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十年前に戻った妻は初恋を選び、すべてを失った

十年前に戻った妻は初恋を選び、すべてを失った

By:  如月夢子Completed
Language: Japanese
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初恋が死んだと知った妻の成瀬美咲(なるせ みさき)は、新婚旅行中のクルーズ船から身を投げ、この世を去った。 そのときになって、ようやく俺は知った。 彼女は一度も、水沢奏太(みずさわ そうた)のことを忘れていなかったのだと。 少女の頃に戻った彼女は、迷いなく俺の手を振りほどき、初恋のもとへ駆けていった。 俺は二人の背中を見送って、そのまま背を向けた。 それから先、俺たちの人生が交わることはなかった。 ただ並んで伸びていくだけの、交わらない二本の平行線になった。 十年後、海市のパーティーで俺たちは再会した。 彼女はすでに社交界の新たな寵児となっていて、奏太の腕に親しげに寄り添いながら姿を見せた。 俺が人を捜して会場に入ってきたのを見ると、彼女は思わず口を開いた。 「どうしてそこまで私に執着するの?たとえ十年待ったとしても、私はあなたを愛したりしないわ」 俺は相手にせず、隅でこっそりケーキをつまみ食いしていた息子の首根っこをつかまえた。 その瞬間、彼女ははっとしたように目を赤くして、俺の手を強くつかんだ。 「わざと私を怒らせようとしてるの?あなた、言ったじゃない。この一生、愛するのは私だけだって」

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Chapter 1

第1話

初恋が死んだと知った妻の成瀬美咲(なるせ みさき)は、新婚旅行中のクルーズ船から身を投げ、この世を去った。

そのときになって、ようやく俺は知った。

彼女は一度も、水沢奏太(みずさわ そうた)のことを忘れていなかったのだと。

少女の頃に戻った彼女は、迷いなく俺の手を振りほどき、初恋のもとへ駆けていった。

俺は二人の背中を見送って、そのまま背を向けた。

それから先、俺たちの人生が交わることはなかった。

ただ並んで伸びていくだけの、交わらない二本の平行線になった。

十年後、海市のパーティーで俺たちは再会した。

彼女はすでに社交界の新たな寵児となっていて、奏太の腕に親しげに寄り添いながら姿を見せた。

俺が人を捜して会場に入ってきたのを見ると、彼女は思わず口を開いた。

「どうしてそこまで私に執着するの?たとえ十年待ったとしても、私はあなたを愛したりしないわ」

俺は相手にせず、隅でこっそりケーキをつまみ食いしていた息子の首根っこをつかまえた。

その瞬間、彼女ははっとしたように目を赤くして、俺の手を強くつかんだ。

……

「わざと私を怒らせようとしてるの?あなた、言ったじゃない。この一生、愛するのは私だけだって」まさかこの人生で、もう一度美咲と再会することになるなんて、夢にも思わなかった。

海市の名士たちが集う華やかなパーティーで、彼女は奏太の腕に手を添え、人々の輪の中に立っていた。笑みは優雅で気品に満ちていて、あの頃の少女の面影はもう少しも残っていなかった。

