唯史は、ビールの缶をキッチンに置き、静かに二階の部屋に上がった。
階段を踏むたびに、足元の床が軋む。その音が、夜の静けさに溶けていった。部屋に入ると、窓から微かに外の街灯が見えた。
蛍光灯はつけなかった。ただ、薄暗い部屋の中で、ベッドに身体を預けた。仰向けになり、天井を見つめる。天井には、昔の子供部屋時代の名残があった。薄いクロスの模様が、うっすらと浮かんでいる。「俺、なんでこんなに気になるんやろ」
心の中で、問いがこぼれた。
佑樹と遥が並んでいる姿を思い出す。遥が佑樹に笑いかける。佑樹は、それを自然に受け流す。それだけのことなのに、胸の奥がざわついた。あの時の自分の表情を、鏡で見たらどうなっていたのだろう。笑っていたのか、無表情だったのか。どちらにしても、心の奥では波が立っていた。「誰かと一緒にいることは好きやったはずやのにな」
唯史は、天井を見たまま、声を出した。
昔から、人と過ごす時間が好きだった。友達と騒ぐのも、部活の帰り道にだべるのも、嫌いじゃなかった。けれど、佑樹と一緒にいると、心が落ち着かなくなる。それが、どうしてなのか分からなかった。「俺、なんかおかしいんかな」
ぽつりと漏らした声は、夜の部屋の中で自分だけに返ってきた。
誰もいない部屋。天井のシミが、まるで何かを見下ろしているように感じた。胸の奥がぎゅっと縮む。
その感覚が、嫌いなわけじゃなかった。けれど、苦しかった。佑樹の顔が浮かぶ。笑った顔。煙草を持つ指先。風呂上がりに濡れた髪でタオルをかけていた後ろ姿。唯史は、目を閉じた。
まぶたの裏にも、佑樹の顔が残っている。消そうとしても、消えなかった。「あいつと一緒にいるだけやのに、なんでこんなに苦しくなるんやろ」
その問いが、また喉の奥から漏れた。
答えは唇が重なる時間が、徐々に長くなっていった。最初はただ触れただけだったはずが、気づけば互いの唇がゆっくりと動いていた。佑樹の手が、唯史の背中を撫でる。その指先が、シャツの上からなぞるたびに、皮膚の奥がざわついた。心臓の鼓動が、妙に大きく聞こえる。自分のものか、佑樹のものか、もう分からなかった。「……佑樹」名前を呼ぶ声が、震えていた。けれど、止めるための言葉は出てこなかった。唇が離れた瞬間、互いの呼吸が浅くなっているのがわかった。顔が近すぎて、息がかかる。湿った夜の空気よりも、佑樹の吐息の方が、ずっと熱かった。「ベッド、行くか」佑樹が、低く囁いた。その声は、さっきまでとは違うトーンだった。優しさと、欲望と、長年の想いが入り混じった声音。耳元でその言葉を聞いた瞬間、唯史の胸はぎゅっと縮んだ。「いや……」口ではそう言った。けれど、足は止まらなかった。ソファから立ち上がり、ふらりと体を起こす。足元が少しふらついたのは、酔いのせいか、それとも心の揺れか。佑樹が手を差し出してきた。唯史は、その手を見つめた。ほんの一瞬だけ躊躇したが、結局その手を取った。掌が触れ合う。佑樹の手は大きくて温かかった。指先が少しだけ震えていたのは、唯史自身か、佑樹か、わからなかった。二人で、ゆっくりと階段を上がる。古い家の階段は、ぎしりと小さな音を立てた。その音が、夜の静けさに溶ける。足元だけを見つめて、唯史は無言で階段を登った。佑樹の手が、背中に添えられている。その感触が、妙にリアルで、逃げ場がなかった。「これ、ほんまにしてええんか」心の中で、何度も問いかけた。けれど、答えは出なかった。するべきじゃない。けれど、したくないわけじゃない。その矛
