《茶庭 結》に通うようになって、尾崎の生活にはひとつの“余白”ができていた。誰かと深く関わることもなく、会話の必要もない。それでいて、自分が受け入れられていると感じられる場所。佐野のカフェには、そんな不思議な静けさがあった。
平日の仕事が終わったあとや、土曜の午後。特に予定もない日は、ふらりとあの町家の前まで足が向く。自分では意識していないつもりでも、気づけば歩いていた。疲れが表に出ないように、仕事では常に笑顔を貼りつけている。その笑顔が落ちてしまいそうなときに、尾崎はこの場所に逃げ込んでいた。
その日も、少しだけ湿気を帯びた風が吹く午後だった。京都の春は長くて、季節が移ろいきるまでに何度も服装を迷わせる。薄手のジャケットを羽織って歩いてきた尾崎は、いつものように入り口で足を止めた。暖簾がわずかに揺れ、その奥に静かな影が見えた。
木戸を開けると、あたたかな空気が出迎える。靴を脱ぎ、足元に敷かれた滑らかな石畳の感触に、少しだけ背筋が伸びる。スタッフが気配を察して軽く会釈する。尾崎はそれに無言で応え、見知った畳敷きの席に歩を進めた。
座った瞬間、背中から力が抜けていくようだった。いつも通りの抹茶が、ほどなくして運ばれてくる。香りは控えめで、それがかえって心地いい。尾崎は茶碗に手を伸ばし、ひと口ふくんだ。苦みと旨味が、舌の奥に残ったまま、ゆっくりと胸に沈んでいく。
そのときだった。ふと、向かいから視線を感じた。顔を上げると、佐野がいつの間にか隣の仕切りに座っていた。彼もまた、何かを言おうという気配はなく、ただ微かに笑っていた。
「よう通ってくれはるけど…あんさん、あんまり人と喋らはらへんなあ」
柔らかい京言葉が、湯気のように漂った。問いというより、観察のような響きだった。
尾崎は少しだけ間を置いてから、いつもの笑顔を浮かべた。上唇の端をわずかに持ち上げて、目尻の筋肉を使わない、整った表情だった。
「仕事で喋りすぎてるんで、プライベートくらいは静かにしてたいんです」
ごまかすように、そう答える。語尾は軽く、冗談めかしていた。自分でも、取り繕うときのテンプレートになっているなと薄々感じながら。<
その日は雨が降るでもなく、晴れるでもなく、空全体が一枚の鈍い灰色に覆われていた。まるで音を吸い込むような曇天のもと、《茶庭 結》の店内には、いつも以上に静かな空気が流れていた。尾崎は、いつもの席に腰を下ろしていた。何かを待っているわけでも、特別な気分に浸っているわけでもなかった。ただ、ここにいるという事実だけが、日々のどこかから逸れた自分を、微かに肯定してくれているようだった。淡く立ちのぼる湯気の向こうに、佐野の姿があった。畳敷きの奥に座り、帳面のようなものを静かにめくっている。時折、抹茶の香にまぎれて、わずかに紙の乾いた匂いが鼻先をかすめる。尾崎は茶碗を両手で包み、ふうと息を落とした。そして、その視線に気づいたのは、何の前触れもなかった。佐野が、じっとこちらを見つめていた。声をかけるわけでもなく、手を振るでもなく、ただ目線だけを向けてくる。その目は、不思議なほどにまっすぐで、温度を持っていた。尾崎は少しだけ首をかしげて、苦笑のような笑みを浮かべた。「……何ですか」穏やかに問うつもりだったが、声はいつもよりわずかに上ずっていた。自分でも気づかぬうちに、何かが揺れていた。佐野はそのままふっと笑った。柔らかく、しかしどこか含みのある笑みだった。「いやあ……あんさん、あんまり顔のこと気にしてはらへんやろ」一瞬、意味がつかめなかった。「……え?」尾崎が問い返すと、佐野はやや体を傾けて、さらに声を低めた。「うちに来はる常連さん、何人かが言うてはってん。“最近、ものすご綺麗な人、通うてはるなあ”って」その言葉を聞いた瞬間、尾崎の身体がぴたりと硬直した。抹茶の香りが、急に遠くへ引いていくようだった。一拍遅れて、まぶたが揺れた。目線を保てない。佐野の顔を見ていられず、尾崎はゆっくりと目を伏せた。湯呑の縁に指を添える。その指先もわずかに震えている。いつもならすぐに笑顔が浮かぶはずなのに、なぜか今日は、それが間に合わなかった。