周囲に集まった人たちはみな愛想笑いを浮かべ、へつらうような口調で口々に言った。

「成瀬さんは本当に男勝りですね。こんな若さで県レベルのプロジェクトを勝ち取るなんて、先が楽しみです!」

「お隣の方はお相手でしょうか。まさにお似合いで、見ているこっちがうらやましくなりますね」

奏太は美咲を優しく見つめ、穏やかな声で言った。

「俺たちは年末に結婚する予定です。お時間がありましたら、ぜひ披露宴にいらしてください」

周囲からまた祝福の声が上がり、その中の誰かがふと尋ねた。

「お二人、もう十年も付き合ってるって聞きましたけど、どうして今になってようやく結婚なんですか?」

その疑問は、俺もちょっと気になっていた。

前の人生で、美咲は奏太を愛するあまり、後を追って死んでもいいと思うほどだった。

生まれ変わって戻ってきてからは、すぐに俺と別れた。

だから俺はてっきり、二人は卒業したらそのまま結婚するものだと思っていた。まさか今になっても、まだ籍を入れていなかったなんて。

その言葉を聞いた瞬間、美咲の顔にほんのわずかなこわばりがよぎった。だが次の瞬間には、それを隠すように笑みを浮かべた。

「まずは仕事、結婚はそのあと、ってことです。奏太には一番いい暮らしをさせてあげたいので」

彼女は奏太を見つめた。その目に浮かぶ甘やかな愛情は、今にもあふれ出しそうだった。

一回目の人生で俺と付き合っていたとき、俺は何度も彼女にプロポーズした。

それでも、家族から圧力をかけられるまで、美咲はようやくしぶしぶ俺との関係を認めるだけだった。

愛しているかどうかなんて、ここまではっきり出るものなんだな。

俺が背を向けて立ち去ろうとしたそのとき、視界の端に小柄な人影が映り、体が反射的にそのあとを追っていた。

「きゃっ!」

シャンパンが床一面に飛び散り、トレーを持ったスタッフが不機嫌そうに俺をにらみつけた。

「どこから入り込んできたの?ちゃんと前を見て歩けないの?」

声が大きかったせいで、周囲の視線が一斉にこちらへ集まった。

俺の顔を見た美咲は、はっきりと驚いた顔をした。

「白石柊真(しらいし しゅうま)、どうしてここにいるの?」

俺はうつむいてスタッフに謝りながら、事情を説明した。

「人を探しに来たんです」

それを聞いた誰かが興味深そうに美咲へ尋ねた。

「成瀬さん、お知り合いですか?」

美咲はグラスを持つ手にわずかに力を込め、目つきをすっと冷やした。

「ええ、元彼ですよ」

その場の誰かが口を滑らせた。

「十年も付き合ってたなら、てっきりお互い初恋同士かと思ってましたよ」

奏太の笑みがわずかに薄れた。だが彼は美咲の手を握ったまま、何でもないことのように言った。

「若い頃のことですからね。けんかして少し離れていただけです。若いうちって、誰だって一度くらいは道を踏み外すものでしょう?」

美咲は何も言わなかった。俺の上を視線がかすめ、そのままスタッフへ向けられる。

「損害は私のほうで持つわ。この人は帰してあげて」

彼女は静かにそこに立っていた。さっき目が合ったとき以外、俺のほうを見ようともしない。

奏太の前で、かつて道を誤った過去としての俺と、きっぱり線を引くつもりなのだろう。

スタッフはすぐに俺を外へ押し出そうとした。

「成瀬さんが親切に尻ぬぐいしてくれたんですよ。次はありませんからね」

そして俺のしわだらけの寝間着を見下ろし、あからさまに顔をしかめた。

「ここはあんたみたいなのが来る場所じゃない。さっさと出ていってください」

俺はその手を振りほどき、できるだけ穏やかに言った。

「人を探しに来ただけなんです。見つけたら、自分で出ていきます」

スタッフは鼻で笑い、白けたように目をむいた。

「玉の輿でも狙ってるような奴は、これまで何人も見てきましたよ。こんなパーティーに、あんたみたいなのが入れる立場だと思ってるんですか?これ以上しつこく居座るなら警備を呼びますよ!」

