LOGIN達也は込み上げてくる笑みをどうにか堪えながら、声には引き続き偽りの嗚咽を漏らした。今度はそこに、裏切られた男の悲壮感まで加えてみせる。「なんでって?全部、佐弓のせいだよ!あの女、よりにもよって……浮気しやがった。俺がこれまであの女に何を与えてきたと思う?食わせて、着せて、贅沢な暮らしをさせてやったのに。どうしてそんな真似ができるんだ!どうして俺にそんな仕打ちができるんだ!!」同情を引き出そうと、男女のもつれに話を誘導しようとする魂胆は見え見えだった。杏奈はそんな愚痴には一切興味がなかった。さっさと話を遮り、本題に切り込む。「それで、紗里は?確か、あなたの目に入れても痛くない大事な娘のはずよね。佐弓が浮気をしたとして、紗里には関係ないでしょう。彼女まで切り捨てるの?」達也はとうに言い訳を用意していた。悔しそうな声を出す。「あの忌々しいガキの話はするな!あいつは母親がやってきた醜い真似をとっくに知っていて、黙って俺を馬鹿にして騙し続けたんだ。あんなに可愛がってやったのに、その恩をこんな形で返しやがって。杏奈、お父さんはもう完全に愛想が尽きた。あの二人の本性が、ようやく見えたよ」そして達也はすぐさま哀れな父親の顔に切り替え、声をか細く、頼りなげに揺らしてみせた。「お父さんには今、何もない……誰にも見捨てられて……残ったのはお前だけだ。そして、妙子へのやり場のない後悔だけだよ。杏奈、かわいい娘よ……お父さんを、許してもらえるか?」最後の一言は、地を這うような、卑屈なまでの懇願に変わっていた。しかし、母の名がその口から出た瞬間、杏奈の喉元にむかつきが込み上げてきた。――あなたに、お母さんの名前を口にする資格なんてない。「……いいわよ」その即答に、電話の向こうの達也が絶句した。傍らで身構えていた円香まで勢いよく振り向き、目を丸くして杏奈を凝視する。その顔には「正気!?」と書いてあるようだった。「杏奈、あなた……」言いかけた円香だったが、杏奈の唇の端にかすかに浮かんだ、氷のように冷たい笑みを捉えた瞬間、すべてを理解した。――演じているんだ。そう気づくと、円香はすぐに口を閉じた。杏奈が何を狙っているのかは知らないが、全力で援護するだけだ。一方、電話の向こうの達也は驚きから立ち直るなり、一気に歓喜の波に呑まれた。
「おお、杏奈じゃないか!俺のかわいい娘よ!最近どうだい?ええと、今日は……時間あるかな?」杏奈と円香は顔を見合わせた。お互いの目に、同じ嫌悪と警戒が滲み出ている。――白々しいにもほどがある。杏奈は容赦なく、冷ややかに言い放った。「藤本達也。そういう虫酸が走るような寝言を並べるだけなら切るわよ。私の時間は貴重なの。茶番に付き合う暇はないわ」「お、お前な……」達也は明らかに一瞬詰まった。声に苛立ちがにじんだが、すぐに押さえ込み、また例の歪んだ「慈愛」の口調に戻る。「まったく、父親に対してまだそんなによそよそしいのか。お父さんはね、本当に反省してるんだよ、ずっと。今まで散々お前たち母娘に辛い思いをさせてきたって。だから、一度家に帰っておいで。家族みんなで食卓を囲んで、お父さん、ちゃんと埋め合わせをしたいんだ。今まで与えられなかった分、父親として少しでも――」「父親として?」杏奈の唇が、冷たい弧を描いた。まるで笑えない冗談を聞いたかのように。「その言葉があなたの口から出るなんて、聞いた中で一番悪趣味な冗談ね。十数年遅れた父親の愛情を今さら振りかざして、恥ずかしくないの?」しかし達也は、まるで聞こえないふりをして続けた。声に、今度は滲むような嗚咽まで混じり始める。「……っ!杏奈ぁ……お父さんは本当に悔いてるんだ。本当に、取り返したいと思ってる!お前が佐弓と紗里を嫌ってるのはわかってる。だからお父さん、あの二人を藤本家から追い出すことにした。家の財産も継承権も、全部お前のものだ!お父さんの全てはお前のためにある!」言葉を重ねるにつれ、達也の「感情」はどんどん高ぶっていく。泣き崩れんばかりの声で、後悔と懺悔を滔々と語り続けた。「お前には想像もできないだろうが、お父さんがどれだけの夜を眠れずに悔やみ続けてきたか。昔のことを思い出すたび、胸が締め付けられて……もし時間が巻き戻せるなら、この命を賭けてでも、お前たち母娘を守った。絶対に悲しい思いなんてさせなかった。本当だよ、杏奈……」情感豊かな、涙ながらのこの一人芝居。事情を知らない人間が聞けば、本当に心を動かされてしまうかもしれない。生憎、相手は彼の本性を骨の髄まで知り尽くしている杏奈だった。――アカデミー賞でも贈ってやろうか。杏奈は内心で鼻で笑いつつも、