京都支社のオフィスは、東京本社に比べるとずっと簡素だった。古い雑居ビルの二階。天井は低く、窓から差し込む光もどこか弱々しい。エアコンの音が妙に耳につくのは、社内がそれだけ静かだからなのかもしれなかった。午前九時半、尾崎はいつものように自席に座って、PCを立ち上げる。デスク上は整然としていて、必要以上のものは置かない。備えつけの電話、ボールペン数本、業務用のメモパッド、そしてスケジュール帳。まるでどこかのショールームの一角のように、すべての配置に無駄がない。静かな空間に、キーを打つ音が小さく響く。手は慣れた速さで資料を整理し、送信すべきメールを淡々と打っていく。東京で積み重ねた“効率”が、そのままこの場所でも役に立っていることはわかっていた。ただ、その代わりに、他者と関わる余地は極端に少なくなる。「尾崎さんって、何考えてるかわからへん時あるわー」隣の席からふいに声がかかる。和やかさを含んだ調子で、嫌味ではなかった。同僚の森下が、ペットボトルの水を机に置きながら笑っている。尾崎は顔を上げ、すぐに笑顔を作った。「それはよく言われます」口角が滑らかに上がる。目尻にわずかなシワが寄るように見せる。けれど、そこには感情の熱はなかった。反射で浮かべるだけの、貼りつけたような表情。それが、ここに来てから自然と身についてしまった。森下は「いや、悪い意味やないんやけどな」と付け足し、苦笑気味に肩をすくめて去っていった。尾崎は軽く会釈し、再び画面に目を戻す。自分が誰にも内面を見せていないことは、本人が一番よくわかっていた。だが、それが悪いとも思っていなかった。何を考えているのかわからない人間として、適度な距離を保たれる方が都合がいい。それが、東京で生き延びるために覚えた“対人スキル”だった。それでも、ふとした瞬間に疲労を覚えることがある。たとえば今のような何気ない一言が、無意識の仮面を意識させる。そうした言葉の一つひとつが、尾崎の内側を静かに軋ませていった。他の社員たちは、昼休みに和やかに談笑している。関西らしい距離の近さで、話しかけ合い、冗談を言い合い、互いの生活に自然と触れ
《茶庭 結》に通うようになって、尾崎の生活にはひとつの“余白”ができていた。誰かと深く関わることもなく、会話の必要もない。それでいて、自分が受け入れられていると感じられる場所。佐野のカフェには、そんな不思議な静けさがあった。平日の仕事が終わったあとや、土曜の午後。特に予定もない日は、ふらりとあの町家の前まで足が向く。自分では意識していないつもりでも、気づけば歩いていた。疲れが表に出ないように、仕事では常に笑顔を貼りつけている。その笑顔が落ちてしまいそうなときに、尾崎はこの場所に逃げ込んでいた。その日も、少しだけ湿気を帯びた風が吹く午後だった。京都の春は長くて、季節が移ろいきるまでに何度も服装を迷わせる。薄手のジャケットを羽織って歩いてきた尾崎は、いつものように入り口で足を止めた。暖簾がわずかに揺れ、その奥に静かな影が見えた。木戸を開けると、あたたかな空気が出迎える。靴を脱ぎ、足元に敷かれた滑らかな石畳の感触に、少しだけ背筋が伸びる。スタッフが気配を察して軽く会釈する。尾崎はそれに無言で応え、見知った畳敷きの席に歩を進めた。座った瞬間、背中から力が抜けていくようだった。