「待って」

そのとき、背後から美咲の声がした。

彼女はドレスの裾をつまみながらこちらへ歩いてきて、俺を見て小さくため息をつき、困ったように言った。

「この人は私に会いに来たの。だから、私が話すわ」

奏太は彼女の隣に立ち、所有を誇示するようにその肩を抱いた。

「白石、俺と美咲はもうすぐ結婚するんだ。少しでも羞恥心ってものがあるなら、このタイミングで元恋人に会いに来たりはしないと思うけど?」

美咲の顔色はさらに悪くなり、とうとう我慢できなくなったように俺を諭した。

「どうしてそこまで私に執着するの?たとえあなたが十年待っていたとしても、私はあなたを愛したりしない。

そもそも、あなたと付き合っていたこと自体が間違いだったの。ようやくその間違いを正す機会を得たんだから、あなたにも早く過去を手放してほしい」

奏太は俺を上から下まで眺め、その目にあからさまな嘲りを浮かべた。

「美咲に会いに来たくなる気持ちは、まあ分からなくもないよ。今の美咲は有名な実業家だからね。取り入ろうと寄ってくる連中がいても不思議じゃない」

おそらく、俺の身につけたしわくちゃの寝間着が彼をいっそう増長させたのだろう。奏太は得意げに言い放った。

「お前だって一応は名門校の出なんだろ?それが今じゃこの有様か。俺がお前なら、恥ずかしくて外なんて歩けないけどね」

美咲は眉をひそめ、スマホを取り出すと、いら立ちをにじませた声で言った。

「昔の別れ方が納得いかないっていうなら、今ここで手切れ金を払ってもいいわ。

一千万で足りる?」

彼女の指が画面の上を二度ほど滑ったところで、不意にその動きが止まった。

「……私の連絡先、削除したの?」
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ノンスケ
ノンスケ
そうそう。目の前にある幸せを大切にすることが1番大事。
2026-04-19 21:32:38
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第1話
初恋が死んだと知った妻の成瀬美咲(なるせ みさき)は、新婚旅行中のクルーズ船から身を投げ、この世を去った。そのときになって、ようやく俺は知った。彼女は一度も、水沢奏太(みずさわ そうた)のことを忘れていなかったのだと。少女の頃に戻った彼女は、迷いなく俺の手を振りほどき、初恋のもとへ駆けていった。俺は二人の背中を見送って、そのまま背を向けた。それから先、俺たちの人生が交わることはなかった。ただ並んで伸びていくだけの、交わらない二本の平行線になった。十年後、海市のパーティーで俺たちは再会した。彼女はすでに社交界の新たな寵児となっていて、奏太の腕に親しげに寄り添いながら姿を見せた。俺が人を捜して会場に入ってきたのを見ると、彼女は思わず口を開いた。「どうしてそこまで私に執着するの?たとえ十年待ったとしても、私はあなたを愛したりしないわ」俺は相手にせず、隅でこっそりケーキをつまみ食いしていた息子の首根っこをつかまえた。その瞬間、彼女ははっとしたように目を赤くして、俺の手を強くつかんだ。……「わざと私を怒らせようとしてるの?あなた、言ったじゃない。この一生、愛するのは私だけだって」まさかこの人生で、もう一度美咲と再会することになるなんて、夢にも思わなかった。海市の名士たちが集う華やかなパーティーで、彼女は奏太の腕に手を添え、人々の輪の中に立っていた。笑みは優雅で気品に満ちていて、あの頃の少女の面影はもう少しも残っていなかった。周囲に集まった人たちはみな愛想笑いを浮かべ、へつらうような口調で口々に言った。「成瀬さんは本当に男勝りですね。こんな若さで県レベルのプロジェクトを勝ち取るなんて、先が楽しみです!」「お隣の方はお相手でしょうか。まさにお似合いで、見ているこっちがうらやましくなりますね」奏太は美咲を優しく見つめ、穏やかな声で言った。「俺たちは年末に結婚する予定です。お時間がありましたら、ぜひ披露宴にいらしてください」周囲からまた祝福の声が上がり、その中の誰かがふと尋ねた。「お二人、もう十年も付き合ってるって聞きましたけど、どうして今になってようやく結婚なんですか?」その疑問は、俺もちょっと気になっていた。前の人生で、美咲は奏太を愛するあまり、後を追って死んでもいいと思うほどだった。
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第2話
