ねえ、5分だけ付き合ってーーMorning Side

ねえ、5分だけ付き合ってーーMorning Side

last updateLast Updated : 2026-09-13
By:  AmyUpdated just now
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
Not enough ratings
2Chapters
6views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

通勤前の5分だけ、現実を忘れてみない? 本屋、カフェ、水族館、美容院――日常のすき間に落ちている小さなときめき。少し笑って、少しドキドキして、女性のための朝のショート恋愛集。

View More

Chapter 1

1話

朝7時52分。

そのクロワッサンは、最後の1個だった。

焼きたて。

表面はつやつやで、端は少しだけ焦げている。

ガラス越しでも分かる。

絶対においしい。

私はトングを伸ばした。

同時に、反対側から別のトングが伸びてきた。

カチン。

先端同士がぶつかる。

「……あ」

聞き覚えのない低い声。

顔を上げる。

背の高い男が立っていた。

白いシャツの上にネイビーのカーディガン。

寝起きなのか、髪は少し乱れている。

でもそれが妙に似合っていた。

私はクロワッサンを見る。

男も見る。

最後の1個。

譲るべきだろうか。

大人だし。

でも。

私は今日、このクロワッサンを食べるために、いつもより15分早く家を出た。

「どうぞ」

彼が先にトングを引いた。

一瞬、心が揺れた。

「いや、大丈夫です」

「でも取りたかったんですよね?」

「まあ」

「顔に出てます」

失礼だ。

「そんなに?」

「かなり」

彼が笑った。

ちょっと腹が立つ。

でも笑うと目尻が下がって、思ったより柔らかい顔になる。

「じゃあ」

私はクロワッサンを取った。

「遠慮なく」

「本当に取るんですね」

「譲ってくれたので」

「普通、1回くらい譲り返しません?」

「しました」

「1回だけ?」

「十分です」

彼が声を立てずに笑った。

朝から知らない男と、何をやってるんだろう。

私はクロワッサンをトレーに乗せた。

勝った。

なぜか少し嬉しい。

そのままレジへ向かおうとしたとき。

「あ」

彼が私のトレーを見る。

「それ、チョコ入ってるやつですよ」

「え?」

「プレーンじゃなくて」

札を見る。

【ショコラクロワッサン】

本当だ。

私はチョコが苦手だった。

朝から甘いものを食べると、少し気持ち悪くなる。

「……最悪」

思わず呟く。

彼が吹き出した。

「笑いました?」

「いや」

「笑いましたよね?」

「ちょっとだけ」

「失礼」

「でも、そんな顔するほど?」

「これを食べるために早起きしたんです」

「そこまで?」

「そこまでです」

彼は少し考えてから、自分のトレーを差し出した。

プレーンのクロワッサンが乗っていた。

「交換します?」

私は目を丸くした。

「持ってるじゃないですか」

「さっき取ったやつじゃないです。奥にもう1個ありました」

見ると、本当にある。

私が最後だと思っていただけだった。

なんだ。

「じゃあ普通にそれください」

「それだと面白くないので」

「何が?」

「さっき僕が譲った意味がなくなる」

意味なんて必要なんだろうか。

「じゃあ、交換」

「はい」

彼が私のトレーからショコラクロワッサンを取る。

そのとき、指が触れた。

ほんの少し。

指先だけ。

なのに。

朝はこういうのに弱い。

まだ頭がちゃんと起きていないからだろうか。

何でもない接触なのに、妙に意識してしまう。

彼の手は大きかった。

さっきトングを持っていたときより、近くで見ると指が長い。

親指の付け根に小さな傷がある。

そんなところまで目に入る。

「はい」

彼がプレーンのクロワッサンを私のトレーに置いた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

「優しいですね」

「今さら気づきました?」

「そこまで自信ある?」

「朝なので」

