午後四時。窓際に置かれたマグカップからは、もう湯気が立っていなかった。飲みかけのコーヒーはすっかり冷めていて、その苦味だけが室内に取り残されているようだった。部屋は照明もつけられず、外からの灰色の光が薄く差し込むだけ。尾崎はソファに沈み込むように座り、手にしたスマートフォンの画面を静かに見つめていた。
画面の中心には、たった一行のテキスト。
「あなたはずっと|赦《ゆる》されてなかったんじゃない。自分が赦してなかっただけよ」
茉莉という名前の送り主。かつて東京本社で机を並べ、最後まで尾崎を責めなかった数少ない存在。その彼女からの言葉は、思いがけず柔らかく、そして残酷だった。
無意識のうちに、尾崎の指先が画面をなぞる。液晶の滑らかな感触が、まるで誰かの声に触れたように思えて、瞬きが一度止まった。部屋の中は静かだった。外では風が何かをかすかに鳴らしているが、それも耳に届かないほど、心の中が鈍く、遠い。
尾崎の目元に、まったく力はなかった。瞳の奥は焦点を失い、口元だけがわずかに動いた。開いた唇からは何も発されず、言葉は生まれる前に空気のなかでほどけて消えた。喉の奥が重く、息が引っかかる。それでも声にはならなかった。
あの言葉を、自分が本当に必要としていたのかさえわからなかった。ただ、胸の奥の柔らかい部分に触れてきたその文面に、心がひどく静かに揺れていた。
彼はソファの脇に置いてあったマグカップに手を伸ばす。指先がカップの陶器の縁に触れた瞬間、手がかすかに震えた。それはまるで、どこかに隠していた傷が、唐突に冷たい空気にさらされたかのようだった。
それでもカップを持ち上げ、冷めきったコーヒーを口に含んだ。苦味だけが舌の上に広がり、何も感じない心に強引に何かを刻みつけるようだった。
赦されていなかった。そう思っていた。何度も、何度も。東京を離れ、すべてを絶って、ここまで逃げてきても、その思いはなお胸の奥に巣を作っていた。だが茉莉の言葉は、それを静かに否定してくる。
自分が赦していなかっただけだと。その言葉が本当なら、いったい自分は、何を望んでここにいるのか。なぜ、まだ名刺を捨てられずにいるのか。なぜ、佐野という男の目を、どこかで見返して
《茶庭 結》の戸を押して入ると、外の光がすぐさま静かな木の香りと畳の気配に吸い込まれていった。夕方の街はまだ音を残していたが、この店の中ではすべてがいったん宙に浮き、呼吸も声も、少し遅れて届くような気がした。尾崎はその感覚に、いつものように肩をわずかに落とす。ほっとする、というよりは、ようやく仮面を外してもいいと体が判断している、そんな静かな脱力だった。佐野は奥から出てきて、気づいたように微笑んだ。無言のまま小さく会釈する。言葉はなかったが、それで充分だった。尾崎はいつもの席に歩を進める。右側に障子越しの光が淡く差し込む一角。そこだけが、なぜか時間の粒が大きく、ゆっくり流れているように感じられる場所だった。腰を下ろし、静かに息を吐く。今日の空気は乾いていて、夕方の肌寒さがまだ指先に残っていた。ジャケットの袖をそっと引き直しながら、尾崎は卓の木目に視線を落とした。しばらくして、抹茶を点てる音が、奥のほうから微かに聞こえた。茶筅の擦れる柔らかな音、湯の落ちる静かな音。そうしたひとつひとつの気配が、尾崎の中の喧騒をなだめていくようだった。ふと、佐野の声がした。「なんや……あんさんの目ぇ、やっと息しとるわ」尾崎はその瞬間、顔をわずかに上げた。声が届いたというより、身体の芯のどこかを突かれたように、心が瞬間的にざわついた。何を言われたのか、すぐには理解できず、だがその語尾のやわらかさと京ことばの間に、なぜか否応なく安心が滲んでいた。