直後、スマホから乱れた足音が激しく流れ込んできた。茂みを勢いよく掻き分ける音、そして恐怖で裏返った探偵の悲鳴が続く。「まずい、バレた!円香さん、見つかりました!吉川家の……桐島佐弓は吉川家を狙って――うぐっ!」鈍い衝撃音と苦悶の声が重なり、スマホの向こうで激しい物音がした。探偵は最後の力を振り絞るように叫んだ。「吉川家にすぐ知らせてください、警戒するように伝えて!でないと……!!」ツー、ツー、ツー。強制的に切られた無機質な切断音が、静寂の中に突き刺さった。まるで鈍い刃で、すべての情報をぷつりと断ち切られたかのように。リビングに、重苦しい沈黙が降りた。杏奈と円香は顔を見合わせた。二人の表情には、同じように驚愕と困惑の色が浮かんでいる。しばらく、言葉が出てこなかった。「……今、なんて言ってた?」杏奈は思わず呟いた。「吉川家に関わる話だ、って……吉川家にすぐ知らせろって」円香が、途切れ途切れだった言葉を懸命に手繰り寄せるように反芻する。「じゃあ、佐弓はいったい吉川家に何を企んでいるの……?」激しい不安が、杏奈の心をぎゅっと締めつけた。円香はといえば、完全に言葉を失っていた。内心では、あの探偵の胸ぐらを掴んで問い詰めたい衝動に駆られていた。――一番肝心なことを言ってから通信を切れよ、と。中途半端すぎて、これじゃあ何もわからないじゃないか。「とにかく!」杏奈は強くこめかみを押さえ、自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。「『吉川家』と『警戒』――この二つのキーワードが全てよ。万が一ということもある。今すぐ政夫さんに連絡しないと!」杏奈は素早く判断を下した。「あの探偵については……すぐ森口警部に連絡して位置情報を送るわ。警察が動いてくれれば、まだ間に合うかもしれない」多少詰めが甘いところはあったが、もとはといえば自分たちの依頼で危険に飛び込んだのだ。見捨てるわけにはいかない。「わかった!」円香がすぐさま頷く。二人は素早く役割を分担した。杏奈は大地に電話をかけ、要点だけを手短に伝えて位置情報とともに救助を要請した。円香は吉川の本宅に連絡し、聞き取れた断片的な警告を一言一句、漏らさず政夫に伝えた。どうにか手配を終え、ようやく一息つこうとした瞬間、テーブルの上のスマホが何の前触れもなく鳴り響いた。その
でも、何かしなければならない。今すぐ動かなければ!杏奈は壁に手をつき、一歩、また一歩と、ゆっくりではあるが確かな意志を宿した足取りで、医師の診察室へと向かっていった…………数日後、三浦家にはめずらしく穏やかな日々が続いていた。あれほど濱海市で水面下に渦巻いていた不穏な気配も、まるで最初から存在しなかったかのように息をひそめ、世界はかりそめの静けさを取り戻したかに見えた。杏奈も、この数日はずいぶん落ち着いて過ごしていた。会社には顔を出さず、外の喧騒からひとまず遠ざかり、ほとんどの時間を家の中で過ごした。恵理子と他愛もないおしゃべりをしながら散歩に出かけたり、隆正と将棋を指しながらお茶を楽しんだり――久しく忘れていた、あたたかな家族の時間をゆっくりと味わっていた。だが、嵐の前の静けさというものは、いつだって長くは続かない。その日の午後、円香が息を弾ませて帰ってきた。いつもはおどけた顔に、めったに見せない真剣な色が宿っている。花を生けていた杏奈を見つけるなり、円香はまっすぐに近づいてきた。次の瞬間、その一言が、杏奈の心に暗い影を落とした。「杏奈、藤本家が動いたよ!」表向きは穏やかな日々を装っていたとはいえ、杏奈は彼らへの警戒を一度として緩めたことはなかった。凄腕の冴を密かに監視役として送り込んでいたのはもちろん、円香を通じて一流の探偵チームを大金で雇い、主要人物を二十四時間体制で追わせていた。紗里と達也が水面下でいったい何を企んでいるのか――それを白日の下に晒すつもりだった。円香の言葉を耳にした瞬間、杏奈の手の中のハサミがぴたりと止まった。その表情が、すっと引き締まる。「誰が?藤本達也がとうとう動いたの?」だが円香は首を横に振り、どこか腑に落ちないように言った。「違うわ。桐島佐弓よ」「探偵からの最新報告によると、今日の午後、佐弓がこっそり紗里と会ったみたい。会い終えたあと、佐弓は自ら、今まで見たこともない素性の知れない連中を数名引き連れて、車二台で郊外へ向かったって。どう考えても怪しいわ」「郊外……?」杏奈の眉がきつく寄った。胸の奥から、じわじわと嫌な予感がこみ上げてくる。「また何か企んでるの?まさか……また人殺しだったり……?」「今のところ詳細はわからないわ」と、円香の顔にも緊張が走った
