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目覚め

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-06-21 19:53:16

壁の時計が、静かに午前四時半を指していた。秒針の音は部屋のなかでは聞こえず、ただ雨の気配だけが、薄く、遠く、空気の奥に滲んでいた。窓の外にはまだ夜の色が残っていたが、東の空だけが、かすかに白み始めている。黒と青のあいだに差し込むその曖昧な光が、部屋のカーテンの隙間から細く差し込んでいた。

尾崎は、ソファに座ったまま身を起こした。いつの間にか、ベッドから移動していたことに気づく。毛布の端が片方だけ膝にかかっており、体を横たえた形跡がそのままクッションに残っていた。目覚めの瞬間というより、意識が浮かび上がった感覚に近かった。睡眠と覚醒の境界が曖昧で、夢からも、現実からも、まだ一歩外れた場所にいるような心地がした。

首筋に触れた空気が冷たい。シャツの襟元に手をやると、少し湿っていることに気づいた。窓に近いせいだろうか。あるいは、夢の中で汗をかいていたのかもしれない。体の芯が重く、だるさだけがじわじわと残っていた。けれど、その感覚は不快ではなかった。むしろ、少しずつ現実に戻ってくるために必要な重みのようだった。

ゆっくりと立ち上がり、窓際に歩を進める。カーテンを指先で少しだけ押し広げた。ガラス越しに広がる街は、まだ眠っているようだった。ビルの窓はほとんど灯っておらず、車の影もまばらだった。雨は止みかけており、路面に薄く残った水の膜が、街灯の光をぼんやりと反射している。遠くに、清掃車のオレンジ色のランプがゆっくりと移動していた。

この街は、もう自分のものではない。そう思った。かつては毎日、ビルと人の群れの中を歩いていた。信号の点滅に合わせて足を速め、エレベーターに乗り込み、会議室に入る。そのすべてが、今はもう何年も前の記憶のように感じられた。わずか数週間前のことなのに、手を伸ばしても届かない距離がある気がした。

ガラスに映る自分の姿が、ぼんやりと浮かぶ。髪は乱れており、目の下にはくっきりとした影が落ちていた。それでも、その表情には確かに何かがあった。疲れている。それは否定しようのない事実だった。だが、ただ疲れているだけではなかった。どこかに、静かな決意のようなものが宿っている気がした。自分でもそれが何なのかははっきりとはわからなかった。ただ、何かが終わったのだと、そう感じていた。

振り返って部屋のなかを見る。昨日のままの状態で置かれたスーツケースが、ベッドの足元に横たわっていた。開け放した蓋の中には、よく使い慣れた仕事用のシャツや、ノートパソコン、革靴が並んでいる。すべて必要最低限のものばかりだった。何かを残したいとも、持ち出したいとも思わなかった。東京で積み上げてきたものは、もうここに置いていくしかない。

ゆっくりとスーツケースに近づき、蓋を閉じた。手にしたジッパーを滑らせると、金属が擦れる乾いた音が、部屋の静寂をほんの一瞬だけ切り裂いた。だが、その音に嫌悪はなかった。まるでひとつの章が終わったという合図のように、すっと胸の奥が整っていく気がした。

コートを手に取り、袖を通す。重みが肩にのしかかる。その感触が、これから歩き出すための準備として、体に馴染んでいく。ポケットの中に手を入れると、名刺が一枚、折れずに収まっていた。昨日見た、あの名前。鈴木慶吾。だが、今はもう、それを見返そうとは思わなかった。名前がそこにあるだけでいい。それ以上、意味を与える必要はなかった。

肩掛け鞄を持ち、部屋を見回す。使い捨ての歯ブラシが洗面台に置かれており、空になった紙コップがゴミ箱の隅に傾いている。どれも、今日の終わりにはもう思い出せないような些細な風景だった。それでも、この部屋に一晩だけ自分がいたということを、何かが記憶してくれている気がした。

ドアに手をかけた瞬間、一瞬だけ躊躇が走った。これが、東京で過ごす最後の数秒になる。そう思ったとき、背中の奥に鈍い感覚が走った。痛みではない。空洞が風を孕むような感覚だった。それでも、ドアノブを回す手には迷いはなかった。音を立てずに、静かに開けた。

廊下に出ると、空調の音が微かに耳に届いた。誰の気配もなかった。白い天井の照明が、均等に光を落としている。まっすぐに伸びたカーペットの上を歩きながら、尾崎はふと呼吸を深くした。酸素の味が変わった気がした。目を閉じると、京都という名前が、脳裏に静かに浮かんだ。まだ何も知らない場所。だが、これからはそこが自分の“今”になる。

それだけで、足取りはわずかに軽くなった気がした。ホテルの自動ドアが開くと、朝の匂いが頬に触れた。夜の湿り気をわずかに残しながら、それでも確かに新しい空気だった。空はまだ白んだだけで、朝日は昇っていない。だが、その光の気配が、これから始まる何かを告げているように思えた。尾崎は黙って歩き出した。まだ知らぬ街へ、まだ知らぬ日々へ、静かに向かっていった。

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