焼酎の湯割りが、唯史の体内をじんわりと巡っていた。顔が火照り、視界の端がぼんやりと滲む。けれど、意識は妙にはっきりしていた。酔っているはずなのに、隣にいる佑樹の呼吸や、腕の動き、視線の動きが細かく伝わってくる。それが逆に、胸の奥をざわつかせた。「酔ったんか?」佑樹の声が近くで響いた。低くて柔らかい声。昔から変わらないそのトーンが、今はやけに胸に刺さる。「……別に、酔ってへん」唯史はそう答えたが、声がかすれていた。手元のグラスを持ち上げようとしたが、指先が少し震えているのが分かった。酔いのせいか、何か別のものか、自分でも分からなかった。「ほら、こっち来いよ」佑樹が、唯史の肩を軽く引いた。ソファの隣同士。ただの軽いハグのつもりだったのかもしれない。けれど、その距離は近すぎた。佑樹の腕が、唯史の肩を包む。身体が寄り添う。互いの呼吸が、肌にかかる。佑樹の吐息が、耳元に当たるたびに、唯史の背筋が微かに震えた。「……佑樹」小さな声で名前を呼んだ。けれど、次の瞬間、唇が触れた。思いがけず、互いの顔が近づきすぎていたのだ。ほんの一瞬、柔らかい感触が重なる。それは、冗談でも偶然でも済まされない感覚だった。「……やめろよ」唯史は、唇を離しながら呟いた。けれど、その声には力がなかった。拒否するには遅すぎた。心臓が大きく跳ねているのを、自分でも感じていた。まつ毛がわずかに震えた。唇の端が乾いて、無意識に舌で濡らした。喉の奥が、ぎゅっと詰まるような感覚。体は動かない。逃げることもできなかった。佑樹は一度、腕を緩めた。唯史の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。目の奥には、何か探るような色が
夜の空気は、湿度を含んで身体にまとわりつくようだった。窓を少しだけ開け、網戸越しに夜風を入れているが、それでも蒸し暑さは抜けなかった。リビングには間接照明だけが灯っている。薄いオレンジ色の光が、ソファとローテーブルを柔らかく照らしていた。テレビは消され、BGMもない。静けさの中で、時折聞こえるのは氷がグラスの中でカランと鳴る音だけだった。唯史は、ローテーブルに置かれた焼酎の水割りを持ち上げた。グラスの表面には、薄い水滴が浮かんでいる。手のひらにじんわりとした冷たさと温かさが同時に伝わってきた。「なんや、よう飲むなあ。もう四杯目やで」佑樹が笑いながら言った。ソファの隣に座る佑樹は、焼酎のペースを守っている。唯史の方は、明らかに酒の量が増えていた。「……しゃあないやろ。飲まなやっとれん」唯史は、グラスを口に運んだ。焼酎の匂いが鼻に抜ける。喉が少し焼ける感覚が、気持ちよかった。「今日も遥、来たな」佑樹がぽつりと言った。「……ああ」唯史は、グラスを置いた。ローテーブルの木目をじっと見つめる。視界の端で、佑樹の足が組み替えられるのが見えた。「なんであんな女に構わなあかんねん」唯史は、思わず吐き出すように言った。声は少し掠れていた。自分でも、なぜそんなに苛立っているのか分からなかった。けれど、心の奥がざわついているのは確かだった。「べつに構わんでええやろ」佑樹は、さらりと言った。声は落ち着いていて、特に動揺もない。その温度に、唯史の胸がまた軋んだ。「お前、ほんまにあんなやつ相手にする気あるんか?」「ないわ」佑樹は笑った。けれど、その笑い方はいつもの柔らかいものだった。口の端だけが少し上がり、目は優しかった。「俺はお
唯史は、ビールの缶をキッチンに置き、静かに二階の部屋に上がった。階段を踏むたびに、足元の床が軋む。その音が、夜の静けさに溶けていった。部屋に入ると、窓から微かに外の街灯が見えた。蛍光灯はつけなかった。ただ、薄暗い部屋の中で、ベッドに身体を預けた。仰向けになり、天井を見つめる。天井には、昔の子供部屋時代の名残があった。薄いクロスの模様が、うっすらと浮かんでいる。「俺、なんでこんなに気になるんやろ」心の中で、問いがこぼれた。佑樹と遥が並んでいる姿を思い出す。遥が佑樹に笑いかける。佑樹は、それを自然に受け流す。それだけのことなのに、胸の奥がざわついた。あの時の自分の表情を、鏡で見たらどうなっていたのだろう。笑っていたのか、無表情だったのか。どちらにしても、心の奥では波が立っていた。「誰かと一緒にいることは好きやったはずやのにな」唯史は、天井を見たまま、声を出した。昔から、人と過ごす時間が好きだった。友達と騒ぐのも、部活の帰り道にだべるのも、嫌いじゃなかった。けれど、佑樹と一緒にいると、心が落ち着かなくなる。それが、どうしてなのか分からなかった。「俺、なんかおかしいんかな」ぽつりと漏らした声は、夜の部屋の中で自分だけに返ってきた。誰もいない部屋。天井のシミが、まるで何かを見下ろしているように感じた。胸の奥がぎゅっと縮む。その感覚が、嫌いなわけじゃなかった。けれど、苦しかった。佑樹の顔が浮かぶ。笑った顔。煙草を持つ指先。風呂上がりに濡れた髪でタオルをかけていた後ろ姿。唯史は、目を閉じた。まぶたの裏にも、佑樹の顔が残っている。消そうとしても、消えなかった。「あいつと一緒にいるだけやのに、なんでこんなに苦しくなるんやろ」その問いが、また喉の奥から漏れた。答えは
