Masuk杏奈の心が慌てる。訳もなく急ぎ立てられる。けれど、蒼介の隣にいる紗里を目にした瞬間、自嘲せずにいられなくなる。浮気をしているのは自分じゃない。のあの眼差し一体何なのか。「杏奈?」裕司が彼女の白くなった指先に気づく。「気分が悪いなら、先に帰ってもいい」彼が杏奈をここに呼んだのは、主に今活躍している新進デザイナーたちの発想を見せるためだ。見終わったなら、いつでも帰って構わない。杏奈は微かに首を横に振り、少し離れた場所の紗里を見つめる。「大丈夫です、先輩。ただ、自分のデザインを他人が身につけて、のを見ると、何とも言えない気持ちになって」視線を戻し、隣の裕司を見て、杏奈は無理やり笑みを作る。「だから大丈夫です、先輩。会いたいデザイナーがいるんでしょう?お仕事に専念してください。私のことは気にしないで」裕司は彼女を深く見つめ、頷いた。「分かった。じゃあ先に行ってくる」裕司が離れた後、杏奈はさらに二つの作品を見てから、ゆっくりとテラスへ向かった。夕暮れの風がかすかな涼しさを運び、心の中の鬱屈を少し晴らしてくれる。突然、背後から足音が聞こえた。杏奈は警戒して振り返り、蒼介の深い眼差しと正面から向き合った。「?」蒼介の詰問に、杏奈は少し呆然とする。テラスの薄いカーテン越しに、少し離れた場所で他のデザイナーたちと交流している紗里がぼんやりと見えた。見つめていると、視線が突然、高い影に遮られる。「杏奈、そのくだらない企みはやめろ」唐突な言葉だったが、杏奈は彼の言いたいことを理解した。蒼介は、自分が彼を追いかけて、この交流会に来たと思っているのだ。そう言えば、以前は本当にそんなことをしていた。そして、蒼介の冷たい視線を浴びた。けれど今、もう彼と離婚すると決めたのだ。そんな愚かなことを二度とするわけがない。でもせっかく会ったのだから、ついでに離婚の件がどうなっているか聞いてみよう。いつ離婚届を出しに行くのか?残念ながら、蒼介は彼女に口を開く機会さえ与えなかった。「杏奈、警告しておく。今回のデザインコンテストは紗里にとって非常に重要だ。もし邪魔立てするようなら、容赦しない」蒼介はそう言うと、即座に踵を返して去っていった。杏奈はその場に立ち尽くし、強く握りしめた拳が微かに震える。爪が掌に食い
「やったー、嬉しい!」小春が喜んでいると、ふと杏奈のことを思い出した。今さっき、が帰ってこないと言ってくれて、ちょっと良かったかも。だって帰ってきたら、きっとまたピアノの練習しなさいとか、なさいとか、うるさくごちゃごちゃ言うに決まってる。それに自分が紗里と仲良くしてるのを見て怒って、行っちゃダメって言うかもしれない。そう考えると、蒼介が電話しなかった理由について、小春は。杏奈が遊びたいなら、あと二日くらい外で遊ばせてあげればいい。週末が過ぎて、自分も十分遊んだら、それから呼び戻せばいいんだ。翌日の夕方、杏奈は裕司が共有してくれた住所を頼りに、ブルーホエールホテルの二階へ向かった。ただ、ホテルの入口に入った途端、蒼介が車から降りてくるのが目に入った。二人は遠くから互いの姿を認め、一瞬固まる。けれど蒼介はすぐに視線を逸らし、車の反対側へ回って扉を開け、紳士的に手を差し伸べた。細い指が車内から伸びて、蒼介の手に重ねられる。紗里が車を降りた瞬間、夕暮れの風がパールグレーのスーツスカートの裾をめくり上げ、足首のの蛇型チェーン飾りが露わになった。かつて吉川ジュエリー展のフィナーレ作品に登場したこのアンクレットが、今彼女が地面に降り立つ動きに合わせて、まるで生き物のように彼女の冷たく白い肌に絡みついている。ただ、これが実は杏奈のデザインだと知る人は、おそらく誰もいない。美南の名前で発表されているのだから。紗里は自然に蒼介の腕に手を絡める。蒼介が彼女を見下ろす目には、溢れんばかりの優しさがあった。杏奈は指先で招待状の端を強く握りしめ、二人の後をついていく。エレベーターホールの鏡面に、青ざめた自分の顔が映し出された。受付でゲストバッジを受け取る時、ざわめきが聞こえてきた。「見た藤本紗里の手首のブレスレット、ヴァンクリーフ&アーペルの今年の限定品みたい」「彼女自身もデザイナーらしいわよ。デザイン界で少し名を上げ始めて、吉川社長が今、力を入れて押してるんですって」「見れば分かるわよ。じゃなきゃ、こんな小規模な集会に、吉川社長みたいな大物が来るわけないじゃない」「二人って結局どういう関係なの?」「言うまでもないでしょ、彼女に決まってるわ。吉川社長は彼女のためなら、星だって月だってらしいわよ……」杏奈は必死でこれらの