「関係あります?」

「朝は少しくらい自分を高く評価してもいいかなって」

変な人だ。

でも嫌いじゃない。

私たちはそのまま並んでレジへ向かった。

彼が前。

私は後ろ。

白いシャツの背中。

肩幅が広い。

細身に見えたのに、意外としっかりしている。

朝から知らない男の背中を観察している自分に気づいて、視線を逸らす。

その瞬間。

彼が振り返った。

目が合った。

「何です?」

「いや」

「見てました?」

「見てません」

「即答ですね」

「見てません」

「2回言うと怪しい」

うるさい。

前向いててほしい。

彼は笑って、また前を向いた。

その拍子にカーディガンの襟が少しずれて、首の後ろが見えた。

なんとなく。

その首筋に指を這わせたら、どんな反応をするんだろう。

そんな考えが一瞬浮かんだ。

自分で自分に引いた。

何を考えてるんだ。

パン屋で。

朝8時前に。

「次の方どうぞ」

店員の声で現実に戻る。

彼が会計をする。

私はその後ろで、何事もなかった顔をした。

できているかは知らない。

会計を終えて店を出る。

外は少し風が冷たかった。

彼も同じ方向へ歩いていく。

少し前。

別れるなら今だろう。

知らない男。

名前も知らない。

クロワッサンを交換しただけ。

それで終わり。

その方が自然だ。

なのに。

「さっき」

彼が振り返った。

「本当に見てなかったんですか?」

「まだ言うんですか?」

「気になって」

「見てません」

「残念」

「何が?」

彼が歩幅を少し緩めた。

私と並ぶ。

近い。

肩が触れそうなくらい。

「見てたなら、ちょっと嬉しかったんで」

そういうことを、さらっと言う。

ずるい。

私は黙った。

彼が横から顔を覗き込む。

「今、顔赤いですよ」

「寒いから」

「耳まで?」

「体質です」

「便利ですね、その体質」

本当にうるさい。

私はクロワッサンの紙袋を胸元で持ち直した。

すると彼が、その袋を指さした。

「潰れますよ」

「え?」

「そんなに抱えたら」

「別に」

「せっかく僕が譲ったのに」

「交換しただけでしょ」

「じゃあ返してください」

「嫌です」

「気に入ってるじゃないですか」

クロワッサンの話なのか。

それとも。

一瞬だけ、分からなくなった。

彼が笑う。

絶対、分かって言ってる。

「じゃあ」

彼が少し身をかがめた。

耳元に顔が近づく。

「明日も来たら、今度はちゃんと最後の1個、譲ります」

声が近い。

朝の空気より少し低くて、少し温かい。

耳に息がかかった気がした。

身体が一瞬だけ固まる。

近い。

この距離なら、横を向いたら頬が触れる。

もう少しだけ彼が近づけば、唇だって。

……いや。

朝から何を考えてる。

「来るかどうか分かりません」

やっと言う。

「じゃあ、来なかったら僕が食べます」

「どうぞ」

「来たら?」

「考えます」

「クロワッサンを?」

「何を期待してるんですか」

彼がまた笑った。

名前を聞こうか迷った。

でも、今日は聞かなかった。

明日会えたら、そのときでいい。

私は曲がり角で足を止めた。

「私、こっちなので」

「僕はまっすぐ」

「じゃあ」

「はい」

2歩進んでから、彼が振り返る。

「ちなみに」

「まだ何か?」

「さっき、僕の背中見てましたよね」

私は無言で歩き出した。

後ろで笑い声がした。

朝8時6分。

紙袋の中には、ちゃんとプレーンのクロワッサン。

少しだけ温かい。

そして、なぜか耳もまだ熱かった。

明日。

15分早く起きる理由くらいには、なったかもしれない。

***

朝から人の背中を見て余計な想像をしたそこのあなた、大丈夫。私もです。

じゃあ、クロワッサン1個分くらい機嫌よく、今日も行ってらっしゃい。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
2 Chapters
1話