遥が帰った後の家は、やけに静かだった。玄関のドアが閉まる音が、耳に残っている。リビングには、夕方の光が柔らかく差し込んでいた。窓の外では、近所の子供たちが自転車で遊ぶ声がかすかに聞こえる。その日常の音が、妙に遠く感じられた。唯史は、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プルタブを開ける音が、小さく響いた。泡が一瞬だけ盛り上がり、すぐに落ち着く。グラスに注ぐと、氷がカランと音を立てた。その音がやけに大きく聞こえた。「なあ、唯史」佑樹が、隣のソファで足を伸ばして言った。「ん?」「遥、昔からあんなやつやったよな」「……まあな」唯史は、曖昧に返した。視線はグラスの中の氷に向けたままだった。佑樹は、特に気にしている様子はなかった。遥がどれだけ距離を詰めようと、冗談めかして触れてこようと、佑樹は昔と変わらない態度で受け流していた。その自然体の佑樹が、唯史には余計に眩しく見えた。「何が嫌なんやろ」心の中で、また呟いた。遥が佑樹に触れること。笑いかけること。それを見ている自分の胸が、なぜこんなにざわつくのかが分からなかった。嫉妬…なのかもしれない。でも、それがどういう種類の感情なのか、唯史にははっきりしなかった。遥に対しての嫉妬なのか。それとも、佑樹が誰かに取られることへの不安なのか。「……わからん」小さな声で呟いた。その言葉は、誰にも聞こえなかった。グラスを傾けて、ビールを一口飲む。けれど、その冷たさも、胸の奥のざわめきを鎮めることはできなかった。「なあ、唯史」佑樹がまた声をかけた。「なに」「明日、どっか出かけるか?気晴らしに」「……別にええけど」
翌日の昼過ぎ、唯史はリビングで何となくスマホをいじっていた。特に見るものもなく、スクロールする指だけが無為に動いている。外は曇り。窓の外には、どこかぼんやりとした光が落ちている。湿度を含んだ空気が部屋にこもり、身体の奥までだるさを引き寄せた。そのとき、玄関のチャイムが鳴った。唯史は、背もたれから体を起こした。佑樹はキッチンで何やら作業している音がする。「佑樹ー、野菜持ってきたで」明るい女の声が、玄関から響いた。唯史は、その声が誰かすぐに分かった。遥だった。昨日の同窓会で見たばかりの顔。少し派手になったメイクと、あの軽い笑い方が、耳の奥で蘇る。「おー、遥か。開いてるで、入ってええよ」佑樹がキッチンから返事をした。それと同時に、玄関のドアが開く音がして、足音が近づいてきた。「わあ、広いなあ。昔のまんまやけど、綺麗にしてるやん」遥は玄関を上がり、そのままリビングに入ってきた。手には、ビニール袋いっぱいの野菜。茄子やきゅうり、トマトが袋の中で転がっている。「実家の畑で採れたやつやねん。佑樹、野菜好きやろ」「おお、助かるわ。ありがとうな」佑樹は、手を拭きながらキッチンから出てきた。遥は、佑樹の腕に軽く触れるようにしてビニール袋を渡した。その手つきが、妙に馴れ馴れしく見えた。「なんか作り方教えてや。味噌漬けとかさ」遥は、キッチンの方へずかずかと入り込んだ。まるで自分の家のように、冷蔵庫を開けたり、流しを覗き込んだりする。佑樹は笑いながらそれを受け流している。「味噌漬けな。まあ、簡単やで」「ほんま?私、最近そういうの覚えたいねん。女子力アップいうやつ?」遥は冗談めかして笑った。その笑い声は軽やかだったが、どこか計算が見え隠れする。佑樹に触れる指先が、さりげなく背中に回される。唯史は、それを黙って見ていた