「……目が?」少し遅れて反応した尾崎は、わずかに目を瞬かせる。その仕草には、照れ隠しでも困惑でもない、ただほんの少しの“動揺”が含まれていた。けれどそれは、かつて東京で味わった種類のものとは違った。何かを責められたり、測られたりするのではないということが、佐野の声色から明確に伝わってきた。だからこそ、尾崎は笑わなかった。笑うという逃げ場を選ばず、ただ視線を落としたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、それが不思議と深く、胸の奥にまで届く感覚があった。「目で呼吸する、なんて初めて言われました」
午後四時。窓際に置かれたマグカップからは、もう湯気が立っていなかった。飲みかけのコーヒーはすっかり冷めていて、その苦味だけが室内に取り残されているようだった。部屋は照明もつけられず、外からの灰色の光が薄く差し込むだけ。尾崎はソファに沈み込むように座り、手にしたスマートフォンの画面を静かに見つめていた。画面の中心には、たった一行のテキスト。「あなたはずっと|赦《ゆる》されてなかったんじゃない。自分が赦してなかっただけよ」茉莉という名前の送り主。かつて東京本社で机を並べ、最後まで尾崎を責めなかった数少ない存在。その彼女からの言葉は、思いがけず柔らかく、そして残酷だった。無意識のうちに、尾崎の指先が画面をなぞる。液晶の滑らかな感触が、まるで誰かの声に触れたように思えて、瞬きが一度止まった。部屋の中は静かだった。外では風が何かをかすかに鳴らしているが、それも耳に届かないほど、心の中が鈍く、遠い。尾崎の目元に、まったく力はなかった。瞳の奥は焦点を失い、口元だけがわずかに動いた。開いた唇からは何も発されず、言葉は生まれる前に空気のなかでほどけて消えた。喉の奥が重く、息が引っかかる。それでも声にはならなかった。あの言葉を、自分が本当に必要としていたのかさえわからなかった。ただ、胸の奥の柔らかい部分に触れてきたその文面に、心がひどく静かに揺れていた。彼はソファの脇に置いてあったマグカップに手を伸ばす。指先がカップの陶器の縁に触れた瞬間、手がかすかに震えた。それはまるで、どこかに隠していた傷が、唐突に冷たい空気にさらされたかのようだった。それでもカップを持ち上げ、冷めきったコーヒーを口に含んだ。苦味だけが舌の上に広がり、何も感じない心に強引に何かを刻みつけるようだった。赦されていなかった。そう思っていた。何度も、何度も。東京を離れ、すべてを絶って、ここまで逃げてきても、その思いはなお胸の奥に巣を作っていた。だが茉莉の言葉は、それを静かに否定してくる。自分が赦していなかっただけだと。その言葉が本当なら、いったい自分は、何を望んでここにいるのか。なぜ、まだ名刺を捨てられずにいるのか。なぜ、佐野という男の目を、どこかで見返して
店内に残っていた最後の客が出ていき、暖簾の揺れが静まったあと、カフェには夜の気配がゆっくりと満ち始めていた。外の気温はぐっと下がり、木枠の窓ガラスにわずかに水気が滲んでいる。薄明かりの中、佐野はテーブルの上を拭いていたが、尾崎の席だけはまだそのままにしていた。尾崎は変わらず静かに座っていた。背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、空になった湯呑をじっと見つめている。その指先は既に冷えきっているのに、器を持つ手だけが、しがみつくようにそこに留まっていた。佐野はその様子を、少し距離を置いて眺めていた。声をかけようかと迷い、けれど迷ったまま、無言で一歩踏み出した。「……お代は、ええよ。今日は、うちの都合いうことで」佐野の言葉は、わざとらしくない軽さを装っていた。