長い呼出音の後、ようやく電話が繋がった。聞こえてきたのは、氷のように冷たい、絶対的な拒絶が滲む声だった。「何の用だ」たった一言で、玲子の胸を鋭い刃でえぐるような痛みが走り、息もできないほどだった。これはすべて自業自得だ。自分が受けて当然の罰なのだ。玲子は震える手を抑えるため、手のひらに爪が食い込むほど強く握りしめ、できる限り早口に、できる限り簡潔に、紗里が来てからのすべての経緯と会話の内容を、ひとつも漏らさず正確に話した。「……以上がすべての経緯よ。ひとまず祐一郎のことを諦めきれないふりをして、引き留めておこうとしたの。また紗里から連絡があったり、何か具体的な動きがあったりしたら、すぐに……」「ふっ——!」一切の遠慮のない冷笑が、電話口から突き刺さってきた。玲子の必死の言葉を無惨に切り裂いた。続けて、氷を砕いたような底冷えのする祐一郎の声が耳に入った。「広川玲子、同じ浅薄な手口を俺の前で二度も使うとは、あまりにも愚かで笑えないな」声がさらに鋭くなり、深い侮蔑と決定的な不信が色濃く滲んだ。「それとも……お前の目には、俺がいまだに、あの頃のままお前に都合よく操られて、お前の言うことなら何でも信じる底抜けの馬鹿に見えているのか!?」その言葉が、焼けた鉄串のように、一本ずつ玲子の心臓を容赦なく貫いた。手からスマホが滑り落ちそうになるほど痛く、目の前がぐらりと揺れた。先生と後輩の死は、人を見る目のなかった愚かな自分がもたらした凄惨な悲劇だ。あの狼を懐に入れたのは他ならぬ自分だった。師兄妹の縁を取り返しのつかないところまで決定的に壊したのも、すべて自分だ……このすべての苦しみは、罪を贖う長く険しい道の上で、自分が当然受けるべき痛みだとわかっていた。それでも——心臓をきつく締め上げるような絶望感は、まともに息もできないほど苦しかった。「そういうくだらない探りと見え透いた嘘なら、これ以上話すことはない」祐一郎の声はすべての感情を排した氷のように冷たく、もう電話を切るという空気がはっきりと漂っていた。「待って、切らないで!」玲子は思わず悲鳴のような声を上げ、言葉が哀願に近い響きを帯びた。「祐一郎、お願いだから最後まで聞いて。今のあなたが、私の言葉を信じてくれるかどうかに関係なく、今回だけは信じて。神に誓うわ。私は
わざと語尾を引き延ばし、紗里は玲子へと意味深な視線を向けた。「だって、三浦祐一郎と末永く添い遂げようという方の美しい身に、これ以上穢れなど残してはいけないでしょう。そうでしょう?」表向きは優しい慰めのような言葉だったが、実際は一本の猛毒の棘が、玲子の最も深い傷跡に深々と突き刺さった。絶えず痛みを与え続けながら、どれだけ洗っても決して消えることのない罪をこの手にしているという残酷な事実を、冷酷に突きつけていた。先生一家の三人の命は、あの頃の玲子の愚かさと嫉妬が遠因となって永遠に失われた。Y国での日々が、最も血塗られた悪夢のように鮮明に蘇ってきた。異国の地で、同郷のよしみと美しいものへの純粋な憧れから、か弱く見えた紗里を幾度も庇ったのがすべての始まりだった。自分が懐に入れたのが、紗里という恐ろしい狼だったとも知らずに。紗里は、玲子が抱く祐一郎への深くて臆病な想いを巧みに利用し、同じく祐一郎を想い、かつ先生の一人娘でもあった後輩との間を徹底的に引き裂いた。巧妙な罠で、二人を争わせ続けた。やがて先生が二人の仲を取り持とうと奔走していたわずかな隙に、敵対する教授に付け込まれた。「事故」に見せかけた巧妙な交通事故で、一家は全員命を落としたのだ。かつて深く繋がっていた師兄妹の絆は完全に無惨に砕け散り、玲子は重い枷と決して消えない傷を、永遠に背負って生きていくことになった。思い返すたびに、胸の奥が鋭利な刃物で抉られるように激しく痛んだ。今この瞬間、ねっとりとした優越感と打算が滲み出た紗里の顔を見ながら、玲子は喉元まで込み上げた鉄錆のような血の味をぐっと飲み下した。ここで本心を見せてはいけない。そして——最後まで完璧に演じ続けなければならない。玲子は顔の筋肉を懸命に制御して、深い欲望と執念に突き動かされているかのような切実な表情を作った。瞳に「熱情」と「揺るぎない決意」を宿し、わずかな狂気さえ意図的ににじませた。「あなたの言う通りだわ。あれからもう十分すぎるほど長い時間が経った。罰だって、もう十分受けたわ。祐一郎は……本来なら、私のものだったのよ。今度こそ、二度と彼を手放したりしない!」その「並々ならぬ決意」を、紗里は上機嫌に受け取った。目の底から「感嘆」が溢れそうになっている。「よかった!玲子さん、私の言う通りにしてくれれば、







