います?」「いいんですか?」「どうぞ」受け取る。覗く。滑走路の向こうが急に近くなった。「すごい」「見えます?」「うん。でも、どこ見ればいい?」「もう少し左」「左?」「貸して」彼が私の手に持った双眼鏡を少し動かす。指が重なる。ほんの一瞬。「そこ」声も近い。横を見ると、思ったより顔が近かった。風で彼の前髪が少し乱れている。「……近いですね」言ってから、またやったと思った。彼は一瞬止まる。「双眼鏡の調整です」「分かってます」「僕も」少し笑う。彼は手を離した。私はまた双眼鏡を覗く。今度は大きな白い機体が見えた。ゆっくりこちらへ進んでくる。「これ?」「それです」「大きい」「国際線」「どこ行くんだろう」「たぶんヨーロッパ方面」いいな。急にどこかへ行きたくなる。「旅行したいですか?」彼が聞く。「したい。でも今すぐじゃなくていいかな」「僕も」「じゃあ何しに来たの?」「飛行機見るだけ」本当に
last updateLast Updated : 2026-09-24
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