けれどその軽さの下にあるものが、嘘ではないこともまた、伝わってしまう気配を帯びていた。尾崎はゆっくりと顔を上げた。視線が佐野の目を正面から捉えたのは、それが初めてかもしれなかった。口を開きかけたが、何かを言おうとして、それをやめる。そして、無言のまま深く頭を下げた。その仕草には、礼以上の何かがあった。感謝というには深すぎて、謝罪というには穏やかすぎる。ただ、今の自分にできるすべての誠意を、その身振りに込めていた。佐野はその頭の角度を黙って見つめた。何も言わず、ただその沈黙に身を置いた。人の痛みに触れるというのは、あまりにも無力なことや、と佐野は思った。占いをしていても、答えが出るわけじゃない。ましてや、傷を癒す方法なんて、どこにも書いていない。けれど、そばにいることはできる。それだけは、嘘じゃなくできることやと、そう信じてきた。ふと、尾崎が立ち上がった。少し硬い動きだったが、それでもきちんとした所作で椅子を戻し、背中を佐野に向ける。その背に、何かを背負っているような重さが見える。けれどそれは、少しだけ、歩ける重さに変わり始めているようでもあった。「……気ぃつけて、帰りや」佐野の声が追いかけるように響いた。決して大きくない声だったが、奥にあるものが揺れていた。
尾崎の指先が、テーブルの上に並べられたカードの一枚に触れる。触れるか触れないか、そんな微かな動きだったが、その仕草には確かな意味が滲んでいた。指が止まったのは、逆位置で出た「杯の5」だった。五つの杯のうち、三つが倒れてこぼれている。けれど残りの二つは、まだ立っていた。カードの角をなぞるように撫でてから、尾崎はかすかに息を吸った。「……これ、希望なんですか」声はとても低かった。けれど掠れてはいなかった。問いかけというよりも、呟きに近く、それでも確かに、佐野の耳に届くだけの力はあった。佐野はすぐには答えなかった。視線をそっと尾崎に向けたまま、何かを言いかけて、そのまま言葉を口にするのをやめる。その代わりに立ち上がり、背後の棚から一客の茶碗を手に取り、丁寧に湯を注ぐ。茶筅がわずかに器の中で揺れ、淡い泡が湧いて、静かに一杯の抹茶が出来上がる。彼の手元は終始穏やかで、しかしどこか、何かを振り切るような動きが混じっていた。道具に触れるたびに、気持ちを整えているような、あるいは、伝えるべき言葉を代わりに沈めているような所作だった。茶碗を尾崎の前にそっと置く。器の縁から立ち上る湯気が、二人の間に淡い曇りを生んだ。「……熱いうちに、飲んでな」佐野はそう言って、やっと尾崎と目を合わせた。その目はまっすぐだった。けれど、その奥には言葉にならないためらいがあった。伝えるべきことと、踏み込んではいけない一線。その狭間に立つ者の目をしていた。何かを言いたいと思いながら、あえて沈黙を選ぶ者の視線だった。尾崎は少しのあいだ視線を逸らしていたが、やがてふいに顔を上げた。佐野の目をまっすぐに捉えたその瞬間、ほんのわずかに眉が動いた。予期せぬやわらかさに触れたような驚きが、そこにあった。「希望って……そんなに静かなもんなんですね」口にしたのは、問いではなく実感に近かった。佐野は微かに笑った。口元だけがわずかに緩み、けれど声にはならなかった。尾崎は視線を落とし、茶碗に指を添える。器の温もりが掌に広