いつも通りの抹茶が、ほどなくして運ばれてくる。香りは控えめで、それがかえって心地いい。尾崎は茶碗に手を伸ばし、ひと口ふくんだ。苦みと旨味が、舌の奥に残ったまま、ゆっくりと胸に沈んでいく。そのときだった。ふと、向かいから視線を感じた。顔を上げると、佐野がいつの間にか隣の仕切りに座っていた。彼もまた、何かを言おうという気配はなく、ただ微かに笑っていた。「よう通ってくれはるけど…あんさん、あんまり人と喋らはらへんなあ」柔らかい京言葉が、湯気のように漂った。問いというより、観察のような響きだった。尾崎は少しだけ間を置いてから、いつもの笑顔を浮かべた。上唇の端をわずかに持ち上げて、目尻の筋肉を使わない、整った表情だった。「仕事で喋りすぎてるんで、プライベートくらいは静かにしてたいんです」ごまかすように、そう答える。語尾は軽く、冗談めかしていた。自分でも、取り繕うときのテンプレートになっているなと薄々感じながら。
茶碗の中で揺れる抹茶の表面に、尾崎は静かに視線を落とした。濃く立ちのぼる香りが鼻をくすぐり、ゆっくりと呼吸を促す。茶の熱は手のひらをじんわりとあたため、肩に残った緊張が少しずつほどけていくようだった。「今日は、見んとこか」佐野の声が、ふと降りてきた。背後からではなく、横手の柱の陰、いつの間にか気配が近づいていたことに尾崎は気づかなかった。その声には、問いかけも命令もなかった。ただ、「今日はそうやろな」とでも言うような、淡い肯定のような響きがあった。尾崎は顔を上げなかった。うなずくでもなく、首を振るでもなく、ただ茶の表面に意識を預けていた。それでも佐野は、それ以上何も言わなかった。視線を向ければ、あの柔らかな目がこちらを見ていたのかもしれない。けれど、尾崎はそれを確かめることができなかった。見られるのが怖かったのではない。ただ、今この沈黙が壊れてしまうことを、どこかで恐れていた。抹茶の苦みが舌に残る。けれど、その苦みさえ、今は心地よかった。「よう冷えるねえ、今日は」佐野がそう言って、そっと障子の桟に手をかける音がした。尾崎の視線の端に、細い指先と、着物の袖が揺れたのが映った。白地にうすく灰青が走る和服。すっきりとした装いで、余計なものを一切纏っていない。なのにその姿には不思議と目を引く力がある。雨は降っていなかった。けれど、空気は湿っていて、季節の変わり目らしい曇天が、庭の青苔を重く照らしていた。尾崎は、ようやく一度、まばたきをした。今日、この店に来た理由を、彼はまだ明確に言語化できていなかった。けれど「占ってもらうため」ではないということだけは、はっきりしていた。ほんの少し静けさが欲しかった。それだけだった。誰にも踏み込まれず、誰も踏み込まず、ただ呼吸できる時間と場所。そのささやかな贅沢を、佐野は何も問わずに与えてくれていた。「……すみません」尾崎の唇から、不意に言葉がこぼれた。反射のようなひとことだった。意味を伴っていたわけではない。ただ、今この空間にいることを自分なりに表現したかっただけだった。佐野はふわりと笑った気配を残し
賀茂川沿いの小道は、午後の曇天に包まれて、静かに息を潜めていた。春の終わりを告げる風が肌を撫で、桜の花びらもほとんどが枝から姿を消している。花の名残はアスファルトの隅に湿った紙片のように貼りつき、足元の水たまりが淡くその色を映していた。尾崎は、休日の午後を持て余していた。部屋にじっとしているには空気が重たく、けれど何か目的を持って出かける気力もない。ならば、ただ歩くことにした。方向は定めず、ただ目の前の道に沿って足を動かす。それが彼のこの数週間の過ごし方だった。京都に来てから、休日はこうしてひとりで過ごすことが多くなった。