俺は少し首をかしげた。どうして彼女がそこまで大きく反応するのか、よく分からなかった。別れたあとに連絡先を消すなんて、普通のことじゃないか。それに、うちにはとんでもなく嫉妬深いやつがいる。もし俺がまだ元カノの連絡先を残してるって知ったら、きっとしばらく大騒ぎになる。「前に言っただろ。別れたあと、もう自分を探しに来ないでほしいって」美咲の表情がすっと冷えた。何か言いたげだったが、結局口にはしなかった。俺は淡々とした口調で付け加えた。「手切れ金もいらない。必要ないから」立て続けに思い通りにならなかったせいか、美咲の顔色はさらに悪くなり、冷たく言い放った。「今さら私の前で何を取り繕ってるの?今のあなたがあまりにもみじめだから、少し声をかけてあげただけ。そうでなければ、一言だって話したくなかったわ」奏太はやさしく彼女をなだめた。「美咲、君は本当に甘いな。こんな男のこと、気にかける必要なんてあるかい?その薄汚れた格好を見れば分かる。どうせ何をやってもものにならない男だよ」見下したようなその口ぶりは、まるで十年前の自分のほうが俺よりましだったことにでもなっているみたいだった。前の人生で、美咲の家が娘と奏太の交際に反対したのは、彼に学がなく、裏社会に足を突っ込むようなチンピラだったからだ。大学で初めて美咲に会ったとき、彼女はちょうど奏太を警察から保釈してきたばかりで、家族に無理やり別れさせられていた。美咲がいちばん塞ぎ込んでいたあの時期、ずっとそばにいたのは俺だった。彼女がそこから抜け出せるよう、支え続けた。彼女は写真を撮るのが好きだったから、俺は起業資金にするはずだった金を回して、何十万もする機材を買ってやった。真冬でも真夏でも、何十キロもある機材を背負って彼女のあとをついて回った。ただ心から笑ってくれれば、それでよかった。まさか、先に告白してきたのが美咲のほうだったなんて、当時の俺は思いもしなかった。俺は彼女と奏太の過去を知っていたし、彼女が時おりアルバムの中のツーショットを見つめてぼんやりしているのも見ていた。だから、美咲に告白されたとき、俺は本気で尋ねたんだ。本当に奏太のことはもう吹っ切れたのか、と。あのとき彼女は俺をぎゅっと抱きしめ、きっぱりと言った。「あれはもう過去よ。誰が本当に自分
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第3話
写真が好きなのは、別に美咲への未練があるからじゃない。実際、前の人生であの遺書を見た時点で、俺の気持ちは完全に冷めきっていた。ただ、生まれ変わって戻ってきたときには、金はもう全部カメラ機材につぎ込まれたあとだった。中古のフリマに出しても売れず、仕方なく自分で使い始めた。そしたら、本当に写真そのものが好きになった。今世では、もう誰かに気に入られるためじゃない。ただ、自分のためだけに撮っている。俺はもう一度、礼儀正しく美咲の申し出を断った。口調はあくまで丁寧で、よそよそしい。「自分の趣味だけで生活費は十分まかなえてる。気遣ってくれてありがとう」俺が恩知らずだとでも思ったのか、美咲の顔に一瞬、怒りがよぎった。「せっかくチャンスをあげたのに断るなんて。あとで泣きついてきても、もう知らないから!」俺は何も言わなかったし、彼女にも伝えなかった。今の俺の写真作品は、いくつかの国レベルの媒体や海外の一流誌に専門で提供している。著作権使用料だの掲載料だのを合わせれば、収入は美咲にだって引けを取らない。もっとも、口にしたところで、どうせ大ぼらだとしか思われないだろう。なにせこのしわくちゃのパジャマ姿じゃ、どう見てもみすぼらしい。まったく、うちの息子も困ったものだ。どうしても俺に砂場で遊べとせがんできたくせに、少し目を離した隙にまた下へ降りていってしまった。服を着替える暇もないまま、俺はそのまま追いかけてきたのだ。そろそろ適当な理由をつけてここを離れようと思った矢先、さっきのスタッフが何かに気づいたらしい。そいつは俺の服を指さして言った。「バレンシアガ?その服、どこで拾ってきたんです?まさかここの清掃員で、宿泊客の部屋からくすねたんじゃないでしょうね?」さすがに俺も眉をひそめた。「その服が俺の物って可能性はないんですか?」奏太は鼻で笑い、あざけるように言った。「お前の物?買えるわけないだろ。金持ちで、お前みたいにだらしない格好のままうろつく人間がどこにいるんだ?」わざとらしく鼻を押さえる。「こんなに汚れてるし、洗いもせずにこっそり着たんじゃないのか?」美咲は俺を見つめ、眉間に深いしわを寄せた。「柊真、今こんな有様なのに、まだ強がるつもり?」俺は相手にしたくなくて、そのままスタッ
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第4話