佐野の指先が、カードの束を静かに撫でるように持ち上げ、滑らかにシャッフルする。音は小さく、それでも畳の上に広がる空気をふるわせるには十分だった。指の動きは流れる水のように一定のリズムを刻み、無駄な力も焦りもなかった。ただ淡々と、だが丁寧に、時を重ねるようにカードを混ぜてゆく。尾崎はその音に耳を澄ませながら、まぶたを閉じていた。閉じた目の奥には、何も見えないはずの闇が、なぜか薄く濁っていた。自分の中に溜まり続けたものが、ようやくどこかに流れ出そうとしているのか、それとも、もっと深く澱のように沈んでいくのかは、まだわからなかった。カードが静かに切られ、並べられていく。佐野の手つきは変わらず落ち着いていて、尾崎の前に一枚、また一枚と、意味を持った象徴が置かれていく。部屋の空気が、少しずつ重たくなった気がした。「……いこか」佐野の低い声が、そっと響いた。「これは“過去”の位置。塔」小さな沈黙が落ちる。佐野は目の前のカードに視線を落としたまま、指先をほんの少しだけ添える。「壊れるもんは、壊れてまう。どれだけ気ぃ張っても、守ろう思ても、避けられへん崩壊ちゅうもんがあるんやな」言葉は柔らかいが、どこか芯のある響きだった。尾崎はまだ目を閉じたまま、うっすらと唇を引き結んでいた。息を飲む音が微かに混じり、喉の奥がぴくりと動く。「こっちが“現在”。剣の3」今度は、佐野が少しだけ息を継ぐのがわかった。視線を上げ、尾崎のまぶたの震えを見つめたまま、口を開く。「痛みがまだ残ってる。たぶん…ずっと、心の真ん中に刺さったまんまなんやな。それ、抜いたら傷になるん、わかってるから…余計に抜かれへん」尾崎の指先が、膝の上でわずかに動いた。力を入れたようで、すぐに脱力したようでもあった。まぶたの端がかすかに震え、まつげの下で何かが揺れる。「ほんで……“未来”。杯の5、逆位置」佐野の声は、それまでよりもさらに低く、まるで自分の
午後五時を過ぎた《茶庭 結》は、雨上がりの湿気をほんの少しだけ残しながら、ほの暗い明かりに包まれていた。格子越しに差し込む光はすでに弱く、店内に吊るされた小さな行灯の明かりが、畳の縁を淡く照らしていた。土間を過ぎた先、奥の間では佐野が茶を点てていた。小さな湯の音と、茶筅が擦れる柔らかな音が静けさの中に溶けていた。誰の言葉もない時間が、ここでは自然のものとして流れていた。尾崎がふいに現れたのは、その音がちょうど一度途切れたときだった。暖簾をそっとくぐったその動きも、足音も、まるで誰かに許可を得るような遠慮が感じられた。店内にいた数人の客がちらと視線を向けたが、尾崎の存在が騒がれることはなかった。尾崎は何も言わなかった。いつものように、正面の畳の小空間へと進み、低く身をかがめて席に着く。その動きには迷いがなかったが、なにかを押し込めるような静けさが、所作の隅々に滲んでいた。佐野はその姿を、そっと視線の端で捉えていた。だがすぐに目を戻し、目の前の茶碗に集中したまま、言葉を発さなかった。尾崎が何を求めてここへ来たのか、言葉では尋ねない。ただ、そこにいること。それだけで、充分なこともあると佐野は知っていた。茶を点て終え、盆に乗せて尾崎の席までゆっくりと歩く。茶碗が尾崎の前にそっと置かれると、そのときになって初めて、佐野は口を開いた。「…占い、久しぶりに見てみよか?」声は低く、やわらかく、無理のない問いかけだった。誘うというよりも、尾崎が自分の意志で踏み出せるように、ただ扉を開けておくような響きだった。尾崎は、一瞬だけその言葉の意味を噛みしめるようにまばたきをし、それからほんの少しだけ目を伏せた。頷くまでの時間は短くもなく、長すぎるわけでもなく、ただ一つの感情が確かに生まれるのを、彼自身が待っていたようだった。そして、ほんのわずかに首を縦に動かした。言葉では何も返さなかったが、その頷きには、過去を抱えた人間がもう一度“何か”を信じてみようとする覚悟があった。佐野はそれを見て、小さくうなずき返した。指先が自然にカードの入った木箱へと向かい、静かな手つきで蓋を開けた