電話の向こうで、小春はもう安達の携帯に顔を近づけ、得意げな笑みを浮かべていた。きっと杏奈が慌てて帰ってきて味噌汁を作る光景が、もう目に浮かんでいるのだろう。だって以前は、自分が少しぐずるだけで、杏奈は全てを放り出して飛んできてくれたのだから。杏奈は携帯を握る指先が白くなるのを感じた。画面には裕司から送られてきたデザイン画が点滅している。その線を見つめる。細部の創意工夫が、デザイナーの心血を如実に物語っていた。杏奈はふと思い出す。自分もかつてアトリエで徹夜でデザインを描いていた。あの頃、手にはまだ火傷痕はなく、爪の間に詰まっていたのはではなく、絵の具だった。杏奈のかすかにかすれた声が響く。「私は忙しいと、彼女に伝えてちょうだい」電話の向こうが死んだように静まり返る。杏奈は即座に電話を切り、パソコンデスクに伏せた。自分の両手を見つめ、杏奈は突然切なくなった。かつて、この手で数々の賞を獲得し、自信に満ち溢れていた。けれど吉川家に嫁いでから、筆を置き、家事に専念した。味のしない味噌汁から、三つ星レベルの点心を作れるようになるまで。この成長の結果、手に入れたのは、蒼介の「味が薄い」という一言と、小春の「当たり前」という態度だけ。携帯が再び鳴る。裕司からのメッセージだ。リンクが添付されている。開くと、金色の縁取りが輝く招待状が現れた。吉川グループ主催、参加デザイナーたちの交流会への招待だ。さすがは吉川グループのだ。交流学習とは言うものの、何人もの新進気鋭の独立系デザイナーが出席する。同時に、宝飾業界に関わる多くの企業も参加するだろう。協力を求めるため、あるいは目をつけたデザイナーを引き抜くために。ただ……吉川グループのようなが、こんな集会を開く必要があるのだろうか。杏奈には少し理解できなかったが、このチャンスは掴むべきだ。「分かりました、先輩。参加します」送信ボタンを押した瞬間、キッチンから香りが鼻をつく。かつて最も好きだった匂いが、今は無数の冷えた食事を前に一人で過ごした夜を思い出させる。吉川家の別荘では、小春が杏奈の「忙しい」という言葉を聞いて、幼い顔に信じられないという衝撃が広がった。けれどすぐに癇癪を起こし、ぶつぶつ言いながら階段を上がっていく。ちょうど蒼介が携帯を持って出てきて、彼女の不機嫌な様子
美南は自信満々だった。これまで何年も、どんな些細なことでも、蒼介が嫌がることだと言えば、杏奈は決して手を出さなかったのだから。「それなら……」杏奈が言いかけると、美南はもう苛立って先に口を開いた。「もういいわ。あんたと無駄話してる時間なんてないの。友達が待ってるから」美南の視線を追うと、杏奈は気づいた。少し離れた席に、美南と同年代くらいの女性が二人を見つめている。けれど去り際、美南は声を潜めた。「あと三日。デザインを渡しなさい。でなければ、今日のことを兄さんに告げるわよ」美南はそう言うと、杏奈の返事も待たずに自分の席へ向かった。席に着くと、相手は杏奈を見て尋ねずにいられなかった。「美南、知り合いなの?一緒に座らないの?」「知り合いは知り合いだけど、そんなに親しくないわ。挨拶だけで十分よ」杏奈がバッグを持つ手が止まる。親しくない?美南が大学を卒業してから今まで、自分の手からどれだけのデザイン図を受け取ったことか。それなのに親しくないと言うのか。でも考えてみれば当然だ。蒼介でさえ自分が妻だと認めていないのに、その妹が義姉だと認めるわけがない。以前ならこんなことで傷ついていたかもしれない。けれど今は……心の中に何の波も立たない。、もう二度としない。杏奈は大股でカフェを出た。未練など微塵もない。反対に、美南の向かいに座る女性は、ずっと杏奈が去っていく方向を見つめていた。「那月、どうしたの?」美南は心中穏やかでない。まさか杏奈が外で勝手なことを言って、自分が吉川家の嫁だと公表したんじゃないだろうな?もし吉川家の当主の妻が、何の能力もない専業主婦で、男に媚びを売ることしか能がない愚か者だと知られたら、吉川家の面目は丸潰れだ。横井那月(よこい なつき)が我に返る。「ううん、何でもない。ただ、さっき一緒にコーヒーを飲んでた人、ルミエールの代表、裕司に似てた気がして」自分の予想と違うと分かり、美南は少しほっとした。「ルミエール?あの有名なアクセサリーの会社?」その会社のことは聞いたことがある。創業して数年しか経っていないのに、デザイン業界ではかなり有名で、独特のデザインスタイルで多くの同業者から認められている。その代表とコーヒーを飲むなんて、ありえない。杏奈にそんな資格があるわけない。