俺は和也の耳をつまみ、冷たく言った。「医者に言われたこと、もう忘れたのか?虫歯があるのに、まだ甘いものを盗み食いして!」痛かったのか、和也が歯をむき出して顔をしかめると、奏太がすぐに俺を責め立てた。「食べたいなら食べさせればいいだろ、なんでお前がそんなふうに叱るんだ!」俺は淡々と返した。「俺はこの子の父親だ。しつけて何が悪い?」そこでようやく奏太は気づいたらしい。さっき和也が俺を何と呼んだのかに。彼は一瞬で言葉を失い、俺と和也の間に視線を何度も往復させた。俺が手を離すと、和也はすぐにすり寄ってきて、機嫌を取るように言った。「パパ、ほんのちょっとしか食べてないよ。虫歯なんてできないって」顔じゅうについたクリームが、そのまま俺の服にべったり移る。俺はうんざりして和也を引き離し、むっとした口調で言った。「あとでママにバレても、叱られて泣くなよ。俺はかばわないからな」和也はちょうど歯の生え変わりの時期で、普段から甘いものが好きなせいで、虫歯が何本もできていた。歯が痛いと妻の有馬香里(ありま かおり)はかわいそうでたまらないらしいが、和也に甘えられると弱くて、いつもつい見逃してしまう。今回の旅行でも、香里は会社からの電話で呼び出され、俺が代わりに厳しく見ていたせいで、この子はこっそり下のパーティー会場まで降りてきて甘いものをつまみ食いしていたのだ。俺が本気で怒っているのを見て、和也は取り入るように俺の脚に抱きついた。「パパ、もう二度としないから」傍らにいた支配人はびくびくしながら、声まで小さくなっていた。「も、もしかして……有馬香里様のご主人、でいらっしゃいますか?」俺は淡々とうなずいた。「そうです」彼は額の冷や汗をぬぐい、あわてて顔に笑みを作った。「こちらの不手際で、大変失礼いたしました。お着替えも必要でしょうし、旦那様と坊っちゃんは先に上で身支度を整えられますか」服についたぐちゃぐちゃのクリームを見下ろし、俺は支配人について行こうとした。だがそのとき、突然誰かに引き留められた。振り返ると、美咲だった。彼女は口を開きかけ、しばらくしてようやく声を絞り出した。「あなた……結婚してたの?しかも、子どもまで?」俺はつかまれた服の裾をそっと引き抜き、何でもないことのように
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第5話
最後の一言はまるで重い一撃みたいに、美咲をその場に立ち尽くさせた。彼女は呆然と俺を見つめ、やがて頬を伝って、きらりと光る涙がこぼれ落ちた。「柊真、本当に私たちの過去を忘れたの?信じない。あんなに長く一緒にいたのに、あんなに私を愛してくれていたのに」香里の不機嫌さはますます露骨になった。彼女は冷たく笑った。「一か月だけでしょう?それのどこが長いの?私たちの結婚生活のほうがよっぽど長いわよね?」美咲が言っているのは前の人生のことだと、俺には分かっていた。あのときの俺は、十年ものあいだ彼女のそばにいた。けれど、そんな話を香里にしたところで、信じてもらえるはずがない。俺は首を振り、美咲の言葉を遮った。「忘れたんじゃない。手放したんだ。もう気にしていない、それだけだ。この人生で、君も俺も別の道を選んだ。だったら、あの過去はもう大した意味を持たないってことだ」そして俺は、以前彼女が俺に言った言葉を、そのまま返した。「美咲、どうしていつまでもこだわるんだ?俺たちはもう、とっくに完全に終わってる」その言葉が落ちた瞬間、美咲の目は真っ赤になった。もうこれ以上、彼女と話す気はなかった。俺が歩き出そうとしたとき、香里がゆっくりした口調で言った。「さっき聞いたけど、うちの夫を泥棒呼ばわりして、警察に突き出そうとした人がいたんですって?」スタッフは肩を震わせながら、慌てて頭を下げた。「すべて私の見る目がなかったせいです!旦那様を誤解してしまいました。お二人に心からお詫び申し上げます!」腰を折るようにして頭を下げ、その額が床につきそうなほどだった。さっきまでの横柄さなど、跡形もなく消えていた。スタッフを片づけると、香里は今度は奏太へと視線を向けた。「うちの夫に新しい仕事を紹介して、うちのホテルで雑用でもさせるつもりだったって?私が代わりにお礼でも言えばいいのかしら?」口元をわずかに吊り上げ、その声にははっきりと皮肉がにじんでいた。「うちの夫、著作権収入だけで年に数億円あるの。あなたがそれ以上の条件を出せないなら、その話は結構よ」奏太はどうにか笑みを作り、人混みの後ろへ身を引いた。「じょ、冗談ですよ。本気にしないでください」会場のほかの連中も香里の視線を受けるや否や、そろって顔を伏せた。さっき俺に
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第6話