朝7時52分。そのクロワッサンは、最後の1個だった。焼きたて。表面はつやつやで、端は少しだけ焦げている。ガラス越しでも分かる。絶対においしい。私はトングを伸ばした。同時に、反対側から別のトングが伸びてきた。カチン。先端同士がぶつかる。「……あ」聞き覚えのない低い声。顔を上げる。背の高い男が立っていた。白いシャツの上にネイビーのカーディガン。寝起きなのか、髪は少し乱れている。でもそれが妙に似合っていた。私はクロワッサンを見る。男も見る。最後の1個。譲るべきだろうか。大人だし。でも。私は今日、このクロワッサンを食べるために、いつもより15分早く家を出た。「どうぞ」彼が先にトングを引いた。一瞬、心が揺れた。「いや、大丈夫です」「でも取りたかったんですよね?」「まあ」「顔に出てます」失礼だ。「そんなに?」「かなり」彼が笑った。ちょっと腹が立つ。でも笑うと目尻が下がって、思ったより柔らかい顔になる。「じゃあ」私はクロワッサンを取った。「遠慮なく」「本当に取るんですね」「譲ってくれたので」「普通、1回くらい譲り返しません?」「しました」「1回だけ?」「十分です」彼が声を立てずに笑った。朝から知らない男と、何をやってるんだろう。私はクロワッサンをトレーに乗せた。勝った。なぜか少し嬉しい。そのままレジへ向かおうとしたとき。「あ」彼が私のトレーを見る。「それ、チョコ入ってるやつですよ」「え?」「プレーンじゃなくて」札を見る。【ショコラクロワッサン】本当だ。私はチョコが苦手だった。朝から甘いものを食べると、少し気持ち悪くなる。「……最悪」思わず呟く。彼が吹き出した。「笑いました?」「いや」「笑いましたよね?」「ちょっとだけ」「失礼」「でも、そんな顔するほど?」「これを食べるために早起きしたんです」「そこまで?」「そこまでです」彼は少し考えてから、自分のトレーを差し出した。プレーンのクロワッサンが乗っていた。「交換します?」私は目を丸くした。「持ってるじゃないですか」「さっき取ったやつじゃないです。奥にもう1個ありました」見ると、本当にある。私が最後だと思っていただけだった。なんだ。「じゃあ普通にそれください」「それだと
last updateLast Updated : 2026-09-13
Read more
2話
朝7時41分。私は知らない男のシャツを抱いていた。白いシャツ。大きめ。まだ少し温かい。そして、困ったことに、いい匂いがした。「……誰の?」朝のコインランドリー。乾燥機から洗濯物を取り出していたら、私の黒いニットと一緒に出てきた。当然、私のではない。一人暮らし歴8年。部屋に男物のシャツが紛れ込むような華やかな生活は、一度も送っていない。私はシャツを広げた。きれいに洗われている。襟元も袖口も傷んでいない。柔軟剤の香りだろうか。清潔で、少しだけ甘い。……こういう匂いの男なら悪くない。朝から何を考えているんだ。私はシャツを畳もうとした。そのとき。「あ、それ僕のです」後ろから声がした。振り返る。黒いパーカーにスウェットパンツ。片手に缶コーヒー。髪は完全に寝起き。しかも右側だけ妙に跳ねている。さっきシャツから想像した「清潔感あふれる大人の男」とは、かなり違った。「これ?」「はい」彼が笑う。「すみません。隣の乾燥機に入れたつもりだったんですけど」「1枚だけこっちに?」「たぶん」私はシャツを渡した。「どうぞ」「あ、ありがとうございます」彼が受け取る。そのまま着るのかと思ったら、しばらくシャツを見る。「……なんか、すごい丁寧に畳まれてますね」「途中までね」「僕、自分でやるとこうならない」「どうなるの?」彼がシャツを適当に丸める仕草をした。「こう」「最低」「着れば伸びます」「そういう問題?」彼が笑った。30歳前後だろうか。顔立ちは整っているのに、寝癖のせいで全然格好がついていない。でも、それが妙に親しみやすかった。私は自分の洗濯物をバッグに入れ始めた。「朝から洗濯するんですね」彼が言う。「夜、洗濯機回したら寝落ちして」「ああ」「朝起きたら、洗濯機の中で全部冷たくなってた」「分かります」「分かるんだ」「僕は昨日、洗濯機回そうとして洗剤入れたところで寝ました」「そこまでいったら回しなよ」「ベッドが呼んでたので」馬鹿だ。でも少し笑った。彼は隣の椅子に座って、シャツを膝の上に置いた。「それ、仕事用?」何気なく聞く。「いや」「じゃあ何用?」「デート用」私は手を止めた。なぜか。本当に、なぜか。ほんの少しだけ面白くなかった。「へえ」我ながら、感じ
last updateLast Updated : 2026-09-13
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status