送信完了の表示を見つめながら、杏奈はその場に座り込んだまま、長い間動けなかった。自分のデザイン作品に、これほど自信が持てないと感じたことはなかった。不安で仕方がない。「職場復帰」というのは簡単に言えるけれど、、ジュエリーデザインも日進月歩で進化している。六年間。美南が時折デザインを頼んでくる以外、他の時間は画用紙に触れることすらなかった。最近では美南でさえ、以前ほど良くないと批判し始めていた。そこでようやく気づいた。自分を。あれほど決然と会社を離れたのに、今さら足手まといになるだけなら、戻る資格などあるだろうか。そう考えていると、携帯が突然鳴り、杏奈は飛び上がった。画面に表示された名前を見て、唇を噛む。けれど結局、通話ボタンを押した。「三十分以内に、会社のカフェまで来てくれ」受話器の向こうから落ち着いた男性の声が響く。簡潔な一言の後、すぐに電話は切れた。杏奈の心は沈んでいく。最速で服を着替え、メイクを整え、残り三分というところでカフェに滑り込んだ。少し緊張しながら、ある男性の前に腰を下ろす。「先輩……」河原裕司(かわはら ゆうじ)が顔を上げる。精巧な金縁眼鏡越しの視線が、まっすぐ彼女の顔に注がれた。品定めするように。「何を飲む?」「フルー……」杏奈は習慣的に小春の好きなフルーツジュースを頼もうとしたが、言葉が口から出る寸前でした。「マンデリンを。ありがとうございます」裕司は杏奈をちらりと見たが、何も言わなかった。コーヒーが運ばれ、店員が離れてから、彼は一枚のデザイン画を取り出し、テーブルに置いた。「君のか」やはり見抜かれていた。「はい」杏奈は隠さなかった。「会社に戻りたいのか」「はい」空気が再び凍りつく。しばらくして、裕司の淡々とした声が再び響いた。「旦那さんとお子さんは君の世話をいいのか?」杏奈の顔が青ざめる。裕司の言葉は鋭いナイフのように、彼女の心の最も柔らかく、最も罪悪感を抱いている部分に突き刺さった。「必要とされていません。離婚の準備を進めています」裕司が微かに驚く。顔に浮かんだ驚愕は一瞬で、すぐにまた波ひとつ立たない表情に戻った。彼は両手を組んでテーブルに置き、目の前のかつて親しく、今は見知らぬ女性をじっくりと見つめる。「君が吉川蒼介のた
母・三浦妙子(みうら たえこ)の影響で、杏奈はジュエリーデザインにずっと深い興味を持っていた。妙子の足跡を辿り、そのデザインスタイルを受け継ぎたいと思い続けていた。だから大学を卒業するとすぐ、同門の先輩と一緒に会社を立ち上げた。規模は小さかったけれど、二人の努力で会社は順調に成長していった。ところが、会社が上場しようという時に、杏奈は家庭にことを選んだ。「良妻賢母」として生きるために。これが原因で、彼女のデザインを核とした多くの契約が破棄され、違約金を支払う羽目になり、上場も危うく失敗するところだった。皆が怒り、呆れた。会社には杏奈の株もあったけれど、ほとんどの人は連絡を絶つことを選んだ。そのため、この数年、会社からの配当を受け取る以外、会社の他のことは何も知らない。最も得意としていたデザインの才能でさえ、今では見るに堪えないほどになっている。このまま会社に戻ったところで、何ができるだろう?毎年の出展作品は、その年の最新デザインばかりだ。参加できるデザイナーも、一定の経歴と経験を持つ者ばかり。業界から何年も離れていた彼女が、再びこの業界の発展傾向を理解するには、ジュエリー展が最も早く、最も包括的な方法だ。だから今回、絶対に行かなければならない。携帯の着信音が突然鳴り、杏奈は驚いて飛び上がった。画面を見ると、夕食時間のスケジュールリマインダーだった。小春は自分と同じで辛いものが好きだ。けれど年齢が幼すぎるため、杏奈は胃腸に負担がかかることを心配して、ほとんど食べさせないようにしていた。加えて蒼介は。だから父娘が家にいない昼食は適当に済ませるとして、朝夕の二食は必ず自分で作り、栄養があって美味しい食事を心がけてきた。最初の頃は、自分も辛い味が恋しかった。けれど時が経つにつれ、慣れてしまったようだった。でも、ほんの数日前、小春が言うのを聞いてしまった。杏奈の作る料理は薄味すぎて食欲が湧かない、紗里がくれる辛い手羽先の方がずっと美味しいと。不思議な偶然だ。杏奈も辛い手羽先は美味しいと思う。けれど、もう十年近くもその味を口にしていなかった。杏奈はスケジュールリマインダーの音を消し、登録されていた予定を全て削除した。そして自分用に激辛ラーメンを注文し、食べながら鼻水を拭いた。夜、蒼介は小春を連れて帰