あのパーティーでの一件が、俺と美咲の最後の接点になるものだと思っていた。まさかその後、撮影のロケハンに出た先で、また彼女に会うことになるなんて思わなかった。今日の美咲は白いワンピースを着て、化粧もしていなかった。まるで大学時代の彼女そのままだった。俺の姿を見つけると、彼女はすぐに立ち上がった。「柊真、やっぱり来てくれた」唇を噛みしめるその目には、苦しさと迷いがいっぱいににじんでいた。「やっぱり、あなたは過去を忘れてなんかいない。今でも私のことを愛してるんでしょう?」俺は反射的に二歩ほど後ずさりし、あたりを見回した。そこでようやく気づいた。この公園は、昔、俺たちがよく一緒に歩いたあの場所だった。今日は湖のほとりで撮影するつもりで、近場だったここを選んだだけだ。まさか美咲までいるとは思わなかった。どう見ても、彼女は最初から俺を待っていたらしい。正直、頭が痛くなった。どうしてまだ諦めていないのか分からない。「美咲、昔のことはもう終わったんだ。わざわざ俺を呼び止めて、何がしたい?俺がまだ君を愛してるか、それが聞きたいだけか?もう何度も言ったはずだ。愛してない。なのに、どうして信じない?無理にでも『愛してる』って言わせたいのか?じゃあ、その先はどうする?俺が香里と離婚して、君が水沢と別れて、またやり直すのか?」その言葉を聞いた瞬間、美咲は足早にこちらへ寄ってきて、焦ったように言った。「できるわ、もちろんやり直せる!私たち、また一緒になれる!」今度こそ、本当に言葉を失った。俺はてっきり、美咲はただ過去に執着しているだけなのだと思っていた。十年間ずっと自分の後ろをついてきた男が急に振り向かなくなった。それが気に入らないだけなのだと。まさか本気で、俺と復縁しようとしていたなんて。俺はさらに二歩下がり、眉をひそめた。「頭でもおかしくなったのか?前の人生じゃ水沢のために後を追ったくせに、この人生ではちゃんと一緒になれたんだろ。それで今さら別れるっていうのか?」「柊真、あなたには本当に悪いことをしたわ」美咲の顔に痛みが走り、彼女は声を落とした。「そうよ。生まれ変わってすぐ、私は奏太のところへ行った。でも、いざ一緒にいてみたら、自分が思っていたほど彼を愛していなかったって分かったの。実は……
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第7話
あれから、美咲がもう俺の前に現れることはなかった。その代わり、香里のほうが何度かそれとなく聞いてきた。あの元カノのことが、やっぱりかなり気になっていたらしい。もともと嫉妬深い性格だから、あの日公園で美咲に会ったこともちゃんと報告して、そのあともしばらく機嫌を取って、ようやくその件は収まった。それから間もなくして、美咲の会社が倒産したという話が耳に入った。そのときになって初めて知った。奏太は、彼女に隠れてギャンブルにのめり込んでいたのだ。もともと奏太は元チンピラで、昔から素行の悪さはいろいろあった。金を持ってからは、なおさらやりたい放題だった。しかも美咲は普段から彼を甘やかしていて、彼に頼まれるまま、会社の財務部門まで任せてしまっていた。それが、すべての始まりだった。早い段階から、ああいう無能で単純な成金を狙っていた連中がいたのだろう。最初から彼をカモにするつもりで、きっちり罠を張っていた。あのとき俺のことで美咲と口論になったあと、奏太はその足でカジノへ向かった。泥酔した勢いで、手持ちの金をあっという間に全部溶かした。美咲に知られるのが怖くて、今度は会社の金に手をつけ、それを元手に取り返そうとした。だが、博打の場で失った金が戻ってくるわけがない。取り返すどころか、最後にはきれいさっぱり使い果たした。会社の資金繰りが完全に行き詰まった時点で、ようやく美咲は事態に気づいた。けれど、その頃にはもう何もかも手遅れだった。しかも、彼女はすでに奏太と籍を入れていたせいで、その借金は夫婦の共同債務にまでなってしまった。俺が香里と一緒にパーティーへ出たとき、その話題が出ていて、周囲の人間は口々に嘆いていた。「成瀬美咲も若手のやり手として将来有望だったのにねえ。あんな男を選んだせいで、これまでの苦労が全部水の泡だよ」「ほんとよ。しかもDV男なんでしょ?金をすった日は帰って暴れるらしいじゃない。前に見かけたときなんて、真夏なのに肌を隠すような格好をしてて、目元にもあざがあったわ」そこまで聞いて、香里はさすがに眉をひそめた。美咲のことは気に食わなくても、同じ女として思うところはあったのだろう。「弁護士をつけて、離婚させてあげようかと思うんだけど。あなたはどう思う?」俺はうなずいた。胸の奥では、思わず
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