東京では常に誰かの視線と会話のなかで時間が過ぎていたが、ここでは誰にも名前を呼ばれることがない。それが不安かといえば、そうでもなかった。ただ、何も感じないというその鈍さが、自分の中で静かに広がっていることに気づいてはいた。道沿いに並ぶ家々の瓦が、鈍い光を受けて灰色に沈む。湿気を帯びた風が髪を揺らし、シャツの袖口にひやりとした感触を残す。まばたきが増える。目の奥に、どこか不安定な重さがあることに、尾崎自身も気づいていた。けれどそれを振り払う手立てがない。いつの間にか、小さな路地に足が向いていた。入り組んだ細い道を辿りながら、目に馴染みのある暖簾がふと視界に入る。木造の低い建物。白い和紙に墨で書かれた《茶庭 結》の文字が、風にふわりと揺れている。あ、と思った。足を止めた瞬間、胸の奥に何かがひそやかに揺れた。意識して向かったわけではなかったはずだ。気づけばここに来ていた。それがどういう意味を持つのか、まだ自分でもうまく整理がついていない。ただひとつだけ確かなのは、あの空間にもう一度触れたかったという欲求が、いつの間にか自分の中に芽生えていたということだった。尾崎は暖簾をくぐった。木の扉に手をかける。節の浮いた木目が、しっとりと手に馴染んだ。扉を押すと、軽い軋みとともに店内の空気が流れ込んでくる。その瞬間、喉の奥で微かに息が漏れた。自分でも気づかないほどの小さな呼気。だがそれは、どこか決意のようにも感じられた。店内には、いつものように静かな音楽が流れていた。琴の音に似た旋律が低く漂い、木の壁と畳の匂いが心を撫でるように立ち上っていた。客はほ
店を出た途端、尾崎は思わず足を止めた。暖簾が背後で音もなく揺れている。木の戸が静かに閉まったあと、しばらくのあいだ、背中を預けるように立ち尽くした。外は昼下がりの光が、町家の瓦屋根を斜めに照らしていた。午後の空は、まだ雲が残りつつも、朝よりいくぶん晴れている。遠くから聞こえる鳥の声、風に揺れる葉音、通り過ぎる自転車の軽いブレーキ音。それらが重なって、今ここに自分が“現実”として立っていることを、ようやく思い出させた。だが、足が動かない。何も強い衝撃を受けたわけではなかった。むしろ、あの短い占いの時間は、驚くほど静かで、やさしかった。けれど今、尾崎の体はどこかで“混乱”していた。自分が思っていたよりもずっと、自分の内側に「感じる」余地が残っていたことに、初めて気づかされたような不思議なざわめきが、胸の奥からじわじわと広がっていた。鞄のポケットに手を差し入れると、指先にざらりとした名刺の紙の感触が触れた。取り出して見た。《佐野透》と、端正な活字で印刷された名前。その下に、「タロットリーディング/茶庭 結」とだけ添えられている。電話番号もメールアドレスも書かれていなかった。ただ、手のひらに収まるその一枚が、尾崎には妙に“生きた”ものに思えた。紙の上の文字は、ただのインクのはずなのに、どこか柔らかく、にじむように目に届いた。白地に淡く浮かぶ金色の縁取りが、陽の光を受けてわずかに光っていた。ふと、指の先でそれを撫でる。佐野が、何も言わずにこの名刺を差し出したときのことを思い出した。「今日はな、お試しでええよ」あのとき、笑っていた。無理に笑顔を作ったのではなく、声の延長のように口元が緩んだ自然な表情だった。そして、会計も請求もせずに、ただ「またいつでもおいでやす」とだけ言った。あの“また”という言葉が、今になって胸に引っかかっている。尾崎はこれまで、誰かに「またおいで」と言われて、それを信じたことがあっただろうか。それは形式上の言葉で、実際には二度目など望まれていない、そういう場面の方が多かった。けれど、佐野のその一言は